愛してるもろもろ

あるかとらず

第1話

 母型の祖父母であるお祖父ちゃんがガンで死んで四年、お祖母ちゃんが肺炎で死んで一年が経った初夏のある日、あ、もう二度とあの二人には会えないんだと唐突に悟った私は、あらゆる気力が削げ落ちて、大学にも行かず、部屋にこもって寝込むようになってしまった。

 なんの拍子にそんなことを悟ってしまったのかは憶えていない。でも、そう悟った瞬間に私を襲ったあまりのしんどさに、むしろ困惑していたことは憶えている。

 なんで今なんだろう、とまず思った。

 なんで二人が死んだばかりの時じゃなくて、今更こんなにしんどくなってるんだろう。

 その頃から勝手に浮かび上がるようになっていた二人に関するいくつもの記憶は、どれも私の胸を切なくさせた。近所に住んでいて、とても優しかった二人。遊びにいけば、いつも行きたい場所に連れていってくれた。ショッピングモールに動物園、プール、遊園地まで。厳しい両親には黙ってこっそり玩具を買ってくれたし(後で毎回母親に怒られていた)、どんな他愛ない話もニコニコ笑って聞いてくれた。弟が生まれたばかりで両親に放置され、寂しかった時も、一番私に構ってくれたのはお祖父ちゃんとお祖母ちゃんだった。お祖父ちゃんは私のことをいつも「世界で一番素敵なお嬢さん」と呼んでくれたし、お婆ちゃんは優しい鈴の音のような笑い方で私のつまらない冗談をからからと笑ってくれた。

 ああそうだ、二人があんまり優しかったから、小さかった頃、私は二人のことを家来かなにかだと勘違いしていたこともあった。

 嫌な孫だったな、私。

 それにしても、ねえ、これはちょっとしんどすぎるんじゃないかな。倦怠感が実際の重さを持ってのしかかってきてる感じだ。お祖母ちゃんを亡くした友達から聞いていた、あるいはドラマや漫画でよく見るような演技的な悲しみと、これが同じものだとは到底思えない。

 そう訝しんでなんとか抵抗してみたものの、やがてはその気力すら失せ、ついには沼に引きずり込まれていく按配でずぶずぶ深みにはまっていった。二度と会えないという事実についてひとたび強迫症めいた思索に取り憑かれると、胸がキリキリ痛んでひどく孤独な気分に陥る。そのうちに気が滅入って食欲も失い、なにも考えたくないと眠り続けるまでになってしまった。でもずっと眠っていられるわけもなく、目が冴えている間は好きな曲や小説、漫画を使って気を紛らわせようと試みたけど、やっぱり煩わしいだけで少しも楽にはならなかった。そうして大学も休み続け、ベッドの上で夢か現実かも判然としない時間を無為に過ごすのは、ああ、ホントに苦しかったなあ。

 あんまり苦しいものだから、少ない気力を振り絞って病院に行き、薬を処方してもらった。それでいくらかは楽になったけど、やっぱり大学には行けなかった。だって、

 朝起きて、

 身だしなみを整え、

 外に出てキャンパスに辿り着き、

 人との関わりに気を配る、なんて!

 そんな健全なエネルギー、残ってるわけねえじゃんよ~、うお~無理じゃ~、とぐじぐじ腐っていると、幼馴染みで同じ講義をとっている希美香が部屋を訪ねてきてくれた。


 希美香は博物館や美術館を巡るのが趣味なアウトドア系女子で、さらさらした黒髪をいつも後ろでまとめている。家が近所で小中高大と一緒になり、一人暮らしをしてからも頻繁にお互いの部屋を行き来している私達は、三十までにどちらにも恋人ができなかったら、二人で暮らそうかと約束しているくらいには仲がいい。

 大学を休み始めてから希美香には体調が悪いと伝えていたのだが、いつまで経ってもよくなる様子がないので流石に心配になったらしかった。ドアを開けて出迎えると、開口一番に彼女は言った。

「うわ、想像よりひどい」

「……なにが」

「顔。老けてるよ」

「え」

 ショック……でもないか。四六時中過去や死んだ人達のことなんて考えてたら、そりゃ染みとかほうれい線の一つや二つ、顔に浮かぶに決まってる。そう思って、私は曖昧に笑った。

「あはは」

「どうしたのよ香織。大丈夫なの?」

「ギリ大丈夫」

「おお、ギリね」

 希美香は肩をすくめると、キッチンに入って差し入れらしき袋の中身を広げる。

「ゴミ箱の中、コンビニ弁当とかカップ麺ばっかじゃない。……もう、なんか作ってあげる」

「希美香~、好きだ~」

「はいはい」

 うちに来るとき、希美香はよく料理を振る舞ってくれる。彼女曰く、ここには無駄に調理道具が揃えられていて、ものぐさで簡単な自炊しかしない私には宝の持ち腐れだそうだ。

 私は調理に取り組む希美香の横に座り、実はね~、と毎日講義を欠席していた本当の理由を話し始めた。希美香は、ちょっと、そこに座らないで、邪魔、とぶつぶつこぼしながらも耳を傾けてくれて、そして言った。

「なら、一緒に鎌倉に行かない?」

「え、なぜに鎌倉……」

「ちょうど旅行しようと計画立ててたから。一緒に行こうよ」

「いや~、旅行はめんどくちゃいっすね」

「……あんたね、そうやって部屋に閉じこもってばかりいるから、暗~いこと考えちゃってしんどくなってるのよ、わかってる? 憂鬱な気持ちなんて、陽の光浴びて運動すれば一発で蒸発するんだから」

 そんなわけあるかい、と私はむっとしたけど、黙っておいた。きっと希美香は希美香なりに、私を励まそうとしてくれているのだ。それに、部屋にこもりっぱなしは確かによくない。こうやって無理に外に連れ出されるのは面倒だけど、今までそれで助かってきた面も実際あるのだし。せっかくだから、気分転換について行くかな。費用なら多分、先月やめたバイトの給料がまだ残ってるでしょ。

 希美香は私の好物ばかり作ってくれて、まだ食欲が完全に回復していない私もうきうきしながらテーブルに着く。

「なんか、今日は一段と優しいね」

「ちょっと。あたしはいつも超優しいつもりだけど?」

「そうかなあ……」

 少なくとも、と私は思った。昔の希美香はいつもイライラしていて厳しくて、私に対しても怒ってばかりだった気がする。それが、ここ最近は私にすこぶる優しい態度をとるようになったので、不気味といえば少し不気味だ。

 希美香は言った。

「で、どうすんの? 鎌倉、一緒に来るの?」

「う~ん、行こっかなあ」

「じゃあ決まりね」

 希美香は嬉しそうに笑って、自分の作ったご飯に手をつける。

 そういうわけで、私は希美香と二人で鎌倉へ行くことになった。



 二日後の夜、私達は夜行バスに乗って鎌倉に向かった。

 途中、窓側のシートに座った希美香が言った。

「旅行中は、なるべく暗いことを考えないこと。それでももし考えたくなったら、あたしに向かってその内容を喋りながら考えること。いい?」

「……おう、いえあ」

「よし」

 いやでも、と私は思った。私は隙があれば四六時中何かを考えてしまうから、実際にやれるかどうかはちょっと……。この旅行中、ずっと口を動かせるわけでもないし。うん。っていうか、そもそも思索は無意識に始まるものだからな。よーし、やるぞってものを考え始める人なんていないでしょ。

 でもとりあえず、やれるだけはやってみよう。希美香の優しさに、応えたい気持ちはもちろんある。

 私は言った。

「あはは、実は、今もちょっと考えごとしちゃってるから、早速だけど聞いてくれる?」

「え、うん。もちろんいいよ」

「ありがと。まあ、私が悩んでるってか、しんどくなってるのは一昨日話した通りなんだけどさ、ここ数日、しつこく思い出すことがあってね。それは、お祖父ちゃんからかかってきても早く切り上げてしまった電話とか、病室のベッドに寝てるお祖母ちゃんのお見舞いに行って、なんとなくぼうっと過ごしてしまったこととか……」

「うん」

「……なんか恥ずかしいね、これ」

「いいから続けて」

「あはは、うん。……話を戻すとさ、お母さんの兄弟はみんな結婚しなかったから、二人の孫は弟が生まれるまで私だけでね、よくかわいがられてたんだよ、私。それでね、お祖父ちゃん、死んじゃう一年前くらいにお母さんに言ってたみたいなんだ。最近、香織は俺との通話をすぐ切り上げようとするから寂しいって。でもその頃って高一だったし、友達とか気になる男の子とかとのやり取りの方が優先じゃん? お祖父ちゃんと話してる間も通知ぽんぽん鳴ってるし。だからお祖父ちゃんの話に適当にうんうん頷いて、私用事あるから~ってさっさと切り上げてた。んで、そのことを今考えるとね、胸がもの凄くキュッとなるのよ。そのうち会えなくなるってこと、本当の意味ではわかってなかったんだな。あの時の私は」

 私に合わせて微笑しようとし、うまくいかなかったのか、希美香は複雑に顔を歪ませて言った。

「……そんなの、あるあるよ。みんな似たようなものだと思う。中高生なんて、身近な生活のことしか考えてないんだから」

「でもやっぱり後悔は消えないよねえ。だから、あーあ、嫌だなあって」

「…………」

「あは、私の暗い話聞いてても、しんどいだけでしょ」

「……ねえ、香織はさ、もっとお祖父ちゃんお祖母ちゃんに優しくしておけばよかったって、それで後悔しているの?」

「え、う~ん、それもあるんだけどそうじゃなくて」

「違うの?」

「どうなんじゃろ。お祖父ちゃんとの電話でも、お祖母ちゃんのそばで座っていたあの時も、なんか、もっと言葉を交わせた気がするっていうか」

「……つまり、なにかを伝え損ねたってこと?」

「ふむ」

 思わず希美香の顔をのぞくと、まっすぐな目で見つめ返される。慌てて視線を逸らし、窓の外に向けた。街灯や家の灯りがトビウオみたいに流れていき、目がチカチカした。

「……わかんない。そうなのかな?」

「あたしに訊かれてもね」と希美香は笑った。

 それもそうだった。

 早朝に鎌倉駅でバスを降りると、コインロッカーに荷物を預け、私達はすぐに鶴岡八幡宮へと向かった。鎌倉駅から鶴岡八幡宮へは、飲食店や土産物屋の並ぶ「小町通り」と、鎌倉市内を南北に貫く「若宮大路」の二つのルートを選ぶことができる。私達はとりあえず参拝しようと、「若宮大路」を進むことにした。鳥居をくぐると車道より一段高い段葛が始まって、新緑の桜や生垣、灯籠が脇に続く。希美香の手をとると、

「ちょっと、参道で繋がないでよ」とたしなめられた。

「え~、でもこの道、なんかデートスポットっぽいじゃんか」

「バカ」

 参道を歩き、さらに奥の鳥居をくぐった。正面には舞殿が控え、その奥の石段を登ると本宮がある。私はお賽銭箱に小銭を放り込んで、お願いごとをした。

 お祖父ちゃんとお祖母ちゃんに会わせてください。いや、会えますように。

 そのお願いは、水の中から上昇するみたいにすっと浮かび上がってきた。私、こんなこと願ってたんだと少し驚いたくらい無意識に。まあでも、過去のことを後悔しているのなら、このお願いは自然かもねと思いもした。

 それにしても、お祈りってすごい。いや、お祈りじゃなくてもいいだろうけど、とにかく、願いを明確に言葉にすることはびっくりするほど私を楽にしてくれる。輪郭を与えられ、私の悩みなんかもなんだか単純なものであるような気がしてくる。でも、叶う叶わないはまた別の話なんだろうなあ。私だって、本気で叶うと思って祈っているわけではないのだ。おそらく。

 そんなことを考えながら横を向くと、希美香は希美香で真剣そうなお祈りを終えたところだった。私は訊いた。

「なにをお願いしたの?」

「言わない。言ったら叶わなくなるから」

「え、嘘、そうなの? じゃあ私も言わな~い」

「だれも訊いてないでしょ」

 苦笑する希美香に、ええ~気にならないの~、とすり寄って頭をもたせかける。希美香は気になる気になる、聞けなくて残念と雑にあしらうだけだった。

 それから私達は北鎌倉に向かって建長寺、明月院、円覚寺と若干急ぎ足で廻った。

 北鎌倉駅からは佐助稲荷神社に移動して参拝し、鎌倉大仏が鎮座する高徳院に着いた時には、閉館まであと一時間を切っていた。あまりのハードスケジュールにゆっくりと昼食をとる暇もなかったが、希美香はできるだけ多くの寺社を巡ることに重きを置いているらしかった。

 私はそれぞれの寺社の縁や由来に構わず、同じお願いごとを繰り返した。

 お祖父ちゃんとお祖母ちゃんに会えますように。

 そう心の中で呟く度に、私の中に濃縮されていた辛さが雪解けのように形を失っていく。それに、鎌倉の空気は茫洋としていて、憂鬱な頭痛もじわりと外に溶け込んでいくのが感じられた。

 鎌倉っていいな、と私は思った。でも、そんなにいい環境にいてすら私の頭の中はおかまいなしで、荘厳な大仏を見上げながら、私はいつまでもぐるぐると考えごとをしていた。私という人間はどんな時も何かを考えずにはいられないのだ。私は思った。

 小さかった頃、よく考えていたことがある。今私が死んだら、だれが悲しんでくれるだろうかってこと。お父さんやお母さんはきっと悲しむだろうな。幼稚園に通ってる弟は、うまく理解できないかもしれない。あ、でも、希美香はわんわん泣いてくれそう。そして、お祖父ちゃんとお祖母ちゃんも。

 そんなことを考えていると、いつも幸せな気持ちになれた。

 でも、実際にお祖父ちゃんとお祖母ちゃんが死んだと聞かされた時、私はちゃんと悲しむことができただろうか。自分が死んで悲しむ二人をさんざん想像しておきながら、いざ私がその立場になると、お葬式でも泣けなかった。

 悲しくなかったのかと問われれば、違うと言える。だって今は悲しんでいる。いや、悲しんでいるというより、苦しんでいるのかな。ああ、そうだ、苦しみは結局自分によるもので、悲しみとは違うのかもしれない。私が苦しんでいるのは、ああお祖父ちゃんお祖母ちゃん、私に冷たい扱いされてかわいそうだったなあ、なにか私としたいことがあったんじゃないのかなあって思うからじゃなくて、ただ私が伝え損ねたことがあるように感じるっていう、身勝手な後悔によってなのかも。

 でも、伝え損ねたことってなんだろう。

 わからない。実体のない後悔ばかりが募って苦しい。苦しいのだ。でも、悲しくはないのかな? 私はそんな、とんでもない薄情者だったのかな?

 あはは、自分のことばっかりなんだ。いつも。オールウェイズ自分自分自分。

 最低だ。

 ああ、ホント最低! 信じられないくらい最低!

 私はなんだかとても苦しくなって、立っているのすらちょっとしんどいくらいだった。胸はキリキリ痛むのに、頭が勝手にぐるぐる煮えて、全身に噴き出す汗が気色悪い。次第に呼吸が激しくなっていくのが、自分でもはっきりと感じられた。

「——ちょっと、ねえ。ちょっと!」

 強く袖を引かれて我に返る。振り返ると、希美香が眉根を寄せて私を睨んでいた。

 私は言った。

「あ、ごめん。……ぼうっとしてた」

「嘘。ねえ、あたし言ったよね。一人で考えごとしないでって」

「……ごめん。でも、やっぱり無理かもしんない」

「無理って。……ちょっと、もう、泣かないでよ」

 え、と思って頬に触れると、涙らしき水滴が指を濡らす。ああ、これはきっと悔し涙だ。やっぱり自分のことだけなんだ。そう思うと、視界が滲むほどの涙が急にどばっと溢れてきた。私は言った。

「ねえ希美香、私ね、最低なんだ。気づいちゃった。……お祖父ちゃんとお祖母ちゃんに会いたいのはね、ただ、自分が、自分がすっきりしたいだけなんだって、……二人のことなんて、っふ、なにも、う、ううう……」

「え、え? なに?」

「私、お祖父ちゃんとお祖母ちゃんに会いたくて、っふ、うう、そう、お祈りしたの。……でもね、うう、っふ、ふ、二人に会って、なにを言うかとか、そんなことはなにも考えてなくて、……ただ! っふ、ううう、ぞう願ってると、わだしが! 私が気持ちよくて、……だからもじ会えたら、もっど楽になれると、ぞう、おもっで、……うう、くるじいから、はやくらぐになりたいって、ぞ、ぞれだけで……うう、っふ、うううう」

「それでいいじゃない香織。それのなにがダメなの?」

 希美香は私にハンカチを渡し、頭をそっと撫でてくれた。なんて優しいんだろう、と私は幼馴染に対して恐縮した。だって、大仏の前でこんなに泣きじゃくってる私と一緒にいてくれて。そんなの絶対恥ずかしいのに。

 ああそれに、と私は思った。お願いごとの内容、希美香にばらしちゃったよ。あーあ、もう叶わなくなっちゃったかなあ。あはは。っていうか、やっぱり叶ってほしかったんだ。浅ましいなあ、私。

「ごめんね」と私は言った。「恥ずかし恥ずかしだわ、……ホント」

「いまさらよ」と希美香は笑った。「疲れたよね、こんなに歩いて。駅に戻って荷物とったら、宿で休もうか」

「うん」

 そう頷いてから泣きやむまで、希美香は私の頭を優しく撫で続けてくれた。私は髪が乱れるのも気にせずに、その温もりを嬉しく思った。

 斜陽の滲んだ大仏の上を、数羽の鳩が小さく旋回していた。



 翌朝、私達は宿から江の島に移動していた。

 弁天橋から眺める海はしんと凪いで、朝陽をパチパチと弾かせている。砂浜には犬を散歩させている人もいて、希美香は犬を見かける度に必ず目で追っていた。

「そういえば、希美香の家も犬を飼ってたね。ヒカリ、懐かしいなあ」

「……うん」

 上の空な返事をもらって、どうしたんだろう、と私は思った。今日はなんだか希美香の方も、心ここにあらずな感じだ。昨日の自分もこうだったのかな。だとしたら反省しなければ。

 私は訊いた。

「今日も寺社巡りする予定?」

「……嫌?」

「え、嫌って、別にそんなこと言ってないよ」

「でも、昨日はお願いごとの内容でわんわん泣いてたじゃない」

「あれは、まあ……」

「思うけど、ちょっと繊細すぎんのよ、あんたは」

「……うん、ごめん」

 しおらしく謝ると、希美香はくつくつと肩を揺らして言った。

「まあ、今日は普通にデートスポットを廻ろうか。神社や寺はなし」

「え、いいの?」

「いいよ。昨日は無理に連れ回しちゃったしね」

「おお、やったー! うはうは」

 鳥居をくぐると、賑やかな仲見世通りに迎えられて否応なく気分が高揚する。私ははしゃいだ素振りでさりげなく希美香の手をとった。希美香も自然に握り返してくれて、ふふ、ようやく考えごとをやめたみたいだった。

 そして、その日のデートはとても満足できる内容だった。

 私達は仲見世通りの物色を済ませると、江島神社の三社を素通りしながら、和洋折衷の独特な庭園、江の島シーキャンドル、龍恋の鐘、岩屋、稚児ケ淵と順に堪能していった。シーキャンドルからは富士山が見えてテンションが上がったし、龍恋の鐘ではカップルみたいに鐘を鳴らせて嬉しかった。それに、なんと言っても岩屋の空間は神秘的で、ぞくぞくと背筋に興奮が走りっぱなしだった。江の島はまさに霊験あらたかで、そういったエネルギーが岩屋や、それこそ島全体のいたるところに充満していた。だからただのデートのために廻るのはもったいないかなとも思ったけど、この雰囲気を楽しめただけでも今日は来てよかったと私には思えた。

 でも希美香にはそうじゃなかったみたいで、帰り際にもう一度江島神社の辺津宮のそばを通った時、彼女は足をとめて少しぐずった。

「別に、行ってきてもいいよ」と私は笑った。「参拝してきなよ。私はここで待ってるから」

 希美香は首を横に振った。

「ねえ、香織も一緒に行かない?」

「え~、私はもう希美香にお願いごとばらしちゃったし、別にいいよ」

「そんな、あれは適当に言った迷信だから気にしないでよ」

「そうなの? なら最初から言わないでほしかったなあ、なんて。あはは」

「……ごめんね」

「いや、なんか、私の方こそごめん。もう、いいから行ってきなよ~」

「ううん。あたしね、香織にそのお願いごとを諦めてほしくないの」

「はあ? え、諦めるもなにも、最初から不可能だし。ていうか、ホントに身勝手な願いごとだしさ。だからもう、……やめてよ」

「やめない。香織、あのね、昨日言ってたお願いごと、全然いいとあたしは思うよ。死んだ人は死んだ人だし、普通だったら二度と会えない。だからそれに関して残るしこりみたいなものを、どんな形でもすっきりさせようとするのは、今生きている人にとって当たり前だし、大事なことだって思う。いつまでもいない存在に振り回されてちゃ、たまんないもの」

 その言葉には、なんだか希美香の色んな実感がこもっているように感じられた。でも、と私は思った。それは希美香の経験に照らし合わせてあるだけで、今の私の心情にはそぐわない。今、私がほしいのは、そういう言葉なんかじゃない。

「違うんだよ。私ね、お祖父ちゃんやお祖母ちゃんが死んだこと、多分悲しくなんてないんだ。悲しくないから、二人はきっと慰められなくて、それが辛くて昨日は泣いちゃった。……でもね、苦しんではいるからさ。私が苦しんでいることで、二人が慰められてくれたらいいのにって、今はそんなことまで考えてる。だからお詣りはできない。ごめんね」

「……香織、二人に嫌われてたの?」

「わかんない。でも、恨まれててもしかたないよ」

「そうかな」

「そうだよ」

「でも、ある人が死んで悲しいっていうのは、その人が死んだことで、できなくなったことを偲んで後悔して、苦しむことも含んでるんじゃないの?」

「あはは、違うよ。その二つは全く別ものじゃん」

「別ものね。……嫌だな。だって、あたしも苦しんでるだけだから」

 突然胸のうちを吐露した希美香に目を瞠ると、彼女は私に向き直って言った。

「あの時、なにを願ってたのか教えてあげる。あたしね、もう一度ヒカリに会いたいの」


 ヒカリは柴犬の雑種の女の子で、私達が小さい頃から希美香の家で飼われていた。私にはついぞ懐かなかったけど、私と希美香と希美香の妹の怜美ちゃんの三人で、よく散歩に連れて行ったことは憶えている。ヒカリはいつもぐうたら寝てるばっかりだったのに、希美香との散歩の時だけは彼女の周りを溌剌と回ってはしゃいでいた。

 ヒカリは私達が同じ大学に合格して地元を離れる前に急に調子を崩して、そのまますぐに逝ってしまった。その時に希美香が悲しんでいたイメージはあまり記憶にないけれど、あれ以来、彼女はペットや動物の話を露骨に避けるようになった。


 結局、辺津宮には希美香だけが参拝して、私達は宿に戻った。お風呂に浸かった後、夕食をとり、並べられた布団に潜り込んで、希美香はヒカリの話をしてくれた。

 死を悟った猫にはよくある話だが、犬のヒカリもその時になると、飼い主の前から突然すうっと姿を隠し、いなくなってしまったらしい。そのせいで、異臭に気づいてヒカリの死体を発見した時には、その体に既に大量のうじが湧いていたらしい。

「最初に見つけたのはあたしなんだけど、あんまり気持ち悪い光景で、なんだかヒカリとの思い出ごと穢されたような感じがしたの。ヒカリのことを思い出す度にさ、あの光景もフラッシュバックしちゃって。……そのせいかヒカリが死んで悲しいって気持ちも起こらなくて、嫌だったな。父さんが死体の処理を業者に頼むぞって言っても、怜美は嫌だ嫌だって泣いてたけど、あたしは、いいからさっさと引き取ってもらうか捨ててきてよって本気で思ったし、実際にそう言った」

「……うん」

「あの時は、怜美が凄い剣幕であたしに飛びかかってきたなあ。姉ちゃんひどいよ、ヒカリと一番仲良かったのは姉ちゃんじゃん、なんでそんな態度をとるの、ヒカリが可哀想だよってうわんうわん言ってた。でもその時は心が冷めてた一方で、なんでかよくわかんないけど異常にイライラしてたから、怜美を突き飛ばして言っちゃったの。じゃああんたが一人で埋めてきなさいよ、あたしは嫌よ、あんな汚いうじ虫まみれの死体に触るなんて絶対に嫌……って。別に本当にそう思って言ったわけじゃなくて、いや、少しは思ってたけど、やっぱり怜美を傷つけたかったんだと思う。そしたらね、庭で新聞紙にくるまってたヒカリが突然もぞもぞと動き始めたの」

「……それって、もしかして死後硬直で動いているように見えるっていうあれ?」

「多分、ね。どうだろう? でも、それにしては時間が経ってたし、わからない。びっくりしたけど、だれも確かめようとしなかったから。それぞれ、理由は違うと思うけどね」

 希美香はそこで間を置いて、顔をしかめた。

 その後、ヒカリは特殊な清掃業者に引き取られて、最初はひどく落ち込んでいた怜美ちゃんも、少しづつヒカリのことを忘れていったらしい。でも希美香だけはいつまでもヒカリのことを引きずって、ある日、博物館の中で偶然ヒカリに似た柴犬を見つけた。

「そもそも、博物館の中を犬が歩いてる時点でおかしいでしょ? でもだれも驚いてる様子がないし、しかたないっていうか、思わず後ろを追いかけたの。で、ついて行くうちに、あれ、この子ヒカリに凄い似てるなって。でもその子は後ろを向くこともなくぐんぐん先へと進んでいって、出口に着いたら、忽然と消えていなくなってた。それから遅くまであのあたりを探してみたけど、結局あの子には会えなかったな」

「…………」

「ずっと、今でもね、あの子を探してるみたいなところがあるの、あたし」

 希美香の声は少し震えていて、つられて私も泣きそうになった。彼女はおずおずと手のひらを私の頬に添わせて、言った。

「ねえ、香織って、ちょっとヒカリに似てるよね」

「え、そう?」

「うん。ヒカリが最後まで香織に懐かなかったのってさ、自分に似た他の女の子にあたしをとられたくないって、そんなライバル心を燃やしてたからじゃない?」

「え~。そんなに似てるかにゃあにゃあ」

「似てる似てる。ぐうたらで甘えたがりだし、繊細だし、犬顔だし。少なくとも猫は違う」

「……そっか~、あはは。ねえ、だからこの頃ずっと私に優しかったの?」

「ははは、かもね」

 希美香は胸のうちを明かしてすっきりしたのか、そのまますぐに寝入ってしまった。私は希美香の言ったことをまたぐるぐると考えてしまい、遅くになるまで寝付けなかった。

 その晩、希美香の話の影響か、私は博物館の夢を見た。

 それはとても怖い夢で、博物館の壁も床も赤いカーペットに覆われていた。そこに陳列されているのは腕や足などの人体の一部か、肝臓や腸などの臓器ばかりで、私は恐ろしくなってそれらの間を急くように通り過ぎ、やがて二階からのエスカレーターに差しかかった。上りのエスカレーターの手すりに手をかけると、下りのエスカレーターの段の上に、人の首が一個ずつ置かれているのに気がつく。その首は下の段から、

 お父さん、

 お母さん、

 そして弟の健。

 私はひっと悲鳴をこぼし、慌ててその場から立ち去った。必死に走って角をいくつも曲がるうちに、気づけば出口に辿り着く。

 そこに、お祖父ちゃんとお祖母ちゃんがいた。

 私は言った。

「ここにいたんだ、よかった。ねえ、二人とも早く逃げよう? なんか、お父さんもお母さんも健も、みんな殺されてバラバラにされてるの。ここ、すごく怖いよ」

 すると、お祖父ちゃんが落ち着いた声で言った。

「それは怖かったね。でも、もう大丈夫だよ。みんなすぐに元の姿になって、助けに来てくれるからね。香織はここで待っていなさい。お祖父ちゃんとお祖母ちゃんは、先に行くから」

 その時突然、私はどうしようもないほどの激しい切なさに襲われた。胸がギュウッと締め付けられて、叫びだしてしまいそうなほどの切なさ。

「行かないでよ!」と私はとっさに口にしていた。「愛してるから、そばにいてよ」

 二人は困ったような顔をして笑うだけだった。そして、ゆっくりと出口をくぐって行ってしまった。

 それから、私はしばらく呆然とその場に立ち尽くしていた。よっぽど二人を追いかけようかと思ったけど、それ以上進むべきじゃないということもやはりどこかでわかっていたから。

 やがて忙しない足音と共に、お父さんやお母さんが私を探す声が聞こえてきた。

 声が近づいてくる。


「香織」


 目が覚めた時、私の目からはとめどなく涙が溢れていた。

「香織」と背後から希美香の声が呼んだ。

 私は慌てて目許を拭って、振り返った。

 半分起き上がった希美香が、泣き腫らした目をして言った。

「あのね、夢でヒカリに会ったの。あたしは博物館にいて、そこで家族とかがバラバラにされて展示されてる夢なんだけど。すごく怖くて、必死に出口に走ったらヒカリがいて、体にはちょっとうじが湧いてて、……でも、構わず抱きしめたの。抱きしめられた……」

 そう言うと、希美香はぽろぽろと涙をこぼしてしゃくり上げた。私は起き上がって希美香の首に手を回し、背中をぎゅっと抱きしめた。希美香がヒカリに会えて、ホントによかった。そう、強く強く思った。私は希美香に私の夢の話をして、そして言った。

「これ、きっとただの夢じゃないよ。だって二人が同じ晩に、同じ夢を見ているんだよ? そんなの、絶対普通じゃないでしょ」

 私の肩で希美香が頷く。私の背中に回された希美香の手が繋がるあたり、そこに悲しみが宿っていた。お祖父ちゃんとお祖母ちゃんを失った悲しみだった。私はその静謐で清らかな感情を宝物のように胸に抱いて、思った。

 私達は、生きていく中で必ず言葉や態度にして伝えなきゃいけない、そんな類の思いをいくつか抱えていて、それを伝えないと、思いはやがて私達を蝕み、苦しめ、正常な心の動きを害してしまう。私を蝕んでいたのは、伝え損ねていた「愛してる」もろもろだったのだ。あるいは希美香みたいに態度で示せればそれでよかったのかもしれないけど、あの夢の中で、私はベストな行いをした。そう信じたい。

 数分もすれば、お互いに抱き合ってるのが照れくさくなって、私達はぎこちなく着替えや出かける支度をした。

 それから私達は、希美香の提案で東京まで足を伸ばし、財布の許す限り観光を楽しんで、結局アパートに戻ったのは三日後だった。

 希美香とは、最寄りの駅の改札で別れた。

「明日にはちゃんと大学来てよ」と希美香は言った。「あんたがいないと、一緒に昼食とる相手がいないんだから」

「他の友達と食べなよ」と私は笑った。「それにいまさら学校に行ってもなあ、……出席が」

「ちゃんと代筆してあげてるって」

「いやいや、この一週間は二人とも休んでるじゃん」

「それはしょうがない」

 ふんす、と開き直る希美香が可愛くて、私は伝えた。

「ねえ希美香、愛してるよ」

 少しおどけた口調で、でも、伝えたいと思ったのだ。伝えられるうちに。

「ははは、なんか重いな」

「え」

「いやだって、友達に言う台詞じゃないでしょ、それ」

 え、え、え。私は急に恥ずかしくなって、うわあ~なんでこんなこと言っちゃったんだ、もう今すぐ帰りてえ……と小さくなった。希美香はくつくつと肩を揺らして、そっと私を抱き寄せる。

「あたしも、……あ~、あ、あー……」

「なんだよ」

「ははは。えーっと、……うん、そうだ。明日来たら言ってあげる」

「えぇー……」

「はは、じゃあまた明日ね!」

 そう言って強引に体を離したのに、私が改札を抜けると、希美香はそこに佇んだまま名残惜しげな目でこちらを見つめていた。振り返る度、胸の前で小さく手を振って。

 そんな顔するなら、素直に言ってくれればよかったのに、と心のうちで私は笑った。あはは、まあ大丈夫だよ。明日にはまた会えるんだからね。

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