教師近藤と似顔絵
街の一角で、似顔絵を描く商売をしている、若い男性がいます。
彼は名前を二瓶篤人といい、美大の学生です。なので、その仕事はアルバイトでやっています。
ある日、彼のもとに中年の男性がやってきて、声を発しました。
「お願いできますか?」
その問いかけをした男は、近藤でした。彼は以前、夕美と訪れた占い師の近くでやっていたのを目にして、似顔絵に興味を抱いたのでした。
「はい。どうぞ」
篤人はうなずいて、前に置かれた椅子に座るよう促し、画用紙に近藤の顔を描き始めました。
「できました」
近藤の顔は簡単なつくりなので、あっという間に完成しました。
「ほう。どれどれ」
近藤はワクワクした表情で似顔絵を受け取りました。
「……」
近藤はそれを見ると口を閉ざし、顔から喜びの色が消え去りました。
決してひどい出来ではなかったので、篤人が「あれ?」と思ったところで、近藤が言いました。
「これでいいのですか?」
「え?」
「本当にこれでいいのか、うかがっているのです」
「……あ、はい。ご不満でしたら、描き直します」
わずかに戸惑いましたけれども、篤人は目の前の男が何を言わんとするのかをすぐに察知しました。というのも、出来は悪くありませんでしたが、その似顔絵は実際の近藤よりも二割増しでハンサムに描かれていたのです。
篤人の似顔絵は漫画的ではなくリアルなものであり、この仕事をやるようになった当初は普通に描いていたのですが、どうも客の受けが悪いなと感じ、「人は鏡で自分を見るとき良い表情にしたりと、実際より二枚目や美人と思っているからではないか?」と考えて、誰に対しても二割増しで美形に描くようになったのでした。その判断がうまくいき、だいたいの客は満足顔になりましたが、一方で、冷静にきちんと現実を見ることができるのであろう人のなかには、嬉しそうにならないばかりでなく、そんなふうに盛ったりせずありのままのものが欲しいと、今の近藤に近い態度で、描き直しを求めることがたまにあるのでした。
そして篤人は普通にそっくりに近藤を描き、再び完成した作品を差しだしました。
「……」
過去の同様のケースでもそうだったように、これで大丈夫だろうと思った篤人でしたけれども、またしても近藤は浮かない表情でしばし黙りました。
「これも違います」
「はあ……」
「はっきり申しましょう。もっと悪くなりました」
「ええ?」
どういうことだろうと、篤人は軽く首を傾げました。
すると、近藤は勢いよく言い放ちました。
「えーい、わからんのか! この、最初のよりも、もっと男前に描かんかーい!」
「え~。二割増しなのに、もっとー!」と、篤人は驚愕して心の中で叫びました。
仕方なく、彼は実際よりも二倍ハンサムな似顔絵を描いて近藤に渡しました。それはもうリアルさは消え失せて、完全に漫画でした。
「フフッ、フフフフフー。ありがとう、あなたの腕は確かだ。きっと良い絵描きになるでしょう」
一転してご機嫌になった近藤は、そう言い残して去っていきました。
篤人は、そんなアホらしい客は初めてで、しばらく茫然となったのでした。
アルバイトからの帰り道に、篤人は今日出会った変わり者のお客、つまりは近藤のことを考えていました。
それは、おかしな人という理由だけではありませんでした。篤人があるがままの似顔絵を描いていた頃、不満げな表情を見せながらも、その気持ちを口にまでする人はほぼ皆無でした。ところがあの中年の男ときたら、普通は恥ずかしいであろう「もっと男前に」と堂々と言い放った。
「多分、いつもあんな感じで、正直に生きてるんだろうな。うらやましい……」
篤人は、大学を卒業したら、画家になりたいと思っていました。しかし、果たして食べていけるのか不安で迷いがあり、家族にも友人にも口にしていなかったなか、普通の四年制の大学に通う恋人の乙寧というコに画家を目指す意思があることを話してみたところ、「そんな危ない橋を渡るんだったら、別れるよ。私は結婚を考えられる人としか付き合う気はなくて、籍を入れるとなったとき、画家なんてうちの親は絶対に許してくれないから」と言われてしまったのです。
自宅に着いた後も、彼の頭から近藤は離れませんでした。もはや変な人だったことなどどうでもよくて、自分に大切な何かを伝えるためにやってきた天使のような感覚なのでした。
ガバッと、部屋で横になっていた篤人は勢いよく起き上がりました。そして、家を飛びだしました。
「どうしたの?」
いきなり家を訪れてきた篤人に、曇った顔で乙寧は訊きました。
「俺がさ、画家になりたいって話、したよね?」
「……うん」
乙寧はさらに表情を険しくしました。
「乙寧にああ言われたから、諦めようかとも考えたけど、やっぱり目指すよ」
「え? じゃあ、私と別れてもいいんだ?」
「いや、乙寧との交際も続けたい。いずれは結婚したいとも思ってる」
「なに、それ! この前の私の話、聞いてなかったの!」
「ちゃんと聞いてたよ。今言ったのは、俺の気持ち。乙寧よりも画家じゃなくて、画家にもなりたいし、乙寧と付き合いもしたい。どっちか選ぶなんてできないってこと。もちろん交際は両者合意のもとするものだから、乙寧がこういう俺とは付き合えないって思うなら、仕方ないから受け入れるよ」
「ずるい! そうやって私にボールを投げて、妥協させて、自分の都合のいい結果で丸く収めようって魂胆でしょ!」
「違う」
篤人はブンブンと首を横に振りました。
「そんな計算みたいのじゃなくて、ただ正直になろうって決めて、その思いを伝えただけだよ」
「うるさい! もう帰って! 何の連絡もなしに突然人の家に来て、好き勝手なこと言って。ふざけるな!」
篤人は外に引っ張りだされました。
「お……」
ドアをノックして乙寧の名前を呼んだりしようかと思いましたけれども、確かに心の準備ができない状態の相手に気持ちをぶつけて身勝手だったなと考え、トボトボとゆっくりした足取りで自宅へ帰っていきました。
「ハアー」
自分の家の部屋で、篤人はため息をつきました。あの日以来、電話しても、メッセージを送っても、無視され、このまま関係は消滅して、乙寧の顔をもう一度見ることさえできないかもしれません。
奥手で不器用な彼にとって初めての恋人でしたし、優しくていいコだった乙寧以上の彼女ができるとは思えず、画家という先が見えない職業を目指すことも相まって、一生独身になるかもという考えまでが頭をよぎりました。
しかし、あのときの思いの伝え方はともかく、決断に対する後悔はしていませんでした。もし乙寧との交際を継続するために画家を諦め、結婚まで至った場合、そっちのほうがより強く悔やむ結果になって、彼女を恨みすらする可能性があることが予測できていたからです。
それでも、やはり落ち込んだ精神状態を少し上げるのすらなかなかできずにいたのでした。
「ハアー」
何度目かというくらいくり返しているため息が、また口から漏れました。
そして、何とはなしに携帯を手にし、電源を入れました。
「ん?」
なんと、まったくくれなかった乙寧からのメッセージが来ていました。その内容は、もう一度会って話そうというものでした。
連絡をもらって喜んだものの、別れるからあと一回会いたいのかもと気づき、けれども自分はいきなり家に押しかけたのだからと、どういう気持ちかを訊くことはしませんでした。
これが最後となるかもしれぬ覚悟もして、篤人は待ち合わせ場所で乙寧と顔を合わせ、カフェに移動しました。
「話って?」
篤人は尋ねました。
「うん……」
乙寧は伏し目がちで口を開きました。
「この前はごめん。私もやっぱり別れたくない。それから画家のことさ、許してくれないって親のせいにして、多分本当に良くは思わないんだけど、私自身が結婚するとしたら生活がどうなるか不安だったからああ言ったの。まあ、わかってただろうけど。でも、それって篤人の収入を当てにしてるってことで、今どき夫に生活費のすべてを稼いでもらおうなんて間違ってるよね。もちろん、あなたのやりたいように全部していいわけでもなくて、まったく収入がなくても許すなんてつもりはないけれど、安定した仕事じゃないからやめろって考えは駄目だって気づいたんだ。だから、結婚はするかもしれないし、しないかもしれないし、そういう感じになったときに話し合って決めるとして、とりあえず篤人が画家になっても付き合い続けるっていうのでどうかなって思ってるんだけど、いい?」
篤人は微笑みました。
「もちろん! ありがとう、俺の気持ちを受けとめてくれて。乙寧が心から画家の俺と結婚したいって思えるように、頑張るよ」
乙寧の表情もゆるみました。
「こっちこそありがとう。これからもよろしくね」
「うん」
こうして、二人の関係は以前よりも強固になったのでした。
その様子を、近藤は陰から温かい表情で見守っている……わけはありませんでした。
彼は篤人に描いてもらった似顔絵を、学校で担任をしているクラスの教室の壁に貼りました。
そして二倍ハンサムに描かれているそれに時折目をやって、こう言うのです。
「おっと、鏡だと思ってしまったよ」
生徒たちは、それを聞いた最初の頃は苦笑いを浮かべ、今では誰も相手にしていないのでした。
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