第2話

 スマホがわずかに振動し、メッセージを知らせる。開いてみると、時雨だった。「最近どう?」という端的なメッセージ。「いつも通りだよ」と送ると、すぐに既読がつき「仕事は?」「してる」「お母さんは?」「仕事やめろってうっさい」「いつも通りだね」とメッセージが続く。

 うがいをして歯磨きを終える。

 廊下に母親の影がないのを確認してから、百は時雨に通話をかけた。数コールで時雨は応答する。母に聞こえないように小声で百は話しかけた。

「時雨と話すの一か月ぶりくらいかな? 久しぶり」

「久しぶり、元気してた?」

「うん、まあまあ。時雨こそ仕事どう?」

「最近忙しい」

「もうとっくに辞めてるかと思った」

「なかなか予想以上に儲かるからやめられない」

 時雨は高校卒業以来、働いたり働かなかったりを繰り返し、短期で夜職をしているときもあったが、最近は配信者で儲けているらしい。配信者。百の推しと同じ職業。百の推しも時雨も、YouTubeでゲーム実況をしたり歌を歌ったり、雑談配信をして、投げ銭で稼いでいる。百の母親は時雨に対して厳しい目を向けており、「そういう商売って水商売といっしょでしょ?」などと言う。百も母と同じことを思っているが、配信者は夜職よりは明るい健全寄りの仕事に感じられる。どれだけ稼いでもどちらも住宅ローンはおりないところも一緒だ。とはいえ、ローンなんて住宅と車以外はほとんど必要ないもので、大阪に独身で暮らしている限り、どちらも縁のないものだ。

「今度遊ぼうよ。大阪駅に紅茶の専門店できたの知ってる? いろいろ試飲させてくれるらしいよ。そこ行ってみようよ」

「いいね。あ、扉開ける音した。そろそろ。またね」

 急にも思われる速度で話を終わらせ、百は通話を切った。すぐ後に、母親が脱衣所に入ってくる。

「あ、よかった。まだお風呂入ってなかったんだ。お母さんと一緒に入ろう?」

 まだお風呂に入っていないのを知っていて、やって来たんだと百は察していたが、言わずにいた。百の母親はいつもこうだ。百も嫌とは言えず、流されて、服を脱いだ。

「最近乾燥するわよね。全身に塗れる保湿液買ってこようと思ったんだけど、フローラルな香りのほうがいいかしら?」

「無臭がいい」

「お母さんはフローラルなほうがいいわ。あ、二つ買ってきたら、お互いに使いっこできるじゃない。使ってみたら、百もフローラルなほうがいいってなるかもしれないし。きっとそれぞれ買ってくるのがいいわ」

「お金が勿体ないよ」

 浴室に入り、頭を洗われながら、受け答えをする。もはや百が何もしなくても、母親が腕をとったり足を持ったりして洗ってくれる。

 幼いころから母と一緒に風呂を入るのは習慣だった。大人になってからは不定期になったけれど、たまにこうして一緒に入る。時雨に言ったら絶対に「いまだに?」と笑うから言わないでいる。さすがに百も三十歳で健康な母娘が一緒に風呂に入るのは異常だとは知っている。拒否をした時期もある。でもそうすると決まって母親は泣くのだ。母親は外の世界への警戒心の高さゆえか、百の身体に怪我や変わったところがないか確かめたがる。風呂というのは母親が安心するための検査だった。ひよこのオスとメスを仕分けるのに、ひよこをひっくり返して見るけれど、それと同じようなもの。

 もしも百が明日退勤したあとに、髪を真っ青に染めたら、母親の顔も真っ青になるに違いない。震えて泣き叫びそうになりながら「非行するなんて、なにか飛んでもない目に遭ったんでしょ? お母さんに話してごらんなさい。お仕事がつらいなら、もう辞めてしまいましょう?」と問い詰めてくるだろう。その様が容易に想像できて、百はにやりとした。

「なに笑っているの?」

「……なんでもない」

 百は再び表情筋をしめて、うつむいた。


 部屋の中は母親は検閲し放題で、出勤間際に置いたものの位置が変わっていることなどはよくある。ipadの位置もベッドからテーブルの上に変わっていた。いまさら文句を言うことはない。母親はいまはキッチンでレモネードを作成したり洗い物をしており、干渉されない自由な時間だ。

 少女趣味なピンク色のカーテンと、同色のベッドカバー。母親の趣味が光る子供部屋で、百はしばしくつろぐ。ipadの電源を入れて、YouTubeを開く。YouTubeの推しを見るのは百にとって幸福な時間だ。百の推しは、優しい声色の男性VTuber・綿凧咲めんたこさく。頭髪がピンク色なのが特徴で、住んでいる地域は明かされていないが、雑談では東京の話が多い。オラオラ系とは似ても似つかない、癒し系でのほほんと喋るのに癒される。

 ipadで綿凧咲の入浴剤の話を聞きながら、スマホで彼のグッズを検索する。事務所に所属する「企業V」である綿凧咲はイベントがあるごとにグッズが販売開始する。そろそろアニバーサリーが近いので、なにか販売されるはずだった。缶バッジは最近痛バを作るのが流行っているから、シークレットありで数種類出るだろう。アクリルスタンドももちろん。ほかのVたちのグッズを考えれば、フレグランスも出るかもしれない。

 母親は百がVTuberという「消えもの」に散財するのを快く思っていないが、グッズを消えものというのであれば、生活用品すべてにかける金が消えものだと百は説き伏せた。グッズとして手元に残るならそれは消えものではない。

 どれだけ金がかかるとしても、いい。ファンから回収された金は、事務所の売り上げとなって、VTuberの活動資金にもなるのだから、やっぱり百はお金を貢ぎたい。

 百の月の手取りは二十万程度。家にお金は五万ほどいれて、スマホ代や保険料などを差し引いて十三万ほどは自由にできる。

 推してきた期間は一年くらい。これまで百は百万ちょっとを綿凧咲に金をかけてきた。缶バッチなどのグッズはすべて陽光が当たらない棚に大切にしまってある。母親がいじることを恐れて、部屋の表には出しておけないけれど、たまに鑑賞して悦に浸る。好きな人には献身的に振舞いたい。それが架空の人物であっても。というか、百は架空の人物だとは思っていないので。綿凧咲の魂は現実(リアル)に実在するので。

 出勤用のバッグを取り出し、めんだこポーチから鍵を取り出す。この鍵は、綿凧咲と百を繋いでいて、ただのファンとそれ以上のものを分ける、唯一のものだ。

 百が綿凧咲の「リアル」と遭遇したのは、春先のことだった。綿凧咲がXのサブアカウントに上げていたブレスレットを、実際にしている人を見かけたのがきっかけだった。その日は特段疲れていた日だったので、よく覚えている。十六時くらいのことだ。電車の中で前に座っている人が、特徴的なブランドのブレスレットをしているのに気が付いた。男性はひとりだった。髪はアッシュグレーで瘦せ型、長い前髪の隙間から覗く浅黒い顔面には凸凹としたクレーターが目立つ。服装は地雷系に近いが、特に秀でて目立つところのない平凡な男性だった。オーラなど微塵も感じさせない立ち姿だったが、百は直感した。

 その男性が電車を降りた後を、百は尾行した。途中でその男性は歩きタバコをした。バニラのにおいが特徴的なウィンストンキャスターホワイト。たしか配信でもそのタバコを吸っていると言っていた。

 幸いにして尾行はばれず、百の住んでいるところからだいぶ離れた平屋が多い地域の、オートロックなどなにもない安いアパートまでたどり着いたところで、百は内心歓声をあげていた。

 そのあとは会社を半日で早退し、住人がいなさそうな時間帯に合鍵を作った。

 住所まで知ってしまえば簡単だった。あとは探偵に恋人であると偽り金を積み、本名や職場を割ってもらった。

 彼の本名は、黒星紅葉くろぼしもみじ。職場は数駅離れたところのコンビニで、百が遭遇したのはアルバイトの帰りだったようだ。最寄り駅から離れたところで働いているのは、ボイストレーニングのスタジオに近いところを選んだのだろう。

 母親に見つからないようにこそこそと行動するのは、百にとって大変だったが、楽しさも存分にあった。リスナーとVTuberは画面で隔てられている。VTuberは自分を演出し、見せようと思った部分だけをリスナーに見せることができる。その壁を暴いていくのが楽しくて楽しくてしょうがなかった。探偵から送られてきたリアルの情報を目にするたびに、みんなが知らない本当の事実を知れて、快楽に酔い、身体が震えた。

 百は好きな人のことを知ることが愛だと思っている。小学生のとき好きだった青森透あおもりとおる君のプロフィールは、彼の周囲から情報を得て、かわいいメモ帳に書き上げて勉強机の横の壁に貼り付けていた。クラスは六年間いっしょ。クラス委員長で、足が速く、勉強もできる。家族構成は両親、祖母、姉、透。誕生日は七月二十六日、血液型A型、出身地は埼玉で親の転勤で五歳のときに大阪に来た、好きな芸能人は浜辺美波、好きな人は隣のクラスの桜ちゃん、好きな場所は川原の橋の下、よく遊ぶ友達は河崎君と善野ちゃん、算数と英語の塾に週二回ずつ通っている。

 外側のプロフィールはそんなところ。六年生のときに隣の席になって修学旅行が一緒の班になった際に、直に話をしたり、いろいろと観察したりしてはメモしていた。好きなお菓子はフィットチーネグミ、桜ちゃんとは親同士の仲が良くてラウンドワンに家族ぐるみで一緒に行く仲だから好きになった、野球は嫌い、サッカーが好き、水泳はクロール以外できない、猫カフェにはよく親と姉と一緒に行くが犬のほうが好き、特に好きなのはハスキー、学校でお気に入りの青い傘を盗まれてからビニール傘に変えた。 

 これらの情報収集は本人に知られないように行っていたが、部屋の壁に堂々と貼っているのだから、さすがに百の母親は気付いた。

 百の部屋に入った母親がそれらのメモを見てから、集合写真で青森透の実物を確認して、百に「やめて」と泣きつくまで、その日々は続いた。「百はこんな野生児みたいな粗雑そうな男に穢させるわけにはいきません。絶対に近づかないで。恋心なんて今の百には不要です。お母さんの可愛い娘でいて」。

 だから青森透への告白までは至らなかった。青森透に告白したとてうまくいくとは思えなかったし、そもそも告白する気があるのかないのか百自身もよくわかっていなかったが、修学旅行終了時点で母親によって情報収集は禁じられた。二人は引き離された。それからも好きな人はできたが、母親に邪魔され、ひどいときには口論になり、いまも百は年齢=交際経験なし年数だ。

 青森透と百は今は連絡をとりあっていないが、百はInstagramで青森透の動向を知っていた。彼はいまは大阪の少々有名な企業に勤め、大学在学中に知り合った交際十年になる彼女と月に一度のUSJデートを楽しんでいる。トイ・プードルとダックスを飼っており、百が後輩の金川に見せた写真は、青森透の犬だった。祖母は亡くなり、姉は東京に嫁いで行ったという情報は同級生伝いに聞こえた。環境の変化はあるものの、生活は平穏に続いているようだ。

 青森透や時雨なんかの変化に富んだ人生と比べると、百の人生はなんて平坦なのだろうと自分で思う。百は母親の愛玩人形だ。水面下では母親に知られないまま罪を犯すようになったけれど、それを成長と呼んでいいものかはわからない。

 時折、小学六年生のあのときで百の世界の成長は終わったのだと思う。百のやることなすことあのときからの延長で、できることは全然増えていない。大人になれないまま歳だけとってしまったみたい。時雨のことは笑えない。

 

 こんなのは現実じゃないよ


 小学六年生の百に、現在の百を見せたら、そう言われそう。



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