第11話 第十章 再会

 紀直がどこかから調達してきた二頭の馬に手分けして乗り、菊花たちは王都を出た。桔梗は寝台の布にくるみ、落ちないように鞍に結わえ付けてある。桔梗の遺体は悲しいほどに小さく、軽かった。

 追手が来るかと覚悟していたが、どうやら来ていないことに菊花は安堵した。塔を出る直前、紀直が欧ノ国の言葉で残っていた者たちに何事か話していたので、そのためかもしれない。

(にしても、ノリは何で欧ノ国の言葉を話せるの?)

 途中の町で水と食料品を購入したときも、紀直は当たり前のように金を払い、言葉を話していた。言われなければ、鳳鳴国ほうめいこくの人間とは思われないだろう。

(それに、わたしを実の娘だって……どういうこと?)

 菊花が頭を悩ませていると、紀直に「着いたぞ」と言われた。

「着いたって……ここどこ?」

 菊花の目の前にあるのは山だった。だが、この場所にどこか見覚えがある気がした。

 紀直が山を見上げると、言った。

「菊花のふるさとだよ」

 はっとして、菊花も山を見上げた。

「ここが村の……?どうして……?」

「ばーちゃん、埋めてやりたかったんだろう?それなら、撫子の隣がいいんじゃないのか?」

 ひどく自然に母の名が紀直の口から出てきて、菊花は少し戸惑った。同時に、紀直が本当に実の父親なんだと思ったが、まだ実感はなかった。

 菊花たちは山を登って行った。あまり人の出入りのない山なのだろう、道らしい道はなく、生い茂る枝を先頭の紀直が薙ぎ払い、草を踏み固めながら登っていく。

「今の村も行きにくかったが、こちらもまたいっそうすごいな。紀参はどうやって最初に見つけたのだ?」

 顔にかかる枝や木の葉を掻き分けながら、游泉は紀直に訊ねた。

「近くの町で呑み屋の下働きをしていたときに、噂を聞いたんだ。煙が立ち上るときがあるから、もしかしたら山に人が住んでいるのかもしれない、だが誰も見た者がないと。もしやと思って探ってみたら当たりでな、探していた青い目の一族がいたってわけだ」

「探していた?私たちを?」

 そうだと答える紀直は、菊花を振り向かずに答えた。

「どうして……?」

「天王の命令だったんだ。……もう薄々気づいているんだろ?オレが本当はどういう仕事をしていたのか」

 春ノ宮に来たときから見当はついていた。定住せず国中を周り、ときどき都に現れ、天王とつながりがある仕事……。名前はわからないが、国中を調べて回り、報告する仕事だったのではないだろうか。そう伝えると、紀直は「正解」と言った。

「オレは『王の眼』だったんだ」

「『王の眼』……」

「紀参、話してよいのか?『王の眼』の存在は……」

「どうせそろそろお役御免になるみたいだし……それに、菊花にこれ以上嘘はつきたくねえからな」

 紀直は菊花を振り返って笑った。

「そうか……しかし、よく道を覚えていたな」

「まぁ……何度も足を運んだからな」

「何度も?」

 首を傾げる游泉をよそに、紀直は近くにあった木の幹にそっと触れた。その幹には、よく目を凝らさなければ見えない、刃物でつけた傷がついていた。

 菊花たちが荒い息をつきながら歩いていくと、突如、ぽっかりと開けた場所に出た。

「ここは……」

 さらに行くと、朽ちて半分崩れた家屋がいくつも建っている。中心には、ぽっかりと空いた広場のような場所があった。広場には柱のようなものがいくつも立っている。

「ここ……見覚えがある気がする……」

「そりゃあそうだろう、住んでいたんだから」

 記憶を辿って、自分が住んでいた家を探す。小さな小屋のような家。見つけると、幸いにも崩れてはいなかった。家の前に立つと、懐かしさに心が震えてくる。入り口の引き戸は長年使われなかったせいか、建付けが悪くなかなか開かず、紀直の手を借りてやっと開いた。

 菊花は一歩、家のなかに足を踏み入れる。中は埃と黴の匂いに満ちていて、すべての時が止まっていた。竈にはさじの入った鍋がかけられ、野菜の残骸のようなものが笊の上でかさかさになって伸びている。板間に置かれたかごの中には、選り分ける途中だったらしい殻つきの豆が残されていた。そこにあったのは、突然絶たれた日常だった。

 菊花は板間にあがりこんだ。幼い頃は広く見えた家の中が、今はとても狭く感じられる。

(たしか、ばばさまがよくいたのはこのへん……)

 ぽつりと置かれた藁で編まれた円座の上にも、十年分の埃が降り積もっていた。ところどころに虫か鼠にでも喰われた跡もある。

 菊花は悲しくなった。帰りたいと夢にまで見た家だったが、そこはもはや菊花がかつて暮らしていたような場所ではなかった。菊花が帰りたかったのはただの古びた小屋ではなく、桔梗と生きた日々だったのだと、改めて思い知らされた。

 外を出ようとした菊花の視界に、何か引っかかるものがあった。ふと、そちらに目を向けると、籠の陰に何かが転がっているのに気がついた。籠をどかしてみれば、そこには菊花が幼い頃に大事にしていた人形が隠れていた。桔梗がかつて端切れで作ってくれたものだった。

「ここにあったんだ……」

 この村を紀直と出たときは、菊花は身に着けていたもの以外、何ひとつ持っていなかった。気に入っていたこの人形も、何度手元にあればと思ったことか。

 人形を手に取ると、十年分のほこりが舞い上がった。それを丁寧に払い、菊花はそっと胸に抱いた。

 外へ出ると、紀直と游泉、そして桔梗が待っていた。

「ごめんね、待たせて」

「気にするな。好きなだけいていいぞ」

「ううん、もういいの。行こう。かあさまのお墓はこっち」

 林を抜け、見晴らしのいい高台に出る。そこに置かれているやや大きめの石が撫子の墓だった。記憶のなかでは大きな石だったが、実物はずっと小さかった。墓の前に立つと、菊花はよくここで泣いていたことを思い出した。そして、その姿を千太がずっと見守っていてくれたことも。

 紀直が村で拾った古い鍬で穴を掘ると、桔梗の亡骸をその中に横たえた。桔梗の身体が土の中に横たわった瞬間、本当にこれでもうお別れなのだと、菊花の内側から強い悲しみが一気に噴き上げてきた。

「ばばさま……ばばさま!」

 叫ぶように泣く菊花の肩に、紀直がそっと手を置いた。

「菊花」

 菊花はぎゅっと土を握りしめた。

「ばばさま……さよなら」

 ぼろぼろと涙をこぼしながら、菊花は遺体に土をかけた。嗚咽をもらしながら土をかける菊花の姿を横目で見ながら、紀直と游泉はもくもくと土を戻していく。土を戻し終えると、紀直がどこかから大きめの石を見つけてきて、撫子の墓と並ぶように置いた。

 土を戻し終えても、菊花はしばらく墓の前から動けなかった。いつかの千太のように、紀直と游泉は少し離れたところに見守るように座っていた。だいぶ傾いた日差しが、ぼんやりと墓石をながめる菊花の横顔を明るく染めていた。

 おもむろに、菊花が口を開いた。

「ねぇ、ノリ」

「何だ?」

「わたしの父親って、本当なんだよね?」

「……本当だ」

「どうして黙っていたの?」

「それは……自分が情けなくてな……こんなのが父親なんて言えなかった」

「情けない?なんで?」

 紀直は大きくひとつ溜息をついた。

「オレは、撫子の信頼を裏切った。迎えに来ると言っていたのに、来られずにあいつを死なせてしまった」

「かあさまが亡くなったのは、産後が悪かったってばばさまが……」

「それはそうだが、その前に迎えに来られなかったのはオレのせいだ」

 項垂れた紀直を、菊花は振り返った。

「どういうこと……?」

「撫子と初めて会ったのは、そこから少し下ったところにある川だった。洗濯をしようとして、うっかり川に落ちて流されかけていたのを助けたんだ。それまでオレは、村の様子は観察していたが、村人と接触することは避けていた。けど、さすがに流される娘を見捨てるほどオレも鬼じゃない。撫子はオレが外の人間だと分かると、怯えるかと思いきや、逆に興味津々でいろいろ訊ねてきた。逆にちょっと驚いたくらいだ」

「外の人が珍しかったのかしらね」

「それもあるだろうが、撫子は村から出たがっていたから、外に何があるかを知りたがっていた。そのあとも何度も会ったが、オレの話をいつも目を輝かせて聞いていたな。いつか自分も行くから、色々教えてくれって言いながら」

「……かあさまはこの村が嫌いだったの?」

「嫌いというよりも、居づらかったんだろう」

「居づらかった?」

「撫子は村長の娘なのに、ほとんど視る力がなかった。それで周りからも色々言われていたらしい。もっとも、あいつは開き直っていたけどな。『ないものはないんだから、仕方ないじゃない!』って」

 幼くして亡くした母なので、菊花は勝手に儚げな姿を想像していたが、どうも思っていたのとは少し違うらしい。だが、その言葉になんとなく菊花は近い血のつながりを感じる。

「けど、どんなに強がっても、ずっと周りから何か言われているのは嫌だったんだろう。オレの前では時々泣いていた。自分にちゃんと力があれば、って……」

「……」

「そうやって何度も会って話すうちに、オレたちは結婚の約束も交わすようになった。もう少ししたら、結婚して村を出ようと」

「……それ、かあさまに利用されたんじゃないの?」

 すると紀直は「かもな」と軽く笑った。

「別にそれでもよかったんだ。あいつが側にいるなら何でもよかった」

 その言葉で、紀直は心底、母のことが好きだったのだなと菊花は思った。

「一応筋は通そうと、村長だったばーちゃんに会って、身分とこの村に来た目的を話して、結婚の許しをもらいに行ったが、もちろん断られた。そりゃそうだよな、いきなり現れたどこの馬の骨とも知れない怪しい男に、村長候補の娘をほいほい差し出すわけはないとは思ったが」

「それがばばさまと最初に会ったときね」

「そうだ。いやー、あれはえらい怖かったな……ああいうのを、鬼の形相って言うんだろうな」

 紀直は苦笑いをしている。菊花は桔梗に叱られたことはあるが、そこまでの顔は見たことがない。余程のことだったというわけだろう。

「そういうわけで、仕方ないから撫子を村から連れ出そうとしたんだが、ちょうど腹の中に子がいるのがわかった。二人で話し合って、子どもはここで産むことにして、オレだけ準備のために一度国に帰ることにした。必ず迎えに来ると言って」

「準備?」

「『王の眼』は妻帯することができない。だから、解任を願い出て、ちゃんとした役職に就こうとしたんだ。それと、家にもちゃんと言って、撫子を正式な妻として迎えるつもりだった。それまでオレは、表向きは何の役職にも就かずのらくらしている三男坊だったからな。いろいろなものをきちんとしようと思ったんだ。だが、その準備に思いのほか時間がかかってしまってな……。当主である父上には撫子のことを認めてもらえないばかりか、見合いをさせるためにしばらく閉じ込められたりとか」

「……」

「何とかすべて片づけて逃げ出したが、時すでに遅しだった。撫子とは結局それきり会えなかった。迎えに行ったときには、撫子はもう亡くなっていた。菊花のばーちゃんには猛烈に怒られたよ」

 それはそうだろうなと菊花は思った。同時に、怒り狂う桔梗の様子が思い浮かぶ。

「オレは村から叩き出されて、そのままずっと欧ノ国を放浪していた。それからしばらく経った頃、子どもがいたことを思い出した。こっそり見に行ったら、撫子の青い目を持った女の子がいた」

「それがわたしね」

「そうだ。それから何度も見に行った」

「……覚えてない」

「そりゃあそうだろう、見つからないようにしていたからな」

「どうして?」

「お前のばーちゃんに二度と関わるなって言われてたんだよ。絶対に父親だって言うなって。だからあの連れ去られた日、社から出てきてすぐオレを見つけて、お前を頼んだのは本当に驚いた。社の隠し扉のなかにいるから、あとで連れ出してやってくれって。……本当に切羽詰まっていたんだろうな」

 あの思慮深いはずの桔梗が、なぜいきなり通りすがりの行商人に孫を預けたのか。菊花はようやく謎が解けた。父親だと知っていたのなら、菊花を預けても不思議はない。

 紀直は菊花の隣に来て、まだ真新しい桔梗の墓の前に立った。

「ばーちゃんには感謝してるよ。感謝してもしきれないくらいだ……撫子との娘と一緒に暮らせるなんて思ってもいなかった。いろいろ申し訳ねぇこともしたが、これで少しは罪滅ぼしになったらいいんだが」

 そう言って、紀直は桔梗の墓に向かって頭を下げた。

「……きっと、ばばさまは許してるよ。わたしをノリに託したんだから」

「だといいな」

「わたしたち、似てないよね」

「お前は母親似だからな。オレに似なくてよかった」

「わたし、そんなにかあさまに似てるの?先生もばばさまも言ってたけど」

「あぁ、よく似ているよ」

「ふぅん……」

 それほど似ていると言われるのは、面映ゆいような、けれどどこか居心地が悪いような妙な気持ちだった。

 ひゅうっと冷たい風が菊花の頬を撫でていった。風のなかにどこか乾いて冷えた冬の匂いがする。

「冷えてきたな……そろそろ行くか?」

「うん……」

 言葉とは裏腹に、菊花はそこから動かなかった。どこかまだ離れがたいような、不思議な思いが菊花の中にあった。

「まだいたいなら、いてもいいんだぞ」

 紀直はそう言ったが、日は落ちつつある。山を安全に降りるには、少しでも明るいうちのほうがいいはずだ。頭ではそうわかっていたが、菊花のうちに何か動かせないものがある気がした。

「……ねぇ、ノリ」

「なんだ?」

「母さまに会いたい?」

 思いもよらぬ質問に、紀直は瞬時息を呑んだように見えたが、すぐにほろ苦く笑った。

「そりゃあ、会えるものならな。だが、そんなことは叶わない。死ぬっていうのは、そういうことだ」

「……そうだね。でも、もし会えたらどうする?」

「そうだな……謝るかな。側を離れてすまなかったって」

 すると菊花はおもむろに立ちあがり、二人の墓の前に立った。

「菊花?」

 菊花は目をつむると、大きくひとつ深呼吸をした。そして、歌を口ずさみはじめた。菊花が唯一覚えているあの歌だ。試すのははじめてだったが、どこか確信めいたものがあった。菊花は右手を水平に上げて、口ずさむ旋律に合わせてゆったりと舞いはじめた。

 身体は不思議と、自然に動いていく。それはあたかも、誰かに手を取られ足を取られ、教えを受けながらひとつのかたちを作っていくかのようだった。清餐の儀のときのように、自分でありながら自分ではない、そんな感覚だった。

 頭は空っぽになり、ふわふわと足元が浮いてくる。そうして舞ううちに、どこかからともなくうっすらともやのようなものが辺りを覆いはじめた。景色がさえぎられ、木立がうっすら白くけぶってゆく。

 紀直と游泉は、その様子に圧倒されながらも固唾をのんで見守っていた。

 やがて白くけぶった中から、うっすらと人影が見えてきた。儀式のときはそれが誰なのかわからなかったが、今ならはっきりとわかる。菊花はその人影に向かって手を伸ばすと、そっと声をかけた。

「かあさま」

 ぼんやりとした人影が像を結び、そこには今の菊花よりも少し年上で、深く青い目をした女性がほほ笑んでいた。たしかに、菊花とよく似た面影がある。

(これがかあさま……)

 その深く青い目はやさしげで、微笑みながら菊花を見つめていた。撫子が両手を差し出したので、菊花はその手を取ろうとしたが、手はつかめずに空を切った。触れることは叶わないようだった。撫子も悲しそうに微笑んだ。

 するとすぐ側から声がした。

「な……撫子!」

 一心不乱に撫子を見つめる紀直の目は、赤く潤んでいる。紀直に気づいた撫子は、紀直に向かって微笑んだ。

「撫子……これは、本当なのか?本当に撫子なのか?」

 もやの中の撫子が紀直に向かってにっこりと笑いかけると、紀直はその場で崩れ落ちた。胸を衝くような慟哭が静かな空に響き渡った。

「撫子……すまなかった、ずっと。あのとき、オレがもっと早くに来ていれば……いや、ずっとお前のそばにいれば……そうすれば……」

 紀直の言葉に撫子は首を振った。そしてにっこりと微笑むと、地面に膝をつき、紀直の首周りを抱きしめるように囲った。紀直は撫子の腕をつかもうとして手が空を切ると、そのまま手のひらをぐっと握りしめ、撫子に抱かれたままさらなる涙を流した。

 そんな二人の様子を見守っていたとき、菊花はもやの中にもう一つの影が現れたのに気がついた。誰だろうと少し身を固くしていると、それは菊花が、この十年のなかで何度も何度も思い描いた姿だった。

「ばばさま!」

 もやの中の桔梗の姿は、菊花と幼い頃に別れたままの元気な姿だった。菊花とよく似た深い青い目は、溌溂はつらつとした光を湛えてほほ笑んでいる。桔梗は、菊花の頭や顔を撫でるようなしぐさをしたが、やはりその手はうっすらと透き通り、菊花に直接触れることはなかった。触れることが叶わない桔梗の身体は悲しかったが、それでも菊花は桔梗とまた会えたことが心の底から嬉しかった。

「ばばさま……村に帰ってきたよ、一緒に」

 菊花の言葉に桔梗は満足げにうなずくと、口で何かを形作った。

「ばばさま、なぁに?」

 触れられないのと同様に、声では伝えられないようだった。桔梗は何度も何度も、同じような口のかたちを繰り返している。菊花は一生懸命なんとか読み取ろうと努力した。

「あ……り……が……と……う……?ばばさま、ありがとうって言ったの?」

 桔梗がうなずくと、菊花は堪えきれず声を上げて泣き出した。

 村まで連れて帰ってきてよかった。

 一緒に帰れて、よかった。

 その様子を、紀直のそばにいる撫子が、せつなげな笑みを浮かべて見守っていた。

 じきに、白いもやの中から現れた二人は、またもやの中へと戻っていった。あとには地面に泣き伏す菊花と、滂沱ぼうだの涙を流し続ける紀直、そしてただただ呆然とする游泉が残された。

「ものすごいものを見た気がする……」

 のちに、游泉はそう語った。



 村から出て鳳鳴国へ帰る道中、菊花はラサへ寄りたいと言った。紀直には怪訝な顔をされたが、通り道だということもあって、了承してくれた。

 一行は夜が明ける頃にラサに入った。朝日に洗われたラサの町は、夜に来たときとはどことなく印象が違っていた。早朝のためか、町にまだ人影はほとんどない。菊花たちは目立たないように、町を歩いた。

「菊花、ニナを探しているんだろう?」

 察した游泉に、菊花は「そうです」とうなずいた。

「帰る前に挨拶でもするつもりか?」

「……」

 游泉の問いに、菊花は答えなかった。

 町の中には見当たらないようだったので、菊花たちは墓地へと向かった。もしかしたら、父母の墓の近くにいるのかもしれない。そう思って行ってみると、果たして予想通りだった。墓地の隅に、どこかから持ってきたのであろう端板やら枝やらで、小屋とも呼べない小さな空間を作り、その中で丸まるようにしてニナは眠っていた。

 巣みたいだな、と菊花は思った。親鳥はいない、雛だけが取り残された巣。その姿を見て、菊花はそれまでわずかに迷っていた気持ちを確かなものとした。

「ニナ」

 しゃがみこんだ菊花はやさしく声をかけた。ニナはぱちっと目を覚ました。その反応は、ほとんど野生の生き物のようであった。

「ごめんね、起こして。わたしのこと、覚えてる?」

 ニナは目をぱちぱちさせながら、菊花をじーっと見ている。覚えていないのかな、と菊花が不安に思っていたところで、游泉が口を挟んだ。

「そなたの目が気になるようだな」

 游泉の言うとおり、ニナはじーっと菊花の目を見つめていた。前に会ったときは暗かったので、気づかなかったのだろう。

(気味悪がられるかな……)

 だが菊花の心配をよそに、ニナはにこ、と笑いかけてきた。何事か言っているが、菊花にはよくわからないので、紀直が通訳してくれる。

「『おねえちゃん、きれいな目だね』だってさ」

 これまで多くの人に目のことを褒められてきたが、なぜかこのニナの言葉がいちばん胸にすっと染み入るように菊花の中に入ってきた。

 菊花が欧ノ国の言葉で「ありがとう」と言うと、ニナはさらに大きくにこっと笑った。

「『覚えてるよ、おねえちゃんのこと』」

「よかった!」

 菊花はほっと息をつくと、ニナの手を取った。

「ねぇニナ、わたしと一緒に来ない?わたしたちの国に」

 菊花の言葉に仰天したのは、紀直と游泉の方だった。

「お前、何を言っているんだ!?猫を拾うのとは訳が違うんだぞ!?」

「そうだ、菊花。子を育てることは容易なことではないと聞くぞ!?安易な気持ちで手を出してはいかん!」

 慌てる男二人を見て、ニナは状況がよくわからずに首を傾げている。菊花は二人に向かってきっぱりと言った。

「わかってるわ、子どもを育てるのが簡単じゃないことくらい」

「いーや、お前は何もわかっていない!」

「でも、このまま離れることなんてできない!わたしには、すべての人を人買いから救う力なんてないし、みんなを助けてあげることはできない……。でも、だからって、目の前のこの子を見捨てて行くこともできない」

 菊花はニナの手をぎゅっと握った。

「それに……この子を見てると、昔のわたしを見ているみたいで……」

 ひとりぼっちで取り残された子ども。あの暗くて狭い隠し戸の中の記憶は、菊花の中に今もなお鮮明に残されている。菊花の場合は、すぐに紀直という新しい保護者がついたが、父母と死に分かれてどれくらい経つのか知らないが、ニナは未だひとりのままだ。ひとりでまだ、あの暗くて狭いところにいるのだ。

「お願い、ノリ。ちゃんとわたしが面倒を見るから!ノリには迷惑かけないようにするから!」

 必死にそう言い募る菊花を見て、紀直は眉間に皺を寄せて腕を組んだ。

「何度も言うが、子育ては楽じゃないぞ?」

「わかってる」

「まぁ、物心ついている年頃だろうから、赤ん坊育てるよりかはマシだろうが……覚悟はできているんだな?」

 菊花はこくんと頷くと、紀直は観念したように息を吐いた。そして、菊花の隣にしゃがみこむと、ニナに何事か話しかけた。紀直の言葉を聞いたニナは、真顔になって、自分の膝にじっと目を下ろした。

「……なんて言ったの?」

「おねえちゃんたちと一緒に行くか?って。この国じゃなく、ずっと遠い場所になるが、それでもいいかって」

 するとニナはするりと立ち上がって歩き出すと、墓地の一画で足を止めた。菊花も後を追い、その隣に立つ。ニナが見つめているのは二つの墓だった。墓の上に立てられた棒には細い布が結びつけられていたようだが、その布はすでに色褪せ朽ちている。

「父、母?」

 菊花が指をさして訊ねると、通じたらしいニナはこくりとうなずいた。

(やっぱり置いて行きたくないよね……)

 菊花がそう残念に思っていると、菊花の手をきゅっと掴むものがあった。

「―――行く」

「え?」

「おねえちゃんと一緒に行くってさ」

 後ろにいた紀直がそう通訳する。菊花は顔をほころばせると、しゃがんでニナの小さな手を両手で包んだ。

「よろしくね、ニナ」

 すると、ニナはにっと笑って「しく!」と言った。最初、菊花にはその意味がわからなかったが、少し経って、それが「よろしく」を意味するのだと気がついたとき、菊花の胸のうちであたたかなものが広がっていくのを感じていた。

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