取材対象C ――白昼夢の瞳
昭和三十二(一九五七)年九月二十四日。
奇妙な「目」を持つ人がいる、という噂話を入手した記者は、その人物の取材へと向かった。
何でもその人物は、事故に遭ったあとに、片目が急に変質したのだという。
記者は詳しい話を聞くべく、その人物の住む街へと向かった。
(取材レポート〇三番より引用)
一足早い秋雨の降る日だった。
その街は、都心から列車を使い二時間ほどで行ける地方の街だった。
待ち合わせ場所の駅舎で、時計が午後三時を指したころ、青い傘を差した少年がやってきた。
「あなたが、僕に話を聞きたいという記者さんですか?」
雨の中をやってきたのは高校生くらいの少年だった。彼は右目に眼帯をつけていた。
私がそうだと返事をすると、少年はほっと顔を安堵にほころばせた。
彼の案内で、駅から歩いてほど近いカフェーに移動した。
田舎の(と言っては失礼だが)街にしてはモダンな店だった。若者が好みそうな店だと思ったが、客は我々の他にいなかった。
「学生さんはこういう店には来ないのかい? モダンなのに」
「ここ、値段が高いんですよ。今日来たのは誰にも話を聞かれたくないからで。僕も実は来るのは二回目で」
メニューを見て、なるほど理解した。
こんな田舎でこんな強気な価格でやっていけるのだろうか……という店への不安はさておき、とりあえず何か注文をする事にした。
「話を聞かせてくれるお礼に、ここはおごるよ」
「えっ、いいんですか」
「好きなの頼んでいいよ」
私は(一応)大人としてここはいいところを見せておこうと思った。
少年は嬉しそうにメニューを取ると、左目でじっくりと読んだあとに
「クリームソーダをください」
と注文した。次いで私も注文をする。
「珈琲を」
珈琲が一番安かったのだ。
「で、早速だけど、いいかな」
飲み物が来るまでの間、待ちきれない私は少年から話を聞くことにした。
「はい」
――僕が事故に遭ったのは今からちょうど三ヶ月前でした。
夏至を過ぎたばかりだから日が長くて、空はまだ明るかったんですけど、それが油断だったんですね。
つい、部活に熱中して、帰る時間が七時を回っちゃったんです。
自転車に乗って……あ、僕、自転車通学なんですけどね、その日もこんなふうに雨が降っていたんです。まだ六月で、梅雨だったから。
でももう薄暗くなり始める頃合いになっちゃって。僕、雨が降りしきる道を自転車で一生懸命、家へと走っていたんです。
そうしたら、四つ角で、何かとぶつかっちゃって。
「何か」とは何かって? ……うん、最初は三輪オートかなって思ったんです。この辺よく走ってるから。
でもわからなかった。たぶん一瞬だったから、見逃したんだと思います。
とにかく、僕はそれとぶつかって、自転車ごと弾き飛ばされて、近くのトウモロコシ畑に放り出されたんです。
それで――、その時、右目がちくっとしたんです。
あ、これ何か刺さったかも、って思ったんですけど。次の瞬間にはもうトウモロコシの茎の中に突っ込んでました。
次に目が覚めたら病院でした。通りかかった人が救急車呼んでくれたみたいで。
撥ねられたはずなのに、どこも怪我はなかったんですよ。
右目も何ともなくて。――うん、その時は。
医者にいろいろ診てもらって、結局異常なしって事で、次の日には家に帰りました。
それで、その時は何ともなかったんですけど……事故から一週間くらい経ってからかな。
右目に変化が起こり始めたのは。
最初は右目が妙に痒くって。何度も擦るもんだから叱られたんですよ。でも右目だけ異様に痒くて。
それが三日くらい続いたあとに、右目の痒みは突然治まりました。
でも――その時から……。
「その時から?」
私が思わず尋ねると、少年は不安そうに、右目の眼帯にそっと手を添えた。
「右目が……」
私はその眼帯の下を見たい衝動に駆られた。しかし無理矢理それをするわけにもいかないので、じっと彼の右目と右手を見つめるにとどまった。
「お待たせしました」
「ごゆっくりどうぞ」
少年は眼帯から右手を外した。
「わあ」
露わになっている左目をきらきらさせてクリームソーダ(ちなみに飲み物の中で一番高価だ)を見つめている。
「どうぞ、飲みながら続きを聞かせてくれるかな?」
私が言うと、少年は「はい」と頷いて、まずメロンソーダを一口飲んだ。次いで浮かぶアイスクリームを回すようにぐるりと一周かき混ぜると、アイスを掬って口に運んだ。
「おいしい。僕初めて食べるんです、クリームソーダ」
少年は二口、三口とバニラアイスクリームを食べると、再び口を開いた。
ええと……どこまで話しましたっけ。
そうそう、右目が、ってところだ。
何て言えばいいのかな。最初は右目がすごく痒くなったんです。あっ、言いましたっけ。それが異変の最初でした。
その次に起こったのが、視界の異変なんです。
目を開けていると、右目にだけ、いろんなものが見えるんですよ。
どこか知らない街の綺麗な街並みだったり、虹色の地層とか……あと、空中を泳ぐ生きたシャボン玉みたいな何かだったり。とにかく現実離れした不思議なものが見えるんです。
目を開けていると、右目にだけそれが見えるんです。
――うん、そうです。右目と左目で全然違う景色が見えるもんだから、生活しづらくって。今こうして眼帯をしているのは、強制的に右目を閉じるためでもあるんです。
両目を閉じるとどうなるのかって?
そうだな、眠る時とかに目を閉じると、その不思議な光景が両目の視界に浮かび上がるんです。
まるで夢を見ているように。
「知らない街っていうのは、例えば
御伽噺の挿絵に描かれているようなそれなのだろうか。
うーん、と少年は首をひねった。
「たぶん違うと思う……もちろん
「どういう感じの街なのかな?」
私が畳みかけると、少年は、うーん、と唸りながら、ストローに口をつけて一気にソーダを啜った。緑色のメロンソーダが減り、半分ほどになったアイスクリームと真っ赤なサクランボが下降する。
少年はストローから口を話すと、考え考え、こう教えてくれた。
「なんていうか、現実離れしているみたいな。実際には存在しないような不思議な建物や生物がいるんです」
最初に右目に見えたのは、不思議な形の塔でした。
根元がすごく細いんです。で、上に行くにつれて徐々に太くなっていく……そうだな、細長い巻貝を逆さに砂に突き刺したみたいな。
そういう形の塔なんです。実際にあんな建てかたしたら根本からぼっきり折れちゃいそうなのに、折れずにそこに建っている。
その塔の傍にはたくさん家が建っているんです。こっちは幾何学的な、やっぱり不思議な形の家です。家、って表現しているけど、どんな用途の建物なのかは知りません。
そういった不思議な街並みが並んでいて、僕はいつの間にか街を歩いて移動しているんです。自分の意志と関係なく。
巻貝みたいな塔は、街の東側に建っていました。
最初は無人の街なのかなあって考えたんですけど、三日目くらいからかな、住人が登場したんですよ。
「え?」
私は万年筆を走らせる手を停めた。
「三日目? 不思議な街を見ているのは一度だけではないのかい?」
「はい」
少年は頷いた。
「毎晩、寝床で目を閉じると、その街の光景を夢の中に見るんです」
「起きている時は?」
「起きている時は右目だけ、目を開けている時にぼんやり見えるんです。なぜなんでしょうね?」
その理由は誰にもわからないだろう。
「とにかく、僕は毎晩夢の中で、そんな夢みたいな街を歩き回っているんですよ」
三日目から、街に人がいるのがわかったんです。
でもそれは普通の人間じゃないんです。肌の色が濃くて――最初は外国人かなって一瞬考えたんですけど、すぐに違うってわかった。
その「住人」は、頭に角が生えていた。まるで鬼みたいに。
それで腰からトカゲみたいな尻尾が生えていた。――トカゲ人間? 顔は人間っぽいんですよ。
でもね、全然怖くないんです、その人たち。普通に街で生活してて、たまに僕のほうを見て、にこって笑いかけてくれる。
あとはそうだな……何か知らないけど、猫がたくさんいたな。
街にいたのは角のある人と、猫と、あとそれから……。
「仙人……?」
「え?」
私は再び万年筆を走らせる手を停めた。――ここにきて「仙人」だと?
「それって、中国の伝承にあるような、ああいった仙人? 白いひげを生やした老人で、霞を食べて暮らしていますみたいな」
「うーん、ひげを生やした老人ってのは合ってますけど。なんていうか、その……根本的に全然違う何かだと思うんです」
少年はクリームソーダをくるくるとかき混ぜている。
「たぶん、あれにはちゃんと名前があるんだと思うけど。僕はそれがわからないから、仙人と呼んでいるんです」
少年は恐ろしそうに眉をひそめていた。
僕が仙人と呼んでいるそれは、満月の夜になると、街に現れる。
月って言っても、いつも見ている月とは全然違うんです。もっと何倍も大きくって……そうだな、掌ぐらいの月がぽおんと夜空に浮かんでいる、みたいな。
で、そんなふうにすごく大きな月が出る夜に、その街のみんなに姿を見せるんです。みんな館の前に集まってそれを待っているんですよ。
僕もその人の群れに交じって、一緒に仙人を待っている。
月が一番高く上がった時、仙人は館から出てくる。
その館も、満月の夜にならないと見えない。理由は知らないけど。
大きな月の下にいつの間にか館が建っていて、その扉から仙人は出てくるんです。
館の扉が開くと同時に、辺り一面に潮の香りがふわっと漂うんです。
潮の香り、という単語に私は引っかかった。
海。潮。最近、そういった単語をよく聞く気がする。
(そうだ、他の取材対象者もそんな事を言っていた)
奇妙な共通点なのか?
とにかく私はインタビューを続ける。
「その不思議な街は、海の近くにあるのかな?」
「うーん。どうなんだろう……僕が見た限りは、たぶん違うと思います」
館から仙人が出てくると、街の人はみんな色めき立つんです。
ずっと待ち構えていました、みたいな。すごい歓迎している感じで。
仙人はみんなの前に立って、ゆっくりとみんなを見回して、何か演説をするんです。言葉は全然わからないけど、あれは演説だと思うんだ。
みんなそれを嬉しそうに聞いている。
――僕ですか? 僕はよくわからないまま、みんなに交じって演説を聞いているんです。
でも……そうだなあ、なんだか楽しかった気がします。
私はその話を聞いて、何故だかわからないが嫌な気持ちになった。
なんだか、すごくいらいらする。理由はわからない。
それが表情に出ていたのだろう。少年は眉をひそめて私にこう言った。
「あれ、つまらなかったですか?」
「いいや。そうじゃないよ」
私は作り笑顔で返事をした。――少年に対して嫌な思いを抱いたのではなくて、その話の「内容」がなぜだか気に入らなかった。
なぜだろう。その話の「仙人」とやらに対して、無性にいらいらする。
「話を続けてくれる?」
私は気を取り直して少年に告げた。
少年は頷いた。
それで、演説が終わると、みんなは館の前の広場で宴会を始めるんです。
見たこともない食べ物や飲み物をたくさん用意して、僕が知らない歌を唄いながら、僕が知らない踊りを踊って。
街の人はみんな優しいんです。よそから来た僕を自然に受け入れてくれるんです。
それで、僕もみんなと一緒に食べて飲んで、歌って踊って……。
そこで目が覚めた。
それが二日前の夜に見た夢でした。
「そうか。興味深い話だ」
私は万年筆を忙しなく動かしながら、少年の話を余さずに書き留める。
少年は大切にとっておいた真っ赤なサクランボを指で摘まむと、それをじっと見つめながら言った。
「夢なのに、すごく楽しいんです。……うちと違ってみんな優しいし」
「ん?」
私は万年筆を動かす手を停めた。
「うちと違う、って?」
「ええと」
少年は露骨にうろたえて、クリームソーダを勢いよく飲み始めた。
きっと言いたくないのだろう。私は何事もなかったように手帳に視線を戻した。
少年はサクランボを口に含み、ゆっくり咀嚼し終えると、言った。
「ええと、僕が今覚えているのはこれくらいです」
「そうか。どうもありがとう」
私は手帳を閉じた。
冷めてしまった珈琲をゆっくりと飲む。飲みながら、どうしてもこれだけは言いたいという衝動に駆られ、それを抑えようとしていた。
しかし無理だった。
「……ねえ、もし君が嫌でなければ」
「はい」
「その右目、ちょっとだけ私に見せてくれないかな?」
「いいですよ」
少年はあっさりと答えた。
余りにあっさりと即答したので、私は拍子抜けしてしまった。
「え、いいのかい? 眼帯で隠しているのに、見られて嫌じゃないのかい?」
「はい」
少年は迷いなく答えた。そしてすぐさま眼帯に手をやると、
「どうぞ」
あっさりとそれを外した。
固く閉じた右目が露わになる。彼は一呼吸置いた後、そっと右目を開いた。
鮮烈な緑色が私の目に飛び込んだ。
少年の目は、透き通るような緑色をしていた。
「――」
私は息を呑んで、魅入られたように少年に近づき、その緑色を間近で見た。
(すごい)
緑色の目自体は存在する。外国人にそういう人がいるし、私も一度だけ会ったことがある。
しかし彼の目の緑は、そういう緑の色とは違った。
グラスに残ったクリームソーダのメロンの色よりも鮮やかで、瑪瑙のように濃淡の輪が幾重にも刻まれていた。それでいて複雑にゆらゆらと揺らめいているのだ。
まるで瞳の中にオーロラが存在するかのように。
「きれいだ」
私は思わず口からそう零した。
少年は右目を閉じて、また眼帯をつけた。
「……一度だけこれを見せた人は、気持ち悪い、って吐き捨てました」
悲しそうにそう言うと、彼は残りのクリームソーダを一気にストローで吸い上げた。
私も珈琲をすする。
「それはお医者さん?」
「いいえ」
少年は首を振ると、やっと聞こえる小さな声で言った。
「……母です」
「今日はどうもありがとうね」
会計を終えてカフェーを出てから、私は少年に礼を言った。
「もしまた何かおもしろい話ができたら、名刺の電話番号に電話してね。編集部につながるから」
「はい。そうだ、僕に情報提供の謝礼は入りますか?」
少年がはにかみながら問うてくる。
私は苦笑しながら答えた。
「そうだな。原稿料が入った後でよければ、またクリームソーダを御馳走するよ。今度はケーキもつけちゃう」
「やった」
少年は笑顔を浮かべたあと、ぺこりとお辞儀をすると、青い傘をさして、雨の中ゆらゆらと歩き去った。
私はそれを見送る。
もう日がだいぶ落ちている。
「……」
彼はまた夢で不思議な街を見るのだろうか。異形の姿を持つ優しい人たちがいて、彼を受け入れてくれるというその街へ。
(……それとも)
その街は本当に夢の中だけの存在なのだろうか?
――ぽつ、と視界の端に灯りが燈って、私はそちらを見た。
カフェーの窓ガラスに反射した街灯の灯りだった。ピカピカに磨かれたガラスが雨の夕暮れの世界を映している。
私は唐突に思い至った。
――あの少年の緑色の目は、どこか違う世界を映しだしていたのではないだろうか?
以前本で読んだ事がある。人間の目の中には水晶体という透明な器官が入っており、それがレンズと同じ役割を果たしている。人間はそのレンズを通した世界を見て、脳で認識しているのだという。
(もしも――)
あの少年の右目の水晶体が、「違う世界を映すガラス」のようなものに置き換わっていたのだとしたら?
彼は右目を通して違う世界を見ている。他の誰も認識できない、根本的にこことは異なるどこかの世界を。
そしてその世界は――理由はわからないが――「夢」ともつながっているので、彼は夢を通してそこへと行っているのでは?
もちろん、これは何の根拠もない突飛な考えだ。
でも実際に、緑色のオーロラが揺らめくあの右目を見てしまうと、この突飛な考えが正解であるかのように錯覚してしまう。
(まさかな)
私は首を振った。
でも――。
あの鮮やかな緑色は見事だった。今もその色が瞼の裏から離れない。
「……帰ろう」
彼が教えてくれた話を、ちゃんと記事にしないといけない。
私は駅へ向かって歩き出した。
雨を浴びている街灯の灯りが、周囲に緑色の光輪を浮かび上がらせている様を眺めながら。
後日、編集部を経由して私の元へ一本の電話が入った。
電話の主はあの少年だった。私はその時ちょうど編集部に顔を出していたので、すぐにつないでもらえた。
「……また、あの夢を見たんです」
「おお。今度はどんな風景を見たの?」
「……僕、あの街でお母さんに会ったんです」
「え?」
彼の母も夢に登場したということだろうか。そう尋ねると彼は否定した。
「そうじゃないんです。母とは違うんです。でもあれは僕のお母さんなんです。だって、僕にご飯を作ってくれて、一緒に寝てくれて、ぎゅって抱きしめてくれる……」
「もしもし?」
「僕はお母さんのいる家に帰ります」
そこで電話は切れた。
つー、つー、という機械音を聞きながら、私は愕然とした。
しかし同時に納得もしていた。理由はわからないが。
(そうか)
彼はきっと、この世界になかった彼自身の居場所を、その不思議な街で見つけたのだろう。
きっと彼は夢を通して、その街に行ってしまった。
私は受話器を置いて、窓から東京の空を眺めた。
雨上がりなのか空全体が虹色に
(取材レポート〇三番より引用)
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