第3話 夏

キャンパスはどんどん暑い季節に突入していた。

この年の夏は日差しが強くて雨の少ない、とても気温の高い夏だった。

女子は日傘をさして日向を避けて歩いているし、男子はあまりの暑さに持っているペットボトルの水を頭からかぶる奴なんかもいた。

とにかく、陽射しがじりじりと肌を焼き、外に出るのも危険なほどの暑さだった。


俺は、学内のアイスコーヒーを飲みながらカフェテリアで涼んでいた。

「お前さぁ、あのアイスディーバと付き合ってるの?」

同じゼミ生の新が俺の肩をたたいていった。

「え?あぁたまに食事に入ったりするけど、別にそんな付き合ってるとかではないよ。」

俺自身正直、そういう仲になりたいと思っていたが、でも俺の届くような所にいる人ではないかなぁとずっと思っていた。

彼女のたまに見せる影のある表情も気になっていたし、彼女の心の支えになれたらという願望はあった。


新は少しほっとした顔で言った。

「そっか。ならいいんだけどな。

・・・あの氷室さんだっけ?あんまりいい噂無いんだよね。ほら、お前ってそういうのに疎いから忠告しておくんだけどさ。

彼女、橘教授のお気に入りらしくて、橘教授とはそういう仲なんだってもっぱらの噂なんだよ。

この前のドイツへの遠征も橘教授一緒に行ってるし、そもそも橘教授の口添えで色んなコンクールに出れてるって噂なんだよ。

まぁ、何処までが本当なのかってのは疑わしいもんだけど、でも学内で二人が抱き合ってるのを見た学生が何人もいるんだってさ。」

「お前さぁ、噂だけでそんな簡単に人を判断するのは、間違ってるんじゃないのか?彼女はそんな女性じゃないよ。」

俺は思わず声を荒げてしまった。

そう、学内で彼女のあまり良くない噂が流れていることは知っていた。

でも、彼女はそんな女性ではないと俺は信じようとしていた。

そんな時に新から言われたことが、どうやら俺の感情を爆発させてしまったらしい。

「・・・俺、お前のことが心配で言ってたんだけど。すまない。

そっか。お前そこまで彼女の事気にしてるんだな。でも、深入りしないほうがいい女性もいるんだぞ。それだけは気を付けてくれよ。」

「・・・ごめん。俺も感情的になった。」

「・・・うん、じゃ俺行くわ。」

新は背を向けて行ってしまった。


その日、彼女から連絡があった。

食事に行こうという誘いだった。俺はその日初めて彼女の誘いを無視してしまった。


数日後キャンパスで偶然、彼女を見かけた。

橘教授と並んで歩いていた。

俺は、彼女に見つからないように建物の影に隠れて通り過ぎるのを待った。

彼女と橘教授は、ただの教授と教え子の関係のはずだ。それ以上でもそれ以下でもない。そう言い聞かせて鼓動を抑えていた。

でも、春のあの日、彼女が俺の腕をつかんだあの日、彼女が逃げた相手は橘教授だった。その事実が俺の脳裏に重くのしかかってきた。


その日の夕方、

『今日、私を避けたでしょ?』

とラインメッセージが届いた。見つかってたんだ。

『ごめん』と反射的に返信してしまった。

『この前だって既読無視した。』

『ごめん』

そう。あの日俺は彼女に返事を送らなかった。送れなかったんだ。

『罰として今日の晩御飯は迅のおごりだからね。』と返ってきた。

俺は、正直頭を抱えた。どんな顔で彼女に会えばいいのか、どんな気持ちで彼女と向き合えるのかわからない。

でも、彼女に会いたい。彼女と会って話がしたい。

その気持ちが、『わかった。』という返事を送っていた。


その日は花火大会の日で、周辺はかなり賑わっていた。

いつも彼女と行く居酒屋に入ると、浴衣を着たカップルや親子連れの喧騒に圧倒された。

「迅!こっちこっち!」

彼女の姿を見つけ、席に向かった。

「久しぶりじゃない。何呑む?ビール?」

「あ、いや今日はバイクなんだよ。ウーロン茶で」

「ふーん、じゃ私は飲んじゃお。浮かない顔をしてないでそこに座れば」

「うん…」

いつになく、いたたまれないような空気が流れていく。

沈黙に耐えられないけど、何を離せばいいのかもわからず何かを言いかけるけど、その言葉を飲み込んでしまう、そんな時間がしばらく続いた。

「あのさ…」

「ねぇ…」

二人の声が重なった。その瞬間、彼女がクククッと笑った。

「ねぇ、迅。もしかして橘教授の事疑ってるんでしょ?」

俺は彼女の顔をまじまじと見てしまった。

「あ、やっぱり。佳音の言う通りです、って顔に書いてある。」

俺は、自分の顔を思わずごしごしとこすっていた。

「あはは、ほんとに書いているわけないじゃない。」

佳音はお腹を抱えて笑っている。俺は少し情けない気持ちになった。

「橘教授とは噂の様な事はないのよ。橘教授は、びっくりするぐらいの愛妻家よ。私なんて相手になんかしてくれないわ。

・・・橘教授には本当に良くしてもらってる。私の歌を一番評価してくれてるしね。でも、みんなが言うような関係じゃないわ。

そもそも、私は橘教授の奥様とも懇意にしているの。そもそもね、私のボイストレーナーが橘教授の奥様なのよ。

彼女がいたから、私は今ここにいるのよ。」

「え?じゃ、あの春の日に橘教授から逃げていたのは何故なの?」

「…?あ、あの日の!!あれはね、私が一時期凄いスランプに陥ってて、橘教授がしつこく練習を強要してくるから、それで逃げてたの。

まぁ、あれは確かに誤解されそうな感じよね。あはは」

佳音の言葉には嘘はなさそうだ。

やっぱり、彼女と教授の間は師匠と教え子以上の関係はないようだ。

「ふうん、迅。今すごくホッとしてる?そう、ふふふ。」

「な、なんだよ。」

佳音は俺の顔を上目遣いで覗き込んでくる。彼女の匂いが鼻に入ってくる。ドキドキして目をそらした。

「迅、お顔が真っ赤か。…ねぇ、今日って花火大会じゃない?この後花火見ていこうよ。」

佳音が俺にすり寄っておねだりするような顔で言う。そのあざとさのある顔がかわいいくてまじまじと見てしまった。

「お、おう。…ってか近いって。」


俺と、佳音は食事の後、花火を見るために場所を変えることにした。

「花火が良く見える高台があるんだ。穴場だし、せっかくだからそこに行こう。」

小さい頃に親父に連れて行ってもらった場所を思い出した俺は、佳音をバイクの後ろに乗せてそこまで走った。

背中に感じる彼女の柔らかな感触に、正直心拍数が上がったことは間違いなかった。

その日の花火は本当に綺麗だった。でも、俺の心はここに有らずだった。

佳音の横顔を盗み見ながら、まるで中学生のようにどぎまぎしていた。

花火の帰り、突然の雨に降られてしまった。

佳音のアパートについた時は、土砂降りで数メートル先も怪しいほどの雨になってしまった。

「くそっ。雨予報なんていってなかったのに。」

「この雨じゃ、運転危ないだろうし、私の部屋で雨宿りしていく?濡れちゃったし、このままだと風邪ひいちゃうよ。」

「・・・え?でも…」

「ほら、行くよ。私も肌寒くなってきちゃった。」

佳音はそう言って、ヘルメットをもって先先と部屋のほうへ行ってしまう。

「あ、ちょっと待って。」

俺は躊躇ったが、佳音の後を追いかけるようについていった。


「ふふふ。玄関でそんな顔して立っていると濡れた子犬みたいよ。はい、バスタオル。そんなところで突っ立ってないで上がって。」

「あ、…おじゃまします。」

佳音から渡されたバスタオルは、ふわふわしていて、彼女と同じももの香りがして彼女を抱きしめているようでドキドキした。

「そのソファーに座ってて。今温かいものを入れるわね。」


リビングのすぐ隣にあるキッチンからは、とてもいい香りのコーヒーの匂いがしてくる。コポコポとお湯が落ちる音が何故か暖かい音に聞こえてくる。

「お待たせ。体温まるように、少しミルク入れてるから。」

「ありがとう。」

俺は、マグカップを両手で持って手を温める。蒸気が顔に当たって、その温もりが心地よい。

「ブルブル。ねぇ、やっぱりちょっと寒いから、シャワーしてくる。ちょっと待ってて。」

そう言って佳音はテレビのスイッチを入れてシャワーをしに行った。

俺は、テレビのリモコンでチャンネルを変えるも、まったく内容が入ってこず、気もそぞろでリビングに座っていた。

まるで、借りてきた猫だな。そんなことを思いながら。

しばらく待っていると、シャワーを終えた佳音が出てきて、俺の横に座った。シャンプーの香りが鼻をくすぐって、また俺の鼓動が早くなっていく。

「ねぇ、迅もシャワーしてきたら?体冷えたままだと、風邪ひいちゃう。」

窓の外はまだ雨がかなりの勢いで振っている。今の天気では帰れない。

この状況から早く抜け出したいと願う自分と、佳音との関係をどうにかしたいという想いがせめぎあって苦しくなってきた。

「ほら、まだしばらくは帰れそうにないわよ。」

佳音にそう言われて、とにかく佳音の隣から一度離れたくて、俺はかなり迷ったがシャワーを借りることにした。

「服は乾燥機に入れるわね。ちょっと大きめのTシャツがあるからそれを着ておいて、ズボンとかは大丈夫そうかしら?」

佳音の声が追いかけてくる。少し頭を冷やしたほうがいいのだろうけど。

シャワールームに入って一人になっても、気持ちは落ち着かなかった。

シャワーを浴びながら、これは雨宿り…雨宿り…と自分に言い聞かせて熱いシャワーをしばらく浴びた。


シャワーから出た俺は佳音か用意してくれた服を着てリビングに戻った。

佳音はキッチンで何かを作っていた。

「佳音、ありがと。あの、俺さ…雨が上がったら…」

「迅。私もう少し飲もうと思うの。付き合ってよ。少しつまみ作ったから。」

「あ、う・・・ん。」

状況に流されてしまう自分が少し情けなく思い始めた。

俺はソファーに座り、佳音はその隣に座った。

テーブルに並んだつまみはどれも美味しそうで、でもその時の俺にはどの味もあまりわからなかった。


すると、大きなドンッっという衝撃とともに部屋の中が真っ暗になった。

「きゃっ!」

佳音が驚いて、俺に抱き着いてきた。

その佳音は普段気の強い雰囲気からは想像できないぐらい、俺の腕の中で震えていた。

「どこかに、雷が落ちたのかな?きっと停電だよ。大丈夫。…なにか灯りになるようなものあるかな。」

俺は、スマホのライトをつけて少し佳音の背中をさすりながら言った。

「迅、ごめんなさい。お願いだから、このまま傍にいて。

私、暗闇が怖いの。一人にしないで。」

普段の声とは違う弱弱しい声で佳音が懇願する。

俺は、彼女を抱きしめる腕の力を少し強めた。


しばらくすると、復旧したのか部屋の電気がついた。

「佳音、復旧したみたいだよ。もう大丈夫だよ。」

佳音にそういうと、固く目をつぶって俺の腕の中にいた佳音が、顔を上げ俺と目が合った。

その次の瞬間には彼女の唇が俺の唇と重なっていた。

いつの間にか、雨は上がっていた。

「・・・佳音…。おれ、雨あがったみたいだから、帰るわ。」

ソファーから立ち上がった俺の背中に佳音が抱き着いてきた。

「帰らないで。お願い…一人にしないで。迅に一緒にいてほしいの。」

俺は思わず佳音を抱きしめていた。

そして、そのまま俺たちはその夜を一緒に過ごした。


次の朝、携帯のアラームで目が覚めた。

何かとてもいいにおいがする。コーヒーの匂いと、何かおいしそうな匂い。

その匂いの向こうには佳音の姿がみえた。

昨夜の事は夢ではなかったんだ。

「迅。おはよ。朝ごはんすぐできるから、顔洗ってきて。」

髪をかき上げながら、佳音が言った。

「あ、うん。」

「ねぇ、今日は授業あるの?」

「え?あぁ、授業も面接もないよ。今日は何も予定はない。」

「私も今日は何も予定ないし、折角だからどこか出かけようよ。」

「・・・そうだな。じゃぁ、海でも見にいくかな?」

その日は、佳音を後ろに乗せて海までバイクで走った。

すごく夏の暑い日だった。









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