第56話 優しくしてね

 大久保はえずいた後、数回に渡り嘔吐する。

 動物園のような臭気と、酸味の強い匂いとが混ざり合い、俺の鼻腔を刺した。

 俺のひねくれた無頼の根性が告げる。

 こいつは絶望的なマリアージュだ、と告げている。



「優しくしてね🎵優しくしてね🎵

 優しくしてね🎵優しくしてね🎵」


 清志はうわ言のように口走った。


「まだそれを言うのか。

 せめて優しくして下さい、と懇願してみろ。

 話はそれからだ…」


 と言ったところで、こいつに俺の言葉は届かない。


「優しくしてね🎵優しくしてね🎵」


 清志は懲りない。

 ならば、


「やだ」


 と俺は清志を見据えながら言った。




 背後から俺の背を何度も叩く奴がいた。


「風間、風間」


 後ろの席の女子だ。どうせまた清志だろうと俺は寝たふりをする。


「風間風間風間風間」


 しかし女子は諦めてくれない。

 仕方なく振り返ると、


「清志くんがおしっこって言ってる」


 その女子の一言で気付かされた。俺は教室にいる。

 しかも授業中、黒板上の時計を見ると昼休み前…、四時間目だと?何故俺が教室にいるのか。

 俺は校庭にいたはずだ。時間が巻き戻されたのか?

 俺は何も言わずに清志の元へと向かう。


「優しくしてね🎵優しくしてね🎵」


 さっきと同じ展開だ。これは何なのか。

 俺は清志に「やだ」と言い放ち、奴のオムツ交換をする。


 昼休み、待ちに待った給食はカレー。

 清志の食事介助は大久保の先発。

 俺が三度目のおかわりをすると、大久保は自分の給食を取りに来た。さっきと全く同じだ。


 5時間目の体育の授業中、清志の見守りをさせられていた女子たちから悲鳴があがる。

 俺と大久保は清志が糞を漏らした現場へ向かう。


 現場は動物園臭漂う。


「きれいきれいにしてー!」


 と清志は悲鳴を上げると、俺は怒鳴り返し、清志のオムツを下ろすと圧倒的なばかりの糞景色。

 言うまでもなく、同じ展開だ。

 清志の急かしに俺が怒号で返すと、清志の思わぬ力発揮によって大久保の拘束は解かれ、清志は自分のカレーを貪り喰らう。

 さっきと全く同じ流れを繰り返している。滑稽だ。清志はそこまでして自分のカレーを食べたいのか。

 その様を見た大久保が嘔吐すると、


「優しくしてね🎵優しくしてね🎵

 優しくしてね🎵優しくしてね🎵」


 と清志は言った。

 こいつ、この期に及んでまだそれを言うか。


「その前にきれいにしてやろう。

 話はそれからだ…」


 俺は清志の逆立つ頭頂部の髪を鷲掴みにすると、そのまま奴を持ち上げ、歩き始める。

 清志のいる木陰から数メートル先に池があるのだ。そこには鯉だの誰かが放した緑亀などがいる。

 俺は池のほとりに着くと清志をゆっくりと池の中へ入れる。


「お望み通り、きれいきれいにしてやるよ。

 話はそれからだ…」


 と言いつつ、流し目加減の眼差しを清志へ送ると、奴は言葉にならぬ悲鳴を上げた。




 背後から俺の背を何度も叩く奴がいた。


「風間、風間」


 後ろの席の女子だ。

 また時間が巻き戻り、同じ展開がやってきたのか。


「優しくしてね🎵優しくしてね🎵」


 同じ流れを繰り返している。

 校庭で清志はまた「きれいきれいにして」と言った。

 次は校庭にある水飲み場からバケツで水を汲み、それを清志にぶっ掛けると奴は悲鳴を上げた。



 また背後から背を何度も叩かれる。

 気がつけば教室へと戻り、時間が巻き戻されていた。

 これの繰り返しだ。最初は数えていたが、数えることにも飽きてきた。

 このループから逃れるにはどうしたらいいのか。




「優しくしてね🎵優しくしてね🎵」


 と清志は言った。

 この所沢市立第八小学校の世界は、恐らく清志が作り出したものだろう。

 こいつは俺が“優しく”するまで、これを繰り返す気だと思われる。


「清志、これをいつまで繰り返すつもりだ。

 俺がお前のそれに同意するとでも思っているのか?」


「優しくしてね🎵優しくしてね🎵」


 それでも俺は同意なぞ、しない。


 俺はマットの上に横たわる清志を無理矢理起こし、教室の真ん中へと連れて行く。


「風間くん!何をしているの!授業中でしょ!」


 と教壇の上の村上から怒号を浴びる。


「黙れ!これはお前らの仕事だろうが!

 何故、俺たちにこれをやらせる!

 俺たちは生贄か?奴隷か?」


 村上は黙った。

 俺は清志を近くの席の机の上に仰向けで寝かせる。

 そして清志のズボンを一気に脱がす。


「風間くん、やめて!汚い!」


 その席の女子が叫ぶ。


「これを汚いと言うのか。

 だったら、これをさせられている俺たちは一体、何なのか!」


 俺は清志のオムツを引っ剥がし、そのまま何処かへ投げ捨てる。その直後、オムツの落ちたあたりで悲鳴が上がった。

 俺はお構いなしに奴の両足首を片手で掴んで持ち上げ、そのまま奴の腰を浮かせる。

 その刹那、清志は軽く放屁した。

 やはりな…、清志はこう来ると思っていた。川俣に糞をぶっ掛けた時と同じだ。

 俺は清志の足を掴んだまま、瞬間的に奴の頭側へと回る。清志の臀部は近くの席に座る女子へと向けられた。

 清志は再び放屁すると、屁だけとは思えぬ音を響かせ、茶色いほと走りを糞出させる。


「いやーーーーっ」


 ほと走りを浴びた女子児童は叫んだ。


「清志、残念だったな。

 その手は食わぬ」


 俺のその一言に清志は悲鳴のような奇声で答えた直後、さらに巨大な音の放屁をする。

 その音はえげつない響きのロングトーン、もちろんのこと茶色いほと走りも糞出している。

 女子児童らの悲鳴が重なり合って、教室内は阿鼻叫喚の地獄絵図と化す。

 この小さな身体から信じられぬほどの形の無い、ペースト状の糞が出た。

 辺り一面、糞だらけ。周辺に居た児童らも糞だらけ、身の毛もよだつ程の糞景色だ。

 しかし、俺はそれに麻痺していた。それは清志のオムツ係をさせられていたからであろう。


 これだけ周辺に糞を撒き散らしたのだ。流石にもう打ち止めだろうと、俺は清志の足首から手を離す。

 清志は机の上から降りて、俺と対峙するかの如く立ち上がる。


「もぐもぐ、もぐもぐ」


 と清志は言うと、自分の臀部に手を回し、排泄物を手に塗りたくると、その手を見つめる。


「清志くん、汚い!

 風間!やめさせて!」


 と近くの女子が俺に訴えるも、


「やめさせたいのなら、お前がやれ。

 話はそれからだ…」


 と流し目加減の眼差しを女子へ送る。

 この時、俺は気付いた。

 俺はアラン・ドロン似の美青年へと戻っている。


 清志は自分の手を見つめると、恍惚とした目つきで、その手を口の中に入れ、貪るように舐め回す。

 俺は哄笑する。


「清志よ、地産地消とは良い心掛けだ。

 今日はこれだけ出したのだ。残さず綺麗に喰うがいい。

 話はそれからだ…」


 俺は流し目加減の眼差しを清志へ送る。


「いやーー!」


 複数の女子の悲鳴が重なり合う。これはまるで悲鳴のオーケストレーションだ。

 甲高い声によるオーケストレーションなぞ、不快なことこの上ないはずだが、今はそれが心地よい。これもたまには悪くない。


 悲鳴は悲鳴だ。長く続くわけではないだろう。そのオーケストレーションはしばらくすると鳴り止んだ。

 その時、教室内は時間が止まったかの様に静まり返った。

 そして俺と清志と奴の排泄物以外、全てのものが急激に色と時を失っていく。

 近くのにいる児童ら、間抜け顔で静止する大久保、教室から逃げようとする村上、例外なく色を失う。

 やがて全てが透明な水晶の塊と化すと、その全てが音を立てて弾け散った。



 赤黒い空と茶褐色の荒野、それ以外何も無い世界の中、俺と清志は対峙していた。

 清志は自分の排泄物を貪り喰らっている。


「やはり、全てお前の生み出したものだったか」


「助けて、助けて」


 俺のその言葉に対し、清志はそう言った。


「助けて、だと?」


 清志は俺の一言を受け、背後から何やら取り出し、それを被る。

 それは緑色の野球帽であった。


「それは…川俣っ、グンちゃんの野球帽!」


 清志は不敵な笑みを浮かべたように見えた。


「それはどうした!?」


「ぐちゃぐちゃ、ぐちゃぐちゃ」


 清志の返答は意味不明かつ不穏だ。


「それは何なんだっ!」


 清志は俺の問い掛けに恍惚とした表情を浮かべる。


「この糞がっ!」


 清志に掴み掛かろうとするも、その糞だらけに躊躇してしまう。

 それが間違いであった。

 清志は音も無く、俺の方を向いたまま急激に遠ざかっていく。


「ばいばい、ばいばい」


 と清志は手を振る。

 俺は一目散に疾走するが、清志は思いの外速い。追いつける速さではなかった。


「清志ーっ!」


「ばいばい、ばいばい」

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