第2話



   二




 解放された吾輩は、突然の出来事に戸惑った。が、身を低くして屋敷の中を這いまわっているうちに、身体の心底からふつふつと湧いてくる走り出したい衝動に駆られ、やがてそれを抑えきれなくなった。廊下の端から端まで走りまわり、柱をよじ登り、障子に穴を開けて出たり入ったりし、庭に跳び降りて砂の上でゴロンゴロンと転がってみた。


 いやー、このゴロンゴロンが何とも言えないほど心地良いのである。我輩は自由の身になったことを実感し、砂だらけになりながら寝っ転がり、大の字になり、ヘソ天になって悦びに浸った。


 何気なく庭の隅に生える草の茂みに目をやると、根元に焦げ茶色の虫が潜んでいるのが見えた。おお、あれはコオロギという虫ではないか。我輩は立ち上がって腰を振り、本能の赴くままにコオロギに跳びかかり、両手で押さえた。


 その虫は右手の下でうごめいている。


 肉球でそれを感じた吾輩は、とったぞ~! と、叫びたくなるその気持ちを抑えて、そっと手を上げてみた。


 と、コオロギは跳ね上がり、逃亡を図ろうとした。


 うむ、そうはさせぬぞ。吾輩は飛びつき、捕まえると、逃げられないようにすぐ口の中に入れた。


 噛んでみるとパリパリ、シャキシャキと音がして、中から少し酸っぱいような不思議な味の汁が出てきた。吾輩にはそれが美味いのか不味いのかよく分からないが、噛むにつれて、なぜか心の中に雄叫びを上げたくなるような満足感が満ち溢れてきた。


 満足感に浸りながら屋敷に上がり、畳の上で毛づくろいをしていると、部屋の片隅に置かれている櫃の陰からカサカサという微小な音が聞こえてきた。見ると、そこには茶色く平べったい虫が這っている。


 む、あれはゴキカブリか? 吾輩はネコ族の常として、ああいう小動物にじゃれ掛かりたくなる性がある。一瞬跳びかかってやろうと思ったが、やめた。


 実は以前、繋がりの身だった吾輩の鼻先をあの虫が這って横切ろうとしたことがあり、その時は手を伸ばして捕まえて、ついでに食ってしまったが、あまり美味くなかった記憶がある。人間の中にはゴキカブリのから揚げは、パリパリした殻の中にやや酸味があり、とろりとしてクリーミーな、まるでコッテージ・チーズのような味と食感の内臓が入っている、と言っている者がいるようだが、そいつの感覚がおかしいのだろう。


 ゴキカブリは物陰に隠れ去った。それを見送り、伸びをして、ひと寝入りしようと思っていると、天井の梁に何やら気配を感じた。


 ん? あれはネズミではないか?


 ネズミは吾輩の大好物である。……というか、ネズミを捕って食うことは太古の昔から我らのDNAに組み込まれており、本能、いや、地球上に存在する生物のうち、嫌気性細菌以外は全て生存のために酸素が必須なのと同じくらいに大切なことである。


 ネズミどももそれはよく分かっている。しかしきゃつらは、これまではひもの長さより近くにこなければ取って食われることはない、と高を括っていた節があり、手が届くか届かないかのギリギリの所を走り回って、亜米利加のマンガに出てくるジェリーというネズミの如く我輩をからかっていたのである。


 しかし今は違う。


 天井の梁にいたネズミはそれに気付かず、例によって我輩をからかおうと柱を伝い、畳に降りてきた。


 奴は少し警戒する素振りを見せながら吾輩の目を見て、ニヤリと笑ったかと思うと、その刹那、吾輩の目の前を走り抜けようとした。


 吾輩は奴と目が合うとソロリソロリと這っていき、ひもの長さくらいの距離を進んで立ち止まった。そしてわざと物哀しい表情を見せてやる。


 奴は一瞬ピックっとしたが、我輩の様子を見て安心したようである。我輩から二尺ばかり離れた所で止まり、微笑を浮かべてヒゲの手入れを始めた。


 フン、調子に乗りやがって。今に見ておれ、吠え面かくなよ。副腎から大量のアドレナリンが分泌されて体内に満ち満ちた吾輩は、悟られないようにそっと後ろ足に力を込め、畳に爪を立てた。ついでに習慣で尻を振りそうになったが、それは意志の力で抑え込んだ。


 奴はヒゲの手入れが終わると、次に手を舐め、足を舐め、そして細長い尻尾を舐め始めた。


 今だ! 吾輩は二尺の距離を一気に跳びかかった。油断しきっている奴にこの攻撃から逃れるすべなどない。


 奴はピイピイと悲鳴を上げたが、後悔先に立たず。次の瞬間には、奴は吾輩の胃袋に納まった。


 これよ、これ。久々に味わう新鮮な肉の味。身体中がカーッと燃えるように熱くなってきたぞ。


 気が付くと、屋敷を囲む塀の向こうでは、歓喜の声を上げて乱舞しているネコたちと、逃げ惑うネズミどもの足音や悲鳴が響いている。


 ──ほう、皆張り切っているな。どれ、吾輩も表に出て散歩でもしてみるか。


 そう思い、ヒョイッと塀を乗り越えて外に出てみると、めくるめくばかりに新鮮な景色と共に、町中のネコというネコが喜び勇んでここかしこに飛び跳ねまわり、逃げるネズミを追いかける光景が目に飛び込んできた。



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