第一節 十五歳の青嵐

第一話 事の始まり

文久三年・三月十二日


昨日の大雨の影響が心配されたが、どうやら蕾は持ちこたえたらしい。京の桂川沿いにある桜は間もなく満開を迎え、すでに河堤に陣を取り甘味や弁当を拵えた少し気の早い花見客がちらほらと見える。八代目吉宗公が薦めた花見文化は、かなり民衆に浸透しているようだ。

「見廻り」と称し、昔馴染みの兄も同然の男に連れ出されこうして散歩同然の気分で歩いている沖田はそう思った。ちなみに散歩―もとい見廻りの日課は今日で一週間目となる。


「今度、近藤さんやみんなを連れて私たちも花見をしませんか。こんなに綺麗に咲いているのに、ただこうして通りすぎるだけじゃあもったいないってもんです。」


数寸先前を歩く男に、試しにそう投げかけてみるが、返事はない。


「京の人は雅だって良く言われますけど、どうやら本当らしいですね。これが江戸だったら、一瞬で飲めや唄えやの大騒ぎですよ。ほら、誰も酒を飲んで騒ぐ人間なんていやしない」


「総司」


続く言葉を遮るかのような声に、思わずニヤッと口角を上げる。あまり手入れのされていない、だがきっちりと後頭部の高い所で束ねた豊かな総髪が視線の先にあった。その頭の先から袴の裾まで、少し使い古されてはいるが、黒一色で統一された男の名は土方という。少しだけこちらを振り返ったその眼光は鋭い。


「おめェ、いい加減その物見遊山気分をどうにかしろと言ったろうが。遊びじゃねぇんだよ、いいか。」


たった今総司と呼ばれた後ろを歩く男は、相変わらず人懐っこい笑みを崩さない。色白で細身なその身体は、筋肉質な体躯の土方と並ぶことで更に際立った。目元も優しく涼やかで、まるでちぐはぐな二人である。


「はいはい、わかってますよう。見廻りでしょう」


口を尖らせながら“やることがないから形式上の”、と付け加えたら、土方に頭をがしりと掴まれそのままものすごい力で上から押し込まれた。


「痛い痛い!縮んじゃいますって!」


「そのまま縮んじまえ!ったく図体と態度だけでかくなりやがって。あン頃の”惣次郎”はそりゃあ可愛かったってのに」


「十年以上も前の話でしょ!それに今だってホラこんなに可愛い…」


やいのやいの、と道のど真ん中で騒ぎ立てたおかげで、すっかり周囲の通行人から怪しい目で見られてしまっていた。京の人間は、どうもヒソヒソと陰気臭くて気に入らない。


「くそ、さっさと行くぞ」


周囲の目線から逃げるように足早に去っていく土方を、沖田は慌てて追いかけた。


「それにしても、これからどうするんです?浪士組はもう実質解散も同然だし、清清河さんたちは明日には京を出るっていうじゃないですか。私たちは本当についていかないんですか」


清河の名前を出した途端、土方の表情が見る見るうちに険しくなっていった。


「あのイカサマ野郎、まんまと騙しやがって」


清河というのは江戸で浪士組結成を呼び掛けた張本人である。徳川家茂公上洛の護衛・京の治安安定を名目に、身分を問わず集められた武装組織であった。だが実態は尊王攘夷論者の清河に図られたものであった。朝廷への建白書の署名に勝手に利用され、挙句の果てには浪士組を将軍護衛のためではなく、反幕府の尊王活動組織へ転用する目的があったという。

幕府はこれに大慌てし、浪士組に直ちに江戸への帰還命令を下した。

一方で土方ら一部勢力は、京へ残り当初の京都治安維持、幕府の警護を果たそうと残留することになったのである。もちろん、今は何の後ろ盾もない言わば浮浪集団なのだが。


「それについては今いろいろと動いている。芹沢さんや山南さんとも相談してな。ガキんちょはいらん心配するな」


「ガキんちょじゃなくて、もう十九ですよ。立派な大人です!」


そうかいそうかい、と笑いながら土方は相手にもしなかった。沖田はこの男にいつまで経っても子供扱いをされ、大事な決め事の場すら入れないことに不満を持っていた。ジト目で土方の後ろ姿を睨んでいると、土方はぽつりとつぶやいた。


「わざわざ京に来たってのに、何にもせずのこのこ多摩へ帰れるかよ。武士になって、でかいことをやってのけるまで絶対戻らないって、かっちゃんとも約束したんだ。」


野心も向上心も強い、土方の本音だろう。正直、沖田にとっては「でかいこと」なんてどうでも良い。それでも京に来たのは、近藤や土方がいるからだ。土方にとっての沖田が「可愛い惣次郎」のままなのに対し、沖田にとっての土方も、いつまで経っても「大好きなトシさん」のままであった。


「トシさん、ようやく追いついた。おーい!」


花見客がほとんど誰もいない桂川の上流に差し掛かり、対岸に行こうと橋を渡っていたころ、後ろから二人を追いかけてくる人物がいた。


「源さん、どうしたんだい」


赤い顔をして走ってきたのは、土方・沖田と同門であり同じく京都に残留した井上源三郎であった。


「近藤先生が、トシさんを急いで連れ戻してきてくれと…。何やら慌ただしい様子でして」


息も絶え絶えにそう井上が言うと、土方はすぐにはっとして井上が追ってきた方向に走り出した。


「総司、源さん、急いで戻るぞ」


「は、はい…」


井上がヨタヨタと土方の後を追っていく。沖田もやれ仕方なし、と小走りして追いかけようとしたその時、


“誰か、助けて―”


かすかにそう聞こえた。

はっとして振り返ると、少し先の下流の岸で女性が地面に座り込んでいた。


「誰か、だれか、子どもが川に!!」


女性の目線の先には、小さな子供が川に流されておぼれていた。昨日の大雨のせいで、水流が激しくあっという間に流されていく。


(まずい!)


ここから川に飛び込むか、岸を伝って追いかけるか一瞬迷ったとき、沖田のすぐ横をつむじ風が通り抜けた。

風が吹き抜けた先に目をやると、ひとりの少年が橋の欄干にふわりと飛び乗り、今まさに川に飛び込もうとしていた。


「ちょ、ちょっと―」


思わず呼び止めたが間に合わず、ドボンと少年は川に飛び込み子供を追いかけるべくものすごい勢いで泳いでいく。着衣のままとは言え、水練でもしているかの如く迷いがない。

慌てて陸から追いかけようとすると、沖田の足が何かを踏んづけた。

足元を見ると、まだ十分に新しい羽織が無造作に脱ぎ捨てられていた。羽織だけではない。笠や草履、そしてなんと刀まで。それらが等間隔で少し先からここまで、一つずつ地面に打ち捨てられている。考える間もなく、先ほどの少年が一つ一つ装備を投げ捨てながら走ってきたようだ。慌ててそれらの装備品を回収し川に目をやると、少年は無事に子供に追いつき、川岸まで抱きかかえながら泳ごうとしていた。彼らからほど近い川岸に荷物を運び、あとは引き上げるだけとなったところ、状況は一変した。


「おい、暴れるな!!」


声変わりしていたとしてもほんの少し高めの、中性的な声。


抱きかかえた子供が恐怖のあまり半狂乱になり、少年も水中で体勢を崩してしまったらしい。うまく泳ぐことができず、足がつく場所まであと数寸、というところで溺れかけてしまっている。

沖田は迷わず角帯から長物を鞘ごと取り出した。じゃぶじゃぶと川に入り、鞘が抜けないよう鍔近くをもって迷わず鞘を少年のほうへ差し出した。


「これにつかまって」


思わぬ助けに少年は一瞬驚いたようにこちらを見た。

目じりが少しだけつりあがった、大きな澄んだ瞳だった。

少年も思い切り腕を伸ばし、沖田が差し出した鞘の先をつかむ。


「それ!」


渾身の力で川岸へ手繰りよせようと引っ張った。が、思いのほか軽く、勢い余って沖田も派手に川の浅瀬に尻もちをついてしまい、大きな水しぶきがあがった。


「えっ」


少年もつられて沖田の上になだれ込む。とっさの判断で片腕に子供を抱きかかえたので、沖田と少年の間に潰されることは免れた。

片腕を地面についてバランスをとった少年の顔が、沖田の真上にある。


(うわ…)


その少年の瞳は、吸い込まれるような濃紺だった。夜空のような深い藍。光が差し込むと、星のようにきらきら輝く落ちてしまいそうなほどに大きな瞳。白く艶やかな頬に水がつたい、沖田の目元にぽとりと落ちた。


「綺麗だ…」


思わずそう呟いたとき、先ほどまで助けを求めていた子供の母親らしき女性がこちらへ駆けてくる足音がした。

少年は先ほどの沖田のつぶやきが聞こえなかったかのように立ち上がり、子供を母親に引き渡している。母親はこちらにも何度も何度も頭を下げ、感謝の言葉を述べたのち、親子は去っていった。


「…」


二人の間に沈黙が流れる。

とりあえず水浸しになった袴の裾を絞っていたところ、少年が口を開いた。


「…まさか手を貸してくれるとは思っていませんでした」


「え?」


「京の人間は、よそ者には冷たいので」


抑揚のない冷めた声。見た目の幼さからかけ離れた、ずいぶん大人びた声に聞こえた。どうやら彼もまた、自分たちと同じく他所からやってきた人間のようである。


「それに関しては、私も同意見ですね」


くすりと笑って、沖田は少年が道に落としていった荷物を手渡した。


「…ありがとうございます」


少し恥ずかしそうに少年は礼を言って受け取った。その瞬間、沖田は少年の腕をがしっと掴んだ。

困惑している少年に向かって、沖田は満面の笑みでこう告げる。


「とりあえず、二人ともずぶ濡れなので。僕らの屯所に行きましょう」


これが自身の生涯を共に過ごすことになる、沖田と少年の出会いであった。

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