取材対象D ――深淵の古代文書 前編
昭和三十二(一九五七)年一〇月九日。
その日、記者は、知人から連絡をもらった。
その人物はとある大学の教授なのだが、誰も見たことがない文字が書かれた、古い書物の一端を手に入れたらしい。
連絡を受けた記者は早速待ち合わせ場所へと向かった。
(取材レポート〇四番より引用)
待ち合わせ場所に指定されたのは、銀座の一等地に建つハイカラなカフェーだった。
「やあ、こっちこっち」
壁際の席で手を振るのは
「お久しぶりです」
私は教授の向かいの椅子に腰を下ろした。
知人――教授はにこやかに笑みを浮かべた。
「教授」というのは
「今日も素敵ですね」
私は教授の身なりを見ていつも感心する。
彼はとても服装に気を遣う御仁なのだ。
颯爽と着こなした背広は銀座のテーラーで仕立てたという一番のお気に入りだろう。襟元には
高級品を身に着ける理由は、教授いわく「講義をするのに、やはりそれなりの身なりをしていないと生徒が真面目に聞いてくれないから、ある種の制服」なのだそうだ。
「
ちなみにこれは私の
「突然、連絡をもらってびっくりしました」
「何か飲むかい?」
教授に促され、私はメニューを手に取った。
中を見て、あまりの高額さに驚いた。――先月、取材で訪れた地方のカフェーがかわいく思えるほど、高価な店だ。
「えーと、じゃあ珈琲をひとつ」
「食事はどうだい? 僕のオススメはピザトーストだ」
ピザトースト。私はまだ食べたことがなかった。パンにチーズを載せて焼いている……のだったろうか。
「なに、食べたことがない? ならぜひ食べてみなさい。僕がおごるから」
私はお言葉に甘えて、教授に御馳走になることにした。
教授の手元に黒地に金の装丁がされた本が一冊置かれていた。タイトルにアルファベットが並んでいるが私には何語かわからない。
「これは
教えてもらってもぴんとこない。
私は氷の浮かんだお冷やを飲みながら、早速、本題に入った。
「あの、それでご用件は?」
「そうだったね。いや、こういう話、君が好きそうだと思ったから」
教授は珈琲を飲みながら、口を開いた。
きっかけはほんの偶然だったんだよ。
先日、僕はある古い屋敷に行ったんだ。といっても誰も住んでいない廃墟だ。
そこは、私の母と縁のある旧華族の屋敷だった。
その旧華族は代々続く名家でね。明治時代に「お雇い外国人」としてやってきた
屋敷はその折に新しく建てたそうだ。
でも、
屋敷だけはずっと所有していたんだが、管理費とかいろいろバカにならないだろう、この度手放すことにしたんだ。老朽化が激しくてね。東京大空襲で一部の棟が焼けたし、もう住めないからいっそのこと取り壊そうと決まったんだ。
で、取り壊す前に、家財品を処分しがてら、好きなものを持って行っていい、と、旧華族の親類や友達にお声がかかった。
僕もその中の一人に入っていたんだ。――いや、本当は母に声がかかったんだけど、母は高齢で、そう簡単にあちこち行けないから。僕が代理というわけだな。
もちろんめぼしいものや、値打ちのありそうなものはとっくに、その屋敷の持ち主が回収したよ。でもほら、例えば価値はつかないけど綺麗な絵とか、古いけどまだ使えそうな食器とか残っているかもしれないから、そういうのを持って行っていい、と言われたんだ。
で、僕が屋敷に赴いた。
実際見てみると、
まず玄関を入るとそこはホールだ。天井が吹き抜けで、正面に階段があって、二階へと続いている。屋敷には食堂や応接間、居間なんかが全部別々の部屋になっている。その他に住人の個室が幾つもあって、使用人が暮らす部屋もあったから、まあかなり大きな屋敷だ。
まあ、いわゆる「お金持ちのお屋敷」のイメージそのまんまの屋敷という感じだな。
僕が向かったのは書斎だった。来日する時に、
あまりにも本がたくさんあったので、持ち主一家もとてもじゃないけど運び出しきれなかったと聞いていた。
うん。もしもそれが残っていたら、もらってしまおう、と思ったんだな。
とにかく僕は他の部屋には目もくれず、真っ先に書斎へと足を踏み入れた。
書斎は思ったほど荒れていなかったよ。
壁紙は色が褪せていたし、重厚なマホガニー製の机がぶ厚い埃を被っていたけど、破損しているような箇所は、ぱっと見にはなかった。
肝心の本棚はと言うと、三割程度埋まっていた、って感じかな。これも思ったよりたくさんの本が残っていたんだ。
うん。心が躍った。だって明治時代に出版された
目に付いた本を片っ端から鞄に詰め込んでいると――一枚の紙を見つけたんだ。
「お待たせいたしました。ご注文の珈琲でございます」
いよいよ本題、という時に、
「こちらピザトーストでございます」
次いで私の目の前に料理が置かれた。……どうも最近、いざというタイミングでそれが中断されることが多い気がする。
「ごゆっくりどうぞ」
私はひとまず珈琲を一口すすった。
「旨い」
思わず声が漏れた。先月行った地方のあのカフェーより断然旨い。
「この店はキリマンジャロ産の豆を深煎りしているそうだ」
「はあ」
きりまんじゃろなる場所がどこなのか私はわからないが、何やら高級な豆らしい。
とりあえず旨い。
「熱いうちに召し上がれ」
教授に促され、私はピザトーストに視線を移した。
運ばれてきたピザトーストからは旨そうな匂いが立ち昇っていた。厚切りの食パンの上で、熔けたチーズがぶつぶつとまだ煮えている。載っているのは輪切りのピーマンと、これは、肉……だろうか?
「それはサラミだね。塩漬けの肉だ」
教授が教えてくれた。
「この黒くて小さいのは何ですか?」
「それはオリーブの実を刻んだものだね。オリーブというのは、絞ると食用油がたくさん取れる木の実だよ」
「なるほど」
一番下に塗られているのはトマトケチャップだ。これは私でもわかる。
「惜しい。それはピザに使うソースだ。トマトを材料にしているところは同じだが、味がちょっと違う」
「へえ」
といっても、そういえば私はピザをきちんと食べたこともないのだが。
「いただきます」
私はピザトーストにかじりついた。
それは私にとって初体験の味だった。サラミの塩気、ピーマンの苦み、オリーブの触感、すべてが調和して旨い。溶けたチーズがすごく熱かったが、少し焦げたところがまた旨い。ピザソースはトマト味の中に様々な風味が溶け込んでいて、これもまた旨い。厚切りのパンも食べ応えがあって大変よろしい。
「おいしいです」
「気に入ってくれたようで何より。食べながらでいいから話を聞いてくれ」
教授は満足そうに笑むと、ゆったりと珈琲を口に含んだ。
「――それで、どこまで話したっけ」
「一枚の紙が見つかった」
私は口の端に熔けたチーズを貼りつかせながら言うと、教授は目を見開いた。
「そうそう、そうだった」
その紙片は羅甸語の本――ああそうだ、私が今読んでいたこの本に挟まっていたんだ。
僕は一応、言語学を研究して教鞭をとっているからね、英語と
でも、その紙片は読めなかった。
僕の知らない言語で書かれていたからなんだ。
ところで、化野君は、欧州で使われている様々な言葉のほとんどが、みんな羅甸語を由来としているということは知っているかい?
例えばそうだな、ここに珈琲があるね。
この「珈琲」という言葉は、英語では「コーヒー(coffee)」、仏蘭西語では「カッフェ(café)」、独逸語では「カフィー(Kaffee)」と呼ぶ。私は門外漢だが、
これらの言語は、羅甸語を祖として、それぞれの地域で発展と変遷を重ねたものなんだ。だから似た発音の単語が今でも多く残っている。
――でも、その一枚の紙に書かれていた言語は、まったく異なる言葉だったんだ。
少なくとも英語の言語体系に則った言葉ではない。
もちろん、北欧とか、東欧の言葉というのもある。ひょっとしたら地中海を挟んだ先、
そう考えた僕は、早速その紙を研究室へ持ち帰り、解読を開始したんだ。
……でも、僕が持っている資料に、この紙片の言葉を載せている本はなかったんだ。
今見た限りでは、少なくとも、
ひとまず他の言語とも比較したいから、今、
「その紙片は、今ここにはないのですか?」
私が問うと、教授は苦笑した。
「あいにく持ってこなかった。貴重な資料だから、研究室に厳重にしまいこんでいるよ」
まあ、それはそうだろうな。でも紙片を見せてもらえないとなると。
「……えーと、教授の探求心が刺激されたのはわかるんですけど、怪奇ルポライターの私を呼んだのは、何故ですか?」
何か他に理由があるのだろう。でもそれは何なのだ?
「まあ、待ちたまえよ」
教授は含み笑いを浮かべると、傍を通った
私はピザトーストの最後の欠片を口に入れた。トマトソースとチーズとサラミの味が混然一体となった様がたまらない。
教授は新しい珈琲を飲みながら、いよいよ本題を切り出した。
「その紙片を手に入れた翌日の夜からかな……妙な出来事が起こった」
私は目を見開き、珈琲に角砂糖を入れる手を停めて、手帳と万年筆を取り出した。
最初にそうだと認識したのは、紙片を持ち帰った翌日だった。
――論文も提出し終えて余裕があったからね、さっそく僕は紙片の解読作業に取り掛かったんだ。
僕の悪い癖で、一度没頭すると何時間でも集中しちゃうんだけど、その日も気がついたらとっくに日が落ちていたんだ。大学? もちろんとっくに閉まっていたね。
まあ、理系の研究棟なんか徹夜で作業をするのはザラだから、大学もその辺は厳しく言わないんだ。
とにかく僕が気づいた時にはもう夜になっていて。さすがに腹が減ったから、研究室に備蓄していた――うん、こういう時のために実はあるんだ食料が。缶詰でも食うかって棚に向かったんだ。
ところで僕は、鰯の煮つけの缶詰が好きでね、必ず五個以上はストックしているんだ。で、その日も鰯を食べるかって思ったんだけど……。
缶詰を手に取った時、妙に軽かったんだ。
おかしいだろう? で、缶をよく見ると、蓋の真ん中に穴が開いていたんだ。直径が二センチくらいかな。その穴を覗くと……。
缶の中身は空っぽだった。
五個とも全部だよ? 当然、僕は食べていない。というか、もし誰かが盗んで食べたのなら、わざわざ空っぽの缶を戻しておくかね? 普通は面倒くさいからそこまでやらないはずだ。
缶切りで蓋を開けたわけではなかった。それは確かだ。
でも、代わりに穴だ。おかしいだろう?
まるで、何者かが穴から中身だけを吸い出したような。
これは怪奇現象だと思わないか?
「確かに不思議ですね」
私は角砂糖三個を溶かした珈琲を飲みながら言った。
「でも、それだけでは何とも。変な話、ネズミが食ったと言われればそれまでですよ」
「まだ続きがあるんだ」
教授は珈琲のカップを置いた。
次の違和感は、その翌日の夜だった。
今度は大量に食料を買いこんで、本腰入れて紙片の解読作業に取り組んでいた。
気づいたら夜の十一時を回っていた。眠気覚ましの珈琲と糖分補給のアンパンで休憩を挟もうと作業を停めて、ふと窓の外を見たんだ。
ところでうちの大学は去年、構内に新しく街灯を建てたんだ。わざわざ電線を敷設してね。日の入りの頃合いから、大学が閉鎖する午後九時まで灯りが点いている。
構内に何十基もある街灯のうち一本が、ちょうど僕の研究室の窓から見えるんだ。
その街灯が――灯っていた。本来ならとっくに消えているはずの時刻にも関わらず。
しかも、真っ赤な光を湛えてね。
もちろんそんな色の灯りではないんだ。普通に白い光で普段は燈る。
でもその時は、信号機の赤よりももっと鮮烈な赤い色が、窓の外から僕を照らしていた。
そして、その真っ赤な逆光に塗りつぶされて、黒い影が、窓の外から僕を見下ろしていたんだ。
何故、見下ろしているとわかったかって?
眼が光ったんだよ。ぎらり――と、逆光を受けているにも関わらず、その大きな眼自体がね。
言っておくけど、僕は夢を見ていたわけでもないし。酒に酔っていたわけでもないよ。
でも確かに、あの「影」を僕は見た。たぶん人間よりやや大きいくらいのサイズなのかな……。
どうだい。これはどう考えても怪奇現象だろう?
「なるほど……それは確かに怪奇だ」
「君なら食いついてくれると思ったよ」
教授はどこか楽しそうに見えた。
「記事にしていいんですか?」
「もちろん、そのために君を呼んだんだ。ただし条件が――」
「これが教授のことだと、わからないようにすればいいんでしょう? 大丈夫です。いつものように匿名の体験者として記しますよ」
「よろしく頼むよ。――君、会計を頼む」
教授は伝票を手に取り、
私は教授にお礼を言った。
「ごちそうさまでした」
私が次に教授に会ったのは、銀座のカフェーでの出来事から十日ほど経った時だった。
まず視界に彼を捕えた時、一目でそれが教授だと判別するのに時間がかかった。何故なら――。
「……え?」
私は二度見した。
教授の風貌があまりにも乱れていたのだ。
銀座のテーラーで作ったというご自慢の背広が、よれよれに皺が入っている。シャツも皺だらけで、いつも襟元を飾っていた
「教授?」
「ああ、化野君か。いや、こんな格好で失礼」
教授は私に気づくと、どこかよろよろとした足取りで近寄ってきた。
「具合でも悪いんですか?」
「いや大丈夫だ。ちょっと解読作業で三日ばかり徹夜をしたものでね」
乱れた服装の理由はそれか。よく見ると目の下にうっすらと
教授は乱れた身なりに反して、嬉々とした声でこう言った。
「それよりも聞いてくれ。例の紙片の解読が進んできたんだ」
「えっ本当ですか。それはすごい」
「だろう? といってもまだほんの幾つかの単語だけなのだがね。古代
「はあ」
「あの紙片に書かれているものは、どうやら何らかの宗教的な文言のようなんだ。まず、冒頭に頻発する単語に共通パターンがあってね、何らかの神格を現していると仮定すると、これが教会
「教授」
「それとあの紙自体も興味深いのだよ。普通の紙とは異なる質感でね。最初は
「教授!」
私は教授を制止した。
だって……彼の目つきが、焦点が合わないその目が虚空を見る様が、あまりにも異様に思えたから。
教授は、は、と息を呑むと、目の焦点が元に戻った。
「あ、ああ……すまない。つい夢中になって」
「少し休んだほうがいいですよ? 寝不足は研究の敵です」
私が見かねて助言をすると、教授は素直に頷いた。
「そうしよう。――いや、でももう少しでとっかかりが掴めそうなんだよ。ここを抜ければ一気に解読作業が進む予感がする」
「……体を壊さないでくださいね」
「ありがとう」
教授は頭をひとつ振ると、はたと思い出したようにこう言った。
「そうだ忘れないうちに言っておこう。――化野君、もしも僕がどこかに行ってしまったら」
「はい?」
唐突に一体何を言いだしたのか?
しかし教授は真剣な表情で、私に向かってこう告げた。
「僕の研究室に行って、茶色い表紙のノートを読んでくれ。もしよければそれを君の記事の参考にしてくれて構わないから」
「教授、一体何を――」
「頼んだよ」
それだけ告げると、教授はどこか危なっかしい足取りで歩き去った。
あっちは教授が勤める国立大学のある方向だ。
「……あれは休みそうにないかも」
私は――心の奥に一抹の不安が芽生えたのを無視して――、そこから去った。
それが、教授と会った最後だった。
教授が行方をくらませて音信不通になった、という一報が入ったのはその日からさらに十日ほど経った時だった。
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