第12話 終章 雪の朝
ある朝、菊花は肌寒さに目が覚めた。いつも以上に冷えている。ぶるりと身体を震わせた菊花は、
外は一面の白銀に包まれていた。あらゆるものがすっぽりと白い雪に覆われ、まるで別世界にいるかのようだった。
(ニナが起きたら、喜ぶかな)
白い息を吐きながら、菊花はそんなことを考えた。
菊花は以前と同じように游泉の邸にいた。前と違うのは、ニナも一緒にいることだった。游泉の「雇用契約は切れていない」の一点張りで、菊花は引き続き邸にいることになり、ニナも同じ部屋で暮らすことが許された。
邸に来たばかりの頃、薄汚れてぼろぼろだった上にガリガリに痩せていたニナは、栄養状態が改善してふっくらと肉付きが良くなった。愛嬌があるので、最近ではすっかり慣れて皆から可愛がられている。子どもは覚えが早いようで、話せる
(ずいぶん成長したな……少し背も伸びたみたいだし……。欧ノ国にいたことが、もう遠い昔の話みたい)
游泉が欧ノ国から帰ったとき、隆信と隆正は涙を流して喜んだ。最初は連携していた紀直とも途中から連絡が取れなくなって、ずいぶんと気を揉んだらしい。心労ですっかり頬の肉が削げていた二人が喜びに溢れたのはほんの束の間、すぐに游泉が回れ右してしまいたくなるほどのお説教が始まったのは言うまでもない。
その游泉はといえば、帰ってきてからすぐに主上のところに赴き、ことのあらましを説明した。欧ノ国に行ったことは伏せ、
近忠明は捕縛されたが、証拠が不十分だとして、罪状が出るどころか、まだ冠位の剥奪すらも行われていない。どうやら菊花たちを村に送りこんですぐ、薬や欧ノ国に関わる証拠となるような物などはあらかた処分してしまったらしい。今は紀直が臨時で王命を受け、残されたものや証人となる人を集めるために駆けずり回っている。だが、游泉を監禁したことと、
そしてもう一人、薬に関わっていた
千太はなんとか一命を取り留めることができたが、斬られた右腕はもう二度と動くことがなかった。踊り子殺しの件は、近忠明の罪の証言に立つことと引き換えに罪を免れることもできたのだが、千太自身がそれをよしとせず、きちんと罪と向き合うとのことだった。游泉の口添えもあって減刑はされるようだが、相応は受けることになるらしい。菊花も一度会いに行ったが、落ち着いている様子で「母さんを頼む」と頭を下げられた。母の
欧ノ国から帰って以来、菊花は紀直とはあまり顔を合わせていない。事態の報告・収集と、近忠明の立件のために奔走しているため、非常に忙しくしていると游泉から聞かされていた。なんとなく、このまま紀直との暮らしが終わるのではないかと菊花は予感している。次の春の
菊花はぶるりとひとつ身震いをすると、部屋に戻ろうと踵を返した。
ふと、広い庭に雪の足跡がついているのに気がついた。こんな早くに誰がいるのだろうとそっと辿ってみれば、その先には游泉がひとり、白い雪の中を立っていた。空を見上げるその立ち姿は、実に絵になる。
「そんなところに立っていたら、風邪ひきますよ」
声に振り返った游泉は、菊花の姿をみとめるとふわりと笑った。
「もう起きたのか。早いな」
「游泉様こそ。どうしたのですか?」
「目が冴えてしまってな。これだけの雪は久方ぶりだ」
鳳鳴国の中でも南西にある都は、雪が降ることが多くない。鳳鳴国自体、冬は全体的に降雨も降雪も少なく、毎年定期的に降るのは、北の一部に留まっている。
「きれいだな、雪は」
「そうですね」
しばし二人で雪景色を眺めた。
「次はいつ見られるでしょうね。数年後かな」
「そうだな……」
「その頃には、わたしは都にいないでしょうけど」
菊花の言葉に、游泉がばっと菊花を振り返った。
「どこかへ行くつもりなのか?」
庭に目をやりながら、いつだったか、ここで身の振り方を考えておけと游泉に言われたことを菊花は思い出す。なんだかそれもずいぶんと遠い昔の話の気がする。
「雇用契約が切れたら、ニナを連れて各地を回ろうと思います」
「各地を……?村には戻らないのか?」
「ええ……あそこは、生まれ育ったわたしの村ではないですから」
行けば村の人たちは良くしてくれるし、信吾は次の村長にと勧めてくる。だがその一方で、菊花を「よそもの」と呼び、良く思わない者も一部にいるようだった。そんな中に、さらに「よそもの」であるニナを連れて移り住むのは難しいだろう。
「そうか……」
「ところで游泉様、雇用契約っていつ切れそうですか?」
そう訊ねると、游泉は不機嫌そうにじろりと菊花をにらんだ。
「……そんなすぐにでも辞めたいのか?」
「いいえ、とんでもない!こんなおいしい仕事、他にありませんから!」
衣食住付き、高待遇、子連れ可。どこを探してもここ以外に絶対にないだろう。
「なら、ずっといればよいではないか」
「ずっとなんていられるわけないじゃないですか」
「なぜだ?」
「だって、游泉様はそのうち奥方様を迎えるでしょう?そこに怪しい面をつけた子連れの女がいるだなんて、絶対に印象悪いですよ」
「それは……まぁ……」
「だから、やっぱり期限付きなんです」
それまでここで稼げるだけ稼いで、あとはニナを連れて各地を周りながら稼いで、すごーく貯まったら、どこか南の暖かい地方に小さな家と畑でも買おう。そして、そこでニナと野菜でも作りながら、細々と暮らそう。
……ん?これ、同じようなことを誰かが言っていたような?
「なら、今度は期限なしでいればいい」
「どういうことですか?」
「菊花、そなたを正室として迎えたい」
「…………は?」
今、自分はさぞかし間抜けな顔をしているだろうと菊花は思った。だが、游泉はその端正な顔で、大真面目に菊花を見つめている。
「また冗談ですか?」
「今度は冗談ではない!……その、前もちょっとは本気だったが、今度は本当に」
「……游泉様、たとえ冗談ではないとしても、そんなことできるわけがないじゃないですか」
「どうしてだ?」
「ご身分をお考えくださいよ。そこいらの平民が王族と婚姻を結べるわけがないじゃないですか。しかも正室なんて、まして」
「菊花は紀参の娘だろう?紀参は
言われて、菊花ははたと気がついた。たしかに游泉の言うとおりだ。
「でも、わたしの存在は郷家には認められていません」
これは紀直からも言われている。おかげで紀直はいまだ独身だと思われているらしく、実家に帰ると縁談の話を押しつけられるので、同じ都にいても近寄らないようにしているらしい。隠し子がいると知ったら、郷家の人たちはどんな顔をするのだろうか。
「認められていないなら、認めさせればいい。可愛い娘のためだ、紀参もそれくらい一肌脱ぐだろう」
「でも……」
「それでもだめなら、どこかの貴族の養子にでもなればいい。それくらい、春宮の権力を使えばわけない」
「……権力の濫用はどうかと思います」
「使えるときに使ってこその権力だ!」
「うわぁ……悪人っぽい言い回しですね……」
菊花の言葉に、游泉は「ふんっ」と鼻を鳴らした。。
「使えるものは何だって使うさ。自分がそれを正しいと思うならな」
「自分が正しいと思っていても、外から見れば間違っているかもしれませんよ」
「それなら、なおさら側で正してくれる者が必要だ。菊花、そなたにそれを担ってほしい」
「……無理ですよ。わたしは貴族が学ぶような学もないし、合うとは思えません」
「そんなことはない。そなたならできる」
「どうしてそんなことが言えるんですか?」
「菊花、そなたは前に、私が兄上は良き天王だと言ったら疑問を差し挟んだな。街から医者が消え、苦しむ子どもが出ている。そんな状況があるのに、本当に良い天王なのかと」
「ええ、でも……」
「そなたにはまっすぐに物を見る目がある。そしてそれを臆せず進言できる気の力がある。それらはれっきとしたそなたの力だ。先を視ることばかりが、そなたの力ではない」
游泉にそう言われて、菊花はふっと心が軽くなった気がした。ずっと自分には、少し先を視る以外、できることはたいしてないと思っていた。
(わたしにもできることが、まだあるんだろうか……)
心が揺れた。他にもできることがあるかもしれないというのが、嬉しかった。
「その力で、私を支えてはくれまいか」
菊花は少しうつむいた。思わず「はい」と言ってしまいそうになる自分を、なんとか押し留めた。
(游泉様のことは嫌いじゃない。むしろ……でも、それ以上に……)
冷静にならなくてはならない、と菊花は思った。春宮に嫁ぐということは、おそらく菊花が思う以上に大事なはずだ。それくらい、王家や宮中を知らない菊花でも見当がつく。そして、それをたやすく超えられるほど、菊花の気持ちはまだ大きくはない。
すると、菊花の迷いを見透かしたように、游泉が菊花にすっと片手を差し出した。
「視てくれないか、私の先のことを」
「え、何を……」
「菊花が私とともにこの先もあるかどうか」
息をのんだ菊花は、次の瞬間、ぷいと横を向いた。
「そういうことのためには使いません」
「どうしてだ?あちこちでさんざん、同じことをやってきたではないか」
「それとこれとは違います!」
「やっぱりこわいのか?」
「こわい……のもありますけど、それよりも、つまらないじゃないですか」
菊花の言葉に、游泉はきょとんとした。
「こういうことは、先が見えちゃったらつまらないですよ」
不敵な笑みを浮かべた菊花に、游泉は口をとがらせた。
「私としては、早めに対策を練りたいのだが」
「ご自分の力でがんばってくださいませ」
にっこりと笑みを浮かべた菊花とは対照的に、游泉は苦虫をかみつぶして飲み下したような表情を浮かべている。
「……信吾に聞いてやる」
「え!ちょっとそれは……」
「信吾なら菊花よりも力があるから、もっとずっと先まで視てくれるだろうし、人生の先輩として助言もくれるはずだ。うん、そうしよう」
大きくうなずいてずんずんと雪のなかを歩き出した游泉を、菊花はあわてて追いかけていく。
重たげに空を覆っていた雲はいつの間にか薄くなり、ところどころ雲の切れ間から青い空と、まぶしい朝の陽の光が顔を出していた。その光は雪をかぶった梅の花にふりそそぎ、きらきらとした輝きで花にさらなる美しさを添えている。
春はもう、すぐそこまで来ていた。 (了)
菊青抄 ー或る娘の物語ー @aburadeagetaimo
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