第3話
◆
百の頭の中はいまのところ「推しの情報収集をしたい」で埋め尽くされている。会社では金川に嗅ぎつけられる可能性があるのでしていないが、土日は探偵が送ってくれた盗撮写真を待ち受け画面にしていた。寝ぼけ眼をこすりながらiPhoneをタップし、写りもよくないその冴えない顔に「おはよう」を言い、百の朝は始まる。
今日は時雨――本名・
時雨は目立つ格好をしているので、百も多少服装に気を遣う。十月なのに大阪はいまだに暑い日が続いている。黄緑の薄いカーディガンにするか、今年買ったばかりの長袖のワンピースか少し迷い、ワンピースのほうに袖を通した。
待ち合わせは大阪駅ルクア前に十時。百は十分ほど前に着いた。雑踏をぼうっと眺めていて、でも時雨が近づくと、すぐにわかる。
時雨の恰好はお姫様だ。フリルが華美な純白のドレス。ホワイトロリータ。ブーツもどこで揃えるのかレースで飾られた特別仕様だ。
老若男女さまざまな人が行き交う大阪駅で特別浮くということもないが、それでもあまり目にしない恰好をしている。
「あ、百! 久しぶり、待った?」
百を見つけたとき、綺麗に白く塗られた顔面がにこやかな笑みを浮かべる。白い手袋を嵌めた手を振られると、アイドルとか芸能人とか特別な人にファンサされている人みたいな気分を味わえる。
百も気軽に手を振り返す。
いまのところ、百の友達のなかでロリータを好んで着る友達は時雨だけだ。ちなみに時雨はチャイナ風ロリータや流行している中華ゲームのコスプレもするが、全部Xに写真を上げるだけで、着て歩くことはない。時雨曰く、「浮気なんてしない」とのことだ。Xに上がっているそれらの写真はものすごいいいね数を誇るのに、着て歩いたり、コスプレイベントに出て行かないのは少しもったいない気がする。
「全然待ってないよ。今来たところ」
「はあ良かった~。てか今日はあの紅茶専門店が良すぎたから広めたいだけで、お代は持つから。好きなだけ買っていいからね。ほんとさ、はちみつルイボスティーが水出しもできて最高なのよ」
「そうなんだ。水出しできると便利だよね。出勤前に水筒に入れておくだけでいいし」
適当に話を合わせながら、二人で歩き出す。
時雨の持っているバッグは、表側が透明になっていて、そこに大量の缶バッジがつけられている。缶バッジの絵柄はとある漫画の女性キャラだ。
ギャルっぽい見た目で、明るくてかわいい、理想の高校生。
百もそのキャラクターは知っていた。時雨からBlu-rayを押し付けられて、強制的に学習させられたともいえる。
その漫画は推せ推せとばかりに、公式からグッズが大量に出回っていて、東京や心斎橋でコラボカフェを展開している。公式からの供給数には目を瞠るものがある。
時雨は連載当初からのファンだ。その女の子のキャラクターは時雨の憧れそのものだけど、百にとっては時雨だって、その女の子みたいに輝いて見える。
好きな服を着て、好きな職業に就いて、好きに生きて。
加えて、推しも二次元。
いいなあ、と百は思う。時雨の推している女の子はそりゃあ漫画だから、連載終了はあるけれど、二次元の女の子のブランド力がスキャンダルで落ちることはほぼないと言っていいだろう。作者がなにか事件を起こす可能性は絶対ないと言えないけど、だいぶ低い。百の推しているVTuberとは違う。VTuberはガワはともかく魂は生身の人間だから、スキャンダルが上がるかもしれない。スキャンダルがあれば名声は失墜し、最悪の場合引退だ。引退しても転生する人もいるけれど、百の推しは性格的に争いごとを好まないから、そんなふうにして引退したら、きっと転生はしないだろう。もう二度と会えなくなってしまう。百は会える方法をひとつ持っているけれど、ふつうのファンだったら、永遠のお別れだ。あまりにも寂しい末路すぎる。
「……どしたの?」
「なんでもないよ」
笑って誤魔化す。
痛バを持つ時雨がなぜだか眩しくて直視できない。
紅茶専門店ではたくさんの紅茶をじっくり時間をかけながら試飲した。時雨のおすすめに従い、はちみつルイボスティーと、百が気に入ったチャイ味のルイボスティーを選んだ。
「絶対気に入ると思うから、飲んでね」
紙バッグに入ったそれらを百に渡すとき、時雨は百に笑いかけながらそう言った。多分心からの笑みだった。
ルクアの上階にあるスタバで、百と時雨は休憩することにした。スタバの周りにはぐるっと蔦屋書店が入っていて、席じゅう本に囲まれている。本好きにはたまらないのかもしれないが、あいにく、百は本はたまにしか読まない上に電子書籍派だ。
「それでさ、最近、家はどうなの?」
「いつも通りだよ。電話でも話したけど、お母さんは仕事辞めろっていつも言ってる」
「もう私たちも三十なんだし、自立しようよ」
自立
また嫌な単語が出てきたと思いながら、ストローでフラペチーノを吸い上げる。
「経済的自立は果たしてるんだからさ、一人暮らししてみればいいじゃん。そしたら彼氏もきっとできるし」
「彼氏なんていらない。推しがいればいい」
「本当にそう思ってる? 推しは寂しい夜に通話してくれないし、困ったことがあっても相談に乗ってくれないし、部屋の電球を交換してくれないんだよ? 結婚もしてくれないし、なんの責任もとってくれないし、むしろ私たちを溺れさせるだけ溺れさせて無責任だし、私たちの愛をわかってくれないし。いや百のことね。私のは二次元だから、最初から私のことを愛してくれるとかまったく思ってないし」
「…………それでも、私は推しがいてくれればいい。見返りはいらない。与える愛だけが真実の愛だと誰が言ったんだっけ? ともかく、そうなの。私にとってはそうなの」
「推しを本当に愛してたら、愛というものの正体を理解できているってことで、お母さんの歪んだ愛にも本音では気づいてるんじゃないの」
「う……痛いところ突くなあ。気づけても、押し返すのが、もう無理なんだよ。私ひとりじゃ、なにももう正せない」
父親が浮気して出て行ったことがはじまりだった。母親はそのあと精神を病んで絶食してお風呂にも入れなくなって深夜徘徊して、やっとそういう状態から回復したと思ったら、外の世界を憎んで百の行動も逐一監視するようになっていた。
東北に住んでいるという情報以外を知らない、一度も会いに来ない母の妹は、電話口で百に「母は父を愛しすぎていたのだろう」と言った。
「外は怖いところなの」
「いつか百も外の世界の悪い人に連れていかれてしまうんじゃないかって怖い」
と母親はいつも言う。出勤前にもそう不安げな顔をして百を抱きしめる。
父親が出て行ったのは、もう百が小学三年生のころからの話だ。そこから何年経つ? もう母親の精神のバランスが正常になり、百と適切な距離感で接することができるようになるなんて希望は持っていない。
中学のとき、耐えかねて家出をしたことがあった。時雨の家にいたのだが、それを母親に伝えることはなかった。結果、母親は錯乱した様子でサンダルにエプロン姿で夜中じゅう百を探し回り、警察に保護された。母親はそのまま病院に罹ることになり、今は精神科の薬を数種類処方されている。
「さすがに百のお母さんを私は殴れない。私と一緒に暮らす? 私の親はもう私に干渉してないし。深夜まで配信で喋ってるからうるさいかもだけど」
「やだ。時雨と一緒に暮らしたら、男とっかえひっかえする上に家に連れ込むでしょ。まじむり」
「あはは、だって毎回ホテルは高いんだもん」
「うげえ、そういう話だめだって知ってるくせに」
吐く絵文字の顔を真似して、時雨に笑われる。
時雨とは小学四年生のときにとあることで助けてもらって以来、仲良しだ。こういうことくらいなら言い合える。百の持っている鍵の秘密は、言えないけど。
「ともかく、百は自分の人生を大事にしないといけないよ。誰も人生の責任をとってくれないんだから、誰も恨まず済むような生き方をしないと」
「自己啓発系のYouTuberみたいなこと言い出して……」
「だって真理じゃない? 人生一度しかないんだから、好きに生きて、好きな人を愛して、好きに死のうよぉ」
語尾に音符でもつきそうなくらいの明るい口調で、時雨は言う。
簡単に言ってくれるけど、それができない人がどれだけいるのか。現状が苦しいと思う。助けてほしいと思う。けど百の人生を救ってくれる人は絶対に現れないのだ。自分で自分を救わないといけない、そんなこと百だって三十年間生きてきたのだから知っている。知っているけど、できない。難しい。途方もなく。
「好きに生きてって言うけどさ、ガ……ガチ恋についてはどう思うの?」
喘ぐように漏れた声がそれだった。
「え? ガチ恋? 配信者からしたら、めんどいだけだよ。配信者なんてコンテンツなんだから、ファンにはコンテンツを楽しむ気でいてほしい。それに絶対叶わないよ。無理無理。あ、ガチ恋ストーカーとか最悪だね。あれ怖いよほんと。行為もそこまで昂ってる気持ちも、すべてが怖い。配信者の素の顔なんて全部ストーカーの妄想じゃん。リスナーに私の素の顔がわかるはずないって思いながら配信してるもん、私」
「…………」
目の前がさあっと翳った気がした。
すでにわかっていたことだった。ネット上には推しが交際バレして炎上し、悲鳴をあげるガチ恋オタクや、住所などを特定して突撃して法廷で推しとオフ会することになったガチ恋ストーカーなど、さまざまな失敗例が散見される。
「そうだよね……、そうだよね」
同意したかっただけなのに、自分に言い聞かせているみたいになってしまった。
百の行為も気持ちも全否定された。探偵に依頼したことは、もともと許されることではないと理解していたが、配信者でもある親友の言葉で否定されると、胸の奥にぐさりとガラスの破片が刺さったようだった。
時雨と話している間じゅう、胸は痛んだ。
「今日はありがとう」
十八時が土日の門限なので、少しあたりが暗くなった頃に解散することにした。
「ねーこの年齢で門限あるのおかしいよー。一緒に暮らして自堕落な生活しようぜ。っていうか百も配信者デビューとかしない? 声かわいいからいけるよ」
「やだよ。門限はこれでも緩くなったほうだしね」
「あー高校生の頃は門限は十六時だったもんね? 笑っちゃう」
ルクアを出て、大阪駅や梅田駅に向かう人でごった返す人混みの中で、急に時雨は「仰げば尊し」を歌いだした。周りの人が一瞬ぎょっとこちらを警戒したように見ることも、時雨は気にしない。隣にいる百だけが肩身が狭くなる。いつも時雨はこうだ。とんでもない目立つ格好に、頭のネジが外れているかのような非常識な振る舞い。話せば普通の知能を持っているとわかるのに、むしろ普通より頭がいいような気がするのに、どこか社会に普通に馴染めないし、馴染もうとしない。
高校の頃に百がいじめられて上履きを隠されたことが、時雨にばれたとき。時雨は百の上履きを隠した女子生徒を放課後に教室に呼び出し、平然と殴った。女子生徒は床に尻から座り込んで、鼻血を垂らしていた。教師を呼ばれる前に百と時雨は二人で逃げ出した。河原で百は泣きながら体育座りをし、時雨は川に石を投げこみながら「荒城の月」を歌っていた。酷い気分に輪がかかるので、やめてくれと怒ったら、今度は「うれしいひなまつり」を歌いだして、それも怒った。怒ったあとに時雨の顔を見つめていたら急に百は笑えてきて、時雨もなぜか面白がって、二人で腹を抱えて笑い合った。そのあと時雨は停学になった。
自由人。時雨を評するのに、その名称がふさわしい。時雨はきっと死ぬときに誰も恨まない。
時雨みたいに自分の軸がある変人として開き直れたら、どんなに良かったか。
いつも百は一緒には歌えない。ただそばで突っ立っているだけ。
配信者はエンターティナー。なにか突出した魅力がないと、やっていけないのだという。時雨も様子がおかしいから、配信者としてやっていけるのだ。
凡人(リスナー)は配信者が提供するエンタメを、美味しく消費することが許される。逆に言えばそれしか能がない。凡人は社会の守るべきルールの範囲内で、VTuberのキャラクターを楽しみ、応援する。それが正しいVTuberの推し活。
それがわかっていても、それでもやっぱり百は止まれない。母に抑制されてあふれ出そうなたくさんの想いが、放流されるときを待っている。誰かに受け止めてもらえないと壊れてしまう。誰かに注ぎ込まねば、百の頭がおかしくなってしまう。
百は主人公にはなれない。いじめにも母にも抵抗できない百みたいな人間は、無理。主人公になるべきは時雨みたいな人間で、百は、報われないただの人として生きて、死ぬ。
――でも、ただの凡人でも、幸せを望んじゃいけないのかな?
帰りの電車の中で、百の脳裏にたくさんの想像が駆け巡った。雨が降る帰り道、傘を忘れてしまった百を、恋人が迎えに来てくれるストーリー。休日にすこし遠出してバラ園に行くストーリー。どれもがドラマや映画などで見たn番煎じといったふうな妄想だったが、百を幸せな気分にしてくれた。
時雨と会っている間も、母親から数十件のLINEのメッセージが届いていた。既読をつけないまま、百は座席に座って目を瞑る。
もも、なにもできない子でごめんね。お母さん、はやく元気になってね。
覚えているのは家のなかすべてが暗かったこと。かたくなってしまった食パンをジャムも塗らず食べた後、ランドセルを背負って、百はその手紙を母親の枕元にそっと置いた。昼夜問わず寝ている母親は、百の行動に気付かず沈黙していた。あの手紙は百が帰って来た時にはなくなっていたような気がするけど定かではない。
あのころ母親が世界で一番大事な人だった。それ以外にいらないというくらい、母親が大好きだった。
いまも母親がいなくなってしまうことを考えると、きゅうっと胸が締め付けられる。深い穴の淵に独り立たされているような、孤独と恐怖を味わう。
壊れていても、いっしょにいられることを、喜べばいいのだろうか。
――窒息しそう。
そう思う。
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