第2話 春
大学四回生の春だった。
俺は、映像や舞台などの演出家をめざしていた。
でも、いざ就職活動をしてみるとなかなか苦しい現実を突きつけられていた。
このころは周りの友人たちもなかなか苦労をしているようで、まだ自分にも猶予があるのではないかと、油断していた。
ある日、キャンパスを歩いていると春風に乗って甘い桃の様な香りと桜の花びらが俺の鼻をくすぐった。
風が吹いてきたほうを見ると、桜の木の下にショートヘアのよく似合う細身の女性が、本を読んでいた。
俺はその姿に見とれてしまった。まるで桜の精がそこにいるようで、しばらく時間が止まったかのような錯覚に陥った。
その彼女が俺の視線に気が付いたのか、ふと顔を上げこちらを見た。
目が合ってしまった俺はしばらく金縛りにあったように動けずにいた。
心臓だけは早鳴りのように耳元でバクバクとなっている。
「おい、迅!次の講義遅れるぞ。」
新に肩をたたかれて、我に返った俺は
「あぁ。」そう答えて新と次の講義に向かった。
「迅。お前、あのアイスディーバに見とれてなかったか?」
この新という男。俺の友人だ。
長身で男性にしてはとてもきれいな顔をした男で、その容姿ともともとの人懐っこい性格で学内の人気者だ。
おのずとこの男の所には様々な情報が集まってくる。
「アイスディーバ?」
「え?お前知らないの?学内でも結構な有名人だよ。
色んなコンクールで、賞を総なめにするほどのソプラニストだよ。
この前も、海外のコンクールで審査員をうならせてきたらしい。
海外遠征が多いからあんまり学内で見かけることがないんだけどな。
それよりも、どんな男からのアプローチにも靡かない鉄壁らしいよ。
噂では橘教授とできてんじゃないか、ってはなしだけどな。
たしか、氷室って名前で、なかなか融けない心を持ってるからアイスディーバってつけられたとか…?」
「橘教授って…既婚者じゃなかったっけ?」
「ま、橘教授はクラッシック界にも顔が利くからね。立身出世のためなら、自分の身も売る、ってのも芸事ではありだからね。」
「へぇ~。」
そんな風には見えなかったけどなぁ。その時はそれぐらいの印象だった。
数日後、俺がキャンバスを歩いていると、視界の向こうに男女でもめている二人が見えた。よく見ると先日のアイスディーバと橘教授だった。
俺が、関わるのは得策ではないなと思って、足早に立ち去ろうとすると、彼女のほうから気が付いて、俺のほうに手を振って走り寄ってきた。
困惑した俺の腕に彼女は腕を絡ませて、
「待ってたのよ。ほら行きましょ。」
と俺に言った。ふわっと甘い桃の香りが俺の鼻をくすぐる。
耳のすぐ横で心臓がなっているんじゃないかと思うほど俺の心拍数は上がっていた。
「え?ちょっと…??」
俺は彼女のあまりの勢いに押されて情けない返答をして、きっとその時は情けない顔をしていたんだと思う。俺は彼女に引かれるまま、その場を離れた。
少し行ったところで彼女が腕を離して俺に言った。
「ごめんなさい。あの人、あんまりにもしつこくて。
あなたが通りかかって助かったわ。
私、声楽科の氷室 佳音。あなた…映像美術科の人よね?」
「あ、境田 迅…です。」
「ふふ、同い年よ。ため語でいいわよ。…あ、いけない!!急いでるから、このお礼はまたさせてね。」
そう言って、彼女はまた風のように去っていった。
甘い香りだけ残して。俺はしばらく金縛りにあったように動けなかった。
数日後、俺が学内の図書館で調べ物をしていると、図書館特有のあのカビと埃の混じった匂いを遮るようにももの香りがして、また俺の心拍数が跳ね上がったんだ。
匂いの記憶は人間の一番深いところで残るらしい。
頭が反応するよりも早く体が反応するほど、俺にとって強烈な印象を記憶を植え付けたその人は、俺のすぐ横に座って、にこやかに言った。
「見つけた。境田 迅君。なぁに?お勉強?」
彼女はすこしアルコールの匂いをさせながら、俺の顔を覗き込む。
「・・・酔ってるの?学内での飲酒は禁止のはずだよ。」
「いいじゃない。酔わなきゃやってられないこともあるのよ。それに、これは教授も知ってるんだから。
それより、今日これから予定空いてない?この前のお礼がしたいの。どこかご飯でも食べに行きましょうよ。」
彼女は有無を言わさないような眼で俺に語り掛けてくる。
正直、彼女からの誘いはすごく嬉しかった。そして、以外でもあった。
まさか、あれくらいの事でお礼だなんて、思ってもいなかったから。
でもそれよりも彼女の様子が少し気になったんだ。
頬には涙の後のようなものもみられて、いつも鉄壁と言われる彼女とは少し乖離している気がした。
だから、彼女の誘いに乗ることにした。
「うん、予定はないから大丈夫だよ。」
彼女との食事はとても楽しかった。
学内の噂のような、冷たいイメージの女性ではなく、どちらかというと天真爛漫な明るい感じの女性だということは、話し出してすぐにわかった。
海外のコンクールなんかに出て、賞を取るたびに羨望の眼差しがどんどん嫌がらせなんかに発展していくから、学内ではなるべく人と関わらないようにしているんだといっていた。
「孤高のアイスディーバだね。」
というと、自虐的に笑っていた。
彼女は音楽だけじゃなく、文学や絵画、美術などにも知識豊富で、意外にもアニメやポップカルチャーにも興味があることが、わかった。
「私ね、本当はクラッシックじゃなくてポップスとかロックとか歌いたかったんだよ。小さい頃からクラッシックを習っていたわ。
でも中学生の時、ロックバンド組んだのよ。楽しかったな。思いっきり声を出して、喉が引きちぎれるかと思うほど大声で。
でもね、ある日友達に、あなたの声は綺麗すぎるって言われたのよ。やっぱりクラッシック向きなのよって。
ロックにはもっと力のある声がいるんだって。
悔しかったけど、そうなのかもって思ったの。歌うのは大好きだし、それはロックでもクラッシックでも同じだなって思ったの。
それで、この道に進むことにしたのよ。
少しづつだけど、世間にも認めてもらえるようになって、でもそれをよく思わない人も中に入るのよね。妬みや嫉妬なんてのもいっぱい感じて。
でもね、そんな他人の声なんてどうでもいいのよ。目立つ人間はどうしたって的になっちゃうんだから。
・・・やだ、私ばっかり話してる。あなたの事も聞いてみたいな。
で、あなたは?あなたはなんで今ここにいるの?」
唐突に彼女からそんな質問を浴びせられて、返答に困ってしまった。
俺はなぜ今の大学に進んだんだっけ?自分は何処に向かいたかったんだったっけ?
それは、俺が今就職活動をするうえで一番考えなくてはいけない問題で、かつ自問自答することをずっと避け続けていた問題だった。
「あ、そうだな…なんでだろう?」
確かに、大学に入ったころは映像や3Dマッピングなどの映像ショーを作る仕事がしたくてこの大学に入った。コンピューターやプログラミングなんかにも興味もあったし、結構本格的なプログラムなんかも作る自信はあった。
でも、就職という壁に当たった時に、自分のもつ技術なんてものはその他大勢とそんなに変わらないという現実を突きつけられていた。
俺が答えに窮していると、彼女が申し訳なさそうに言った。
「あ、ごめんなさい。言いたくないなら、いいのよ。
私ったら、また人の事にずけずけと踏み込んじゃった。」
「あ、いや。言いたくないとかじゃないんだけど。何か…ね。
まだ、俺自身これからどうしたらいいかわからなくなっているときだったから。きにしないで。」
「あ、そうだ。よかったら連絡先、交換してくれない?
学内でこんなお願いしたのはじめてなんだけど、あなたと話しているととても楽しくて。
また、良かったら一緒にお話ししたいな。なんて。」
恥ずかしそうにそういう彼女がとてもかわいくて、そして魅力的だった。
もちろん、俺は彼女と連絡先を交換した。
その日から、彼女とはたまに食事をするようになった。
彼女は公演会やコンクールなどで飛び回っているときもあって、学校に来る日は少なかったが、学校に来るときは必ず連絡をくれた。
会えば、彼女のコンクールでの話や行った国での若者のファッションの話、そして流行りの音楽の話なんかで盛り上がった。
彼女はとても快活に笑う人で、でもたまに見せる寂しそうな陰りのある表情が俺は気になっていた。
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