第9話
――真宙くんって、本当に事故死だったと思う?
「どういう意味?」
夕方の教室、窓から射し込む光が、僕と蒼生と尾崎の席に置かれた花瓶を照らしている。それぞれが均等な距離を取っていて、三者を線で結べばきっと正三角形ができる。向かい合う僕と蒼生、その間に尾崎の花瓶。
「真宙くんは事故じゃなくて、自殺だった」
その中で蒼生は、数学の公式でも唱えるみたいに言った。
「私はそう思ってる」
僕は彼女の言葉に、返答できなかった。教室にうまれるはずだった沈黙を、グランドの野球部の声が埋めていく。キンっと、金属と硬式球がぶつかる音がする。
尾崎が、自殺。
蒼生の言葉を聞いて、僕はどうしてか、冬の公園にいた尾崎を思い出していた。
普通に生きて、普通に死ぬこと。
そのときの尾崎の姿は、今でもはっきりと脳裏に焼きついている。
「蒼生は、どうして自殺だと思ったの?」
自殺だとしたら、尾崎は自分で、自分の夢を手放したことになる。
それはあり得ない、とは尾崎を見てきた僕には言えない。でも自殺だと思えるほどの根拠もなかった。警察も彼の死を事故死だと判断している。
「ちゃんとした理由は、今はいえない」
蒼生が、わずかに動揺したのが、瞳の揺れから分かった。
どうして言えないのか、今すぐ問いただそうとは思わなかった。恋人同士だったからこそ、言いにくい事もあるのだろう。僕でも、そのくらいの想像はできる。
「でも一つだけ根拠を挙げるとするなら」
蒼生が、今度は真っすぐに僕を見た。横の花瓶は静かに、僕たちを見守っている。
「真宙くんは、お酒に呑まれたりなんかしないから」
彼女は真剣な表情で、そう言った。尾崎に写真を撮られたときの僕のように、真剣な表情をしているからこそ、間の抜けた部分がはっきりとわかる。
「それは、蒼生の願望? 尾崎がお酒飲んでるの、見たことあるの?」
「ないよ。真宙くんがお酒に強いのかも知らない」
僕も知らない。
だから、尾崎がアルコールに耐性があったのか、本当のところは分からない。でも、蒼生に言われて、そう考え始めている馬鹿な自分もいた。確かにそうだ、と蒼生に同意する自分の意識が確かにあった。
尾崎がお酒ごときに、身体を支配されたりしない。
それは彼に対する過度な期待であり、僕たちの願望だった。尾崎はそんな愚かな人間ではないと、そう思いたがっていた。
「でも真宙くんだから」
彼女の瞳は、もう揺れていない。
「確かに、尾崎が酒で死ぬところを想像できない」
僕たちの思考は決して論理的ではない。彼の運動神経や知能は、アルコール耐性に何ら関係がない。どれだけ賢い人でもアルコールを分解する力がなければ、お酒に呑まれて重大なミスをすることはある。
でも、尾崎だから。
「でも、だとしたら、尾崎はどうして死んだんだ」
「それは」
蒼生は目線を床に落とした。
「分からない」
目線と共に落ちた声が、重力に負けるみたいに僕たちの足元に横たわる。
「……だから、ずっと苦しい。真宙くんが死んでから、ずっと」
蒼生は一人で抱え込んでいた重い荷物を、限界がきて手放すみたいに言った。
教室の窓が開いていてよかった。もし教室の窓が閉まっていたら、言葉が積み重なってできた膜のようなもので僕は窒息していたかもしれない。彼女の言葉の重力を、開け放たれた窓から入ってくる野球部の声や、風が押し流してくれる。
「ほんとはね、ご飯も睡眠もまともにとれてないんだ。好きなものも喉通らないし、眠ろうと思っても目がさえて、夜はいつも眠れない」
目を伏せていても、彼女の瞳が濡れているのは分かった。
真宙くん。
彼女は微かに聞こえる声でそう呟いた。
そうして、蒼生は花瓶の方を見た。視線を上げた拍子に、彼女の瞳から水滴がほおに流れていった。
涙をこぼす蒼生の姿が、いつかの彼女の姿と重なった。一瞬だけ、彼女の背景が高校の教室から、中学の廊下になった。
気づいたら僕は正三角形の輪から出て、一歩、彼女に近づいていた。
「蒼生」
視線が、花瓶から僕に移る。
潤んだ瞳と、目があう。
僕はあのときとは違って、逃げるという選択肢をとらなかった。
真っすぐに蒼生を見つめて、僕は馬鹿みたいに真剣に言った。
「僕が尾崎が死んだ理由を探すよ」
もちろん、僕も尾崎の死の真相を知りたかった。
でも、この宣言は僕にとって贖罪のようなものだった。尾崎と、そして蒼生に対しての。
「私も、探す」
かすれた声だった。
階下の野球部の声にも負けそうだった。
それでも、手の甲で涙を拭った彼女の瞳は前を向いていた。
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