ネコの草子(ねこのぞうし)

大村 冗弾

第1話



   一



 逢坂おうさかの関の向こうの淡海あわうみの、さらにその向こうに関ヶ原という窪地がある。


 その窪地とその周辺で、十五万人という数の人間が集まっての大いくさがあった。そのいくさがたった一日で終わると、今までの騒動が幻だったかのように、京の都は静謐となった。


 天下泰平、国土安穏、全くもってめでたき御代である。これには騒ぎを起こした張本の人間はろくに反省もせずに、太古中国の名君、堯舜ぎょうしゅんのころにも勝れるご時世だと言い、有り難きご政道だなどと言って悦んでいる。


 人間以外の動物たちにとっても、煙硝の臭いをかがなくても良い時世は喜ばしい。スズメやカラス、トンビ等の鳥どもから、猿、犬、牛馬等々の畜類に至るまで、有り難や、有り難や、と、両翼、両手、両蹄を合わせている。


 むろん、我らネコ族にとっても平和な世の中は大歓迎である。


 まあ、人間どもの間でいざこざがあっても、ネコにとってはどうでもよいことである。誰が勝とうが誰が死のうが、知ったことではない。


 しかし人間どものケンカが長引き、世が乱れてくると、甲冑に身を固めた侍という乱暴者が京の都に満ち溢れ、足軽などというやくざ者がどこからともなく湧き出でてくる。その中には屋敷に押し入り、乱妨狼藉を恣いままにし、あまつさえ火を放つ者もあり、また時には我らに向かって矢を放つ田分け者さえ現れることもある。こういう輩が出現した暁には、のんびりと日向ぼっこをしたり昼寝をむさぼったりすることもできず、迷惑なこと極まりない。


 まあ、でっぷりと太った太鼓腹の、タヌキのような風貌のジジイが、かの大いくさに勝ったのはいささか驚きであったが、とにもかくにも安穏な世をもたらしてくれたのは良いことである。




 さて、そのいくさが終わってから早二年が経とうとしていた慶長七年八月の中頃、京都町奉行の板倉四郎右衛門勝重という人物から、


 ──ネコの綱を解き、洛中に放て。


 という沙汰があった。また、時を同じくして室町一条の辻にも次のような高札が立った。



  一、洛中においてはネコの綱を解き、放し飼いにすること。

  一、同じく、ネコの売り買いは禁止する。


  この旨に違反する者は、厳しい罪科に処せられるであろう。よって件の如し。



 このお達しに一番喜んだのは、我らネコ族である。


 なにせ我らは自由気まま、フウテンの寅さんという的屋稼業の男みたいなもので、あっちに行ったり、こっちに来たり、居心地の良い場所があればそのまま居つくこともあるし、何となくプイッと旅に出たくなることもある。まあ我らもミニチュアのトラみたいなものである。似たようなところがあるのは、トラ仲間として当然かもしれない。


 ところが吾輩のジイサンのジイサンの、そのまたヒイジイサンの、……数百世代も昔のご先祖さまの頃から、この国では我らの首根っこにひもを付け、それを柱に繋いで飼うのが一般的となっていて、動ける範囲と言えばひもの長さの分しかない。おかげで「○○ねこ歩き」のように気の向くままにどこかに遊びに行くことなどは夢のまた夢、それどころか屋根に登って寝ることも、庭に降りて駆けずり回ることもできず、先祖代々、何百年もの間ずっと窮屈な思いをしていた。それがにわかに自由の身になれるとなれば、狂喜するのは当たり前であろう。


 一方、我が飼い主、……と人間どもは勝手にそう称しているだけで、我らは召使い程度にしか思ってはいないが ──、まあ、その飼い主とやらは青くなった。


 お達しの通り、繫ぎひもを解いて放し飼いにしたら、大切なネコ様はどこかにいったまま帰ってこなくなるのではないか。お奉行は迷いネコを捕まえて留め置き、売り買いをしたら、その者はきっときつく罰せられるとおっしゃるが、そんなことはこっそりやれば分かるわけがない。そう危惧したのである。


 しかしお上に反抗的な京スズメといえども、お奉行のお申しつけに抗うことはできない。やむなく我が召使い──、いや、飼い主とやらは○○町△△兵衛の飼い猫、虎丸などと書いた木札を作り、我輩の首にぶら下げて、我輩と柱を繋いでいた鬱陶しいひもを解いたのである。



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