第29話


 今回の作戦では、ローズは署で待機となっていた。

 彼女は丹砂レイという友人を、にとろの後ろ側にある組織に害された立場であり、怨恨があまりに強い。仮にも警察を名乗っている以上は義と法というのは守らなければならないので、やりすぎな行為をしてしまう可能性があるローズを前線に出すことはできなかった。

 ローズだってにとろを前にして平静を保てる自信はなかったので、その命令を甘んじて聞き入れた。

 けれど、そうは言っていられなくなったのだ。


 数十分前、ローズはレイが入院している部屋の前で立ち竦んでいた。

 もう、レイがここに来て一ヶ月以上になる。彼女は現在も検査と精神的な傷の治療ため、警察署に保護されていた。それほどの時間が経っているというのに、ローズはまだレイと言葉を交わすことすらできていない。

 いつもいつも、彼女が眠る扉の前で無為に時間を擦り潰して一日を終える。ただただひたすらに、無駄な時間だ。

 呼吸音すら殺して、今日もまたローズは扉に手をかけて、しかし開けられないまま立ち尽くす。

 しかし、扉の向こう側で驚いたような嘆息が聞こえた。


「……フェンさん?」


 ローズは思わず息を詰めた。レイの声だった。じわりと目頭が熱くなり、なんと言えばいいかわからなくなって喉が凍りつく。そのほんの僅かな、詰まった呼吸に喘ぐ音を耳ざとく聞きつけたらしい。扉の向こうで、穏やかな笑みの気配がした。


「本当に、フェンさんなんですね。お久しぶりです」


 いたって普通の声音に、ローズはやるせなくて思わず叫ぶ。レイは何も悪くないと言うのに、叩きつけるように。


「罵ってくださいよ! 絵を描かなくなったアナタを、責めてしまったボクを!」


 気がつけば、ローズの頬には涙が伝っていた。

 悲しいからではない。怒っている訳ではない。悔恨の涙だ。

 どうしてあの時、感情に任せてあんなことを言ってしまったのだろう。喧嘩をして、そのまま和解の道を探そうともせず、関係性を放置したままにしたのだろう。

 そうしなければ、レイは助けを求められたかもしれない。瀧手毬の毒牙にかかりそうになった時に、相談できたかもしれない。そうでなくても、もっと早くに助けられたかもしれない。

 ローズがいたのなら、レイはあんな凄惨なことに巻き込まれずに済んだかもしれない。


「……ふふ」


 扉の向こうから、淡い苦笑。

 至って穏やかな声が、床に膝をつくローズに降り注ぐ。普通に、二人がまだ友達だった時と同じ声。


「自意識過剰ね、フェンさん」


「は……?」


「自分がいたなら助けられたって、そう言ってるように聞こえましたよ。自信満々なんですね」


「そんなことが言いたいんじゃ……!」


「わかってますよ。ちょっと茶化しただけじゃないですか」


 レイは朗らかに笑う。どうしてそんな風に笑うことができるのか、ローズには全く理解ができなかった。


「けどね、僕は本当にフェンさんを恨んでなんかないんですよ。フェンさんがいくら自分を責めてても、僕自身はフェンさんに非があるとは全く思っていないんですから」


 それに、と身動ぎの音が聞こえる。ローズが縋り付く扉越しに、自分ではない誰かの体温を感じた。


「ごめんなさい。この前の喧嘩は、僕が悪かったです。それなのにムキになってしまって、この結果を呼び寄せた。だから、フェンさんが己を責める必要も謂れも全くないんです」


 自嘲的な微笑みが、先ほどよりもずいぶん近い位置に感じる。


「消し去ってしまいたかったんです。僕という存在を。死んでしまいたかったんです。フェンさんの『中の人』を殺してしまったからには、死ななければならないと思ってしまったんです。……今となると、僕は僕の『中の人』と自分を混同していたんですね」


 『中の人』と『ガワ』は違う。けれど、最初はそれを理解できなかったのだ。

 レイの『中の人』とローズの『中の人』は同僚であり、友人だった。ローズの立ち絵を描いたのはレイの『中の人』だ。

 つまり、レイの『中の人』はローズを創り、ローズの『中の人』を殺したのだ。


 その罪を、レイは自分のものだと思い込んだ。


 絵師としての活動名も配信者としての活動名も同じ『丹砂レイ』だったことが災いしたのかもしれない。

 自暴自棄になり、結果的に自分が殺してしまった数多の『中の人』の命の重さに押しつぶされた。

 けれど、一度死んだような心地を味わった今だとわかる。確かに、自分の『中の人』は意図的でなくとも大量の殺人を招いた。

 けれども、それを自分自身が咎めても、誰かに咎められる謂れなんて全くないのだ。そして、世間にはレイのような人間を責めている『ガワ』もそうそういない。


 レイが負うべき責任も痛みも、全くもってありはしない。

 三年の月日と、全身を串刺しにされる苦痛を通して、ようやくわかった。


「むしろ、僕と一緒にいることでフェンさんが同じ目に遭わなくてよかった」


 確かに痛かったし、辛かったし、あんな経験は二度としたくはない。思い出すだけでも体が竦み上がる。完全にトラウマだ。

 しかし、レイが二度と自分を責めることをしないように、レイがローズを責めることもないのだ。


「友達に戻りましょう、フェンさん。こんなこと、恥ずかしいから言ったことはないけれど……『僕』の友達は、貴女しかいないんですよ」


 扉越しに、手が重なった。

 ローズは唇を噛み、血を吐くように囁きかける。


「何を言っているんですか……」


 レイが一瞬息を詰める音が聞こえた。しかし、ローズは恐る恐る扉を開き、扉の向こうの白い影を抱きしめた。二人の低い体温が、触れ合った肌の上で混ざり合う。


「ボクは、ずっと友達だと思ってました。唯一無二の。ずっとずっと、捨てきれなくて、だからここで、死ぬことを諦める方法を探していたんです」


 けれど、それも要らなかったんですね。

 ローズは、呆けたレイの顔に微笑みを返した。


「戻ろう、じゃない。ボク達は最初からずっと友達で、このよすがは途切れたことなんてない」


 腕の中で、レイは安堵のため息をこぼす。


「だから」


 だから、友人であるレイを傷つけた連中を、赦せるわけなんてない。

 抱きしめていた体を離し、ローズはレイを安堵させるために笑いかけた。


「あの狼藉者ども、ぶちのめしてきます。瀧手毬の企みは必ずボクが……ボク達が阻む。だから、レイさんは安心していてください」

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