第31話


 事切れたにとろの骸を見下ろして、ローズはため息を吐く。そしてとうとう耐えきれなくなって、助手席に座り込んだ。

 気体の麻酔薬をたっぷりと染み付かせた白衣を脱ぎ捨てて、ローズはようやくやり遂げたとばかりに満足げに微笑む。


 最初から、ローズはにとろとまともな勝負をするつもりも、祭りを楽しむつもりもなかったのだ。

 薔薇の香水に紛らわせた異臭は、気体の麻酔薬の匂い。それをたっぷりと吸わせて、にとろの動きを封じる。狂気を演じて行った催しなど、ただの時間稼ぎだ。

 もちろん、ノーリスクではない。ローズには麻酔薬の耐性なんてものはないので、ローズ自身も麻酔の効果が出てしまう。元より衣装としてのガスマスクを着用していたので多少効きは遅くなったが、それでも効果は避けられない。

 にとろに麻酔薬の効果が出て動けなくなり、ルール違反するのが先か。それとも、ローズがそうなるのが先か。これはそういう勝負だった。言い換えれば、ローズがどれだけ麻酔に耐えられるかの気力勝負でもあったのだ。


 それに、ローズは見事勝ってみせた。


「娯楽のようにレイさんを殺した奴の一味を、娯楽のように捕まえる……最高の、意趣返し、で、すよ……ね……」


 いくらか吸った気体の麻酔薬と、胸に打ち込まれた麻酔弾。そのせいで、いよいよローズの視界は霞みがかっていく。気力で持たせていた意識が、勝負に勝った安堵により薄れていく。

 にとろという運転手を失った車は真っ直ぐに走り続けており、しかしすぐ目の前には曲がり角。このままではぶつかる。だと言うのに、ローズの胸中は心地の良い満足感で満たされていた。



 ローズの意識が完全に途切れた数秒後、一台の車がビルにぶつかり爆発事故を起こした。にとろが持ち込んでいた花火玉に引火し、巨大な炎の薔薇が咲いたのだ。


 まるで、何かを寿ぐかのように。


 目立つ花火を追いかけてきたうつろと枝垂が目撃したのは、血塗られた道路と燃え盛る車。

 誰もが数秒呆然としてしまった中で、うつろはいち早く立ち直って指示を出した。

 火傷を厭わない救助によって、丸焦げになった二つの死体が確保された、という結末で、事件は終わりを告げたのだった。



 怪我をした体を引きずり、少女は警察署内から出ようと歩く。反響するヒールの音が煩わしくて、脱ぎたくなった。

 事件は終わった。一件落着だ。もう自分がここにいる必要もない。早く帰って、眠りたい。自意識のない眠りの世界に埋没してしまいたい。

 そう思って、少女は逃げるように廊下を歩む。皮膚を焦がす痛みなんて、些細な障壁だった。


 はやく、はやく、はやく。


 ふと、俯いていた視界の中に小さな足が映る。

 のろのろと緩慢に顔を上げると、姿こそ知っているものの会話なんて交わしたこともない二人の少女。

 そのうち片方の、和服を纏った幼い少女が、その年齢感に見合わないほどに老成した底知れない微笑みを携えて、語りかけてきた。

 いいや、語りかける、なんてものではない。それは命令だ。決して逆らってはいけないものだ。

 闇の中に浮かんだ弧が、何よりも叛くことを許さない。


「ついてきなさい、狼牙巡。あなたには裏切りの疑いがかけられていますの」

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