第5話 晩春滴る 5

 ここまで来てしまえば、もはや人々の喧騒は気にならない。うるさいとも、利用しようとも思わない。

 間野春樹の挙手一投足を見逃すまいと、俺はその視線を一点に集中し続けた。

 カフェテリアは随分と冷房が効いてきたようで、少し寒いとさえ思う空気の中、間野春樹だけは、炎天下にさらされたように脂汗をかいている。

 水無川真里の無事を確認した。

 そう告げると、間野は全身から力が抜けたように腕をだらり下げ、浅い呼吸を繰り返す。

「間野さん、あなたは今、大学に来ている。真里さんは一人だと考えるのが妥当でしょう。安心して閉じ込めておける場所はどこか。それは一択。自宅しかない。他の場所だと思いもよらぬ第三者に見つかってしまいかねない。だが家ならば、身動きを取れなくしてしまえば、声を出せなくしてしまえば、それを防ぐことができる。もちろん逃げられるリスクはあるが、他の場所に閉じ込めるよりずっといい。あなたが計画的に彼女をさらったのでなければ、なおさらです」

 ゆっくりと瞬きを繰り返す間野は、ゼンマイ式の人形のようだった。

 話を聞いているという素振りさえ見せなくなった間野春樹に、俺は言葉を続ける。

「とは言え、やはり遠くに離れてしまうことはあなたもそうそうできることではない。しかしあなたは現にここにいる。あなたはおそらく慎重な人間だ。踏み込んだ言い方をすれば臆病でもある。だから何者かわからない俺を必死に探し、遂に話しかけまでした。そんなあなたが真里さんを放置して長時間家を開けることはありえない。買い物をするにも近場で済ませたいはずだ。それこそが大学敷地内のコンビニだった。コーヒーと、何に使うかは知らないがルーズリーフを買いに出た。そう遠くに出掛けられないということは、間野さんが借りた部屋はすぐ近くにあるということになる。先程も話しましたが、この大学のすぐ隣にあるアパート、ピアチェーレだ。だからこそあなたはここにいられる。だからこそ、真里さんがそこにいると推測できる」

 残酷な閑寂が広がって、店内に充満した殺気立ったものはおそらく、俺から発せられるものではない。

「そうですね、間野春樹さん」

 黒髪に隠れた双眸を睨む。

 沈黙は数秒。

 間野が口を開いた。

「……違う」

「何がですか?」俺は間髪を入れない。

「間違っている。君は間違っている」

「何を間違っていると言うんですか」

「君は……まるで私が、真里を攫ったみたいな言い方をしているじゃないか」

「違うんですか」

 間野が髪の隙間から俺を睨んだ。生気を失ったような男の雰囲気は消え、息を途端に荒くする。

「違う! あの日、真里は自ら私の元に来たんだ」

「そうでしょうね。両親と喧嘩をして家を出た真里さんはあなたを呼び出して繁華街で会った。その後の展開を考えればそこで何かがあったと考えられる。想像するに、おそらくこんなところだ。『もうお金は渡せない。アルバイトを辞めたい』……学業を優先すべきだと考えた真里さんはそう答えをだしてあなたに告げた。金遣いが派手でない真里さんが過度に仕事をしていた理由は、誰かにその金を渡していたからに他ならない」

「ああそうとも。それなのに急にアルバイトを辞めたいなんて言い出した。それは困ると、私は言ったよ。彼女は優しいから私の生活の助けになるならと全てを捧げてくれていた。なのに急にできなくなるなんてそんなの困るに決まっているじゃないか」

 間野春樹は息継ぎする間すら惜しむように言葉を継いだ。

「だから言ったんだ。一度落ち着こうと。両親との喧嘩で感情が高ぶっているからそんなことを言い出すんだ、少し頭を冷やしてくれと言ったら、彼女は頷いた。彼女は自ら家に来たんだ。閉じ込めているんじゃない。彼女は自主的にそこにいるただそれだけなんだ」

「自主的にそこにいるだけの人間から何故スマホを取り上げる必要があるんですか」

「両親からの連絡が鬱陶しかったんだ。そうに違いない」

「両親との言い合いの結果アルバイトを辞める決意をした彼女が何故両親からの連絡を邪険にする必要があるんですか。それに少なくとも、学内の友人との連絡までも断つ必要はどこにもない。特に若者にとってスマホはそう易々と他人に渡せるものではないですよ」

「でも真里は家にいる。それが全てじゃないか」

「本当にそう思っているんですか」

「そうだとも!」

 カフェテリアに響かない程度の、怒気と当惑を含んだ声だった。

 水無川真里が自主的に家にいる? そんなはずはない。そんなことはありえないと断言さえできる。

 だが間野は、本当にそう思っているのかもしれない。

 確信を持っているのではないだろう。そう思い込まねばやっていられないといった風だった。

 間野の目は訴える。俺は悪くないと。

 拉致したかどうかは分からない。こればっかりは水無川真里の証言が頼りになる。

 ただ彼が彼女を軟禁、もしくは監禁していることは状況から見ても間違いはない。

 俺は身を乗り出して間野を詰める。

「不倫関係にあったあなたと真里さんの間に何があったのか、どんな関係性であったのかまでは分かりません。だがこれだけは言える。学業と並行して週に七日もアルバイトを入れるなんて無茶を、優しさだけでできますか。体調を崩し、両親とも喧嘩をして、ようやく出したアルバイトを辞めるという決断を、あなたに相談する必要が一体どこにありますか。一人の大学生が四十代の男に金を渡すために働いていた。それが単なる優しさで済む話ですか。俺にはそうは思えないんですよ間野さん。いくらなんでも優しさの範疇を超えている」

 身体を小刻みに揺らし、間野春樹はシャツの裾を握る。

「……困るんだよ」

 間野は噛み殺すように、絞り出すように声を発した。

「会社の金ももう尽きる。私の生活費に回る金なんてもうない。一から学び直して会社を立て直そうとしたが、現実はそれを待ってはくれなかった。そこに手を差し伸べてくれたのが真里だ。真里がいなければ生活は成り立たない。私の人生には真里が必要なんだ」

 その訴えに嘘はない。

 間野春樹という男の、あまりにも身勝手な魂の叫びだった。

「……なるほど」

 テーブルの上にできた水たまりがいつの間にか小さくなっていた。それだけの時間が経ち、それでもまだ水は、なくなってはいない。

「確かに、最初は真里さんの優しさだったのでしょう。しかしいつからか、あなたはその優しさに頼るようになった。依存し、強要するようになった。違いますか」

「……」

「これはさっきもう一人の探偵から、他でもない俺が言われた言葉なんですけどね。助けてもらうことを、当たり前だと思っちゃいけないみたいですよ」

 受け売りするにも早すぎやしないかとは思うが、これが俺にできる精一杯だ。

 探偵は、罪を咎めることはできても裁くことはできない。

 スマホが震えた。メッセージが届いたのだ。一読し、向き直る。

「真里さんが警察に保護されました。つまりすぐそこに警察がいるということです。まだ遅くない。間野さん、自首してください」

 思い出す、水無川真里の母の顔を。不安と苦しみと後悔を。

 間野春樹が起こした事件は、水無川真里本人の想いはともかく、少なくとも水無川真里の家族を苦しめたことは間違いない。だからこそ俺達の元に依頼が舞い込んできた。それが全てだ。

 間野春樹は、罪を犯したのだ。

 間野は目を強く閉じて、鼻根にぐっとシワを寄せた。未だに落ち着かない鼻息と、かたかたと震える顎。膝を縦に揺らしながら、間野は拳を握る。

「君には、分からないよ。私の気持ちは!」

 テーブルを叩き、間野は立ち上がった。身体を翻し走り出そうとする。

 俺はとっさに背もたれに身体を預け、反動をつけて右足でテーブルを蹴飛ばした。

 背中を向けた間野に机の縁がぶつかり、バランスを崩した間野は椅子に足を取られ、前のめりに転倒する。

 静かなカフェテリア内にけたたましい音が響いた。

 間髪を入れず立ち上がって間野の腕を取り、頭部を手で押さえつける。

「これ以上逃げるな、間野」

 瞬間的には抵抗を見せた間野だったが、数秒と保たず抗う力が失われていく。

 ざわつく店内。何事かと覗き込んでおく客や店員に、俺は愛想笑いを見せる他にない。

「いやあ、その……大変、お騒がせしました」


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