第39話 込み上げる酸味と悪心の荒野
闇、闇、闇…
窮屈かつ、蒸し暑いこの闇が永遠に続くかのように感じる。
ここは西松の車のトランクの中だ。
車が走り出したかと思えば停車し、曲がり、また停車し…、その度に車内は揺れ、頭や身体を車内に打ち付ける。
その繰り返しだ。身体の痛みは蓄積し、度重なる揺れにより目が回ってくる。
トランクの中という密閉空間、しかもかなりの窮屈さとトランク内の臭気によって、普段は乗り物酔いをしない俺でも気分が悪くなってきた。
出してくれ…、早くここから出してくれ。腹の奥底から不快感が逆流してきそうだ。
不意に容赦の無いえづきがやってきた。込み上げる強烈な酸味によって、喉の奥が焼けるように痛い…
車が停車している。
そう思ったその刹那、俺は不意に白日の下へと晒された。
眩い光に目が眩む。
誰かの鼻で笑うような声が聞こえ、肩を掴まれたと思ったら、俺は体育座りの体勢から起こされた。
それにしても眩しい。俺は両手を目の上にかざし、光を遮る。
「このトランクに収まるとは……随分と変わったな、風間🎵かつての君なら、考えられんことだ🎵」
誰かの声真似のような歌唱が聞こえた。
榎本だ。奴が俺の目の前に居た。しかも若干、口元を綻ばせていやがる。
気がつけば、榎本の屋敷に到着していた。
車は榎本の屋敷の中庭に停められている。目の前に広がる光景は、屋敷から周囲の塀に至るまで、えんじ色や真紅で統一されていた。相変わらず、趣味の悪さは変わらない。
「警察まで使ったのか🎵…」
俺たちがこれまでの経緯を説明すると、榎本は大広間のソファに腰掛けた。
ゆったりとしつつも、どこか不穏で緊張感のあるジャズ調の音楽が流れている。
「榎本さん、何かいい手は無いか?🎵」
堀込であった。
榎本は顎に手を当て、思慮に耽っているようだ。
「私はここの警察署長とは多少、付き合いがある🎵掛け合ってみよう🎵」
榎本はそう歌いつつ、ソファーから立ち上がると、大広間の扉へと向かう。
「頼むよ!榎本さん🎵」
堀込は榎本の背に向かって歌うと、榎本は後ろ手に手を振った。
ものの数分で榎本は大広間に戻ってきた。
「諸君、待たせたな🎵西松は解放だ🎵」
「榎本さんっ!🎵」
堀込は感極まったような表情を浮かべ、榎本へ駆け寄ると抱きしめる。
「ここの警察署長は中々、話のわかる男でな、私が西松の身元を保証すると言ったら解放することとなった🎵」
榎本は堀込の感激っぷりに当惑気味の表情を浮かべつつ歌った。
「榎本さんっ!ありがとう!ありがとう!🎵」
堀込は榎本を抱きしめながら、その背を叩くのだが、榎本の表情は少しばかり歪む。
「堀込、少しは手加減してくれないか🎵」
やはり堀込の背中叩きの手が痛かったようだ。
「ごめん、榎本さん!🎵」
堀込は抱擁を解き、榎本の手を握る。
「でもまじでよかった!🎵よかったよ!🎵」
堀込は本気で感激しているようだ。その感激っぷりに俺の感情までも昂ってきそうだ。
そんな中、不意に鼻をすするような音が聞こえた。
隣に座るパリスを見るが、奴はいつも通りの薄笑いを浮かべている。
だとしたら…、その隣に座る二号を見ると、奴はテンガロンハットの鍔で顔を隠していた。
「私はこれから西松の身柄を引き取りに行ってくる🎵」
「頼むよ、榎本さん!🎵」
榎本は堀込の手を離すと、足早に大広間から去った。
フルートが優しげな旋律を奏で始め、やがて弦楽器がそれに続く。
まるで幸福な結末を感じさせる音楽が流れると、大広間の扉の向こうから西松と榎本が姿を現した。
榎本は一時間もしないうちに、西松を連れて帰ってきたのである。
「西松ぅっ!無事なんだな!無事なんだな、お前!🎵」
その刹那、堀込は西松へ駆け寄りその肩を叩く。
「無事だよ、堀込くん🎵」
西松は無事なようであった。その表情には憔悴し切ったような雰囲気があるものの、殴られただの暴行を受けたような跡が無いのは幸いだ。
「榎本さん、ありがとう🎵お陰で助かったよ🎵」
西松は榎本へ向かって深々と頭を下げる。
「これぐらいはお安い御用だ🎵」
榎本は西松の両肩に手を当て、その上体を起こすように促す。
上体を起こした西松の目から大粒の涙が溢れ落ちていた。
「みんなっ、ありがとうぅぅ」
西松は嗚咽を漏らし、もう歌ではなかった。
「いいんだよ、西松ぅぅ」
堀込も貰い泣きをし、歌になっていなかった。
「もう駄目かと思った。また処刑されるのかと思った」
処刑か…
西松はそう言いながら泣き崩れた。この世界が何であれ、処刑される経験なぞ、もう二度としたくないことだろう。それは俺も同じだ。
「感動の再会に水を差すようで悪いのだが、問題はこれで終わりではない🎵」
榎本だ。一斉に皆の視線が榎本へ集まる。二号さえも感極まった様子であるのに対し、榎本は冷静であった。腕組みをし、思慮に耽っているかのような雰囲気だ。
「そうだな🎵あのトゥーペイ公爵ってのはこれで引き下がるような奴なのか?🎵」
二号だ。気持ちを切り替えるのかの如く、テンガロンハットを被り直す。
「城本、君の言う通りだ🎵あの公爵はこれで引き下がるような方ではない🎵
今回は警察署長自身が公爵のやり方に不満があって連れ戻すことが出来たが、次はどんな手を使ってくるかわからんよ🎵」
榎本のその歌唱に皆、沈黙する。
榎本は大広間の窓際に立ち、外をじっと眺めていたのだが、急に俺たちの方へと振り返る。
「これから私の船で国外脱出するのはどうかね?🎵」
それは唐突な提案であった。しかし榎本は得意げだ。サングラス越しにもそれがわかる。
「国外?」
西松だ。榎本の提案に皆、一様に驚きの色を隠せない。
「ああ。私の船で西に向かって航海すれは、半日も掛からずに国外へ脱出出来る🎵」
「なるほど!🎵国外へ脱出すれば🎵」
「そうだ🎵トゥーペイ公爵の力は及ばない🎵」
堀込の歌に榎本が付け足した。
「暫く国外に滞在し、頃合いを見計らってこっちに戻るのはどうだろうか🎵」
「それがいい!🎵流石、榎本さんだよ!🎵」
堀込だ。堀込は歓喜の声を上げる一方、西松はどこか不安げだ。
「榎本さん、セシルとジャンヌは…🎵」
西松は緊張感と不安な様子で榎本へ尋ねた。
「もちろん、一緒に決まっている🎵」
西松は榎本のその一言に、胸をなでおろすかの様に安堵の溜息を漏らした。
「これで安心じゃねえか!🎵」
堀込は自分のことのように喜ぶ。
西松が戻るまで、この大広間には重苦しい空気が漂っていたのだが、それが嘘だったかのように晴れやかな空気へと変わった。
しかし、皆が喜ぶ中にあっても未だに一人、憂鬱そうな表情を浮かべる奴がいた。
二号だ。
「船か…」
二号は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべつつ、小声でそう呟いた。
そう、船だ。二号は船酔いがあるのであった。
「どうした、城本🎵君は一人残るか?🎵」
そんな二号に向かって榎本は歌った。
しかし、二号は意を決したようにテンガロンハットを被り直し、
「行くさ!🎵乗り掛かった船だ。どこまでも行くさ🎵船酔いなんて何てこと無い!🎵」
と二号は歌うものの、強がっているのは明白である。
テンガロンハットを被り直す手が震えていたのだ。
「それで、いつ行くんだ?🎵」
二号は榎本に向かって歌うも、いつもの熱苦しい歌唱は影を潜めていた。
「これからだ🎵すぐに準備へ取り掛かる🎵」
「榎本さんっ!🎵そうこなくっちゃ!🎵」
堀込だ。気勢をあげる堀込と西松に対し、二号はその場で茫然とした。
それから榎本は航海等に必要な物を揃えると言い、大広間から出て行った。
堀込と西松が歓喜するのを横目に、俺の頭の中には一つ気がかりなことがあった。
「西松。お前は奥さんに今回の事情を説明してあるのか?」
俺の一言に西松は凍りついた。
「何故、アイマスク検査で連れて行かれたのか。それにはコレットのことも関係している。
奥さんはどこまで知っているんだ?」
「何も言っていない🎵それにセシルは何も知らない🎵
今朝、警察が突然店に来てアイマスク検査されてさ、何も言わせてもらえずにそのまま連れて行かれたんだ。だから何も言えなかったよ🎵」
西松は今にも消え入りそうな声で歌った。
「でも俺、説明するよ🎵」
とだけ歌った西松の声に力を感じた。俺ほどではないが、西松の二枚目な顔に強い決意を感じる。
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