第4章 居場所

 ――なんだかんだ、集まれた。

「ったく、困るわ。急に出てくから。人ん家の戸締りを本人不在で他人がするって、なかなか無ぇことだぞ?」

「いやぁ、ごめん、ごめん。……まあ僕も無理やり連れていかれたんだけど」

 感謝と反省の合わせ技を行いながら、空から家の鍵を受け取った。柚充さんから電気の消灯も、エアコンの電源も切って来たということも教えてもらったので本当に安心だ。正直、あんなに俊足で走ったのに息の1つもあがっていない奈留莉さんの頭を手に、2人で謝りたかったのだが……流石にやめておこう。なんでこの人息切れしてないの?

 家からイヤホンで流す楽曲1曲分大体聞き終わったくらいの時間。楽曲によって経過時間違うだろ、という脳内五十嵐みたいなツッコミは通用しない。はいはい、といって受け流そう。要約すると家から全然遠くないよってこと。

 例の建物は、すぐそこだ。

 はぁ、と全力ダッシュで玄関のドアを突き破る勢いで出ていってしまった僕らに呆れたような素振りをする追い付き組。単に申し訳ない気持ちでしかない。奈留莉さんが「へへっ」と無邪気に笑っているのに対し、空と五十嵐がキレないことをひたすらに願っているだけだった。

「ところで――」 

 話を切り上げるわけではないが、みんなが集合してからなんとなく気がかりだったことを触れようとする。あ、今から聞こうとしていることを兼ねて、ではないんだけど……。

 最終確認で辺り一帯を見回す。空や五十嵐、柚充さんに奈留莉さんと頭数から、向かいの通りの通行人の顔、奈留莉さんの背中に回って、影にも気を配る。だが、本当にいない。え、ホントに? こういうときにいつも結局いるのに……。常時黙って認識疎外をしているなか、呼んだら不意にふっと現れるような人なのに……。

 いくら待ってもほんとに姿を出さない。

 

「――朝陽は?」


 もはや言わないでも分かる。朝陽はいない。「あ、ほんとだぁ」と奈留莉さんが今になってから目の上に右手で影を作るみたいなポーズをとって周囲を見渡し始めた。

 というか、柚充さんたちが集合で歩み来たときから気が付いていた。気づくでしょ! 1人いないんだもん。まぁ、足並みそろえて一緒に行けばそんな心配をすることもなかったのに、というマジレスは置いておき、一体何か問題でもあったのだろうか?

 ……まさか、いつものおちゃらけ野郎軍冗談乱闘が段々とヒートアップして――。

 五十嵐が後ろを振り向き、歯抜けたような変な声を出す。

「あえ? ほんとだ、おーい朝陽ぃ~」

「気づいてないの!?」

 心配は必要なかったみたいだ。何だかんだ、本気じゃなく(場合によっては例外?)あくまでコント的なことで言い合っているのは言わずもがな分かる。それは、安心。

 ――いや、安心じゃない!!

「え、朝陽は!? 置いてきた?」

「世界の果てにか?」

「なんだろう、冗談言うのやめてもらっていいですか!?」

 変わらずの調子である空が、今となっては悩みの種でしかない。

「こんな猛暑日に冷房のない部屋で監禁だなんて……。どうせ朝陽のことだから起きないだろうし、時間の問題で大変なことに――」

 僕は上手く回らない呂律に、焦りも焦るもんだからスマホの操作もおぼつかない。NINEで朝陽に電話を掛けてみるが、どうして着信音で感じてしまうのか、絶対に出ないという意志がひしひしと伝わる。音はどのスマホでも同じなはずなのに。

 耳にスマホを当てて、額を困ったように触れていると、その様子を他のみんなは異常なくらいに冷静な表情で見ていた。なんなら空はあくびをしてる。

 奈留莉さんが人差し指でトントンと肩に触れた。

「小森くん、小森くん」

「何?」

 〝小森くん〟のの音が高く、妙なイントネーションだった。

「朝陽くん〝暑さ全然大丈夫だぁ〟って言ってたよ? 口調、肌、雰囲気、外見で信じられないけど、めちゃっむちゃっのスーパー運動系野球部だからね。ホント、エイプリルフールでのお似合いな嘘ぐらい信じられないけど!」

「そういう問題じゃ……」

 確かに野球部だから、インドアで休日に外に出たがらない僕らと比べたら暑さ耐性持ちなのかもだけど、それでもやっぱり暑苦しいのに変わりはないんじゃないの? いよいよ2コール目もきろうと思う。スマホのバイブレーションは変わらず続いている。

 貧乏ゆすりのように小刻みに揺れる僕の足は止まるような気配がない。もはや、僕自身がスマホを振動させているかのようだった。お陰で当てているスマホが耳にこすれてヒリヒリしてくる。

 柚充さんが顎辺りに手を当て、思い出すかのように言った。焦ってるのが変わらず僕だけだったので、そのことでも妙な緊張が体を走る。

「でも、監禁と言いますが、小森さんの家普通に内側から出れますよ?」

「…………ぇ? ――――――あ、ホントタ゛」

 焦っていたのを『炎』と例えるなら、柚充さんのその言葉は『バケツいっぱいの水』だった。例により、僕は冷める。スマホを着信している途中なのに、耳から下げた。同じような冷静さで五十嵐も続く。水を差してきた。

「鍵もオレらが来たみたいに玄関の隣にまだ2本あったしな! 流石に気づくだろ、あの昼行灯な朝陽でもよ!」

「………………ぐぅ」

「あ、こういうケースで〝ぐぅ〟の音が出ることってあるんですね」

 なんだか、自分のイミフな熱量で忘れていた分の疲れが、今みんなに総ツッコミされてからドッと押し寄せてきたような感覚に陥る。猫背で、姿勢が悪くなった状態のまま何度も何度も忙しなく鳴ってるスマホのコール音をぶっきらぼう切った。不在着信の表示2つが朝陽とのNINEに既読が付かない状態のまま残っている。それを見れば、僕のポンコツっぷりがいかに伝わるだろう。小森裕こもりゆうキャラ紹介入門編だ。

「っし、てことで小森の母ちゃんっぷりがさく裂したとこで、向かうか」

「母ちゃんって……。え、って行くの?」

 しびれを切らしたのか、じゃないのか。空が後頭部に両手を置いて、道を歩き始める。それに、みんなが続くが、僕は段々距離が空いてく背中を見ていた。

 確かに。朝陽のことは心配し過ぎたかもだけど、だからと言って今の問題が解決しても朝陽を待つというのは、朝陽に対する対応が分かって来たのか。はたまた、段々色々面倒になってきたのか。……両方か。

「待たないの? 確かに気にかけすぎだったかもだけど、え、待たないのー?」

「行っこーう、向っかおーう♪」

「え、ちょっ――」 

「安藤先生さんは、待ちくたびれてませんでしょうか……」

「………………」

 もはや朝陽どころか、僕まで眼中に入ってないような始末!

 道も分からないはずなのに歩みを止めないみんなと、多分変わらず長き眠りに更けて鬼電に微塵も出ない様子の朝陽。対となる2つの真ん中にいる僕は、戻ったり、進んで背中を追いかけようとしたり、でもまた来た道を戻ろうとしたり……。


「――――あぁ、もうっ!! 分かりましたっ!」


 こめかみを爪で掻いて、その腕をうざったそうに振り下ろす。(どうして、こうも色々な)怒りとか焦りとか変な感情が充満して、体外に暴言としてあふれ出そうになってしまうのを〝頬を膨らましてずかずか歩く〟という形でカバーすることにした。地面を着く靴の音が普段より力んでるので大きくなる。

「ごめーん、みんな! 置いてかないでー!」

 ……よし、ごめん。朝陽。

 万が一、暑さで干からびてしまったら、地面に植えてたっぷりの肥料とじょうろからのお水をあげよう。

 ――きっと、20日も育てれば朝陽と同じ髪色の芽が出てくるだろう、きっと。


 1つ角を曲がったら、少し開けた人通りの多少多めな通りへと出る。背の高い建物が並ぶなか、バスケットボール部のひときわ身長の高い生徒のような、変にフォーカスされた場所ではない。同じような例えをもう1つ。この通りの景観を背景とみなしたときに妙に縁取りがついて目立ってしまうような建物ではないのだ。……なんでわざわざ2回も例を出したのかわかんないけど。

 暑さがピークである正午の時間は過ぎたのか、太陽が真上じゃないことが何より嬉しい。お陰で、建築物や道路沿いに並んだ木々のお陰で木陰ができる。時折、木々の葉の隙間から漏れる日の光が目線に届くとき、その光は光線銃よりも鋭利に思えて比喩じゃなく刺さったような感覚になる。光線銃を受けたことも見たこともないから、このくらいで同レベルと言うのは甘いかもしれないけど、それくらい日差しは強力だった。だからこそ影が栄える。

 広くも狭くもない横幅の道を、それぞれ無意識のうちにできた2列で安藤先生からNINEで送られた建物へと向かう。奈留莉さんが先頭1人で大げさにも腕を振り、時折「ふんふっんふ~ん♪」と聞き覚えのあるゲームの曲を鼻歌で歌っている。最近ハマっているゲームらしい。どうも、彼女はマーチングの先頭に似合いそうな人柄だ、とつくづく思う。僕は横隣の柚充さんと、ただ何でもない話をしながら、時折盗むかのように奈留莉さんの後ろ姿を見ていた。後ろには珍しく小さめの声で何を話しているのやら、空と五十嵐がいる。空の方は見た目、気だるげそうに手を後頭部に置いて歩いている。

 柚充さんとの会話に集中をしてない、と言ったら半分は嘘になるが、決してなぁなぁにしていた訳ではない。でも、正直相槌の仕方が悪かったかもしれない。

 理由は――人には言いにくい下心ばかりだ。最低だと貶してくれたほうがマシ。

 どうも、目線に弱磁力が発生しているように思える。コミカルに腕を振り、踏み出す1歩1歩の足の動きは大きい。割と大げさな動きのため、日の焼けを微塵も感じない白く淡い肌をした首筋が、揺らめく御髪の隙間から時折顔を出す。長い間、日ごろから、奈留莉さんが後ろ髪を結んでいるタイプだったら対して何も思わない筈。でも、定期というか……時々なのがよくないのだ。

 それだけなら、全然何とも思わない。余裕を保てている僕だとしたら、今の会話中に僕から小ボケを挟んで柚充さんにツッコんでもらう、という計算しつくされたオシャントークもできるだろう。でも、そうはいかないし、実際にできてないし。

 僕には世間的な一般をしらないから、どのくらいから短いという判定になるのかは分からないけど、僕にとってはどうも短いと思ってしまう。生地が薄めなせいなのか、軽そうに見えるスカートから伸びる奈留莉さんの細い足。健康優良児で運動神経がよさげなのが血色から伝わる。肌と同じくらい白いと言っても過言ではないだろう。ふくらはぎと、膝窩しっか、上にいく分徐々に厚みを持つ、太も――――そこで僕はぶんっと首を振って目を逸らす。

 いたって、まじまじと見ている訳じゃないし、そもそもこうして思って見ていることがいけないことだというのに……それでも、どうしても視界に入って――。

「……んふふっ。小森さん、小森さん(小声)」

「――ピっ!!」

 気持ちは、デスゲームの鬼ごっこの最中で隠れてる真後ろに鬼がいた感覚だ。音として聞き取れないような高音声を発して全身がのけぞった。笑い声と僕を呼ぶ方を向くが、言わずもがな柚充さんだ。にやにや微笑みながら口元に手を当て、奈留莉さんからの死角になるようにしている。ホ、ホントにびっくりした……。まだ心臓がバクバク言ってる。

 でも、この反応で分かっただろう。僕はイケナイコトをしていると。分かってしていた訳じゃないけど、この反応を自分でしているということは……思い当たる節があるんですよね。……さいてー、僕。

 柚充さんは(失礼だけど)気味が悪いくらい口角を上げたまま僕に耳打ちするかの声量で教えてくれる。

「小森さん? 1つ、耳よりな情報です。とは言ってもわたしも入れ知恵なのですが〝女性には、下心を持った相手からの視線の先は100%分かる〟というパッシブスキルがあるんですよ? わたしは対面してる1対1の構図でそのようになると思っていたのですが、どうやら第3者からでも分かるようですね!」

 そう言うと柚充さんはよほど面白いことがあったみたいにクスクス笑い始める。

 その説明を受けてる間の僕は冷や汗がダラダラ止まらなかった。

「…………ゴメンナサイ」

「あ、いえいえ! そういう訳ではないんですっ! ただ、小森さんは知ってるのか、と疑問に思ってただけだったので! ……(わたし的にはもっと距離を近くしてもらった方が)――」

「え、なに?」

「あっ、いえ……」

 何故か、妙な間を持って黙る柚充さんとじっと目と目が合う。どこか、目を見ていると吸い込まれてしまいそうな不安感が体を蝕み、なんか聞こえないはずの幻聴が届いた。おかしな話だ。でもただの幻聴だったかもしれない。……でも、それならどうして、柚充さんは目を合わせようとしている僕から目を背けるのだろう。

 じーっ――――。

「ほんとに何でも――」と柚充さんが手を振って弁明をしようとしたとき

「なーんの話してるのーっ!」

「ふぇぅ!?」

 急に首裏につるっとした冷たい感覚が勢いよく押し付けられた。

 唐突に押し付けられたその感覚のすぐ後、もはや馴染んだとは思いたくないけど馴染んできた香りと、むにっとした柔い感覚が頬に着く。

 僕と柚充さんが内緒の話をしていると、前にいた奈留莉さんがいつの間にか後ろにいる僕らへ振り返り、光と同等な速度で飛びついてきた。お陰で左足が何とかストッパーの役目を果たしくれて、衝撃を吸収するかの如く、奈留莉さんの体を支えこんだ。パラパラ揺れる髪が鼻先に触れ、思わずくしゃみが出そうになるのを必死に我慢する。

 それと、相変わらずの距離感のバクに、僕は全身が熱くなる。その熱が密着している奈留莉さんに伝わってないことを願い、でもだからと言って何かできる訳もない。

 柚充さんへ『HELP!』の視線を送ってみるが、柚充さんは『S♡rry(ゴメンナサイ♡)』の文字をそのまま瞳に映していた。

 どうやら、僕が何とかするしか……。

「あれ? もしもーし?」

「あ、聞いてるし見てるよ? って言うか、この距離だから気づいてるよね!」

「えへへぇ」

 歯を見せながら笑うと、奈留莉さんは両手をパッと離して僕からも離れた。全く、タダでさえ夏の暑さで精一杯だって言うのに、ここにも暑さの脅威が住み着いているなんて……。しかも、物理でも気持ちの問題でもあつくさせる人体……。奈留莉さんって、もしかして冬場だと需要高くなったりするのかな。

 僕は、何だかさっきまで奈留莉さんがこの体にぎゅーっとしていたのが途端に恥ずかしく、その考えを振り払うため、小さく身震いをした。

「もう……別に大した話じゃないよ。――え~ほら、後ろにいる2人の話」

 後ろというのはそのまま空と五十嵐のこと。だけど、勿論2人は関係ないし、僕らの声も聞こえていないようだった。向かいの通りにあるラーメン屋を見ている。

「あの2人のことで、内緒なお話?」

「あー、そう! ちょっと、ね」

 僕は柚充さんにアイコンタクトを取ると、一瞬、何か分かってなさそうな間を挟んだのち、ハッと気が付いて高速で頷いてくれた。

 だけど、こういう時に察しがいい奈留莉さん。ジーっと目を細めて僕らの目を見てくる。奈留莉さんの目に、焦った僕の表情が映っているくらいには圧のあったものだった。

「ふぅん――。私に対しての秘密事は全部Nothingにした方がいいんだよ? 人生をよりよく生きていくためならね?」

「……………………」

「……………………」

 変に威圧感があり、喉の上で止まっている唾を上手く飲めない。それどころか、何だか全身がゾクゾクして金縛りにあっているみたいだった。柚充さんも隣で同じように固まっている。

「……………………じ」

「じ?」

 柚充さんは、こらえきれなかったのか、カラカラに乾いたような声を出す。(嘘!? うそでしょ柚充さん!)という視線で必死に訴えるが、柚充さんは目に入っているのか、入っていないのか分からない状況。ただ、泳いだ目で奈留莉さんの瞳を見ている。言うの!? 言っちゃうの!?

「…………じ!」

「じ、のあとは? ほぅら、解答者には生まれ変わりの先までなら選ばしてあげるから――」

「え、死ぬの!? 僕ら死んじゃうの!?」

「……じっ!」

 気持ちは、波が勢いよく打ちつけられている崖っぷち! 僕と柚充さんは手首にロープを巻かれながら、すらっとしたズボンにスーツを着こなし、漆黒のサングラスをしている奈留莉さんに拳銃を突き付けられている。こんな状況に追い込まれる今まで、は打ち明けなかったのに今となって柚充さんは――!

 息を吸う柚充さん。それを見る僕は(もう終わりだー!)の表情。勝ちを確信した奈留さんはニヤリと悪い顔で笑い――段々とスローモーションのドラマでよく見るワンシーンようになるかと思いきや


「じ、実は空さんと五十嵐さんが、先ほどすれ違ったOLをいやらしい視線で見ていましてっ! そういうのは気づいているようなものなんですよ、と小森さんに――」


「…………はぇ?」

 目を瞑って、この先のこと全てに怯えていたのだが、心配はいらないようだった。というか、心配なくなった。

 僕は柚充さんを見る。柚充さんは変わらず凶悪な奈留莉さんを見ていたけど、背中に組んでいる手、その手でグッジョブと親指が立っていた。予想もしていなかった言われたエピソードは本来は僕が当てはまるはずだったのに……柚充さん、この人はっ! うわー、と喜びで叫んでしまいそうだった。なんというファインプレーなんだ!?

「本当なのか?」

 普段の声から想像もできない渋めの低っい声で奈留莉さんは尋ねる。拳銃が僕の方を勢いよく向く。微笑んでいた表情をなんとか緊張したものに戻し、何度もうなずいた。

 だが奈留莉さんは疑っている。バシッと伸びた銃を持った腕は一向に下がらない。きらりと光の線が生えた、暗黒に染まったサングラスが僕を映した。そこからは目力のにらめっこだ。首筋を汗がつーと垂れる。目線の見えない相手に睨み続けるのは気を狂わせるけど、それでも顔を背けるようなことは絶対にしない。

 体感、何時間のように思った時だったが、固かったボス奈留莉の顔は、不意に『へにょぉ』と表情が緩み、ぽいっとサングラスを捨てた。

「なーんだ、そういうことだったんだぁ。てっきり、私は小森くんが何かそういうことしてたのかなぁ~って思ってたんだけど! 気のせいだったみたいだね、ごめんねぇ、なんだか怖い感じになっちゃって!」

「い、いえいえ、誰しも勘違いはするものです!」

「モ、モう、奈留莉さん勘弁してほしいよー」

 ……ごめん、空、五十嵐。いつか、2人にはアイスか飲み物か、何か奢ってあげようと思う。うん、その方がいい。罪のない2人が、唐突に罪を被せられたのだから。あんな健気にラーメン屋を見ながら恐らくラーメンの話をしていただけだというのに……。あ、今度ラーメン奢ろう。

 奈留莉さんはいつもの笑い方をしてから、うんざりしたような、呆れたような。冷ややかな声で語尾を伸ばしながら言う。

「えへへ、気をつけるね。それにしてもほっんと、空くんとか五十嵐くんとかさーぁ……」

「…………そ、そんな言わなくても……イインジャナイカナ」

 右左手の人差し指の先をツンツン合わせる。これで変なイメージを付けられてしまう2人は――変に僕が空と五十嵐をフォローもできないので僕の声は段々と小さく、最終的には消えてしまった。名前を(勝手に)使ってる上で助かってるわけだから、本当に感謝でしかない。

 だけど、奈留莉さんはきりっとした表情になって胸の前で拳を握る。

「――仕方なし。どんなOLだったか、後でじっくり聞いとこ」

「え、悪ノリしないで! 何も仕方なくないよ!?」

「OLっていいよねぇ。今日も変わらない風景を送り、何1つ変化のない毎日の作業。体は段々と自由が利かなく、椅子に座ってるだけでもすり減り、画面や用紙とにらめっこしてガチガチに固まる瞳。ほ~んと、働く人たちにはこの先、世代が変わって私たちが例えば大人になった時……地盤を作ってくれる頼れる存在になるよね」

「……それって、OLじゃなくて、社会人全体に言えることじゃない?」

「――いやぁ、働くってすごいよ。会社員、アルバイト、パート、営業先での出張要員。日々の積み重ねた苦悩と労力が、顔も声も知らない人への生活の支えとなってるんだから。上からって意味じゃないけど――やっぱりえらい! そう思わない? 私なら、働きながら歌でも歌ってなきゃ正気の沙汰じゃないと思うっ!」

「結局、ホントにOL関係なくなったじゃん…………」

 なんだか言いたいことが全部詰まった引き出しを、開くだけ開いて、中身を全部出しきったらそのまま放置している――みたいな感じだった。奈留莉さんは顔を引きつらせる僕を置いて、さっきと同じように腕を元気に振って道を進んでいく。どちらかというと、さっきより元気度が増しているかもしれない。歩き出しの最初の数歩は軽くステップ踏んでから歩き始めていた。 

 社会人? や会社員? の話は、僕には結局奈留莉さんが何が言いたいのか難しくて分かんなかったけど、同じく凄いとは思う。

 きっと、飼育小屋の清掃や管理とはかけ離れた労力と体力を使うのだろう。

 ――今の僕には、自分が社会で働いているという未来が想像できなかった。



☐ ■ ☐ ♪ ☐ ■ ☐



「っだから、それがイミ分かんねぇって言ってんだって!」

「もう、え、実は私たちってループしてる? 今空くんの愚痴を聞いてる私は何回目の私? 何番目? エンドロール何回くらい見た?」

「大丈夫、大丈夫。僕らの体が薄くなり始めたら未来か過去が変わったってことだから、まだ心配はいらないよ」

「愚痴の濃度を薄めてほしいのは、空くんの方なんだけどね」

 空は今でも「なんでわっかんねぇかなー」と額に手を当て、苦虫を嚙み潰したような顔をしている。この顔を見るのももう何度目かだ。同じようなことを繰り返し、僕や奈留莉さんが「○○なんじゃない?」と案を出しても、空は「いや、それだったら――」と口が回るも回る。物理攻撃武器が壊れ、残るは弓矢しかないという状況で、相手が常時反射持ち、みたいな感じだ。言葉の矢が『カーン、カキーン』と甲高い音を立てて跳ね返ってしまう。……嫌な敵キャラだなぁ。

 優しい、やさしーぃ、柚充さんは今となってでも「うんうん、はいはい」と相槌に頷き。「分かります分かります」と共感を続けている。あの人は、きっと高校のことある度に行われる〇〇式の時、お馴染みの校長先生の話を真剣に聞いているタイプの人だろう。僕だったらステージの国旗を意味なく眺めてしまうし、奈留莉さんだったら天井に挟まったバレーボールを眺めているに違いない。柚充さん凄いよ。

 五十嵐は……もはや空の話に参加すらしていない。慣れたのだろうか、ぽけーっとした顔で向かい側の街を眺めながら歩いている。

 話は簡単に言うと――


空「『喉によーく効く! すっきり飴』って、書き方ののど飴は〝すっきり〟させるべきなのは〝喉〟であって〝飴〟をすっきりさせたい訳じゃねぇだろ!!」


 と、言うことだ。

 なんだか「たしかに?」とも「いやいや違う」とも言えないから、それが何とも言言いにくい。

 これだけのことをもう結構話している。いや、今も話している。あとちょっとで到着しそうな距離なのに、一向にやめる気配はない。今思えば真剣に向き合ってたあの時間の方が無駄だったかも……。

 空はヒートアップした勢いで続く。

「でよ、でよ? おれも何も知らねぇでごやごや言うのはよくねぇと思ったから、買って舐めてみたんよ。……喉の調子悪いわけでもねぇのに」

「どうだったんですか?」

 首を傾げてちゃんと話し相手になってくれてる柚充さん。やっぱ凄いよ、この人。

 空は、まるでそののど飴のことを思い出すかのように顔をしかめて目を瞑りながら言った。

「――まじでめっっっちゃ、普通ー。レモン味」

 空は当時の怒りを思い出したかのよう、ぐつぐつと体の中に溜まった憤怒のマグマの熱を全身の穴から吐き出しているようだった。ぷしゅーと白い煙が出ている。まるでトラックの排気ガスのようだ。僕らは、高速で渋滞になっているときにその大型トラックの後ろに運悪く並ぶ羽目になったバイクの感覚になる。ものすごく、暑い……。許せない話は、どうやら周囲の人も暑くさせるみたいだ。……空とは違ったアツさで。

「あ、レモン味なんですね。スッキリと言いながらハッカとかミントとかじゃなく」

「いや、そう!! それな! ホントだよ。おれの話が分かるのは柚充くらいが――」

 空が歯を見せながら人差し指を何度も振って頷いていると、そこに割って入るかのよう――いや、割って入ってた。奈留莉さんがしびれをきらし、ぶんぶん両手を振って大きな声をあげた。

「だぁーーーあっ! もう、おしまいっ! しゅーりょー! ただでさえ暑いのに、ここに熱を発する根源がいたらたまったもんじゃないの!」

 奈留莉さんはぜぇぜぇ息を切らし、言い切る。僕は隣で何度も頷いて、頷いて、頷いた。耐えれなくなったのか、奈留莉さんは上に羽織っていた長袖の薄目のシャツを勝手が悪そうに脱いだ。細くて色白な腕が露になった。

 ……口にはしないけど、折角の似合っていた可愛い恰好が空ののど飴の話で変わってしまったという事実に、僕はいよいよちゃんと空を睨み始める。

 …………でも、今の楽な格好もそれはそれで――。

「ちょっと、これ持ってて!」と奈留莉さんにぐいと腕だけ向けられた脱いだ後のシャツ。僕はためらいはしたものの、放り投げるかの勢いで渡すので、皺にならないように何とか大切に持つ。お腹の前で抱える、その距離なのに異様に奈留莉さんの香りが近いような気がして……たまったもんじゃない。羽のように軽いそのシャツと、生地のさわさわ感が、どうも僕を狂わせた。……手で受け取ったこの形から動けない。

 そんな僕を振り返りもせず奈留莉さんはぐいっとしかめっ面の顔で腕を腰に当てながら、珍しくちゃんとキレ気味で空へと迫っていた。頭に💢を浮かべている。

「あのさ! 、とは私は別に言わないけどさ! そのパターンって結構すでに存在してるでしょ! 〝とかしたことないーぃ〟とかそれが自分語りだし、〝防寒対策〟とか寒さを防ぐのを対策とか意味わかんない! 〝「いやぁ、もう災難です。ま、まさかこんなことになるとは……。……」〟――いや、出とるやないかいッッ!! 日本語って美しくて繊細でいろんなことを表現できるけど、こんなことって結構探せばあるから! それを背負って私たちは会話をしたり、メールをうったり、小説を書いたりしてるの! 日本人として生まれた私たちは、それが運命さだめだからっ! わかる!?」

「…………ぉ、おう」

「――じゃ、いいや! 分かってもらえて光栄ですっ」

 あまりにも熱量がすごかったのか、空は身を反ってたじろいでしまっていた。

 奈留莉さんは熱が冷めた空を確認すると、顔のお面をグリンと回転させるかのように、怒りに満ちた顔から、いつものにまにま笑み顔に変わる。その移り変わりの速度はというと、秒速とかじゃない次元の速度だった。

 その一説、まるでドラマのワンシーンかのように気合の入っていたやり取り。もはや奈留莉さんの方が生み出す炎のせいで熱くなってしまったその周辺から、何歩か下がって熱を感じない場所。ただ、僕と柚充さんは横に並んで拍手をするだけだった。 

 パチパチ、拍手とは違った音。少し離れているから奈留莉さんを全体として見ることができるのだが――

「ふぅ……。いやぁ~それにしても何だか熱くなっちゃったよ~。あっ! ちょうどそこにコンビニがあるからみんなでアイスでも買わないぃ? いいね奈留莉さん! おっ、奈留莉にしてはいい案だなァ。ふふっ、確かにいいですね。レッツごー!」

 片手を元気に上げて今にも走り出しそうなテンション。さっきの別人格みたいな会話の中の人たちは……僕ら? 声が妙に裏声になったり、森でジムニーシエラに乗って骨付きの大きなお肉を焼きながらゆったりとキャンプしてそうな渋いおじさんみたいな声は……空か、五十嵐? まるでお嬢様みたいなのは、以外と似てた柚充さん……じゃない! そんなこと言ってる場合じゃない!


 奈留莉さんが変にしているのだ。


 あの熱弁で熱を増しているのかと思いきや、色んなゲームで見るであろう無敵状態。それと等しく、奈留莉さんの全身がオレンジやピンクと言った赤色に近い色の光をオーラのように身に纏っている。ピカリと光る星々は、まるでお星さまを手に入れたか、キャンディーを手に入れたか、同じ光り方だ。

 恐る恐る指を差し、どういう訳か本人に尋ねてみる。

「奈留莉さんは……なんで光ってるの?」

「光ってる? 何のこと? いつも光ってるのは小森くんの方! You are my Super Star! 光の跡を残す一番星だよ~っ」

「……う、うん(?)。そう言ってくれるのは、嬉しいけど…………」

 奈留莉さんは段々と僕に近づく。その時に気が付いた。

 微かに、ホントに耳を傾けないと聞こえないくらいだけど、奈留莉さんの体の中? 

だろうか。空洞の中でスマホから音楽を流したときみたいに、反響したような籠った音が流れ続けている。音はとても小さい。 

 思わず走り出したくなるような、アップテンポで、チップチューン。いかにもゲームっぽい音楽。テケテーテケテー♪と、聞いたこのないフレーズだが、この感じはどことなく近しいものを知ってる。というか、例で挙げたさっきのやつだ。

 僕は試しに奈留莉さんの胸に身を傾けてみて、呟くように小さな声で言った。

「――な、奈留莉さんの無敵BGM……?」

「も~う、浮かない顔してーどーしたのー? そんなときは~最近、恒例、お約束にもなってる――?」

 ズンズンと両手を顔の前に出し、全部の指に骨が入っていないんじゃないかと疑うくらいに軟体に指をくねくねさせて僕の方へと近づく。そこまで距離が空いているわけではなく、なんなら皆の中で一番近い。間隣でその小悪魔的表情に足を1歩下げるが、あっという間に捕まってしまう。「なる――」と、名前を呼んで怯える暇もないくらいには、一瞬で……。

 僕は、を食らう羽目になった。


「はい、ぎゅ~~~~~っ♡」


「――――――っんむっ!!」

 目の前が真っ暗に変わる。後頭部に手がある気がする。ただ、それ以外は何も分からない。視界を封じ込られ、ジタバタしようも行動は制限され、僕の手はくうを掴む以外なかった。バランスが崩れてしまいそうな前傾姿勢で、鼻の筋と顎先までのラインがどこか居心地のいい場所が存在するのか、ぴったりとフィットしている。ソファのクッションとクッションのちょうど境目にうつ伏せで倒れたときと同じ感触だった。

 ――というか、になっちゃうけど。僕、今、今までにないくらい奈留莉さんと距離近い!? 

 頭上で奈留莉さんと、奈留莉さん以外のギャラリーが何やら喋ってるのが聞こえる。この嫌味っぽい、人をいじるのが大好物な言い方をしてる2つの声は空と五十嵐に違いない。妙な裏声で口の前に手を当てながら喋ってるであろう、ご近所のおばさまの真似でもしているのだろうか、うん、そんな気がする。

「あ~らやだぁ、もう! こんなお昼過ぎの良い時間帯、公共の場で人目も多いというのに、あの2人ったらナニをやってるんでしょ~ねぇ~? どーです? 奥さん、いかがわしいと思いませんこと?」

「まったく、ハレンチ極まりないですわ! 最近の高校生はどういった学習方法をしているの!? うちの子も今年はお受験なのよ? こういった子たちみたいに勉学以外のことに現を抜かしだすんじゃないかって、心配で心配で――」

「お前、謎におくさんキャラ上手いのなんなん?」

「――――!!」

 今のは僕が「(茶番の前に助けて!!)」と叫んだものだ。僕の声は全部「もごもご……」としか聞こえていないだろう。このままでは、画面の下あたりに〝(小森 裕)いい加減にしてくれ! スーパー帰りに玄関前で話し込むのは!〟と海外映画節をきかせたセリフを言い続ける羽目になってしまう。これ以上上手いのが特に思い浮かばないから勘弁してくれ!

 僕は、顔を何か妙に柔い感触からぐいぐいと抜け出し「ぷはあっ!」と息を吸う。――ぜぇ、ぜぇ、苦しかった……。まともに呼吸ができないほどって、もう笑えないよ……。

 一瞬だけ視界が晴れ、まだ顔の周りが甘くて魅了させられそうになった香りが漂ってるのを何とか無視し、目をぐるぐるさせたまま僕は肩で息をした。深く息を吸って、目の前にいる奈留莉さんに対し、文句を言う。 

「なにさっ――――――」

「だから、抜け出しちゃったらだめだって~。今の私には敵なしで無敵なんだから! 小森くんいい匂い♡ (スぅ――っ)……落ち着くぅ」

「――――////!!!!」

 僕はまた闇雲へ抑えつけられた。アホ毛の位置。僕は全身がびくびくっと震えて、足が一瞬脱力しかけた。頭皮にすーっと息が当たる。温かい感触が頭にまで渡ったような気がする。僕のに、匂いを、奈留莉さんが嗅いでるっ!?!?

 あまりにも焦ったせいで、僕はいつもの力が倍加した。それとも羞恥がそうしたのだろうか? 腕に輪っかとなって固定されている頭を、ほんと無理やり、ぐにょーっと自分の頭がお餅みたいになるくらい強引に奈留莉さんの束縛から抜け出し、その瞬間にバク転バク宙アクロバティックを使用し、奈留莉さんとの距離を取った。

「――――(はーっ。はーっ)」

「あえ? 小森くん、そんな機敏に動けたんだ! 凄くない!? 今の!」

「――――(ーーっ。はーっ)」

「……すごい臨戦態勢だね。威嚇してる猫みたいだよ」

 言われてもやめない。もう警戒心を解かない。僕は左手を地面に、右手を肩の上まで上げて、姿勢を低くした状態のまま奈留莉さんを睨むに近しい目線で見る。今なら機械で作られた翼を装備した人にも負けない気がする。

「ねぇ、柚充ちゃーん! なんか言ってよ~。小森くんが冷たいよお。放射線の蜘蛛に噛まれた高校生のようなポーズしてるよぉ……」

 柚充さんの方をぴえん顔で奈留莉さんは向くが、柚充さんは怖いくらいに真顔だった。いつものように真剣に学校の授業を受けているときと一緒。悲しさを訴える奈留莉さんと無表情の柚充さんとのやり取りを、僕は、いまだ臨戦態勢のまま見ている。……周りの人からしたら異様な光景でしかない。

 柚充さんは真顔で手をぽんと叩くと、笑顔になった。

「今日はこれで――」

「隙あり」

「っ!?」

 意味の分からないことを今日も言ってるよ、と柚充さんに呆れていたその瞬間。奈留莉さんの声が耳元で聞こえた。

「ひぃつ!!」

 声のした背中側に思わずぶんっと手を振ってしまう。だけど、その横振りは風を切るだけだった。姿を見失う。気配が消える。誰も、いない。

「――――(トントン)」

 背筋に、細い指がタッチする感触が走る。生唾を飲んだ。冷や汗が上から下へと流れる。……ま、まさか、あの横振りを大きく飛んで、僕の背中側に回って――。

 そっと、後ろを振り向いた。顔に影がかかる。


「あ、ま、い、ね、え。こ~も~り…………くぅ~~~ん♡♡♡」


 手がまた全身を舐めまわすかのように伝い始めた。そこにいたのは、奈留莉さんだけど、奈留莉さんではない、いや人間ではない何かのようだった。目の中はどろどろの何かが動き、粗めの息が近い。舌なめずりされながらこちらを見る視線はこの先、何が待ち受けてるのか分からない恐怖心にかられた。


「いいいいぃぃやああぁぁぁぁ!!!!」

 

「……なぁ、おい。いくらなんでも長くね?」

「あぁ、オレも思ってた。いつもなら奈留莉の方から日和ったりして下がったりするんだけどな」

「普段からの奈留莉さんから向かうスキンシップは、平均時間が12.5秒台なのに対して、今ここ等のやり取りは2分以上を経過しています。単純な回数でも倍以上……」

 柚充さんは顎に手を当てながらいたって真剣に考えこんでいた。その横に並ぶ空と五十嵐は、普段彼らを見ているときの目線を今度は自分等が柚充さんに送っている。

 どうやら奈留莉さんがいつもよりも暴走して、暴れているように思えてきたらしい。僕もそう思う。暴走ってレベルじゃない。1つの、

「……っ、うぐっ。柚充さん、真面目に怖いこと言うのやめてぇ。それより、早く助けてぇ」

 僕は涙を拭いながら言う。腕を何とか隙間から伸ばすことによって、今体に巻き付いているこのシャツに涙がぽろりと落ちる心配はなくなった。

 そう、奈留莉さんが僕の体に蛇のように巻き付いているのだ。左頬に額辺りをスリスリさせて、時折首のラインをなぞられる。もはや羞恥や距離の近さが生む恥じらいより、悲しみと恐怖によって生まれる涙がそういった系統の感情を打ち消した。

 なにを唱えても聞く耳を持たない、耳に入っても右から左パワーでねじ伏せられるというのはこんなにも怖いものなんだ……。

 とりあえず、コンビニまでこの状態で歩いた僕らは、車の数が少なく、スペースの開けた場所で滞在している。体に女の子を巻き付け、ズルズル歩きながらコンビニの〝果実の味わいを楽しめる触感フルーティーアイス〟を買いに行くとなると、ワンチャン警察を呼ばれることになってしまう。警察沙汰じゃないにしても「な、なんだこいつらッ!?」と変人のレッテルは貼られるに違いないだろう。……ここまでの道中で既に言えたもんじゃないけど。

 腕を組んだり、考え込んだり、泣く僕と纏う奈留莉さんを見ながら3人が話している会話がなんとか耳に入ってくる。 

「う~ん、普段からこうだとしてもよぉ。なんかもーちょっと違いが分かりやすいと助かるんだけどなぁ」

「違いなら分かりやすいじゃないですか!?」

 ――柚充さんは珍しく語気が荒々しかった。空が押されるレベルだ。

「……そりゃ、柚充からしたらミクロン単位でも気づくかもだけどよお。おれからしたら奈留莉と小森がイチャコラしてんのは日常茶飯事だからなんも気にしてねぇつーか……」

「でも、奈留莉があんなにハイテンションなのも珍しいよな? テンションは高い方だと思うけど、お~ん……。あんなブレス1回もとらないでしゃべり続けれるか? 人間……」

 3人は僕の横で呂律を回し続ける奈留莉さんを見た。

「なかなか存在しないよね神様が私のことを知ってくれたからこの出会いがあったと思うと神社行ったときにご縁があるからって言って五円玉渡せなくなっちゃうじゃんね五円って絶対少ないもん私と小森くんの円は切っても切れない極太の線で繋がってるけどはぁほんとこんな人間を生み出してくれた世界に感謝でしかないよ誰が作ったんだろう私から何か賞でも作って授与した方がいいのかなわかんないやでもしてくれた功績がでかすぎて何から称えればいいのかわかんないよそれも罪だね私の主観できめるとするのならまずこの耳たぶだね耳の形が小さくて髪のボリュームが結構小森くんはあるからあまり外に出ることはないんだけど逆にそれがよさを引き立ててるよねほらチラリズムこそ至高だとかいるじゃん私には今までその考え方全く分かんなかったんだけどまさか小森くんの耳で理解するときが来るなんて思ってもなかったよ福耳じゃないからお金持ちにはなりにくいって言われるかもね小森くんでも私小さいその耳たぶホント好きなんだよ信じられないくらい柔らかいじゃん羨ましい冷たいし今度わざとなにかでやけどして耳たぶ借りるねあでもこれ言っちゃったらダメかあははっまぁいいや隙を見て耳を借りよううーん言っても言っても尽きないし耳のお話も全然終わらないんだけど良さはそれで収まんないし誰かにミュージシャンを勧めるとしたら大好きな1曲を永遠に聞かせるよりシングルを古いのから順に追ったりアルバムを貸してあげたほうがいいもんねじゃあねぇつぎはほっぺた~見てほらぁすべすべぇ最高でしかないですであったかいのよ人のほっぺたって肌のぬくもりって言うのかなわかんないけど落ち着くよねぇでちょっとだけつまめるの小森くんやせ型だし小柄だしシュッともしてるんだけど何だかほっぺたはちょっと柔らかくて子供っぽいっていうかぁ逆にいいよねしっかりもので頑張ってるしけどほっぺた柔らかくて触り心地いいのうーんなにかで表現できないかな小森くんほっぺた感触再現ぬいぐるみクッションとかあったら私3箱買うのにそれなりに売れると思うよいつも枕は小森くんの柔らかさに包まって起きてもうつぶせても眠れなくてもすぐ安眠出来ちゃいそう香りも再現出来てたら最高だよねあその流れで言うと小森くん(すぅ~~~~~~~~~っ)ぱあっどうしてそんなに甘くていい匂いするのかな何だかシャンプーとも言えるし柔軟剤とも言えるし人のにおいでもあるのだけど肺に全部ため込んでおきたいようなきっとラクトンがいっぱい放出されてるんだろうね草原みたいな真夜中のうとうとする時間にテーブルのライトだけで本を読んで月明かりが窓の隙間と入ってくると同時に小森くんが側にいてこの安堵する香りが胸を締め付けて来たら私泣いちゃうかもああっひらめいた小森くんのさっき言ったほっぺたぬいぐるみクッションと小森くんの香りをイメージした香水を作ってさ売ったらいいんじゃないこれでさ全国の小森くんファンに大人気間違いなしだし夜になったら一緒に寝て起きるか眠りにつく前につかいやなんでもないや使用用途は人それぞれで観賞用にも保管用にもとかね深い意味はないよほんとにでもいい考えじゃない何もスポンサーも製作も決まってないけどまぁいつか作れたらだよねかなわない話じゃないかも夢をかなえるのは君たちだそこには将来の夢が決まってない私も含まれるあぁまってやっぱりさほっぺたクッションは諦めてないけどぬいぐるみ路線としてさあの色んなアニメとかゲームとかでミニキャラっぽくなった子たちがチョコンって前に足出して座ってるやつあるじゃんあの両足前に両手はすんって先っぽがまるっこいやつあれいいよね私あれいろんなの持ってるんだぁそれだったら小森くん絶対会うと思うんだよね普段でさえミニキャラみたいな格好と見た目よりなのにさあっ作るなら絶対アホ毛と服の下のお腹とパンツは作るようにしようぺらりってできるようにぺらりってできるようにぺらりってできるようにうーん悩ましいけど白だよねイメージだしそれが一番な気がするここは運営さんと物凄く話し合わないといけないみたいいつか叶うといいないや叶えるんだこれを聞いたそこの君未来は頼んだよ誰しもやりたいことができるチャンスがくるそのチャンスの時にいかに全力を尽くせるか期待してるよまぁみんなの中には私も小森くんも誰だって含まれるんだけどねあそれで言うと時折小森くんが言うセリフにも着目してほしんだよねなぁにあの真面目にツッコミキャラをこなしてくれる仕事への向き合いかた私がどうしてもこの――――――」

「――んな、できるか? 人間離れしてる」

 聞く耳を持ったときはこれくらいの質量を動画の再生速度を2倍にしたときの解説チャンネルのように喋っていたが、これだけじゃない。僕は間隣にいるので相槌をうつタイミングも質問もすべて無視されこのようなことを繰り返し続けている。街で急に知らないおじさんが話しかけてきて戦争や政治のことを何度も話すが、活舌と声の大きさの問題で聞き取れなく何とか喰いついくしかなかったときくらい大変。


「おぉ、ただでさえ大変なのにがいなかったらもっとやばいことなってたぞ。――というかこれちゃんと聞き取れたやつどんだけいるんだろうな」


「な~ぁほんとだよ朝陽――――」

 ウィンとコンビニの自動ドアが開いて缶のエナジードリンクを手にしながら藍色の髪をした1人が空の横に並んだ。


「「「「」」」さん!?!?」


「よう。忙しそうでなによりだな」 

 朝陽はそれだけ言うとセロシュガーのエナドリを1口飲んだ。皆目を丸くしてその様子を見ている。僕の涙も引っ込むわけだ、こりゃぁ。

 空が朝陽を指さして尋ねるが、その指先は霊でも見たんじゃないかってくらいに震えている。もうここまで来たら、何故ここにいるか分からない朝陽のことを霊とした例の方が納得できる気がする。透明でも、瞬間テレポートでも朝陽ならできそうだし……。

 でも、人間だからそんなことできるわけない。PPは現実世界じゃ存在しない。だからこそ、皆ここに朝陽がいることに驚いているのだ。

「あ、ああ朝陽! おまっ、なんでここに!?」

「なんでって……安藤のとこ行くんじゃないのか?」

「いや、まぁ……そうですが……」

「それより、お前ら困ってんだろ? アイツのことで」

 朝陽はアイツと言いながら缶で奈留莉さんを指した。動揺している僕らに比べ、如何せんこの人は冷静だ。朝陽の顔の向きと目線では、抱き着かれている僕も含まれるだろう。どうして朝陽はこの状況を理解しているの? 口にするのはなんとなくだけどやめておくことにした。

「あぁ、まぁ……」

 歯切れの悪い返事で空が答える。

「見てみろよ、五十嵐がさっき言ったかもしんないが、アイツ光ってる」

 言われた通りに空は目を凝らして奈留莉さんを見た。まるでコンタクトを入れ忘れたときの黒板を見る僕みたいだった。写真を撮られて奈留莉さんに見せてもらったことがある。それはそれは目を細めていて。

 でも、言われてみれば確かにそうだった。もはや遥か昔の事のように思えるかもしれないけど、確か空の続く愚痴を奈留莉さんが止めたあと、妙な発光をし始めたんじゃなかったけ? 実際言っててもその常識ばなれたことに対して疑問を持ってしまう。――いやそうでしょ。何? 発光って……。

 朝陽が奈留莉さんのことに触れてから、余計光の強さが増したような気がした。オレンジとピンクの光が増す。例の〝奈留莉さん無敵BGM〟も前回聞こえた空耳のような音量から増した気がする。一瞬だけ奈留莉さんが壊れた機械のようにブルブルっと震えたような気がした。

「――もう、小森くん!! ちゃんと聞いてる? 私は君のことを喋ってるのに、当の本人が聞いてなかったら何の意味もないんだよ?」

 奈留莉さんは急に僕に尋ねる。正直なことを言うと何も聞いていない。あ、僕に喋ってるんですね。でも、ここは様子のおかしい奈留莉さんを刺激させないように

「あ、うん、ごめんごめん聞いてる聞いてるよ。え~っと――お味噌汁に入れる油揚げっておいしいよねって話?」

「っふふ、小森くんはやっぱり面白いなぁ。ぎゅ~ってしたくなっちゃう♡」

「え、え、え? ちょ、ちょっと待って! 何その取って付けたような〝面白いなぁ〟! 今僕が言ったこととつながる?」

 抱きしめている力が強まったような気がした。いや、強くなっている。僕は、体のラインと密着してる腕の隙間に何とか自分の手を挟んでスペースを取ろうと頑張った。じたばたじたばた……。体を揺さぶって何とか頬を近づけてくる奈留莉さんと距離をとろうと奮闘する。……さもしないと、僕がどうにかなりそうだ。

 というか、何だか、僕が話していること、やっていること、奈留莉さんには全部聞こえても見えてもないんじゃないかって思えてきた。少し、実験程度のことを試す。

「じゃ、じゃあ、もし僕が、う~ん……はてなマークが付いたボックスがあるじゃん」

「うん」

「そこから出てくるお星さまがジャンプした自分の逆側に行っちゃって穴の中に落ちて取れなくなる時って悲しいよねって話だと……?」

「っふふ、小森くんはやっぱり面白いなぁ。ぎゅ~ってしたくなっちゃう♡」

「なんでぇっ!?」

 ――やっぱりだった。何の意味もない。

 僕は、奈留莉さんに圧死させられるくらいの勢いで抱かれた。

 慣れてもないし、変に心臓の鼓動が高くなってしまい、それをみんなに見られているという事実に全身がゆでだこのように赤くなってしまう。首元に、息がかかって何だか力も抜けてしまう。段々と、熱のように近しい感覚に陥り、視線の先がぼやけ、カチカチしてきた。

 ゲームセンターで取った大きなぬいぐるみみたいに抱かれている僕は、腕から伸びた手を、自分の顔に持っていき、せめてもの防御で熱くなった顔を覆う。

「…………んぅ」

 一向にやめる気配のない奈留莉さんは、いまだ抱きしめる。

 さっきからそうだけど、体力もパワーもある奈留莉さんの抱きしめ方は、本当に体が密着して窮屈に感じるほどのやり方だ。距離と距離が近いも近いので、何だか呼吸の仕方も意識してしまう。温かい奈留莉さんの温度が、触れている肌から直で伝わるみたいで……温かい。…………というより、熱い。


 ――――――というか、!?!?


「……へ? な、奈留莉さん? なんでそんな発光が増して――ハッ!! この音楽は――!!」


     『♪~♪~ 《スーパー奈留莉 無敵BGM》 ~♪~♪』


「っ!! いたい! 痛い痛い痛い痛い!! バチバチする! ビリッってするー!? 誰か! 誰か助けて!! あばばばばばばばば――――」

「小森!」

「こもゆう!」

「小森さん!」

 途端に全身がくまなく電気のような、不思議な力で包まれた。僕の体が奈留莉さんが発光しているまさにその赤とオレンジのような光の電気の餌食となり、古い漫画のように僕の骨が見えたり、全身が点滅したりする。強力な炭酸水でいっぱいになったプールに飛び込んでいるかのような感覚だ。経験したことないし、なんでそんな力が奈留莉さんのハグに存在するかも分からない。うぅうぅう、しぃびれるぅうぅ。

 誰もの耳に届いているであろうさっき流れていた音楽は音量を増している。無敵ってそういうこと!? 実際のゲームで見る無敵状態の被害者ってこういう感覚なの? いや、だからなんで奈留莉さんがぁ!?

 電気か、無敵というべきか分からない、でも強力な奈留莉さんのハグは威力が増した気がした。

「小森くん、楽しい? 小森くん、嬉しい? 小森くん、気持ちい? 小森くん――――」

「んんんんんんんううううぅぅぅぅあぁあぁ……」

「もう少しの辛抱だ! 小森! 引っ張るぞー! せーのっ!」

「いくぞ、オレら力合わせれば、こいつのパワーなんて――ッッ!!」

「小森さん! もう少しの、辛抱、ですよっ!」

 空が、感覚がなくなってきた僕の腕を3人がかりで引っ張った。容量としては大きなカブだ。五十嵐と柚充さんとの3人がかりじゃないと、僕は奈留莉さんからの魔の手から抜け出すことができなかったみたいだ。

 スポーンっと、ひっぱられ、その勢いで僕は地面とキスする。顎を地に着いて、お尻を無様に上げた状態でしか今はいられなかった。なんだか、すべての気力を持っていかれたような気がする。全身が黒焦げの状態だった。

 奈留莉さんは自分の腕の中に僕がいなくなったことにふと気が付き、地に寝る放心状態の僕をすぐさま見つけ、全身輝くだけにはある無敵状態特有の俊足移動速度で近づいた。周りで発光させている輝かしい光とは打って変わり、奈留莉さんのその目は鈍色をしている目の輝きだった。お尻越しにその姿を確認する。嘘……でしょ……。

「ん~~? 調子悪い感じ~? 小森くぅん? じゃーあ、さ! なにかしよう! What do you want to do? Hugging? Drinking? Dancing? Oh! Let'party night!」

 奈留莉さんはそう言って、僕の方へと足を1歩――


「よーし、そこまでだ。長くなると飽き飽きしだすぞ。お前も小森に嫌われたくはないだろ?」


「…………朝陽?」

 僕と奈留莉さんの間。1人の男がゆっくりと歩いて、間に挟まった。その名は朝陽。いつもことながらポケットに手を入れて、少し猫背の格好だ。だけど、その背中がとても頼れる存在だということを気づかされた。

 急な割り込みに、奈留莉さんは目を点にさせて驚いている。それもそのはず。朝陽がここに来てからほんの少ししか話していないのだから。さっきの僕救出力合わせてがんばろー作戦にも参加してなかったし……。

 奈留莉さんは、朝陽からの「嫌われたくないだろ?」の話を聞いて段々と輝きが小さくなっているように見えた。顔色が悪くなる。少し俯いた目からは生気を感じないような死んだ目に変わった。

「……小森くんに嫌われる? 小森、くんに嫌われる。あの、小森くんが、私から段々遠くなって、話を無視されて、呼んでも呼んでも、振り返らず、どんどん奥の奥に、進んでいってしまう? 手を伸ばしても指先から薄れていって、感覚が次第に無くなって、私は自分の意志まで全部失われて……。小森、こぉもりくんに。……こ、ここもも、ここり……蟆乗」ョ縺上s縺ォ蟆乗」ョ縺上s縺ォ縺薙b繧翫¥?弱↓遘√′遘√′繧上◆縺励′縺溘@縺後o縺溘@縺?<縺後o縺溘@縺娯?ヲ窶ヲ――――」

「な、奈留莉さん!!」

「奈留莉ちゃん!!」

「「奈留莉!!」」

 奈留莉さんは、ぶつぶつ何かを高速詠唱するかと思ったら、古いパソコンが何かのエラーを出したときみたいに「ヒ゜ヒ゜ヒ゜ヒ゜ヒ゜ヒ゜アアアアアアア……」と金切り声を出して、目が親友を失ったような絶望瞳になった。目から黒色のしずくが頬を伝い……うぅっ、これ以上見ていると何だか恐怖心が体を……。

 微塵も動かなくなってしまい、その場に膝から崩れ落ちて黒い涙を流す奈留莉さんに、朝陽がぽんと肩に手を置き

「ったく、例えだって。そんな顔すんなよ。ほら、そこのコンビニでアイス1つ買ってやるから――――」

「あっれ~? ほんと~! やったぁ! あの誰かに奢ったりしなさそうな、お財布の口とっても堅そ~な朝陽くんが奢ってくれるの~?」

「前言撤回って言ったら――」

「ごめん、ごめんっ! 冗談、じょーだんだって!」


「…………」


 朝陽はそう言ってコンビニへとまた歩き始めた。その少し後ろを奈留莉さんがスキップしながらついていく。さっきのシステムのバグみたいな表情は何だったんだろうか。そんな顔をしていたような様子を微塵も感じない、いつものニコニコ笑顔に戻っている。

 あんぐり口を開きながら、僕らは奈留莉さんのいつの間にか発光もなくなっている背中を見ていると、くるんっと元気よく振り返り、にぱーっと明るい嬉しそうな笑顔をした奈留莉さんがこちらを見た。

「ほうら! みんなもアイス買おーよー! こんなに暑い日にはうってつけだよね~!」

 ウィンとコンビニの自動ドアが開かれ、朝陽と奈留莉さんの2人は中へと入っていった。

 その様を、僕ら4人は、ただ何も言わず。

 閉じた自動ドアを見ているしかできなかった。



☐ ■ ☐ ♪ ☐ ■ ☐



「…………勘弁してほしいよ」

「もー! ごめんって謝ってるでしょ~? 私も反省してるからー。これで120回目だよ~」

「(ぎろり)」

 そういう奈留莉さんは半分に分けて食べる二度おいしいアイスを手に持ちながら手を合わせて頭を下げる。反省はしているような謝り方は約10回目くらいで終わった。今となっては、投げやり気味に謝っているに違いない。でも、それでも僕は「分かったから。もう大丈夫だよ」を言わないって決めていた。

 かまってちゃんだとも、めんどくさい奴だと言われて結構。理由は簡単だ。

「いや、80回分の謝罪意味ないよね!? あんな高速で心のこもってない謝罪初めて見たよ! なにあの、ゴメンゴメンゴメンゴメンゴメンゴメンゴメン……みたいなやつ! ほんとに反省してるって言えますか!?」

「――反省はしている。だけど、後悔はしていない――あんなに小森くんぎゅーっってできたからね!(キリッ)」

「キメ顔で言わないでっ!!」

「まぁまぁ、落ち着けってこもゆう。もうすぐ着くんだろ?」

 五十嵐がそうやってなだめてくれるまで、僕は奈留莉さんに憤怒し続けた。奈留莉さんはケラケラ笑う。やれやれ、のように五十嵐が息をつくと、途端にチョコレートの棒アイスに勢いよくかぶりつき、1口で食べてしまう。その差はまるで1.52秒。手に持ったアイスを一瞬で棒だけにします、というマジックの入りでも使えそうな食べ方だった。頭きーんってなって叩いてる姿は、五十嵐だなぁと思った。

 僕らはコンビニで各々アイスを買って、それを手にしながら、もはや目的を忘れかけていた安藤先生が示した場所へ向かっている。さっきのやり取り通り、奈留莉さんは朝陽に半分に分けるアイス(マスカット味)をおごってもらい、僕まで『不憫役ケータリング』と謎の称号とともに朝陽から奢ってもらうこととなった。

 遠慮したし、お金に悩み生きる高校生なので申し訳ないと伝えたのだが、不憫な役回りだったのは多少の自覚はあるし、こんな暑い中色々現実離れした(主に奈留莉さんが根源)ことに付き合わされて疲れたのは事実だったので、ここはお言葉に甘えることにした。コンビニのレジで朝陽が奈留莉さんの『ピパコ』と僕のベリーシンプルなソフトクリームとゼロシュガーエナジードリンクの後を継ぐアイスコーヒーが、朝陽の財布のお世話となった。朝陽のカフェインの摂取量に関して少し心配になったが、口にはしないでおくことにした。

 それに感化されたのか、単純に暑かったからか、空、五十嵐、柚充さんも各々で冷気を摂取できるものを買っていた。それを口にしながら安藤先生の元へ向かっている最中という訳である。「えらく時間かかってるなぁ」と安藤先生も思ってるに違いない。必ず、そう必ず謝っておこう……。

 あんなに近い距離だというのに、度重なる事によってものすごく時間がかかってしまっている。でもようやく、その建物が見える通りにやって来た。

 何度も、何度も、通ったことのある通り。

 ほうら、と言わんばかりに僕はソフトクリームを持った手を伸ばしてあの建物だよ、とみんなに教えた。というか、ソフトクリームっておいしいね! 久々すぎて甘さに驚いているので、ゆっくり堪能してるけど。

「見えてきた、もはや目的忘れちゃってる人もいるかもだけど……。ほら、あそこ――」

 すぐそこに見えてる建物を背景に、目の前のソフトクリームがぐらりとバランスを崩した。「あ……」と絶望の声が自分から漏れる。

「小森くん! アイス! アイス溶けて――あぁ、もう」

 ぺろり。と小さく出した奈留莉さんの紅梅色をした小さな舌がピンチを救ってくれた。そこまでベロで掬った訳でもないのに、倒れかけたソフトクリームはバランスを立て直し、僕はほっと胸を撫で下ろした。……で『うっかりダジャレ』になってしまったのは、誰にも触れられたくない。

「よかったぁ、気を付けないとソフトクリームあるあるをエピソードトークとして話せるようになっちゃうところだったよ……。ありがとう、奈留莉さん」

「んんー。小森くん風味~」

「へっ、変なこと言わないで!!」

 し、しまった! しまったというか、なんと言うか……。

 目を線にして口まわりに着いたホイップをぺろっと舐めた奈留莉さんは、何も気にしてなさそうな雰囲気だったけど……これって、俗に言う〝間接――――〟。

 途端に、手にしているソフトクリームに意識を持つようになってしまった。い、一体どうしたら、何が正解? 奈留莉さんに流れであげてしまうのは……いやあでも折角朝陽が買ってくれたんだから――。

 じわじわ冷や汗をかく僕に比例して、また暑さで溶け始めているソフトクリーム。

(…………ええい、なるようになれ! 気にしちゃだめだ、小森裕!!)

 ――僕は、何食わぬ顔でソフトクリームを一口食べることに成功した。……と思う。奈留莉さんが言うように、奈留莉さんの味は別に分からず、ミルクの甘い味しかしなかった……。

 空と五十嵐は、どこか遠くを見ながらそう呟く。

「甘ぇな、五十嵐」

「あぁ、ソレナ。甘ぇ」

 なんでそんな、カフェオレとカフェラテの違いを知らない僕を見てた時のような顔をしているのか、その2人の思考は読めなかった。

 で、まるで天に召されたかのような光を浴びて、すっきりとした顔をしているお隣の人。こっちの方が何を考えてるのか分からない。いつものことながらな柚充さんのターンだけど、なんでこの人は神に祈るかのような清々しさなんだろうか。

「……えぇ、それは、ほんとうに、甘いです。アイスだけに、るお二方の――」

「よーし、着いたよー」

 僕らは、何やら(柚充さんにこう言うのも何だけど)しょーもないことを言い出しそうなオーラを察したので、みんなを連れて、足早に建物の前へと着いた。おいて行かれた柚充さんは一瞬のディレイを挟み、はっと我に返った。ふるふると、不安そうな顔をして周囲を見渡し、少し遠くの建物の前にいる僕らを見つけると

「ああっん、ごめんなさいっ! おいてかないでくださーい!」

 柚充さんは、ひぃん、と心から反省したような顔をして、ぎこちない走り方で走って来た。珍しい展開に陥っている柚充さんを見てみんなが笑う。そこまで離れていない距離だというのに、頑張って走った柚充さんはぜぇぜぇ息を切らしていた。

 みんなが揃ったところで、僕は身長の高い建物にもう一度目を向ける。

 ――到着したんだ。

 3階くらいの高さ。読めもしない汚れた会社名の書かれていた看板は変わらない。古めの味がある建物。目の前の1階にあたる部分はレンガ造りでツタがオシャレに這ってある。それと、謎の地下へと続く階段。

 そう。僕がよく来ていたあのにようやく到着した。


 安藤先生から写真が送られたとき、心の底から驚いた。

『とある写真の建物』は、もはや意識するとかしないとか、そんな問題じゃない場所。たった、1人。たまに目にする店員さんがいたりいなかったり。そんな感じの場所。勝手にも、心が落ち着く。外からすべて遮断されて、気にしないで音ゲーができていた居場所のようなもの。建物と、ここで働いている人には悪いけど、日陰者だった僕に相応しいく、ぴったりと型にはまったような隅っこ。

 ――すべてのから、隠れることができた場所。



■ ≪≫ □ ≪≫ ■ ≪≫ □ ≪≫ ■ ≪≫ □ ≪≫ ■



「…………」

 おかしな話で、もはや笑ってしまいそうになる。

 誰もが怖くて。人が怖くて。1人でずっといた場所に、。 

「…………」

 うん。そうだ。着いた。ここの自動ドアをくぐれば僕から頼んだ例の人が待っている……はず。ここだったはずだ。もう一度スマホを開いて確認したが、紛れもなくここ。うん。あんなに寄り道、茶番をしておいて先生は怒っていないだろうか?

 よし、じゃあみんな――。

「…………」

「? どうしたの? 小森くん? 確か、うろ覚えだけど送られれた写真はこの建物だったよね?」

「――――――うん、そだね」

 返事が短く、事切れてしまう。おかしい、こんなはずじゃない。こんなはずじゃない。自分でも分かってる。分かってる。また、みんなに心配かけたくない。――あれ? 分かってるのは何が分かってる? どうだったけ? 僕は、どうやって、喋ってた――?

「おい、小森? 小森こもこも小森?」

「な、なに朝陽――――」

 朝陽が変な調子で近づいてきた。そしてでかい手が僕の肩に乗った。

 その時に気が付いた。今朝陽にぐっと手に力を入れられてる時に、ものすごく勝手が悪くて、それだけで苦しかったことに。

 それまで、気が付いていなかった。僕が肩で呼吸をしていたことに。 

 朝陽は何も言わず、僕は自分の問題に気が付いたので、それを対処する。奈留莉さんが心配したような目で僕を見て、それから、手で自分の肺を下からなぞって、上下を繰り返すジェスチャーをしてくれた。見たことがある、さっき家を出る前にやった深呼吸だった。お手本の奈留莉さんの動きを真似て僕も深呼吸をする。 

 肺に溜まっていた黒い煙がそっと排出されたような気がした。また、僕は変なモードに入っていた。よくない癖だと、反省会はまた今度にしよう、折角、リラックスして落ち着けているから……。すーはー、を繰り返し、過呼吸のような息の吸い方だった僕が、元に戻っていく姿を見て、奈留莉さんは安心したように笑みを見せた。

 肩に置いていた朝陽の手が、いつもより簡単にリラックスできたような気がした。

 僕は、みんなを見る。

「ごめん、また。――よし、もう大丈夫」

 大丈夫。大丈夫……。自分で言った言葉が何度も体内の空洞で反響していた。

 朝陽がゆっくりと手を離した。空がパチンと指を鳴らして優しい声色で言う。

「あぁ、分かるぞ小森。今回のは、別に何もおかしくない。気に病むな」

 柚充さんは空の言い出しに頷く。困り眉のままだった。

「えぇ。もし、わたしが小森さんの立場だったら……目先がふらふらしてしまうと思います」

 自分でも、分かる。それが、外側から見ているみんなにも伝わってるなら、僕は体や顔に出やすい性なのだろう。みんなが落ち着かせてくれたのに、今でも鼓動は早くなるばかり。

 朝陽は、腕を組んだまま、感じてる感情に対して単調に言ってくれた。


してるんだろ――――」


 自動ドアは、黒くて中が見えない。見えない内装の代わりに、ドアは僕の不安気な顔を映した。寒くもないのに、凍える季節とは真逆の月だというのに、僕の歯と顎は小刻みに震えて、常時下唇を噛んでいた。……血の味が口に広がった。

 遠く昔の出来事だったような。実際には年も左程経ってもいないのに。

 何ヶ月と共にした先生との記憶がコンマ秒速で脳裏に流れる。

 ――どの言葉も、表情も、安藤先生は。むやみに褒めるようなことはしないでくれた。

(最悪で憂鬱な日々の中に――楽しいことは必ずある、幸せが潜んでる、笑う門には福来る。幸せな今日。奇跡が絶対見える明日。大丈夫な将来。素敵な日々)

 ――先生は、そのすべてを薙ぎ払い、地獄の闇の中で、ただ隣に座って僕の話を目を見て聞いてくれたような存在だった。

 ――「つらい?」聞かれ、「うん……」涙とともに呟くと、「そっか――」だけを言って目を瞑り一緒に悲しんでくれる。側にいてくれる。

 ――――安藤先生は、そんな日々を一緒にいてくれた。

 ――片方の選択に迫られることは1度もなく、僕でいていいことを肯定してくれた。

 袋いっぱいに貰った〝思いやり〟が、今でも僕の宝物だ。たまに縄を解いて袋の口を開くたび、中に詰まった慈悲がいつも浮つく足を地に着かせてくれた。


 ……だからこそ、贈り物をくれた人といつぶりか面と向かって出会うのが、怖い。先生がくれた物々に、足りてない釣り合ってない自分が億劫になって、足が動かない。


 気が付けば、僕はズボンの裾を力任せに握っていた。

 舌先で息をするかのような、小さな声しかでない。

 霞んだ身体からの発音が、目の前に飛んで散る。それを繰り返す。

「……安藤先生は今の僕を見て、何か思うかな」

「――あぁ。思うだろうな」

 朝陽が2つ返事で返す。

「…………成長してるのかな」

「――していますよ」

 柚充さんはいたわりが香る口調で口を開いた。

「…………形が変わったものはあるかな」

「――へっ、あるぜ」

 五十嵐はかすかな微笑みと共に言葉を吐いた。

「…………後悔、してないかな……」

「するわけないだろうよ」

 空が口の中で黙ってられるかと一言が飛び出した。

 ――あふれ出る涙を何度も手で拭う。壊れた蛇口のようにぽたぽた頬の雨が続く。次第に喉が焼け始める。それでも僕は止めたくなかった。嗚咽を繰り返し、途切れ途切れになる言葉を何とか終わりの鍵カッコまで言い続ける。足の手前、レンガの乾いたタイルにいくつか異色の斑点が浮かんだ。

「……………せんせい、は。今の僕、でも……。……いまの、僕は……先生にたよ……っ。……先生に、頼っていいのかな……っ」

 ――何度も何度も見た潤む曲線の世界から、甘い香りのハンカチが普段に帰させる。歪む視界では判別しにくかった彼女の顔が、涙を一時的に布が吸ってくれたのでくっきりと見えた。それは次第に端から赤くぼやけ、また潤みが染まる。

 川が通った道の上、湿る心配も関係なく細い柔い指々が顔の輪郭をなぞって離れる。あぁ、奈留莉さんの前ではまた泣きたくないのに。僕は、それだけで感情が段々と崩れる。歯止めが利かなくなり、頬の筋肉が揺らぎを続ける。

 両手を取られると、僕は涙も隠せなくなり、喉の膜から荒れた吐息が途切れながら溢れた。奈留莉さんの手は冷たかった。

 真っ直ぐに目を見てくる彼女は、瞳の奥底深くに囁くようだった。

「今の小森くんがいるのは、小森くんを支えた〝全て〟と、今を見据えて創造した小森くんのお陰なんだよ?」

 ――自動ドアが開いた。ある筈もない道が見えたような気がした。

 その先には、支えた〝全て〟の内の1つがいてくれているような気がした。

 涙を溜めた顔を振り切って上げる。しわくちゃになった顔を何度も袖で拭い、心の準備を置いていくことにした。待ってられる気がしなかった。

 背中に触れる奈留莉さんの手が、スタートダッシュのきっかけになってくれた。

 

「――顔と言葉を交わすのは、恩返しの意思表示だと思うよ」


 背中越しのその言葉と皆からの目線は、僕が踏み出すきっかけとなるには、十分を超えるものだった。気が付けば走っていた。

 薄暗い室内が変わり映えのないことを示しているようで、前髪に隠れて生まれた影と同じようだった。どこだって、影だ。暗い場所に僕はいる。世間では、はずれものだと言われるであろう所で悩みを持つ。見上げたら、そこにはいつも下層の者たちをあざけわらう日向の存在が僕を見ている。

 くらい。くらくて――よく見えない。


 …………だけど、ここの方がとてもあたたかい。

 僕の近くには、影からものたちがたくさんいてくれてるから。


 レジとアルコール消毒容器以外に何も置かれていない、ゲームセンターの受付カウンター。カウンターの奥には、ここに来るとき時々見かける例の女性店員さんが頬杖をついて談笑しているようだった。相手の顔を怠けた眼で眺めているか、ぼーっとしているか分かりにくい目線。その目線を送る相手は高い位置。

 カウンターに肘をもたれて、細長い足をクロスさせている。遠目でも分かる高身長な背丈。スラリとシルエットがきれいなパンツ。白いシャツにオーソドックスな黒のジャケット。色白な肌に、首裏にある襟足の先が跳ねているくらい長めの黒髪。その髪が右目を覆い、黒縁眼鏡が安藤先生を引き立てている。

 そして、瞳を細め、同じ角度で眉を傾け、その笑い方だけで人を安堵させる笑み。店員さんとの談笑が面白かったのか、少し猫背な肩を揺らし、見せる歯の前に拳を置きながら笑っていた。

 先生が、開かれたドアの方へ視線を向ける。「おっ!」と電波を超えて通話越しに何度も聞いた声が耳に入る。嬉しそうな声は無邪気な子どものようだった。

 僕は、その元へ走り、飛び込んだ。頭上で声がした。

「ようやく到着かな? 待ってたよ、こも――うわっ、ととっ!」

 勢いよく突っ込んだせいか、先生は唐突な僕にビックリしていた。このま頭からカウンターにぶつからないように、大きな背丈をしゃがみ込んで捕まえる。細くて、不健康そうな腕と腰の太さだったけど、先生の〝支え〟はガッチリとしていて、安心できるものだった。

 シャツに埋めた顔は、そのまま。僕は先生の体に腕を回し、思いっきり抱きつく。葉っぱや緑の青々しい匂いが詰まりを終えた鼻を通る。同時に柔軟剤とほんの微かに甘くないバニラのようなタバコの匂いがした。どれもが足し算されて落ち着く香りになっている。少しの間、細く引き締まったお腹にくっついていた。細い体だけど、の身体だと身を持って感じる。

 この様子を見た先生は「あはは」といつもの笑い方で笑った。回した腕に返してくれて、先生の大きな手が僕の背中に回った。大きい身長差を、まるで愛してやまないとても大切なものの記憶を撫でるような、低く穏やかな響きが僕の身体を包んでくれた。


「――やぁ、小森くん。調子はどうかな?」


 その言葉に、僕は顔を見上げて応えた。

 ……ずっと、会いたかった。

 上から覗くその表情は、昔に見た記憶上の笑みと何一つ変わっていなかった。

 目を細めて月のような弧を描き、眉が柔らかくほどけて笑みに温度が宿る。

 ――――素敵な笑みを、僕は真似して応えた。


「――先生。お久しぶりです……っ」


 ただ一つ違うのは、僕は目尻にまだ雫が残っていたところ。



☐ ■ ☐ ♪ ☐ ■ ☐



 残ったぬくもりを抱きしめながら僕は、先生から身を離した。僕の高さに合わせていた先生は「よっこらせ」と立ち上がる。改めて立つと、やっぱり大きい。目尻のしずくを指先で拭って、先生を見上げる形で見ると、すぐに笑みを返してくれた。傾ける顔が眼鏡をずらし、先生はそれを直す。あぁ、また会えてよかった。

「小森くんが元気そうでよかったよ。ご飯はちゃんと食べてる? なんだかまた細くなった気がするよ?」

 そういう先生は心配そうな目線で訴えてくる。まぁ、前はお世辞にも良い食事バランスとは言えなかったし、それを先生にも知られていたから……心配になる気持ちも分かるだろう(自分で言うのも何だけど)。

「最近はちゃんと気を付けるようにしているんです。朝ごはんを毎日食べてます。それに、鉄分も、脂質も色々気にするようになりました!」

「じゃあ安心だね! ほうれん草食べて強くなろう」

 今夜はほうれん草を炒めよう。確か、冷蔵庫にあったはず。言った後に今日のお昼がレトルト蕎麦だったということを思い出したのは……黙っておこう。

 今報告のように先生に言ったことは嘘じゃない。高校に通い始めてから食事はきちんとするようになった。段々とやらなくなっていた料理も再開したし、何より夜ご飯を少し多めに作って学校がある日のお昼のお弁当にするのがコスパが良くて楽だ。色々考えるスーパーでの買い物も、創作意欲的な気持ちが高まる。料理を創作と言って良いのかは分からない。それでも、やりがい(?)的なのをまた見つけた気がする。

 食事になんで気を遣い始めたのか、これは無意識じゃない。ちゃんと気を付けている。意図的に気を持ち始めた。食事を気にして、栄養素をちゃんと取れば体調や体力、身体的強みにも直結する。

 理由は単純だ。もうに心配されたくないから。自分が崩れて、自分だけで済む話じゃなくなったのだ。

 カツ、カツカツ……黒いタイルのような固さの床を歩く、人数分の靴が鳴らす音が聞こえた。おのずとそちらを向く。自動ドア前の赤いマットを越えて、歩みを続けるのは背中を押してくれたみんな達だった。朝陽を先頭に、みんなはこの建物の中を興味津々に見ている。ゲームが好きな僕らにとって、レトロゲームだったり、音ゲーだったり、興奮するものではあるだろう。だって、アーケード版のあの有名格ゲーの筐体が並んでるし。

 目の前に僕や例の安藤先生や授業中の奈留莉さんみたいにカウンターに突っ伏している店員さんがいるというのに、みんなの視線の先はたくさん並ぶゲーム筐体に向けられていた。

 そんな彼彼女らを見て、安藤先生が人差し指を向けながら「あっ!」と喜びが手に取るように分かる声を出した。その声にようやくみんながこちらに注目する。みんなが慌てて集まってから、先生は笑顔のまま言った。

「君たちが――! 小森くんから色んなことをきいてるよ。とてもいい子たちだってね、君たちに会えてほんとに嬉しい。ええっと、小森くんから聞いてるかもだけど……ボクは――」

「安藤せんせーっ!」

 安藤先生が名乗る前に、奈留莉さんが手を上げながら先生の名を呼んだ。相変わらず、言い方と調子だけで奈留莉さんを表しているようだ。途中で入った声に先生は目を丸くした後、ぱーっと表情が明るくなる。

「あっ! 君が奈留莉ちゃんか! わあっ、会えてうれしいよー!」

 先生が伸ばした手に、奈留莉さんが返してパシッと握手した。

「こちらこそですっ! うわぁ、私の名前知ってるなんて。今日は人生で最高の日ッ! ――すーっ、それにしても、ほんとに腐女子が好きそうなルックス…………」

「えっ? なに?」

「いやいやいや! 何でもないですよ~」

 一瞬、にこやかな笑顔でいた奈留莉さんが唐突に真顔になって低い声で何かつぶやいたような気がした。あまりにも短いその一瞬は、打って変わったような今の嬉し楽しそうな奈留莉さんを見ていたら気のせいだと勘違いしてしまいそうに思えてくる。でも、もう結構一緒にいる身だ……どうせまたよかないことを。

「あ、みんな、別に全然言葉遣いとかフランクでいいからね。敬語とかも面倒でしょ?」

「あっ、ほんと? よかったぁ、危うく安藤先生の前だけキャラ崩壊で私らしくない人格を演じるとこだったよ~」

「普段慣れない口調でいるの、疲れるよねー」

「ね~」

「順応はえーな」

 似たような顔で目を瞑ってる安藤先生と奈留莉さん。も、もうこの2人は仲良くなってる? 確かに、近いところはあるかもしれない。感情豊かなとことか、支えになってくれるとことか、ゲームのことになったら夢中になりすぎて周りが見えないとことか……。その2人に、朝陽が細い目をする。

 朝陽のいつも通りのツッコミに対し、安藤先生が「その声は……!!」とハッとする。先生の目線の先にはポケットに変わらず手を突っ込んでいる朝陽がいた。なんだか、朝陽もいつもより嬉しそうな表情をしている。片手をあげて朝陽はあいさつした。

「よぉ、先生」

「わぁ、こっちも久しぶり! 久々に顔が見られて嬉しいよ、朝陽くん。あれ? 身長ちょっと伸びた?」

「へへへ、あんたに言われてもなぁ」

 確かに、高身長である朝陽と空と柚充さんよりも、先生は身長が高いことになる。それは、もう考え深いものだった。別に、僕の身長の話でじゃない。断じて違う。

 前の安藤先生と朝陽と、初対面で仲良くするのが早すぎる奈留莉さんに……。僕が前から知ってる人と、知ってる人とで、お互いが知らない人同士だったというのに関係を持ったことが、今でも信じられない。大好きな人と、大好きな人たち。それが、どんなに嬉しいことなのか。願っても見なかったことが今実現している。

 和気あいあいとしたみんなが生む空間が居場所を自ら作っているようで――

「なぁ、小森小森」

「ん?」

 温度に触れていたら、ふと袖をくいくいと引っ張られた。空だ。正直、振り返る前からいつものキザっぽい口調で分かっていたのだが、いざ表情を見てみると何だかおどおどしてるような顔の空だった。珍しい、あまり見たことない顔だし、というかどうしてそんな表情?

 少し青ざめたような、瞳孔が恐怖か何かで小刻みに震えているまま空は小声で話す。声もどこか震えているようで、何やら後ろをチラチラ確認していた様子だった?

「……あ、あの人、何なんだ? お、おれ何かしたか? 今にも命を刈り取る目線でずっとじっとおれを見てるぜ……!?」

「うん? なんだ、って何? ――すーっ……のこと?」

 命を刈り取る? じっと見ている? 空は普段からは想像できないような調子の悪い青い顔で訴えかけていたけど、全く意味が分からない。

 ……でも「何なんだ!?」と驚くということは――と思い、僕も同じように目を見開いたを指さして空に見せる。空は僕の指先を辿ると何も発せずに口だけを開いて固まる。うんうん、よーく分かるよ、その気持ち。……僕も同じ反応をしただろうからね。

 そこには、安藤先生と奈留莉さんと、いつの間にか輪に溶け込んでいた五十嵐と柚充さんが和気あいあいとしている。

 そう表現すれば物凄くほほえましく、僕にとって嬉しいの限りだ。好きな人と好きな人同士が仲良く接して楽しげにしているのは、心が温かくなって、弾む。

 ――けど。詳細を話せば、たちまちそんな感情は消え去り、頭の中が『???』で埋まってしまう。


「Woohoo! ちょ~高ーい! 私と安藤せんせーの〝super combination〟だったらァ? この組体操も誰かにだろねェ~☆ Hoo!!!」

「YES!! さすーが奈留莉ちゃん体幹バランスだぜ♪ ――ったく、こんな自分等に奴らのが聞いてみたいものだ! だって、こんなにも華やかなのに!」

「へへっ! サボテンの花は夜にしか咲かないけどなッ!」

「「HahaHaha!!!!!!」」」


 端的に言おう。

 ――そこでは、をやっていたのだ。

 満面の笑みで両手をまっすぐ横に広げている奈留莉さんは、言った通り流石の体幹バランスでびくともしていない。安藤先生の伸長もあって高さで言うと、手を伸ばせばこのお店の天井にタッチできるくらいなのに。中心にサボテンと、周りに五十嵐が腕を組み、柚充さんが目を輝かせ、朝陽は……ただいる。腕を組んだ五十嵐がうーんと唸った。

「あぁ、これなら沈没する前の船の先端でも映えるだろうな! 造形としてキレイだぜ」五十嵐が頷く。

「いや、それはこのポーズじゃないですから!? 感動シーンを汚さないでくださいよ……」

「お、柚充がのあるツッコミを言ったぞ。やっぱ性格してるやつは言うことも適格だな、流石だぜ」

「やめてください!」

「君たち、やっぱ仲いいね! 小森くんから聞いた通りだ」



「「――――――――」」

 ……ここまで聞けば僕と空が同じにして固まっている理由が手に取るように分かるだろう。……サボテンは棘があるから手には取れないけど。

 まぁ、和気あいあいとしているのに変わりはない(気がする)から良いということにしておこう。じゃないとまともでいられない。ほら、この空と同じように、開いた口がいまだ塞がらないで、どこか遠くを見つめるしかいられなくなってしまう。普段だと、僕の方から空と五十嵐にこういった反応をしていることが多かったので、今回の出来事で空は気持ちが分かってくれるだろうか。……こんな何とも言えない、ホントに何も言えない状態になるということを。

「……あー。で? 空さん? アレ等に怯えていたの? ……って感情は正しいと思うけど」

 カオスは怖いものだと、今日知れた。僕の問いに空はようやく目を覚ます。

「――っ、ハッ!! あ、ああ、アイツらに……い、いやッ! ちげぇ!?」

 段々と意識が朧気になっていたのだろう。振り払うかのように自分の顔をパシッ、パシッ! 2度平手打ちをしてから、恐怖を思い出したようだ。

「あ、あれだよ、あれ!」

 空は僕の頭を両手でガシッと掴むと、信じられない方向に首を向かせた。ぐるんと回した頭がおもちゃのぜんまいの効果を成し、首から下がぐるぐるっと回転して顔の向きに追いつく。どうやら僕が指さしたのは方向はミスリードだったみたいだ。

 強引にも空がさっきからビビっている根源を見せられ、僕はようやく気がついた。

 方向は、このゲームセンターのカウンター。安藤先生が腰掛けていた場所だ。『なーんだ、空はあのカウンターに〝バックフィスト〟か〝 後ろ回し蹴り〟を食らわせたからにビビっていたのか』と勝手に納得していたのだが……それは思い違いだった。

 カウンターの裏側か、『ゴゴゴゴゴゴゴ――』と圧の感じるオーラがこちら側――まるで空の方向へと辿っているかのように舞っている。

 地面についている足が、いつも以上に重く、まるでこの真っ黒な黒い床に引きずりこまれるかのような威圧感を肌で感じる。ビビる理由が分かってようやく僕も空と同じように青ざめた。

「な、なにあれ……。そ、空何かやったの? いや、もう何かしてなくても『何もしてなくてごめんなさいっ』って謝ろうよ」

「いや、なんでだよ! ……ぉ、うわッ! なんか出てきた!!」

「ひいっ!?」

 ガタガタ揃ってビビる僕ら。目を離していたというのに、空はカウンターを震える指で指す。いつの間にか、うっすらのオーラが色の濃度を増して、それは天井や床を張り巡った。伸びる先は例のカウンター。

 テーブルの上。黒く染まりかけの台に、異様なほど純白ながどんっと置かれた。続き、細くて血色の悪い腕が下から出てくる。

「なななんっ、なんんだ!!」

「……わか、んないよ」 

 僕と空は思わず手を取り合った。ぞわぞわはそれでも2分割されない。逆に恐怖心が増してきた。

 机を支える手が力み、黒いシャツの背中が露わになる。もはや、そこから這い上がってくるようだった。じわじわと心を侵食してくる恐怖。有名なホラー映画のワンシーンかのように感じた。

 息を呑むが、喉がひゅっと鳴っただけ。足が地面に縫いつけられたように動かない――這い出てきたのはその映画と同じで、髪で目が見えないだった。

 色彩感覚が段々と薄れ、目の端が次第にぼやけて視界が狭まる。そのせいで女性の髪色が分からなくなっていく。まるでモノトーンだ、白と黒で分けられた景色。

 そんな世界で分かったのは、不気味に笑うような唇の形と半分を髪で隠した白い肌だけ。

 バキッ! ボキッ! 上体を起こそうとする体から思わず耳を塞ぎたくなるかのような骨の鳴る音が聞こえた気がした。頭がガクガク壊れたような動きをして、目の見えない顔が僕ら2人の方を向いた気がする。

 ――これは、夢。あぁ、ただの悪い夢なんだ。

 金縛りにあったかのように、動けずにいると……足こそ動いていないのに、距離だけが縮まったような気がした。

「「       」」

 が、立った。

 頭が――眠ったかのように、ガクンと垂れた。

 それでも、こちらを向いた。

 口がズレたかのように、歯を見せ――笑う。

 ――重力に従った髪が、目元から流れ。姿を現す。

 ――――その瞳は、何かを“訴えている”ような、底なしの虚無の色。



「…………      ……!」



「「ぎぎぎいいぃぃややゃゃあぁあぁあぁ!!!!」」



☐ ■ ☐ ♪ ☐ ■ ☐



「サボテンまたやろーね! 先生っ」

「またがあるんだな……」

「うん、いつでもいいよ~。アレっ? どうした? 2人?」

 安藤先生たちの会話が耳に入って、周りの世界が色彩を取り戻した。しゃがみ込んでいた僕と空は恐る恐る顔を上げてみる。女性の長い髪のようなものはなくなっていて、地面に引きずり込まれるような威圧もなくなっている。

「……あ、れ?」

「どしたの? 2人とも。暗闇の中で怯えるみたいにブルブルと?」

 奈留莉さんはおかしな様子な僕らにしゃがみ込んで、目線を合わしてのぞき込む。きょとんとしている表情に、僕と空は辺りを見回し、目を合わせた。それにまた僕らを囲うみんなが首を傾げていた。

 さっきのがホントに夢だったかのように、普段がそこには居座っていた。

「……ぜんぶ、まぼろし?」

「いや、そんなはずない!! 絶対見たぞ! なぁ、小森!!」

「……う、うん」

「いたもん! 絶対に見たもん!」

 歯切れの悪い返事しか返せなかった。それくらい、展開の移り変わりが違和感を際立たせる。

「トト――」

「朝陽さん、すとーっぷ。わたしも思いましたけど」

 朝陽の言葉を食い気味に柚充さんが被せて消した。そんな丸い体に大きな目の優しい、可愛らしい存在じゃない。真逆に等しい存在だ。

 真剣で嘘1つもない空の熱意は、もはや冗談のように捉えられてしまった。それに苛立ちを感じたのか、空はいきり立ってホラーシーンの元凶となったあのカウンターを指さす。

「嘘だろ……っ!? あれ、あれだよ! あのカウンターから柚充の髪よりも白色の腕が――」

 だが、カウンターには何もない。五十嵐が「何言ってんだコイツ」みたいな顔をして両肩をすくめる。柚充さんは肩に掛かる髪を手に持ってじっと見ていた。

「なんだ、小森と空の戯言か」と見放されそうになったとき


バンッ!!

 

「「「「「「っ!?」」」」」」

 一斉にカウンターの方へ振り返る。そこには、さっき見たあのが机をついていた。あれだよ、まったく一緒! それに、今度はみんなも見ている。同じように目を見開き、固まったかのようにそれを見ている。

 戯言がホントだと証明された瞬間。一度体験した感覚だったから、もう慣れたのか空が腕まくりをし、動けずに腕を見ているみんなの間を抜けてずかずか1歩1歩を大きく、カウンターの方へと向かって行った。

「空!」

 僕はその背中に叫ぶ。あんな霊か何かも分からないものへ近づくなんてっ! しかも、さっきみたいに真っ黒な瞳がまた下から這い出て――。

 僕の心配はもはや聞く暇もないといった感じで空は歩みを止めなかった。

「ッざけやがって!! な、何がバンッだよ……! 腕如きにビビッてると思ってんじゃねぇぞ!?」

 息を切らし、額の皺をくしゃくしゃにするくらい怒りに満ちた空がカウンターの前に立った。グッと拳を握りしめ、さっきのお返しと言わんばかりに感情の激怒を腕にぶつけた。その声量は猛獣のようだった。


「4時間オンライン戦やってポイント全く盛れなかったときの、おれの台パンと比べたら――次元がちげぇンだよォォッッ!!」


 安藤先生がカウンターに回ってから声をあげる。

「――あれ? 〝サキ〟もう、なにやってんの?」


「「「「「え?」」」」」


「なにやってんの?」と空のテンションと比べたら似つかわしくないトーンで安藤先生はそう言いながら、カウンターからよいしょと体を持ち上げた。肩を手に取り、1人の女性が姿を現す。

 その人は、さっき見た人と肌色や服装が一致していたけど、全く違う。髪はクリーム色をしている。――というか、見たことある人だ。

「……ぅ、ぁあ。――ぉ、ん。寝てた」

「ほら、起きなー? 小森くんたち、サキに対してビビってるよ?」

「ぅお……?」

 持ち上げられた先、カウンターの裏にある回る椅子に何とか座り、眠た気で半分しか開いていない目を擦って擦って、僕らと目が合った。表情で「この人誰?」と語る僕らに対して、サキさんはのぼーっとしたような、いまだ夢の中のような片目で見ている。少し間を開け「あぁ~」と手のひらにぽんっと拳を置いて1人で納得する。

「あ~。キミらか、安藤が言ってた子供たちってのは……んぉ~、思ってたより多いんだね? 似たような容姿の人が横隣りに5人ずつ――んアレ? なんだか、キミたち……かすれて……今の学生は、かげぶんしんも、覚えるのか……――グゥ」

 僕らを指す指が段々と横揺れを始めた、なんて思っていたら頭まで同じように揺れ始めて……仕舞いにゴンッとカウンターに頭をぶつけて眠ってしまった。伏せて寝るその姿が、完全に殺人現場のソレだ。机の上に赤い血か何かでのダイイングメッセージがあったら出来上がり。

「ねえ、この人ちゃんと夢の外へ連れて行った方がいいんじゃない? 割と結構鈍い音したよ? ゴンッだって――ゴンッ!! だよ……?」

 奈留莉さんが言う通り、ちゃんと心配ではある。あの奈留莉さんが若干ひいてるレベルだし。

「おれと小森は、あんな人にビビり散らかしてたんだな……」

「……もう目を伏せよう?」

 なんだか空と揃って遠い目をしてしまった。あわわっと焦った安藤先生がまたサキの体を揺さぶって何とか起こす。流石にさっきまで普段通りのテンションだった安藤先生でも僕らの前でもあるからなのか、テンパっている姿が珍しかった。

 スピーと寝てるサキさんの鼻ちょうちんが割れた。奮闘している先生の声が目を覚ましたようだ。

「もうっ! サキっ! 自己紹介! ……こういうのって大人である君に言うことじゃないと思うんだけど」

「へいへい」

 肩を落として泣く先生の身を知ったこっちゃないといわんばかりの気だるげを漂わせ、頭皮をぽりぽり掻きながら自己紹介をしてくれた。……なんだか、先生の気持ちと苦労と疲労が手に取るように分かる気がした。

「サキ。『三浦サキ(みうら さき)』でーす。一応、ここの……ぉぉぉぉ。なんて言うか、? やってる人でーす。よろしくー」

 なんだか声を張らないというか、喋ることすら面倒くさそうというか……。

 言い終えたサキさんは頬杖を着いて片手をぶっきらぼうに、ふるふると振ってくれた。彼女なりの挨拶ではあるのだろう。ダウナー系と言ったらわかりやすいか、半目(というか開いてない)で、クリーム色の髪で、軟体動物のように体がふにゃふにゃ。言葉の全体に移動速度低下の効果をつけられているかのような喋り癖。

 周りのみんなはそれだけを言われるも、まだきょとんという顔でお互いを見合っていたが、それぞれ「そういう人」だと理解しているようにも見えた。そして、僕も。

 ――前々から、いた人が、今日、人に変わった。

 自己紹介を終えたサキさんに、安藤先生はそれでも不服そうだったけど、内側で呑み込んで+αの紹介をしてくれた。言い始めの笑い方が、それはそれは歯切れの悪いものだった。

「は、はぁいアリガトウゴザイマシタ……はぁ。まぁ、詳しく言うと、サキはボクとの長い付き合いなんだ。こうは見えるけど、ベースの腕は折り紙付きって言っていいほど優れてるよ! ほんと、は見えるけど……」

 安藤先生が一瞬、睨むに等しい目線を送るがサキさんは頬杖を着いて少し方眉を上げるだけだった。きっと、サキさんは安藤先生とバンドをやっていたときでも今と大して変わっていないのだろう。安藤先生の立ち位置と役回りで考察できる気がする。 

「あ、あのっ……!」

 背中側から妙に緊張してる声がした。振り向くと、柚充さんが緊張しながら手を軽く上げていた。

「えーっと柚充ちゃんだよね! ツッコミ担当寄りの!」

「た、たんとう……? ぇ、えっと~サキさんと、安藤……さん? お2人は、過去にバンドをなさっていたんですか? それで、サキさんがベースを」

「あれえ、言ってなかったっけ?」

 抜けた声とともに、安藤先生はぽりぽりとこめかみ辺りを指で掻いた。うんうん、とみんなが頷く。僕は知っていたので先生にこうして音楽面で相談に来ていたのだが、みんなからしたら初耳だろう。……サボテンやる人と、寝ぼけて倒れる人がバンドをやっていただなんて、やすやすと理解はしがたいけど。

 でも、先生のバンドの話は聞きたい。それは僕だけじゃないようだった。

 高校生が、安藤先生に対してのキラキラとスピードなスターを発射するかの勢いでじーっと見続ける。何も言っていないのに「話してよォ〜せんせ〜い」と言っているかのような眼差しだ。それを僕らは阿吽の呼吸で安藤先生に喰らわせた。〝こうかは ばつぐんだ!〟

 安藤先生はその視線に「う、うわぁあぁあ」とギクシャクたじろぎ、下手な小芝居を挟んで承諾してくれたようだった。ノリが良いのがやっぱりいい。

 おほん、と一息つく。

「そんな大したことじゃないよ。バンドって言っても、ボクが君たちと同じ位の歳にやっていたなんちゃってバンドだし、ドラムとギターは恋愛や受験のことで全然練習できなかったし……。実質、ボクとサキだけでずっと練習していたよ――」

「……なんちゃってバンド」

「……大したことない」

「……オレ、彼女できたことない」

 先生の言葉に、奈留莉さんと柚充さんと五十嵐がズーンと猫背になってその場に沈み込んだ。どうやら当時の先生と同じ歳と言われ、自分等と当てはめたようだ。……そう言われると、何だか僕もナーバスな気持ちに(ズーン……)

 慌てて安藤先生が沈んだ僕らをサルベージする。

「ああっ、みんなあ! もう、みんなのことだ、とはボク言ってないでしょ!? ごめん、ごめんよ、言い方気をつければよかった……。あ、あと、五十嵐くんはホントにゴメンナサイ」

 五十嵐に対して先生は声のトーンを下げ、割と本気で謝っていた。そのせいで、五十嵐だけ沈んだ気持ちから引き上げられることはなかった。むしろ、更に深く深く沈んでく。ああ、もう光が届かない。

 弁明を終えた安藤先生は「あはは……」と苦笑いをして、胸を撫で下ろす。「私たち、もっと頑張るよー!」「安藤のためにもな」奈留莉さんや朝陽がそう言うのを見ていたら、安藤先生はまた自然と笑みが戻っていた。

 ――肩を下ろし、先生は過去を眺めるかのよう、天井のライトを見て


「――――それでも……楽しかったんだ」


「……」

 何かと変なポーズをとっている奈留莉さん。まるで運動会のエール交換のような、五十嵐も隣でそのポーズをしている。「モテるためにはぁ、有線イヤホンを持つ!」「有線イヤホン!」「ためにはぁ、プリクラを躊躇なく撮る!」「プリクラを撮る!」

「あと、ポテチを2枚同時に取らない!」「2枚取らない!」大声で掛け合いをするその辺には、先生の声と何処か悲しげな表情には気づいていないようだった。

 実際、安藤先生も気が付けば天井を見るのをやめていて

「あと、もらったお小遣いを一ヶ月の最後の週まで使わないでおく、もプラスでね!」 

 ウィンクしながら言う先生に、五十嵐と奈留莉さんと空までも

「「「それはむりぃ……」」」

 泣きべそをかくように言うその姿に、みんなはケラケラ笑い始めた。

 僕は……少し離れたところで笑えずに、ただ先生を見ていた。

 みんなと同じように笑っている輪の中。安藤先生も歯を見せて楽しそうに笑っていた。まるで僕がさっきみた表情がすっぽり切り取られたかのように。単なる見間違いかと信じてしまうくらいに先生は平然としている。僕の思いすぎ? いいや

(……じゃあ、どうしてさっきみたいなが出来るんだ?)

 ひとしきり笑った先生が、また話を切り出した。

「ふーっ、君たちと話してると笑みが尽きないや。――んで、えーっと? あ、そうそう、さっきの流れで思い出したけど、今日小森くんに頼まれてここに集まっているのは鈴歌祭の話し合いのためなんだよね? 愉快な仲間たちにボクが仲間入りした訳じゃないんだよね?」

「 安 藤 先 生 が な か ま に く わ わ っ た ! 」

「〜〜♪♪(五十嵐即興壮大なBGM)」

「最近じゃ少なめだよね、その描写〜」

 ――ひとまず、さっきの安藤先生のことを考えるのはあとにしよう。

 と、いうよりツッコミ不在だと状況が混沌で埋め尽くされる!! なんでこういうときに限って柚充さんや朝陽がツッコんでくれないんだ! 声を大にして言おうとした手前、頭の中ですぐに結論が出た。……いや、みんなゲーム好きだからだ。

 渋々僕は1歩前に出てみんなとの距離を縮め、目を細める。

「もう、本題にちょっと足を入れてからまたすぐに引っこめないで! 鈴歌祭の話し合いだって言ってるでしょ!」

「〜〜♪♪(五十嵐騒音止まらないノイズBGM)」

 ムカつく口笛を拭くかのように口を尖らせ、ノリノリ五十嵐はBGMをやめない。僕が軌道を戻したというのに……。よって――『Chop

 ペシッ!

「ッ゙痛っ! なにすんだよ、こもゆう!」

「やっと止まったよBGMが。叩いたら動くのは古いテレビなのに、これじゃあ相対的な存在だね」

「ダレがボロっちぃ、でっかちぃ、がっちりぃ、の角張ったブラウン管頭だァ゙!?」

「そこまで言ってないよ!」

 血相を変え、怒る暴走五十嵐を手で抑え、安藤先生が「まぁまぁ」となだめる。そのお陰で五十嵐の情緒が戻る。よくよく見ると、プンスカ煙を立てているその頭はブラウン管のように四角のようだった。黒い外側に、ザラザラとした画質の液晶。普段の五十嵐がまるでブラウン管の被り物にすっぽり頭を入れたみたいな様だった。え、それどこから出したの?

 その話と今の五十嵐の姿を見て、奈留莉さんはハッとした顔をする。

「だから悪口への反応の遅延が短いんだ! なるほど、なるほど~それで、五十嵐くんの頭の中も真空――」

「おッ? なァ゙るゥ゙りィ゙、いま何か言った――」

「そーっ! そ、そいえばぁ!! き、君たちみたいなのってまだ決まってないのー? 君たち、って言うのも何だかねーって思ってェェ!!」

 殺気の目で五十嵐が奈留莉さんの方向を向く前に、その間に安藤先生がズサーッと地面を滑りながら文字通り、割って入った。冷や汗をだらだら滝のように流しながら、空気が悪くなって喧嘩を始めないようにと安藤先生は今日も奮闘しています。眼力から怒りに満ちているのが分かる五十嵐は、安藤先生が負けじと作る不器用な笑いと見合い続けて、はぁと五十嵐が下がることになった。不服そうな表情は未だ残りに残っているが、奈留莉さんは「知ったこっちゃない」の精神である。

 溜まった疲れの息を吐く安藤先生を見て、これが僕らにとっていつも通りである、と言うのはやめておいた。何だか、こう言うのもどうかと思うけど、必死になってる安藤先生は、どことなく、面白い。

 というか、なんて言ったっけ? バンド名?

「そういやぁ考えてなかったな、バンド名」

「色々決める前にまずはそっちでしたね」

「ふんふん〜〝門松弁償〟ってやつだね☆」

 ピースする奈留莉さんに、みんなが一瞬止まって腕組みして悩み始める。

 あ、わかった! 僕はパチンと指を鳴らした。

「本末転倒? 〝本末転倒〟って言いたいの? ナニ、そのちょっと考えないといけない分かりづらいボケ!? というか縁起悪いよ! 年神様来てくれなくなっちゃうよ!!」

「んへへえ、やっぱ小森くんてんさ〜い! 私の想像通りに拾ってくれるよー、ありがとー!」

「――んへあ!? わ、わかったから、這うような指で腰をなぞるのは――っんう、ひぅっ――〜〜〜っ!」 

「Nyanyanyanyanyanyanya……」

 飛びついてきた奈留莉さんが脇の下から腰回りを今言った通り――

 柚充さんは、どういう訳か長くて綺麗な御髪を虹色に輝かせ、まるでしてしまったかのような理解不能な縦揺れを始めてしまった。柚充さんの周りの背景だけ、どこかドット絵の夜空を駆け巡るようなものに変わってしまう。それに関して僕は触れてる暇もない。

 ……何だか今回は身をよじってその手から抜け出す力もなくなっているようだった。思うように動かない……足が脱力して……。

 もはや恒例と感じているのか、僕奈留莉柚充3点セット以外のみんなはある意味正解な反応をしていた。慣れって怖いねぇ。妙にキリッとした顔で腕を組んだり、顎に手を置いたりしている。声も、作ったような渋い声だった。……無視しないでぇ。

「んで、バンド名かー?」

「んーそうだな……。難しいなあ。おい、? お前、こう名前付けるの得意だろ? アニメとかラノベとか詳しいんなら」

「あぁーきゅうりとかうめぇよな、シャキッとしててみずみずしくてオレ大好きなんだよ~。あ、それと知ってるか? 高千穂峡って言うめっちゃ綺麗な峡谷があるんだよー! 行ってみてーなぁボートで滝の近くに行けるらしくて――って違げぇぇぇ!! 誰が宮崎だァ! 割とギリギリだったぞ、宮崎トーク!!」

「宮崎、いい場所だよねー。地鶏食べたいなー」

 ――ってこっちも別にお約束だった。安藤先生が加わったのが違い。僕らは、毎回そうだ。1つのテーマもしくは話題が降ってきて、みんな足並み揃えて一旦そのテーマを覗き込んでみるが、顔を上げればそれを放り投げて集まって別のことをし始める。……何だか、自分で分析してみるとそれはそれで虚しい。高校生……。

 あ、そろそろ放り投げた〝本題〟を拾い上げるぞ? 手に取ったのはこの男――

「ッたく、お前らほんっっと脱線するの大好きだな、脱線って言葉ができた由来の電車に乗ってたんじゃないのか? お前ら」

 どや顔を披露し、両手を「やれやれ」広げながら五十嵐は少し上から物を言った。その姿に、僕ら全員ホントは思考が1つのパイプで繋がってるんじゃないのか、というくらいに考えていることが一致していた。きっと、1人ずつ言うと長くなってしまうし、どれも同じ言葉だから+(プラス)ボタンを押してムービーをスキップにしてしまうに違いない。なので、ここは心の中で言うことにした。

 ……お前が、言う? と。

 脱線しまくるのに、こういった時は真っすぐ同じ線路を走ってる。

 ズレた線路を走ってる暴走機関車の五十嵐はこちらの車両に連絡を取った。でもそれが今回は目的地までの先導になってくれた。

「まぁ、いい。バンドの名前だろ? 空から振られたからここはオレの話を聞け! ――うぉっほん。オレはな正直奈留莉に誘われて、小森が加わってーの日から今日までずっと待ちに待っていたんだが――」

「皆さん、ようやくです。長い章数お待たせしました」

「しょうすう? んまぁでも朝陽の言う通りだ待ちくたびれたぜ! で、お前が何処見てるか、誰に頭下げてるか知らねぇけど無視するからな!」

 言う通り、朝陽は五十嵐とは真逆、さらには僕らの方でもない。ちょっと天井気味に目線を向けてご丁寧なをしていた。どこかそっちにいるにでも話かけて……やってしまった。こんなうっかりダジャレをしてしまう親父には笑でもしてください。

 ペースを崩された五十嵐はもう一度「うぉっほん」無駄に大げさな咳ばらいをして、キリッと目を細めた。勇気や自信に目覚めたような勇ましいその表情は、僕のために考えてくれたサックスを発表する前の顔と一緒だった。……二の舞にならないことを強く願う。

「こういう時のためにずっと考えててよかったぜ! イカれたお前らに、オレ発案のイカしたバンド名を紹介するぞ! 覚悟はいいか? いいなら行くぞ! よいな! いっ……せーの……! ……ホントにやっちゃうからな!」

「っやくしろやァ!! いつまで待たすんだ!?」

 空が段々とカチコミに行くようなテンションと化してきた。分からなくはないが、ここは空をなだめることに優先順位が働く。さもないと、こみ上げた怒りの表しである怒りの足踏みのせいで地面にひびが入り始めてしまいそうになる。に向けてのだ。わぁ、すごい! 発言以外でも母音イジリができるようになったんだね! 高等テクニックだよ!

 それと同時に1つ心配が脳裏によぎった。

「(……えっ、五十嵐まさか『でんき』とか『はがね』じゃないよね?)」

 空の声に全く気に留めてない様子(こんな心配をしてる僕が言えたことじゃないが)の五十嵐は「はいはい」と軽くあしらい、ようやく名前を教えてくれることになった。

「ったく、しゃーなしな? なまえは――」

 謎に輪っかになってその名前を聞いた。

 むふー、と満足そうな顔をする五十嵐を置き、僕らはお互いに顔を見合わせた。



☐ ■ ☐ ♪ ☐ ■ ☐



「……え、なにごめん。もう1回言ってくれない?」

 僕は、朝陽が言った言葉を繰り返した。

 聞き取れなかった訳でもないし、その一瞬だけ耳栓が僕の耳に飛び込んできた訳でもない。でも口から飛び出たのはその言葉だった。もしかしたら、もう一度聞いてもまた飛び出てくるのは「……え、なに――」かもしれない。今度こそしっかり聞かなくては、と身に力を入れた。

 五十嵐はうざったそうに顔をゆがめながらもう1度言ってくれた。


「だーかーら~〝セービング〟だって! そう言ってるだろ?」


「……」

「……」

「……」

「……え、ごめん五十嵐くん。もっかい言ってくれない?」

「デジャヴッッ!!」

 今度は奈留莉さんが聞き返した。奈留莉さんのあの表情からするに、僕や朝陽が無意識のうちに作ったこの流れにおふざけでノった、というわけではないのだろう。ぽかーんと口を半開きにして唖然としている様子だった。きっと奈留莉さんは僕の鏡に鳴ってくれているのだろう。僕も、おんなじ顔をしている自信があった。

 今のところ、聞き返す朝陽や奈留莉さんと僕のように理解に苦しむ人たちと、ほかもきっと同じような感情で黙っている人たち。長過ぎる眠りから目覚め、右も左もわからない状態でひたすらそこらに生えてるキノコを採ったり、池に飛び込んで気ままに泳いだりの自由さだった。そんな僕らに五十嵐は自分の頭が地面に当たるんじゃないかってくらい身体を反らせた。まるで投げ技であるバックドロップのような勢いだ。ここで〝セービング〟についての説明を投げられても困るんだが……。

「え、もう一回言って?」の流れを断ち切ってくれたのは柚充さんだった。ナイス、カット! 本人は僕らと同じく困惑してる様子だったけど。

「セ、〝セービング〟ですか?」

「あぁ、そう。そう何回も言ってるだろ? 『もう一回?』の耐久動画が出来ちまうところだったぞ、このままだったら……」

 そのくらい僕らは五十嵐を苦しめていたのか……。珍しく、五十嵐は頭の後ろに手を当てて距離を置いているようだった。

 ある程度、普通の話が出来るように脳が働きを取り戻してきた僕らは、例のセービングについての質問を始める。奈留莉さんが毎度のことながら謎の挙手制で始めた。片手を顔の横で上げる奈留莉さんに五十嵐が首を傾けた。

「セービングには、なにか意味とかメッセージ性とかがあったりするの?」

 まぁ最初のお尋ねはこれだろう。横で僕も頷く。

 その言葉に、五十嵐は「うーむ」と軽く唸り、目を瞑りながら指をこめかみにトントンと突きつけていた。「あるには、ある」と言って目を開けると、セービングを思いついた由来を話してくれた。

「単純に、オレがこういうバンドだったり何かのチームだったりに名前を付けるなら〜って昔から考えてた名前ではあるんだがな。聞きたいのはそういう事じゃないだろ? いよーし、じゃあ柚充!」

「は、はぃ?」

 キャッチボールで投げていた球が急にフォークになったような変化っぷりだった。みんなといい感じに投球捕球を繰り返していたというのに、五十嵐が投げた球はグローブを持ってない柚充さんへと投げられる。慌てて手で抑えた様子で柚充さんは返事をした。

 暴投本人はそんなの知らん顔で指をパチンと鳴らして指を指した。

「セービングの元である英単語『SAVE』の意味、説明いってみようぜ!」

「ええっ、いきなりですね!? SAVEですか……ええっと――」

 ほんとにいきなりだった。柚充さんは慌てるまもなく脳裏にある英単語帳をパラパラめくり始める。真剣に考えてくれている柚充さんを邪魔するかのタイミングで朝陽が呟くかの如く挟んできた。

「まぁ柚充はこういう解説や説明が得意な博識キャラでもあるからな。自分のSAVEにちなんだエピソードを交えて俺らに教えてくれるよ」

「どど、どうして勝手にハードルを上げるんですか!?」

 目を瞑って考えていた最中、朝陽のその言葉に柚充さんは珍しく声を荒げてツッコミをいれた。けど、当の本人はペットボトルの水を飲んでいる。ほんとだよ、もはや悪質な無茶振りと言っても過言ではない。いや、悪質な無茶振りだよ! 言い切れちゃうよ!

 色々と巻き込まれた柚充さんだったが、はぁと軽く息をついて調子を取り戻すとどのオーダーにも完璧に、かつ柚充さんらしさを交えて応えてくれた。

「もう……程々にしてくださいね? ええっと、では『SAVE』とは――日本語では『保存する』や『救う』『節約する』『省く』等といった様々な意味をもつ多義語です。意味合いとして、沢山の意味を持つ英単語の1つだと思いますよ?

 ゲームでもよく使う言葉ですね、セーブデータとかセーブしておこう〜とか馴染みのあるもの何じゃないでしょうか? あと、SAVEとHELPはどちらも大意は『助ける』ですが、『SAVE』の方は救助といったHELPよりも強い意味で使われることが多いですね、ものや命、資源がなくならないようにと言うように。

 ……意味はこんな感じでいいですか?」

「お〜! 柚充ちゃん博識だねー!」

 僕らは拍手を送る。これ以上にない完璧な説明だろう。安藤先生は歓喜の声を上げていた。喝采を受けるなか、柚充さんはほっと胸を撫で下ろし安心した様子を見せたが、たちまち姿勢が悪くなり開く目が半分になってしまう。

 そうだ、エピソード……。僕だったら朝陽に「何のために!?」とツッコミを入れて野次を打ち消すだろう。上手いこと思い浮かばないし、それをまともに話せる自信もないから……。

 でも、そうをしないのが柚充さんという人だった。意見や質問に即座に返答し、形として成り立ったものを説明、解説、返答してくれる。それって、すごい。

 普段変な声を出したり、さっきみたいな「ニャンニャンのキャット」みたいになったり奇行集が目立つような人だけど、柚充さんってもしかして『ChatG◯T』だったりするのだろうか。

「えぴそーど、う〜んエピソード……。えーそうですね。結構昔のゲームで、あっ世代じゃないんですけど、レトロなゲームをわたしは結構やってたので。その中でも定番かもしれませんががありまして。ゲーム進捗を記録するため昔のハードだとデータを記録するための手段がなかったので、そのじゅもんを覚えて再開時に入力をするんですけど……。例えば『あ う め ぼ』といったときの文字で『ぼ』が画質の問題で『ぼ』か『ぽ』か分からず2通りをノートとかに記録しておいたり――」

「うわああぁぁーー!! なつかしーー!!」

「うわぁ、びっくりした!」

 柚充さんのまるで落語のようなエピソードトークに、客席にいた安藤先生がその場に立ち上がって大声をあげていた。その声に僕はびっくりした。きゅ、急に叫ぶから……。

 世代じゃない、と言っていた柚充さんだったが、安藤先生にとってはストライクゾーンというわけだろうか?

「分かる、分かるよ柚充ちゃん――っ。『ぼ』か『ぽ』を2通り書いておいたのに、それでも【じゅもんが ちがいます】って言われてテレビの前にコントローラー投げ出して両手をつくんだよね? 注意していた部分じゃなくて、他の所だったかあ、って。分かるっ、分かるよっ!」

 広げる安藤先生のトークに柚充さんは噛みしめるように頷く。

「それと、そのセーブの紙をノートとかなら問題ないんですけど、裏紙とかてきとーなものに書いてしまったら、夜中に動き出してるんじゃないのってくらいになくなったりしてて――」

「お母さんが部屋を買ってに掃除しちゃって『ここの紙どこやったのー! おかあさーん!』ってなるやつね! あるある〜ゴミ箱の中必死に探すのー!」

 またもやレスポンスが細かい人しか伝わらないようなもので、それに柚充さんは目を子供のようにキラキラ輝かせながら身を乗り出す。

「あと、ゲームは変わるかもですが近しい年代のゲームですが、始めて開発会社のお名前が出たあと、可愛らしい音楽とキャラが飛んできて、ゲームタイトルが出た後――」

「ドンッ☆『0%0%0%』ね! でたー!『み ん な の ト ラ ウ マ』名作で大好きだけど、やっぱそれが一番印象でかいよね! ボス連戦を休憩所にある能力だけで倒して進んだ道はやっぱり楽しかったなぁ。……それも0に帰すんだけど」

「わかります! わかります!」

 安藤先生と柚充さんはこれ以上になく馬が合っていた。あの奈留莉さんのサボテンと同じような感じじゃない? 別の意気投合の形というか。

 というか0%……ウっ頭が痛い。前の2つはなんとなーくしか分からなかったネタだったけど、最後のはシリーズを多少通っているので。隣を見ると奈留莉さんも空も苦しんでいるようだった。まるで地震のときに机の下に隠れて頭を守るかのように。……これでそのゲームを通ってるか通ってないかわかるネタなの面白いな。

 その後、もし柚充さんに尻尾が生えてたら気分がよくてブンブン振ってそうなテンション感で安藤先生と話していたが、ハッと我に返ったように羞恥を抱き、頬が赤くなった。取り乱していた自分を気のせいにしようと「コ、コホン」咳ばらいをする。

「い、以上で無茶ぶりに全部応えたと思うのですが、いかがでしたか?」

「てんきゅー柚充! 思ったよりエピソードトークが長くなっちまったが、それは無茶ぶりしたオレと朝陽が悪いからなんも言わないぜ!」

「それを言うのがどうかとは思うけどな」

 髪をいじりながら言う朝陽を五十嵐はスルーした。

 あるあるネタの内容が濃かったのと、僕的には安藤先生があんなにはしゃいでいた姿が少し特別に見えたので、本来のSAVEの意味を聞いた理由を忘れてないかと心配になったが、そこは悩む必要なかったみたいだ。奈留莉さんの質問から最後の答えまで結構な寄り道になったけど、何だか結局は話が長くなってしまうことに最早違和感を覚えることが少なくなっている気がする。

 五十嵐は僕らの顔を1人1人眺めてからを告白してくれた。

「まあ、柚充が説明してくれたSAVEの単語が持つ意味がほとんどだ。全員ゲームが好きだからSAVEってのもあるけどな? 音楽を通してオレも、聞いてくれてるやつにも、になんねぇかなって……こうして笑ってる時間の一瞬一瞬も、かけがえのない日々を思い出にってな。意味深ぶって、クセぇこと言ってるかもだけど!」

「んと、プンプン臭うぜ!」

「おい、空。ココくらい黙ってろ!! たまにはいいキャラさせてくれ!」

 五十嵐はふざけて言う空にいつ戻りの大声を向けた。けど、その言い方はどちらもいつもの激しくふざけた調子より、安心して見れてるような気がした。

 今、想いを語る彼の姿は変わらずいつもの陽気さを身に纏っているが、僕には、彼の持つ内側を少し手で掬ったように感じた。

 存在感や耐久性を表す心の強さ。華やかな先を見据えることが出来る強固な志。そして、周りの人をいつも視野に入れることが出来る温かい心。

 それらの五十嵐を作る一部一部がこのという名前の表しになっているように感じた。


「だからオレは、自分が込めた想いに応えるような人間になりたいんだ。それが命名する奴に相応しい考え方ってもんだろ!」


 すんなり出てくる五十嵐のその言葉は、ずっと前からセービングを思いついていただけに、固く結ばれた自分なりの覚悟なのだろう。普段のとにかくやんちゃでお調子者で場合によってはトラブルメーカーな性格だが、その歯を見せて笑う笑い方は日頃の彼の一面と、今の告白の一面と、何の変化もない。

 ――それぐらい、当たり前に思っているのだろうか。

 だとしたら……すごい。すごくて、強い。

 うん、うん。……とってもいい名前だ。

 セービング、セービング。響きを脳内で何度も反響させている。今なら五十嵐にネーミングセンスが皆無だと言われたことを許そうと思った。気持ちが違う。必死に考えて、どんなに自分を殴って絞り出したバンドの名前でも、セービングに勝ってしっくりくるものは思いつきそうになかった。

 無邪気に笑う五十嵐は、照れ隠しのように頭の後ろで両手を組んでいる。

「っとまあ、んなくらいでいいよな? 最初はほんとゲームをしてたときにフラッと思いついたやつだったが……英語っておもろいよな、授業はつまんねーけど! ってことで――他にやつはいねぇのか?」

 サラッと言う彼の言葉に、比喩じゃなく時間が止まったような気がした。

 頭の中にあったセービングの文字も、塵と化して崩れてしまった。 

 片手をあげて僕らに尋ねる五十嵐を見て、全員目が点に変わった。

「…………は?」

「はあ?」

「……え」

「…………えっ?」

「……ん?」

「…………?」

 名前の良さに浸ってる柔らかい気持ちが、すーっと一瞬のうちに冷めていく。ばらばらなリアクションが言葉や言い方こそ違ったけど、タイミングも意味合いも全てが等しい。

 きれいな花束をプレゼントされた後、ノンストップで強烈なビンタを喰らったあとのような顔で全員が五十嵐を見ている。呆気にとられた五十嵐はぱちぱち何度も瞬きをしていた。空がかすれた声で代表となってくれた。

「……お、お前何言ってんだ?」

 これにすぎなかった。首を揃えてうなずく――気持ちは全員一緒だっただろうが、あまりにも意味分かんなすぎて頷く余裕もない。何言ってんだに答える。

「へ? な、何言ってんだって――ほら、お前らが名前言う番……」

「……」

「……」

「……」

「……」

「……」

「……」

 ……信じられない気持ちでいっぱいに溢れかえった。

 僕らが困惑しているのに困惑している五十嵐は、困惑の目を向ける僕らに困惑の目を向けて困惑している。どの言葉も、汲み取れた五十嵐の意志も、今まで全てがまっすぐの曲がり見当たらないたった1本の強いものだったのに。10秒も下手したら経ってない僅かなで、リュックサックの底に沈んでいるぐっにゃぐにゃの有線イヤホンのように気持ちの悪い絡まりを見せつけた。 

 最早、感情の差が大きすぎて……ううっ、気持ち悪いっ。

 五十嵐はさも可笑しくないと言わんばかりの言い方である。

「だ、だってオレだけって言うのもおかしいだろ?」

 コツ、コツコツ。靴が地面を鳴らす音がする。

 五十嵐は腕を組んでふんぞり返る。

「オレだけじゃなく、みんなでバンドだろ?」

 コツコツコツ――。それはしきりに大きくなる。 

 五十嵐は両手を広げてふんっと鼻で笑った。

「大体、オレのとっておきをお前らに使うことになるなんて――」

 コツ。の靴音が五十嵐の目の間に着いてようやく止まった。

 目を瞑り、偉そうな顔をしながら「やれやれ」と呟いている五十嵐。

 顔面が黒く染まった中、不気味な赤い目を輝かせる空。

 風を切り、到着からノンストップ、高く振り上げた場所から――



 パチンッッ!!



 ドオオゴォォーン……。

 バトル漫画で見たような吹っ飛び方をした五十嵐は、衝撃を喰らったまっすぐ先、まるでハンマー投げのように放物線すら描かず、直進する。

 お店の黒い壁に、直立姿勢の五十嵐が頭から勢いよく

 突き刺さった五十嵐は両足がピンと直立したままプルプル震えていた。

「「「「「   」」」」」

 僕らはそれをただ見てる。それをただ見つめてる。

 何も言えないなか、聞こえたのはポロポロ崩れる壁の残骸が床にコツっと当たる音だけ。

 一撃を喰らわせた空が、息の音もせずに肩を上下に動かしていた。平手打ちをお見舞いしたその右手は、シュウシュウと白い煙が立ち上がっていた。本当にバトル漫画の一つの技の後ようだった。

 壁に刺さった直立不動に向かって、空が全員が思ってたことを〝叫んだ〟。

 ――叫んでくれた。


「お前のあの後に、名前出せるやつなんているかぁ゙ぁ゙ぁ゙ぁ゙ぁ゙!?!?!?」


  ――は今日も騒がしい。



☐ ■ ☐ ♪ ☐ ■ ☐



「えっと、では、わたしから。わたしはキーボードを担当します」

「はいはい、柚充ちゃんがキーボード……っと」

 順番は特に意識せず、担当の楽器を柚充さんは話す。柚充さんが締まって言うとどこか面接みたいだった。だけど張った空気を崩してくれるかのように安藤先生の言い方は穏やかだ。なるほど、といった顔をしてスマホの、恐らくはメモ帳に書き込む。

 ようやく本題だ。誰が何の楽器をするのか先生に報告する時間。

 鈴歌祭の相談のためにここまで来て、先生に会いに来たというのに……気が付けばもう1時間以上が経とうとしている。音楽知識を持って、実際にバンドをしていた安藤先生に鈴歌祭に向けてのためになることをいっぱい聞こうと思っていたのに。蓋を開ければびっくりだ。

 ここまで進捗、僕の家にいた時と大して変わっていない!?

 ……まあセービングと決まったことは、抜いて。

 スマホのフリック操作を続けながら安藤先生は言う。

「キーボードかあ。とってもいいね! やっぱり好きなの?」

「すっ……は、はいっ!」

 安藤先生に問われ、一度呆気にとられたような顔をした柚充さんだったが、返した返事は声がいつもより大きくなってるように思える。白くて綺麗ないつもの肌は、どこかほんのり赤みがかったようにも見えなくはない。

 柚充さんは返事の後、少し不安そうに胸の前で両手を握り、思い出に浸るかのよう目を細めて誰に目を合わせる訳でもなく言った。

「幼いころから鍵盤に触れて。わたしにとってのピアノは、つたない作業だけど夢中にさせてくれるもので……」

 僕には、その言葉の区切りの間に柚充さんが奥歯を噛みしめたように見えた。

 目の前の悲しそうな彼女は、しっかりものでまとめ役でもあって、人を広く深く見れて誰にでも優しくできる、美しい甘い感性をもつ人。

 でも、それを作るのはピアノの奏でる音色だったのかもしれない。

「……」

 奈留莉さんが何も言わず柚充さんの肩にそっと片手を置いた。寄り添うだけの笑顔を浮かべる奈留莉さんは、目を閉じ、柚充さんと置いてある手だけで繋がっているように見えた。

 ポンと置かれた手に気が付き、柚充さんが顔を上げる。不思議そうに眉を曲げるその顔はいつも通りに戻っていた。

 奈留莉さんと顔を見合わせる。その目線は、お互いに「ありがとう」を結うかのようだった。


「わたしにとって……〝わたし〟を写せるようなもので」


 そう言うと、はにかむように笑った。

 柚充さんが奏でるピアノ・キーボードを聞いたこともないし、弾いてる姿を見たこともない。ましては、柚充さんが日ごろどんな音楽を触れているのかも分からない。

 でも、その言葉だけで音楽に対する気持ちがどれだけ強大なのかが分かった。

 分かったし、これからも

 冷静でおしとやかで清楚な柚充さんだけど、今見せる笑顔は女子高生が生む子供のような笑顔で――普段の殻を飛び越えたようなものだった。僕、否、安藤先生や奈留莉さんまでも笑顔にさせてしまう笑み。 

 僕らがあまりにも見ているからか、その目線に気が付いた柚充さんが段々と慌てて、赤くなり始めてしまう。羞恥に駆られた思いが口先の言葉をふにゃふにゃにした。

「あっ、ああんまり見ないでください……っ。わ、わたし何か変な事言いました?

はあっ恥ずかしい……」

「うへへ~柚充ちゃん可愛い~」

「~~~~~っ」

 奈留莉さんが背中から柚充さんに抱き着いた。柚充さんは長い前髪と自分の両手で赤面した顔を覆う。なんでこんなこと言っちゃったんだろう、でも言わんばかりの赤面レベルだ。その様子に僕らは笑った。

 スマホを手に腕を組む安藤先生が嬉しそうに目を細めて言う。

「柚充ちゃんの大事な気持ちにも応えてあげないとね、セービング」

「……恐縮です」

 覆っていた手からちょっとだけ顔を上げたが、柚充さんの目は恥ずかしさのあまりに少し涙目になっているようだった。とことこ近くに寄ってからポケットからハンカチを渡す。柚充さんは感謝を述べて受け取ってくれた。こんなに弱ってる柚充さん……珍しい。

「さて、じゃあ次は――うーん」

 唸りながら安藤先生が僕らを順に見ていく。自分からの挙手性は楽ではあるのだが、こういった時に「「あ、じゃあ自分が」」「あ、先イイよ」「いんや、キミからどうぞ」といったThe 日本人が出てしまいそうだから安藤先生が指定してくれるのは逆に助かる。道路を歩く対向の人と、右にズレたら相手も右に――の苦痛のサイクルを経験する恐れが消えたのは喜ばしいことだ。

 1人に安藤先生は目が止まり、パチンと指を鳴らす。

「じゃあ、キミだ! ええっとぉ……クン?」


 唐突に目の前の景色が、になった。

 モクモクと白くて大きい煙が立ち上っている。地面に近いところは灰色にも見て取れた。

 煙と、赤々と燃える炎が揺らぎを反復している。地面には真っ黒な薪が終始、赤と橙色に点滅し、これでもかというくらい敷き詰められていた。

 ……煙の中からとも言えるくらいの位置、白のタンクトップを着た五十嵐が燃える炎と薪の前に立った。

 ごくりと唾を飲むのは見守る僕らも、五十嵐も同じだった。

 タンクトップの彼の、短パンから伸びる足は靴を履いていない。素足だ。

 汗がだらだら滴っている。すぐにタンクトップを濡らしていた。

 柚充さんが見ていられない! 目を手で隠した。

 五十嵐は、

 顔が段々と怪訝なものに変わっているのがここから見て取れた。

 1歩、1歩、のそのそ歩く五十嵐。横をメラメラ燃え盛る炎。

 それは顔をしかめる暑い顔。

 それは唇を噛み眉を寄せるキツイ顔。

 それは――目を血走らせて絶叫するかのような顔と言えがたい顔。

 なんと、五十嵐の足の裏が炎で包まれた!

「あッッつつつううぅぅぅぅ!?!?!?」

 大きくその場で飛び上がって、歩みを続けて頑張ったその道のりをすぐに引き返す。涙か汗か判別しにくい水滴が体を滴る。

 足を全力で回して俊足の速度で走る五十嵐は、だった。

 ひぃひぃ言わせて薪ゾーンから抜けると、空が鏡映りしているかのような透明度の高い小川に飛び込んだ。

 バシャンッ、大きな音をたて水柱を立てて水滴が飛び散る。水色よりも透明なしずくは日光に照らされる光だけで冷たいと分かる。

 のそりとそんな川から、1人の人間のような形をした何かが這い出てきた。

 びしょびしょに湿った髪を揺らし、すーっと息を吸うと


「――いや誰が火渡りだあああっっっ!! んざけんぁあぁあぁ!!」


 絶叫が響いたと思ったら景色が元に戻った。

 不服そうな顔を浮かべる五十嵐はタンクトップからさっきの服に着替え、濡れた髪をタオルで拭き取りながらウィンと自動ドアをくぐってきた。足の裏は赤くなってしまっている。熱は……冷めてない。

(※本来、一般層の火渡りは火傷の心配はございません。火渡りの前には十分な知識と歩く前に塩を踏むや走ってはいけないなどの決まり事があります。五十嵐くんは特別な訓練を受けてるから大丈夫だよっ☆)

 ……大丈夫とは言っても、燃えないとは言ってない。

「えらく尺の取ったノリツッコミだな」

 朝陽が肩を落として言った。ほんと、偉く長かったように感じる。隣で縦に首を振った。

 口を尖らせたまま五十嵐は安藤先生に伝えた。

「――オレはドラムだ。家には電子ドラムがある。……なんか、今日オレ物凄く身体的ダメージを負ってる気がするぜ……」

「あ、あはは……そうだね」

 歯切れの悪い笑顔を向け、チラリと安藤先生は空の方を向いた。僕らも空ち目を合わせようとしたが

「――♪」

 彼は、不器用にそっぽを向いて、不器用に口笛を吹いた。

 ぐったりと疲れこんだ五十嵐がそのことに気づいていない様子だったから……ウン、よかったのかもしれない。

 安藤先生はメモを素早くとって、そそくさここから逃げるかのように次の人へフォーカスをおいた。疲れてる五十嵐に喋らすのも悪いし、何かまた問題事が発生するのを察知したのだろう。火の扱いに気を付けるかのように。……安藤先生の選択は物凄く正解だと思う。

 目先にいたから、という理由で次は奈留莉さんになった。

「な、奈留莉ちゃんは何の楽器かな?」

 首を傾げる安藤先生に目を見られ、奈留莉さんはいつもの元気っぷりはいずこへ、ツンツンと両手を人差し指を合わせてしどろもどろになった。

「う、っうーん……私は――」

 そこで僕は1つの疑問が浮かんだ。頭にもはや遥か昔に言われたような声が流れる。

(「柚充ちゃん キーボード!

  朝陽くん  ベース!

空くん   ギター!

  五十嵐   ドラム!

  そして――」)

 僕は奈留莉さんに問いた。

「あれ、奈留莉さん。奈留莉さんって何するの?」

「ふうっ! ……も、もう小森くん。痛いとこ衝くなぁ」

 体がビクッとなっていた。首根っこを急に掴まれた猫みたいだ。僕の問いに奈留莉さんは肩を落としてしくしく涙を流す。

 1人1人指さして奈留莉さんからみんなの担当を聞かれたとき。それは奈留莉さんがみんなが出来る楽器を基準として誘ったと聞いたが、そういえば奈留莉さんが何かを聞いていなかった。どうやら僕だけ決まっていないと思っていたが、知らない人がいたとは。

 奈留莉さんは割り切ったかのように1つ息を吐くと安藤先生に向き合う。

「私は、『ボーカル』に専念しようと思いまして……」

「おー奈留莉ちゃんがボーカル! なるほどなるほど」

「……うぃー」

 小声で俯きながら小さな相槌をした。

 ボーカル。歌う人だ。それ以上でも以下でもない。

 まあそうだよね、となっている自分しかそこにはなかった。逆にそれしかない。だから奈留莉さんは楽器のできるみんなを誘ったんだし、鈴歌祭に出たいという思いもあったんだ。

 気まずそうに笑顔を浮かべてる奈留莉さんの横顔をずっと見ていると、その目線が合ってしまった。猫背だった彼女は咳払いをし、しゃきっと体を伸ばして、僕に向き合ってくれた。

 それから、柚充さんと同じように、についての告白を始める。

 その様子は――自己解釈だけど、僕と話す1対1のように思えた。

「歌を歌うときは――私はね。気がするんだよ?」

「私じゃ……ない?」

「……う、ん。恥ずかしいね、なんだか自分で言っちゃうと!」

 届いた言葉をそのまま返すと、奈留莉さんは鼻の上がほんのり赤くなり気まずそうに頬に指を置いて笑う。気が付けば、奈留莉さんをみんなが見ているようだった。

 普段の元気でお調子者で、どちらかと言えばトラブルメーカーな奈留莉さんだけど

 彼女は目を閉じ、胸に両手を軽く添えてから夢の中よりも柔らかい口調で言った。

 ――それは、手でこそ触れられないが……触れてしまった途端、泡のように割れてしまいそうな

「私は――本当は誰かの前で歌を歌ってことが、とても怖いものに見えるんだ。

 バカにされるかもしれないし、「そんなのやめなよ」って言われるかもしれない。

 それに……セービングのみんなに演奏の責任を押し付けてるだけって……思われちゃうかもしれない」

 奈留莉さんは、喉先で一瞬引っかかったような言葉を絞り出してくれた。

 視線は僕と、僕の後ろにいるみんなと――目を合わせると同時、柔らかいものがなくなり、切羽詰まるというか、妙にそわそわしている様子に見て取れた。

 それでも奈留莉さんは、息を整えて向き合う。向き合って、言葉の続きを述べる。

「規模は小さくて。浅くて。……私は、みんなみたいに立派な人生を歩んできたわけでもないし、人に誇れるような能力も持ってないけど――

 私は、目の前の変化を掴み取りたい。

 変わりたいんだよ。グッチャグチャでめちゃくちゃな私。だから、鈴歌祭に出ようって思った」


 奈留莉さんはすーっと息を吸った。伸びた背筋、まっすぐ届く視線。

 やはり花のように笑う彼女は美しく――。

 でも、その目の中でしきりに何かを殴っているように……僕は感じた。


「真面目に、真剣に――想いを伝えたいの。――ただそれだけ!」


 言い切るように言った彼女は、変わらず癖っ毛の髪をふわりと揺らし。

 また、表情もふわりと柔く。

 柚充さんが奈留莉さんに飛びついてハグをした。バランスを崩しそうになった身体を朝陽が支える。五十嵐が大声をあげて、空が歯を見せ笑う。その全体を包むかのような暖かい視線で安藤先生が見ている。

 にへら、と嬉しそうに真ん中で奈留莉さんは笑っている。

 言いたいことも、伝えたいことも、「そんなことないよ!」も。

 ――今はどれも全部、脳のなかで留まることを選んだ。

 ただ、奈留莉さんの音楽に対する気持ちが知れて心の底から嬉しい。

 僕は――この人に誘われて、これ以上なく嬉しい。


 僕は、また奈留莉さんのことが好きになった――。




「ふんふん、朝陽くんはベースね! まあでも解釈一致だよね、ベースっぽいし!」

「おい、どういう意味だ?」

「褒め言葉だよ〜」

 崩れた笑顔で安藤先生が「ははは」と言う。その様子に朝陽は両手を広げて呆れていた。

 柚充さん、五十嵐、奈留莉さんと続き、特に順番の理由もなく今度は朝陽に回ってきた。「朝陽くんは?」「俺、ベース」「ベースね」の超スムーズな確認法で終わってしまったため、特に変化もなかった。

 でも、朝陽がベースっていうのは、確かに分かる気がする。そもそも、面倒臭がり屋で楽器をしないだろうという考え方は、抜きにして。

 奈留莉さんがひょいと顔を出す。

「朝陽くん、朝陽くん」

「おう?」

「朝陽くんは何かベースでのエピソードないの?」

「おう」

「え〜私や柚充ちゃんは、それなりに語ったよー? 火を渡った人もいるし」

「おーーーーーぅ」

 五十嵐は腕を組んで誇らしげな顔をした。誇っていいものなの? アレは……。  

 表情も、返事のレパートリーも変えない朝陽は、変化がないというのに全身から「面倒くさ」オーラが漂っている。今だって奈留莉さんの質問に、目の動きだけだ。動作を視認できたのは。石像と何ら変わんないんじゃないの?

 その石像は、毎日のように手入れに来る無垢な少女に折れたか、ため息と一緒に言葉を吐いた。

「はぁ。前にも小森にたしか言っただろ? 何かが俺をそうさせたみたいにって、イカした言い回しでな! ただ無性にやりたくなったんだよ。それだけさ」

 そう言ってまた石像に戻ってしまった。ちぇ〜と奈留莉さんがふてくされている。

 だが朝陽は思い出したかのように、頭の上に豆電球を輝かすように「あ」と呟いた。半眼だが、微かに口を開けている。

「あ、でも1つベースの好きな理由あるわ」

 その言葉を聞くやいなや、奈留莉さんが僕の方をぽんぽんとする。うん、何も言わず奈留莉さんは僕の目を見て頷くと、なんとなく「あーわかった」となった。おそらく、にすぎないが奈留莉さんのやりたそーな事に付き合ってあげることにする。

 僕と奈留莉さんは肩が触れ合うくらいの距離に近づき、胸の前で両手をくっつけ、朝陽に身を乗り上げる勢いで迫った。先程、安藤先生に向けて使った『お目々キラキラお願いお願い』も使うとしよう。頼まれたら、仕方ない。貴重なPPを使ってあげよう!

「えー! 教えて教えて!」

「聞きたい聞きたいー!」

 茶番でそうは言うも、正直本当に聞きたかった。

 いつの間にかベースをしてるなんてことを聞かされて、それにきっかけを聞いてもさっきみたいなふわっとした返答の一点張り。

 そんな朝陽が自分から言うなんて、信じられないことだった。

 普段とは少し高めの声で「たのむよーあさひぃ」と願う僕と奈留莉さんだったが、朝陽は信じられないほど動じず、たじろぐこともなく……。

 ただ、ウィンクのような容量と同じで片目だけを吊り上げ、不敵な笑みを浮かべる悪役のように悪い顔をした。顔だけで性格が悪いと分かる、そんな表情の朝陽を僕らは見る。


「ベースはな。文字通りバンドのベースになるんだよ。演奏として、厚みを持たせたり、バンドとしてリズムとったり。だからな?」

「「うんうん」」

 僕と奈留莉さんは同じタイミングで、ヒーローショーを見ている子供のような純粋無垢な目線を添えて、2度頷いた。


「ベースの俺がもし『抜けたらお前らどういう風に聞こえるか分かるか?』って気分で演奏できるから好きだ。ベース」

 

 へへへ、と笑う朝陽。

「「…………」」  

 僕と奈留莉さんは黙って苦い顔をする他なかった。

「うげぇ」

「ベーシストってクズしかいないってホントなんだな」

「朝陽さんらしいとも言いますか……」

 口々続くが、本人は耳に耳栓でもしているのか、のレベルで聞こえていない。

 もし朝陽が黙々淡々とベースを弾いて、実際今後曲を合わせたりする時、もしかしたら朝陽は今こう思って――って考えてしまう恐れが今生まれてしまいました。

「はぁあ、解散かいさーん」

 奈留莉さんの深い深い溜息とともに、腕を振りながら朝陽からみんな遠のく。

 動かない朝陽。言葉通り解散するセービングだが、ふと振り向くと朝陽は一点をただ見ているようだった。

 どうしたの、が口から出る前に視線の先を辿る。それはカウンターの方だった。

 カウンターではサキさんが突っ伏して寝ている筈だ。と思いきや、突っ伏していたせいか髪が跳ねているサキさんが朝陽をじっと見つめていた。

 眠たそうな、生気の感じない半目がお互いをただ見ている。何もしない。

 そう思っていたその時! サキさんがゆーっくり手を上げて――

 (グッ)

 白く細い親指が、そこに立った。グッジョブのサインだ。ただそれだけ。何も言わないし、何も話さない。✕2。

 朝陽の話を聞いていたのだろう。だからこそあのグッジョブ。

 それに対し、朝陽はそーっと手を顔の横に――

(ぐっ)

 朝陽も親指を立てる。

 そこで、というわけじゃないかも知れないが、朝陽とサキさんは結構共通点があるのかもしれない。2人のやり取りに、安藤先生は目を細めて苦笑いの他なにもなさそうな様子だった。奈留莉さんも猫背になっている。

 そんな2人に空はため息を吐き出した。

「ほーんと、ベーシストって」

「悪いのは……この2人だけだからさ?」

 安藤先生がちょちょぎれそうな声でフォローをいれた。

 ……そう言う空もどっちもどっちだ――と言いたくて言いたくて仕方がなかった。



☐ ■ ☐ ♪ ☐ ■ ☐



「のこるは小森くんだけだけど……」

 安藤先生は一度、メモをとったであろうスマホを今一度確認してから僕を見つめた。距離が近い分、先生は僕を見下ろし、僕は見上げる立場となってしまう。前に朝陽に身長のことで何か言われてたときのことを思い出した。

 安藤先生のじっと僕を見つめる視線に、僕は首を傾け見返す他ない。奈留莉さんがパチンと手を叩いて思い出したかのように言った。

「あっそうそう! 今日ここに来たのは小森くんの楽器を決めるためにアドバイスを貰いに来たんだった!」

「えっ。忘れてたの!? 嘘ぉ!?」

 そうだそうだ、と言わんばかりに頷いていた。奈留莉さんの声高らかに言うに空や五十嵐も揃って同じように気付かされた様子だった。……僕らはここに組体操をしたり、肝が冷える心霊現象に遭遇しに来たわけでは至ってないのだ。

 でも奈留莉さんが(良い意味とは言えない)忘れてたお陰で、安藤先生がピクリと眉をあげる。

「小森くん楽器決まっていないの?」

 質問をくれるその声は普段より1キー高い声域だったように感じた。語尾が上に上がる。

「はい、そうなんです。奈留莉さんは皆が各楽器ができることを知っていて、それで誘ったみたいで……だから僕だけあぶれてるというか、なので先生に! と」

「今じゃ『〜小森くんと愉快な仲間たち〜』バンド〝セービング〟だけどねっ!」

 そう言い終わる前に僕の方に腕を回した。勢いが激しく、拍子で倒れてしまわないように何とかこらえて、雲と雲の晴れ間みたいに笑う奈留莉さんに笑みを返す。

「なるほど、そうだったんだね!」

 安藤先生は王道スタイルすぎる納得ポーズな『右手の拳を左手の平にポンッとおく』を披露した。

 そうだ、やっと言えたじゃないか。今日ここに来た理由を安藤先生とサキさんに言うこと。中々話が進まない様子だったので心配で心配で……。僕らが来た理由も今まで分かっていなかった安藤先生には、実は困らせてしまっていたかもしれない。

 とりあえず伝えることはできたから、まぁいいか!

 実際、受信をした安藤先生側は、さっきまで納得の素振りだったものの、急に目を細め、腕を組んで右手を人差し指と親指が顎をサンドしている。どうやら悩み、試行錯誤中らしい。あのキリッとどこかを見ているようで、ろくに視界に入っても変わらなさそうな表情は第3者からでも分かる。

 本気になって考えてくれる姿がなにより助かり、安心して――カッコいい。

 時間は長くはなかったものの、先生が顔を上げるまで僕は先生の横顔に釘付けになってしまっていたため、正確な時間はよく分かっていなかった。ただ分かったの、先生が頭をまたまっすぐに戻し、ピンと長い指を伸ばしただけだった。

 でもそれだけ分かっていたらよかった。

「んーじゃあみんあ! あっ、違うね。やりなおし! んん、んっ! じゃあ のみんな! まずは、鈴歌祭になんの曲をやりたいか、選曲会議から始めよう!」

「選曲かいぎー?」

 五十嵐がわざと気の抜けた言い方で尋ねた。安藤先生は立てた指の形を変えずに、五十嵐の方を向き1度頷いてから質問に答えた。

「そう! 柚充ちゃんや朝陽くんみたいにMY楽器があらかた決まってるならいいんだけどね、そもそも何の曲をやるかで話が変わってきちゃいそうだからさ。それに先にそっちをしてくれた方がメモ帳のタイトルをわざわざ変えなくてすむからね!」

「そんな重労働でもないですよね、メモのタイトル変えるくらい」

「――じゃあ鈴歌祭に向けて、やりたい楽曲イメージが付いている楽曲の案がある人だーれだ!」

 アニメの間に入るクイズのような呼びかけだ。そのシルエットは何のキャラクターか当てるアイキャッチのときの呼びかけみたいだ、率直に思った。ただ口角を上げて手を広げた右手で挙手を要求する。逆の手には黒のシンプルなスマホカバーをつけたスマホを手に持っている。

 確かに、鈴歌祭に出るやバンドの名前を決めたとは言っておきながら、パフォーマンス用の楽曲はまだ何1つ決まっていないじゃないか! うっかりしていた。僕も忘れてしまっていたのだが、これまで誰もそのことを言わないセービングの皆もうっかりしている。

 でも単にみんな『今だけ』忘れていたのか、普段から何となくの曲は決まっているようだった。その呼びかけに、みんなはある程度用意していたみたいだ。言っても、音楽が好きな集団、鈴歌祭という一大イベントでやりたい楽曲の1つや2つは、脳内のフォルダに保存しているようだった。

 そこのみんなには、

 ふふん~♪ こんなことがあろうかと、僕は普段からある程度、鈴歌祭用の曲を考えていたのだ。えらい! ホントは、僕の案なんて拾われないだろうし、頭を掻きむしりながら数時間しきりに考えた結果、1曲しか決まってないって事は誰にも言えないけど!

「案がもうある人からどうぞ~」

 先生の声すら揺れてそうな穏やかな声に「たまには僕から行ってみようじゃ~ないかあ」と唇をきゅっと結んで、胸の前で両手の拳を握って気合を入れた。

 ビシッ!

 勢いよく伸びる手と同時、勢いよく僕の口から声が飛び出した。

 ――だが、その急な飛び出しが不慮の衝突事故を生んでしまった。


「「〝ミラーズスター〟はどうかなぁ?? ……えっ」」


 僕と奈留莉さんは同じ構図で、ぱちくりと点になった目を合わせた。

 それを先頭に、僕らは選曲会議を始める。  




 選曲会議を終えた。

 やっぱり、各々なんとなくで用意や希望があったため、決定まではそこまで時間がかからず、すらすら進んでくれた。

 1つは五十嵐や空や朝陽といった軍が全員引き立つような、いかにもバンドっぽいカッコいい曲。

 1つは奈留莉さんが大好きなアーティストの、もう何年か前か忘れたが有名で聞いたことがある曲。選んだ3曲の中で一番難しそうだ。トリを飾る楽曲となる。

 そして、もう1曲は『ミラーズスター』。

 ……まさかシンリマで聞いた曲をやることになるなんて。思いもしなかったけど、逆に今、ミラーズスターはとても有名な曲らしい。有名な動画投稿サイトでは、踊ってみたり、歌ってみたり、弾いてみたり。調べてみるとギターのTab譜動画がすでに結構投稿されているようだ。というか、この曲1か月前に投稿されたばかりの曲なの!?

 空は上がっているTab譜動画をしかめっ面でサビに入る前まで見ていたが、どこか堪忍袋の緒が切れたかのようにスマホに向かって

「だからぁ! サムネイルに【TAB】って書いている癖によォ! バックで演奏している人に合わせて、光がふぁ~んってなる編集とか、背景をアルマキャンドルの炎にとか、無駄なことしてんじゃねえよぉ!! 見えねぇ、見えねぇ、目的であるTAB譜が見えねえわ!!」

 のけ反りながら頭を抱えて空は叫んでいる。

「……彼は何を言ってるの?」

「……知らない、ほっとこ?」

 僕らは空を誰も見ないことにした。……でもTab譜の世界への叫びは、分かるっ、と思ってしまう自分がいる。

 空に対してまるで阻害するかのように背中を向ける僕らは、後ろを向いた途端、かのように静かになった。ふぅ、やっぱり騒がしいよりこっちの方が断然いい。それかまたネットの海に転がる無数のギター動画にケチをつけるため、さまよい始めたか。

 さーて、本題本題。

 安藤先生は後ろ髪をちょっとだけ触った。

「うん、うん――鈴歌祭にも合う曲ばかりだと思うよ。それにどれも有名で聞いたことある人も多そうだから盛り上がるんじゃないかな?」

「だってだって! 私たちのパフォーマンスで初対面の人たちも喜んでくれるといいなあ~」

「きっと、喜んでくれるよ」

「えへへ、そうだね!」

 奈留莉さんの考え方に、僕も肩を貸したく――いや、僕も1つとなって頑張ろうと思った。僕の声を聴いて安心してくれたのか奈留莉さんは、にぱーっとした笑顔で僕を向いてくれた。

 その顔を見たら、本当に喜んでくれるだろうとすぐに確信できた。

「じゃあそのためにも小森くんの楽器、早く決めないとねー」

「そうじゃん、楽器楽器! 実は私たちでも色々案を出したんだけどね~」

「おっ、それはどうだったの?」

 安藤先生が興味ありげに聞いた。柚充さんが一度困った顔で五十嵐をちらりと見たが、割り切って答えることにしたのだろう。そんな目をしていた。

 たとえ、死人が出るにしても。

「……なかなかこれといったモノが決まらず。空さんと五十嵐さんのサックスレンタル代分のお金がお財布から羽を生やしてヒラヒラ天へ目指しただけで……」

「あっ……そ、うなんだ。ドンマイ……」

「う゛ぉ゛っ」

 ▶<五十嵐は言葉エネルギーを体験した> 

 体が赤く点滅し、ばたりと綺麗に横に倒れたかと思いきや、白い煙を上げて辺りに持っていた持ち物をまき散らしてご臨終してしまった。体は消えてなくなる。まあ、心配することはないだろう。この持ち物が消えてしまうより早く、ベッドから目が覚めた五十嵐がダッシュでまた来るに違いない。あっ、落ちていた五十嵐の持ち物の一部が僕のポケットに入ってきてしまった。分けるのめんどくさいなぁ……。

 苦笑いを終えた安藤先生は、首を振ってから気持ちをリセットした。

「で、でも! きっと、惜しかったってやつだよ! 空くんと五十嵐くんの後はボクがちゃんと引き継ぐからねっ! ……はい。ってことで、ボクが勧める楽器はコレだよ?」

 安藤先生は高らかに誓うと、背中に回していたスマホを前に出し、画面を見せてくれた。それを顔と顔の距離が近く、ぎゅうぎゅうになりながら覗いてみる。

 黒の艶が際立つ、オシャレな外装。

 横長の平べったい長方形で、角ばった形がカッコいい。

 何やら横線が沢山書かれているディスプレイに、小さなボタンと4つほどの〝つまみ〟が周りを囲んでいる。

 極めつけ、一番目立つのは赤、緑、紫、水色、カラフルに側面が輝いている4×4のボタンの列。見るからにゴムっぽく、押しても簡単に沈みそうには見えない。

 興味津々でナニコレと画面に釘付けになっている僕ら、いや、正確には僕だけ。髪に隠れてない方の目と眉毛をくいっと上げて、言った。


「小森くんは、MPCって知ってる?」

  

 ガタッ、ガタガタガタガタ――ガシャッ!


「っ!」

 唐突に大きな音が鳴り響いた。そのせいで、完全に安藤先生がえむぴーしー? について説明するターンを飛ばされてしまう。

「な、何事っ!?」

「物が倒れたような……」

「あっちのドアからだ!」

「……あ、五十嵐くん帰ってきたんだ」

「あ、うい」

「とりあえず、行こう!」

 五十嵐が(ほんといつの間に帰ってきたの!?)意気揚々と指さして駆け出した方には、カウンターの隣に位置する灰色の扉だった。

 明らかに関係者以外立ち入り禁止、といった風格が扉から伝わってくる。灰色の暗めな配色は、形を変えず、声もあげるわけでもないというのに僕らを威圧していくる何かがあった。1歩踏み出した僕らは億劫になってしまう。

 ただ、五十嵐と奈留莉さんを除いて。

 ドアノブに手を掛けた五十嵐の背中に柚充さんが消え入るような声をかける。

「あ、あの、やっぱり、よくないんじゃ……」

「そ、そうだよ、スタッフオンリーじゃない? 気のせいかも、あの音は」

「気のせいじゃないだろ! 全員反応してたじゃないか!」

「……そだね」

 確かに。言われてみれば皆ばらばらの反応を丁寧にしていた。

 片手を一向にドアノブ離さない五十嵐は、眉に力を入れ、僕らの方を向く。

「んだよ、お前らビビってんのか? 高校生だろ?」

 あぁあ、聞いちゃったよ。聞かれたくないこと。

 僕と柚充さんは、人差し指と人差し指をちょんちょんくっつけるポーズをしていた。目を逸らしながら。

「いや……何かわからない音なんて――ねえ」

「ですねえ」

「オレはわからない音をで済ませる方が怖いと思うけどな!」

「いやだってそれじゃあ――――」


「たっ、たた助けてぇ!! 限界だぁ!!」


 反論をして扉から逃げようとしていたが、その扉の先から空洞に反響した明らかに空の聞いたこともない情けない声がした。

 予想外のセリフに一同は目を丸くする。安藤先生が辺りを見回す。

「そ、空くん確かにいないね……」

「いつから……」

「ずっと気にしてなかったからわかんない……」

「そういえば、サキさんも……」

「ですね……」

 ただ時間だけが経過していく時間が流れた。

 その空気を断ち切るには……僕がどうにかするしかないんだ。

 僕は、頬をパシンと両手で叩き、右足と右手、左足と左手を同時に出しながら五十嵐の背中まで歩く。その姿といえば、ゼンマイ式のくるみ割り人形のような身体の固さだっただろう。

 ブレる手をぎゅっと握り、扉に向き合った。汗がすごい。

「いいぃよぉおし、そ、空のためと、ななたら仕方ない!」

「そうこなくっちゃな! 何か助けを呼んでたよなアイツ」

 五十嵐はガチャリと重たい音を立てながら扉を開いた。柚充さんも僕に続いたのか、目をきゅっと瞑り、身体をぷるぷる震わせながらも扉へと近づく。

 そこは、打放しコンクリートの階段が暗闇へと伸び続く1本の道。夜の海へと誘われているかのような、地下への階段がコチラを待ち受けている。こんなにも暑い夏の日なのに、この扉を開けた途端、周辺の気温が3,4℃下がったような感覚になった。

「……あ、アイツに借りをつくるのは癪だケドナ〜」

「行くんじゃなかったの!?」

 五十嵐がまたドアノブを掴んでそっ閉じしようとした。流石の五十嵐もたじろぐようだった。

 まあでもこの闇を目の前にして怖くならない人はいるのだろうか。扉を開ける前よりも、恐怖心と不安が倍増してしまった。「はいはい、行けばいいんだろっ!?」半ギレ気味に五十嵐がとうとう階段へ1歩を踏み出す。

 五十嵐の頭が遠くなるのを見て、僕は肩で息をした。そう、深呼吸! 大事なのは深呼吸だった、忘れてない。すってはいてすってはいてすってはいて――。

 上下する肩に柔らかく手が乗った。指先がなぞるように鎖骨を撫でる。手つきと、声の近さで誰だか分かってしまう。それくらい、それだけで安心できるから。

「ほら、今雪だるまみたいに冷たいよ」

 確かに指先が赤くなっていた。雪だるまの僕は背中からの手の平に首を触られ、段々温もりと安心を知っていく。「私がそばにいるよ」奈留莉さんは耳に囁くように言ってくれた。

 僕は、目を瞑ってすーっとひと息吸うと、靴底を灰の地面に着ける。

 勇気の炎を揺らめかせ、階段の先へと進んでいった。



☐ ■ ☐ ♪ ☐ ■ ☐



「……ううっ、いくら何でも暗すぎじゃないですかぁ……前がロクに見えないですよぉ。お先真っ暗です……ほんとうに真っ暗……」

 柚充さんがまたしくしく泣きながら階段を下りる。背中越しに聞こえてくる弱気な言葉シリーズは扉をくぐってから今まで一向に止まることはなかった。最早、ここまでいくと自分の怖がりが柚充さんのお陰で打ち消されているまである。

 勝手に感謝しておくことにした。

 僕らは妙な物音と、空の助けを呼ぶ声を聞いて階段の先へと進んでいったが、そこは入る前から見たとき以上に薄暗かった。最後尾に入る安藤先生のスマホのライトがなければ前も後ろもわからないだろう。天井に1つ電球がぶら下がっているが、案の定電気は付いていなかった。埃を被っている。

 1人1人がスマホのライトを点けたいくらいなのだが、この階段は異常なくらいに蹴上げの高さが高い。それに手すりもなく、幅も丁度人1人分しかないから、冷たい壁を両手で触れながらゆっくりゆっくりと降りていく必要がある。なので長いか短いかもわからないこの階段を下るのに結構な時間がかかっている訳だ。

 感覚は崖っぷちを背中合わせで向こう岸まで渡っていく、ゲームでよく見た感覚。よく上から肉団子みたいにきれいな岩が降ってくるアレだ。

「バランス感覚には自身がある!」と言って壁に手を添えずにスマホを出そうとした奈留莉さんだったけど、安藤先生から大人の命令である「STOP!」がかかってしまい、渋々一緒に手をついていた。逆に安藤先生が心配で仕方なかったが、それほど自分の身より僕らの安全のことを考えてくれているんだ、と心に涙が溜まる。

 いつか、僕も周りを優先して生きれるような優れた人になりたい。

 そのためには、この命がけな階段下りを生き延びねば――

 ……でも、さっきからその気持ちがしっかり固まらない。なぜなら、と振り返らず僕は問いかけた。

「奈留莉さんさ……何でそんなに楽しそうなの?」

 後ろで場違いなほどに呑気な鼻歌や歌を歌う奈留莉さん。ふと思いついたであろう曲を歌っては、時折うろ覚えな歌詞を鼻歌に変え、合間合間に1人なのにも関わらず「あーよいしょっ」「えい、えい、えい!」と相槌をしている。 

 この狭い空間と、一列に並ぶ近い距離。ぐすぐす鼻を啜って泣き言を言っている柚充さんと、1人で歌ってレスポンスまでして盛り上がっている奈留莉さんのセットは、反響も相まってかなり騒がしい。

 そんなことを全く気にしてなさそうに奈留莉さんは質問に答えた。

「んー? だってさぁ〜こういう先の分からない地下室みたいなのワクワクしない!? もしかしたらレベリングが今後一切不要になるモンスターがいたり、伝説の宝を手に入れる前のパズルが設置されていたり、今後何を買ってもなくならないくらいのお宝、お宝、金銀財宝ザックザク――」

 奈留莉さんは目をキラキラ輝かせる。その目の輝きで目元がちょっとだけ明るくなったような気がした。

「っだぁ゙!! ぅるせぇ、奈留莉! 大きな声出して非現実的なこと言ってんじゃねぇ!?」

「そっちだって大声で怒ってるんでしょーが!」

「ぅう……なんでこんなところ行かないといけないんですか……もおいいじゃないですか……いいですよ空さんなんて、ほっといて……」

「や、やばい……スマホのバッテリーが――(ピロン♬)わあっ!? ビックリした! 通知音か……いや、音でかいなあ、落とさなくてよかったあ……あ、みんなあ〜新しいパックがリリースするんだってえ!」

 僕は一度その場に止まった。止まって唇を口の中に収めて微妙な顔をする。

 反響も相まってかなり騒がしい例のセットに、五十嵐と安藤先生追加で!

「ちょっとみんな!」と負けじと大声を出し、自分の声がこの中で何度も反響すると、ざわざわが静まり返った。

「もう、いい加減にして、みたいなことも、もう僕は言いたくないからねっ! 僕だって怒りたくないんだ。ほら、ちゃんと前見てすす――――」

 呆れながら前の五十嵐を見て、その後に奈留莉さんたちの後ろを見ながら足を前に出したせいか、位置が安定せず、踵が踏み板の端を削った。


 ズルッ!!


 左足が空中を空振る。すぐに重心が崩れた。視界が予想もしない動きを見せ、高い天井とぶら下がる電球が唐突に目に入る。 

 僕の身体は背中から後方へと傾いて、そのまま落ちていく。

「――!!」柚充さんの甲高い声にもならない声がした。

 ぶれた写真のように、五十嵐が目を見開いている顔が見えたような気がした。

 後頭部から「小森ッ!?」と心がドキッとするような切羽詰まった安藤先生の叫びが聞こえた。

(ヤバッ――ぶつか…………)

 頭がぱっくり割れるような痛みを覚悟し、反射反応で目を瞑る。

(……ああ、ようやく――)


 光の中でシルエットが見え、キーンと甲高い耳鳴りみたいな音がした。

 ……だがそれは一瞬として消えた。変わりに地に足の着いていない、宙に浮いているかのような感覚に陥る。

 頭が脱力したように垂れ、足がぶらんぶらん身体に後からノリでくっつけたみたいに揺れ、手先は指先1つ1つに血が溜まっていくような感覚になった。

 けど、気道が閉塞されているわけじゃない。。それに、両脇に暖かい感触が残っている。

 身体をがしっと捕まえているような、キツい。というか――くすぐったい!?

「――っはは、んんっはは! く、くすぐった……」

「はぁ、っはぁ……ぎりぎりセーフ」

 身体を跳ね上がらせる僕に対し、荒れた息の奈留莉さんの声が聞こえる。

 恐る恐る目を開いてみると、僕は後ろにいる奈留莉さんに両脇を抱えられ、持ち上げられていた状態だった。「え!」と驚きの声が出てしまう。安藤先生と五十嵐がほっと胸を撫で下ろす様子が見えた。柚充さんも吸ったまま溜まっていた息を吐いた様子だった。

「……よかった、です。無事で」

「ほんと、だよ……小森くん!! 何やってるの!? 危ないでしょ!!」

「……いぅっ!?」

 僕はまだ奈留莉さんに抱えられた状態のまま大目玉を食らった。距離が近いのと、普段あまり怒ったような素振りを見せない奈留莉さんだったので、思わず身体が縮こまってしまう。

 確かに、自分の不注意で転んで頭を角にぶつけて怪我を――もしかしたらもっと……。

 思い返すとどんなに恐ろしかったか、身震いする。

 僕は眉間に皺を寄せて、そのままずつきするんじゃないかってくらいの距離の奈留莉さんに、目を合わせれず下を向いて言った。

「…………ごめ、んなさい」

「……ふぅ」

 息をつく音がしたあと、僕の足がまたコンクリートの上に戻ってきた。

 僕はまだ奈留莉さんの顔を見れずにいる。俯く顔と前髪で隠れる目で奈留莉さんの靴の先っぽを見ていると、優しい手つきが僕のシャツの皺を直した。

 ふと顔を上げる。そこには眉を内に向けて、困ったような笑みを浮かべる奈留莉さんが安藤先生のスマホのライトを背中で受けて僕を覗き込んでいた。

「ホントに……心配したんだからっ」

「ご、ごめ――」

「……いいよ。2回はいらないっ、謝らないで。でも本当によかった」

 襟元を手で撫で、ぴしっと最後に引っ張る。乱れた服はきれいになっていた。

 奈留莉さんの言葉の言い方に、またむず痒く、自分が居心地悪くなり――

 ぴょこんっ、と人差し指が僕の頭頂にあるアホ毛に触れた。「んっ」と声が漏れた。

 また顔を上げると、凹む僕を仕方なさそうに笑う奈留莉さんがいた。

「もーそんな顔しないで! 私ファインプレーだったんだから褒めてよ〜。……というか、小森くん軽すぎ。女子高生のてきー」

 そう言って僕をジトーッと睨んでくる。ソレに関してはなんて返せばいいか分からなかった。「えーっと……」と困っている僕に、柚充さんや安藤先生はケラケラ笑う。

 後に「冗談だって!」と言って笑う奈留莉さんに、僕は、段々と笑いが込み上げてきてしまった。「体重いくつなの?」「えー覚えてない」「罪だねぇ」奈留莉さんは僕の頬を指先でツンツンつついてきた。

 ……本当に、頭ぶつけなくてよかった。こんなにも周りに恵まれているのに、たった数秒の油断で全てを失ってしまうところだった。

 こんなことは今後一切ないようにと、声を大にして――


「うわぁあぁあぁ!!」


 さっきと似たような大きな声が、今度は結構近くに感じる。狭い空間に、左右の向き合った壁を何度も何度も跳ね返り、空の絶叫は瞬く間に広がる。

 はっ、とした五十嵐は、慎重に進んでいた足を微かに早める。僕らは、その背中が消えて見えなくなる前に何とか着いていった。僕が滑っておいて言うのも何だけど、急ぎ足に変わった五十嵐への心配が段々と募る。

 幸い、階段は後6段進んだところに小さな踊り場があり、それを左折すると3つ段を挟んで長い廊下のような場所に出た。階段を降り終えた先が廊下だったので、1本道の空間かと思いきや、少しスペースがある。人、1人分が両手を広げて回れる程度だ。

 その先に廊下が伸びており、年期が見て分かる扉が3,4つ程あった。そのうちのここから1番奥の扉の中から、照明の光を感じる。

 僕は、奈留莉さんの服の袖を指先で微かに摘みながら言った。

「な、なに……ここ」

「わかんない。わかんないけど、何かカラオケの廊下みたいだね」

「あの扉の奥に……のでしょうか?」

 柚充さんは自分で言っておきながら「ひいっ!」とワナワナ震え始めた。怖がる気持ちが僕にまで感染ってしまう。

「や、やめてよ! そんな言い方……いるのは空なんでしょ? ……あ、アレ? ちょちょっと奈留莉さん?」

「――」

 奈留莉さんはここに来てまでビビる僕らをスルーし、袖を摘んでいた僕の手を、逆に掴んでずんずん廊下の奥へと進んでいく。「奈留莉さん!?」空、とは自分で言ったけど、得体も知れない光のほうで強制的に(しかも引っ張られているからバックで)進んでいくのは、やっぱり怖い!!

 歩みを止めない奈留莉さんに抗おうと、腕を振ったり、足を踏ん張ったりしてみたが……ねぇ、やる前から結果は分かっていたよね。僕を軽々持ち上げたり、タコ上げみたいに運べる人だから。

 案の定、僕は引きずられながら扉の方へと引き込まれた。運ばれる僕を見て、柚充さんは胸の前で十字架を作り、清々しい顔で祈っている。

「……小森さん。小森さんの勇姿は忘れることないでしょう……」

「じゃあ助けて!?」

 スタッ。

 虚しい願いも泡になって消えてゆく。奈留莉さんは扉の前に仁王立ちした。その横に手を繋いだ、空気が微塵も入っていないヘロヘロな僕もいる。

 手を握っていない方の手でドアノブに触れた。奈留莉さんの息を飲む音が聞こえた。すぐその後、ぐっと力が入り、勢いよくドアが開かれ、彼女は声高らかに叫んだ――


「たのも〜!!」


 暗闇から急に光を浴びたので、目が感覚を取り戻すまで視界がホワイトアウトする。顔をしかめて、反射で目を閉じた。

 だが、段々朝日が昇る朝焼けのように景色が晴れていく。

 そこで、目にしたものは――


「もっと、もっとぉ、もっとだぁぁぁ!! 限界まで自分を追い込んでゆけぇえぇ!!」

 床板の下から、ぶるぶると震えるような音が這い上がってくる。

 ――ベベ ギギボッ ボボボーギッボ ヴォボォ ボボボ。

 エッジの効いたスラップベースが、アンプを通して耳まで届く。

 それと同時に、これ以上ない熱血教師のような熱量の声まで聞こえてきた。

「むむ……無理です、限界っすよォ!! 指が……左手が追いつかね……ぇ」

 幾分と聞こえていた、空の情けない声もこの部屋に入る瞬間に本人のものだと確定した。息の切れた、言葉の終わりが伸びたような声がちゃんと聞こえる。

 加え、ベースの爆音と熱い声にかき消されそうなエレキギターの音もある。

 ――キュィンキューン、ピロピロピロォワーゥワーン、ジャッジャジャヵ。

「音はっきりしなくなってきたぞぉおぉ!! 次は――タッピングだぁ!!」

「た、タッピングぅ!?」

 空は、ギターを弾く手を止めて、言葉を繰り返した。目を凝らしてみると、ネックを持つ空の指先は、あまりにも力が入っていたのか、白く血が通っていないように見えた。休憩をするまもなく、ひぃひぃ泣き顔のままピックを口に加えて、右手の指先と左手の指先を高速で動かし始める。額から首元へと流れる汗の量は、まるで滝のように見えた。イカした前髪は汗で湿って変な方向を向いている。

「おいおいおいおい!! テンポ遅れてきたなぁ゙!? コード弾きが好きだからって、指弾きの練習を日頃から逃げていた代償かァ!? あぁ゙ん!?」

「ヒヒぃっ、図星です、スミマセン! 最近アコギばかりなので、エレキの小ささと薄さに現在絶賛感動中ですッ! でも、重すぎるッ!」

「口より手ぇ動かせぇえぇ!!」

「スミマセン――っ!」

 空は、そうして今度はパワーコードを弾き始めた。へなへなになっていく空の姿に反して、ベースの音は更に大きくなったように感じる。

「たいへんだなぁ」

 目の前の激しい2つの演奏を大嵐とするなら、その近辺に座ってあくびをしている朝陽は緑の草原のようにノドカだった。というか、いつの間にいたのか……。

 いや、最早いまはじゃない。朝陽が変な場所にいたり、急に合流したりなんて日常茶飯事だ。

 それより、目の前のベースを上に掲げながらスラップをキメている人。


 ――扉を開いた先の景色、豹変したに僕らは度肝を抜かれていた。



☐ ■ ☐ ♪ ☐ ■ ☐



「いやぁ久々だとやっぱり楽しいね」

「…………一方のみっスね」

 地面に膝と両手をつきながら、力尽きたように息をしている空がカサカサな声で言った。その様子と、背中にかいた汗を見たら分かる……エグかったのだろう。

 僕らは足を組み椅子に座ってタオルで汗を拭うサキさんを、警戒を解かないまま見ていた。なにしろ、普段からうるささと騒がしさで構築されている空の気力を全て奪った人だ。……何をしでかすかわからない。

 奈留莉さんは、サキさんを遠い目で見ながら尋ねた。

「……うん、色々と聞きたいことは山積みなんだけど。まずは、この部屋から」

「ああ、ココね」

 僕らはそれぞれ違った方向を見ていた。散り散りになってこの部屋を調べる。

 今いる空間は、まるでカラオケの個室ぐらいの大きさだった。20帖くらい? それより少し小さめ……?

 というか、カラオケの個室そのものだった。焦茶色の木目が入った床の柄に、黒一色の壁々。黒の壁は、一部壁紙の接着調子が悪いのか、剥げている部分がある。

 入口から奥の方に長く伸びる長方形の部屋の角、赤くてツヤのあるクッションがL字型に配置されていたが……お世辞にも状態がいいとは言えない。所々に穴が空いていて、中の黄色いスポンジが顔を出していた。その椅子に横並びに座って空とサキさんは熱く盛り上がって仕事を終えた各楽器を胸の前に抱えている。

 もう1つカラオケの個室だと考察できた材料として、ソファーとは逆の角に、明らかにテレビが設置されてあったような配線が残っている。配線の先端は接続端子ではなく、乱雑に断線されており中の銅線が見えてしまっていた。どうやらもうお役御免のようだ。

 だが、断線の下にはアンプが数個とミキサーまで置かれており、隣にはマイクスタンドまで壁に立てかけられている。コンセントもあるし、少し上を見ると1台のエアコンが付いている。そもそも、部屋には間接照明の電気が点いているし、電気が通っていないわけではないみたいだった。


 最終的に、色々と見た結果――〝年季の入ったカラオケの個室と音楽スタジオを混ぜた独特な空間〟という結論に陥った。

 

 不思議に部屋を眺める各々の目元を見て、サキさん答えてくれた。

「ココは見て分かる通り元々カラオケ屋さんだったんだ。ここを出た隣にタイルの階段があったでしょ? もう看板は置いていないけど」

「外の階段?」

 そんなものあっただろうか、上の階の事務所みたいな場所に黒ずんだ看板があるのは知っているけど、それはどちらかと言うとソレは上の階のものっぽかったし……。

 何のこと? と言わずも、ピンときていないセービングの表情を見て、サキさんは微かに目を大きくして驚く。

「まさか……キミら、ゲーセンの方にある白いドア通ってきた?」

「そうですそうです」

「暗黒小道を抜けて」

「ぉ……ぅ」

 サキさんは喉の空気が破裂したような低いうめき声を漏らした後、おでこに手のグーを押し付けて顔をしかめた。下を見ながらため息をそのまま声にして言う。

「っこまるなぁ。あそこ真っ暗だから高校生が転んで大怪我したら責任とるのは管理者のアタシなのに……て、鍵してない自分が悪いか」

 サキさんは自分を悔いた。事実を知った暗闇階段の経験者たちは顔を見合わせ、言葉を発しなくても「あ、やっぱり正規ルートじゃなかったんだ」と納得した。

「ンまぁいいや。怪我してないからここに来れたんだよね。オーケー。アタシは悪くない。さて、キミらはどうしてここに?」

 サキさんはベースとアンプを繋ぐシールドを抜いて、スタンドにベースを置く作業をしながら淡々と話す。何故、そっちが尋ねるの、と言わんばかりの表情で安藤先生が答えた。

「さて、じゃないでしょ……。小森くんと鈴歌祭の話をしてたら大きな物音がして、気が付けば空くんも朝陽くんもサキもいないし、空くんの疲労にまみれた声がするし――まさかとは思うケド……」

 安藤先生は猫背になった。サキさんはベースを完全に直しきったようだった。角に置いていた机をソファーの目の前の正位置に戻し、それに踵を乗せて足を組む。その机もカラオケに置かれているものと瓜二つ。

「まさか、って分かってるならいいじゃないか。この場所も久しいだろうに」

「そうだね、そうだろうと思ったよ」

「っハハ」

 目を閉じて呆れるように肩をおとした安藤先生に、サキさんはギザ歯をニッと輝かせて笑った。どこを切り取ってもクールな人だ。でも、安藤先生には見慣れた光景なのかも知れない。さっきの熱血さは、もうまぼろしのように感じられない。

 猫背のまま手をぶらぶらしている安藤先生は、その状態のままくるりと綺麗に回ってみせて、僕を見た。

「サキはね、癖か一種のスイッチかわかんないけど……狂った愛をお持ちになられているんだ。むかし、ボクも永遠と付き合わされたよ。永遠と……」

「どんな癖!?」五十嵐が思わず叫ぶ。

 だから空はあんなに嘆いていたのか。無理やりセッションだなんて……安藤先生が昔と言うなら結構前から行っていたのだろう。犯行を。

 最早、音楽ハラスメントだ。おんハラだ、おんハラ。

 事実を知ったようだった空は、ソファーの背もたれに背中を放り投げ、そのままゲル状になったかのように崩れていく。

「だから〝ピックは? ピックだよ、ピック! はぁ!? 毎日2つくらいポケットに入れて持ち歩かないとダメでしょ!?〟って、意味のわかんないキレ方されたのか……なっとく」

「いや、納得できないでしょ」奈留莉さんが目を細めるレベルの異端さだ。

「そして……どうしてサキさんは誇らしげな顔をしているのでしょう」

 柚充さんが言うように、ソファーに座り足と腕を組んでいるサキさんは、目を閉じながら言葉言葉を噛みしめるように「うん、うん」と頷いている。にやりと口角を上げている笑みの上の鼻は、段々と長さを稼いだ。

「ところで――」

 僕は、サキさんを視界から追い出し、安藤先生を見ながら言う。視線に気づいた先生は「うん?」と声をあげて僕と目線を合わせてくれた。先生の頭越しに朝陽が呑気にあくびをしている。

「付き合わされた、って言ってましたけど――サキさんと安藤先生は、ここでバンドの練習をしていたんですか?」

 尋ねるに対し、先生は一瞬目を丸くして、それからいつもの目を細める笑い方をした。

「流石、小森くんは鋭いねえ。答えはYESだよ。ほら、そこのギター、アレは僕がずっと使っていたやつなんだ」

 指差す先は、いま現在空が手にしているエレキギターだ。さっきのセッションにも使われていた物。

 カミングアウトされた空は、驚きのあまり立ち上がり、安藤先生へ返そうとした。声が申し訳なさを物語っている。

「っ!! っさーせん! 勝手に――」

「いやいや! いいの、いいんだよ! ……どちらかと言うと、謝るのはサキのはずなんだけど」安藤先生は焦って両手を前に振った。

 細い目でサキさんを見るが、サキさんは座ったまま寝ていた。いつの間にか隣には朝陽が座っていて、各自座って寝ている。

 だめだこりゃ、と視線を空に戻した安藤先生は言った。

「それに、空くんとてもギター上手だし、丁寧に使っているのがわかるよ。さっきもセッション終わった後、クロスでちゃんと拭いていたでしょ?」

「まぁ……っね」

「ギター自身も、そんな人からこうやって使われる方が本望だよ。――ほら、お疲れなんだから座って座って! さっき奈留莉ちゃんや柚充ちゃんが興味津々でギター見てたから、その凄腕を存分に見せてあげてきなよ?」

「っ、わかりやした! あざッス!」

 ウィンクして言う安藤先生に、空はまるで子供のような笑顔を向けて頭を深々下げながらソファーへ戻っていった。満足そうな笑顔をしている先生の横顔を僕は見ていた。

 その顔には、どこか哀愁が離れられず残っているような……。

 先生は僕に振り返る。

「で、何の話だったっけ? ああ、そうそう、バンドの練習ね。ボクらはサキがここの管理者だったっていうのを――使って、って言うのは言い方が悪いかも知れないけど、ここの1部屋を使わせてもらっていたんだ」

 安藤先生は過去を振り返り、ここの部屋にいたを思い浮かべているような表情のまま話す。

「実は、この建物は1階はあんな風にゲームセンターでやっているんだけど、地下はちゃんとした音楽スタジオもやっていて、今でもたま〜に人が来るんだよ? ボクは、たまにサキの手伝いに来るんだ。まあ、ゲームセンターもスタジオも、微塵も人は来ないからさっきみたいにカウンターで話しているだけなんだけどね」

 さっき、というのは僕らがココに来て先生と再会を果たしたときだろう。

 色々と疑問が線として繋がっていくのを感じる。だから、ココ以外にも扉が3,4つ程あったし、安藤先生はこの部屋に入ったとき知ってる風だったし……人が全然来ないから廊下の電気は薄暗いままだったし。

 先生の目線は、ソファーで空のギターを囲って見ている奈留莉さんや柚充さんや五十嵐、空を微笑ましく見ているようだ。アンプの繋いでいない素の音で、適当なコードをジャンジャカ弾いているのが聞こえる。

 安藤先生の目線は、まだそこで留まっていた。奈留莉さんたちを見ているような、――を見ているような。

「……それでもやっぱり、恋しくなっちゃうんだ。人が来ないからお手伝いも何も、することがないのに。部屋を整頓していくら埃を払っても、来る人がいなければ意味がないのに。それでも、事あることに足を運んじゃう」


 まるで、そんな考えが間違いかのような言いぶりだった。

(意味がないなんて…………そんなの――)

 ……絶対に違うから、言わないでほしい。


「結局、忘れられないんだろうね。変化を、受け入れがたい。だからボクは何もないここにいる。家族が出来て、娘が生まれて、それぞれ違う形を歩んだ親愛なるメンバーは……ココには、もう――」

 安藤先生の、立ち尽くすその姿。立つ姿勢に腰辺りに垂れた腕と手。

 先生は、目の前に座っているバンドメンバーをもみ消すかのように、強く強く、血管が浮き出るほど拳を握りしめていた。

 握りしめた力量の手に似合わない真逆の声が、口から溢れた。


「――いないんだ」

は」


 僕は。先生の手を何も言わず、握る。硬い皮膚と、厚みに、いかに自分が子供で大きさが小さいかを知れた。

 僕の声と手に、安藤先生は驚いている。

 けど、僕は握ったまま、ただ目の前のセービングを見ながら出来事を話した。

 ――鍵を付けて蓋をしていたものを、そっと開いた。


「母は。僕の、お母さんは……」

「小森、くん……?」


「……ふふっ、ちょっと、という言葉じゃ言い表せないくらい、抜けているところがあったんですよ」


「――――」

 開いた口が塞がらない先生に対し、僕はまっすぐ。ただ真ん中をまっすぐ、見て――笑いながら喋る。

 忘れることはない、の一部のエピソードを。


「なんでそんなことを言うんだ、って話なんですけどね?

 ――ある日僕は、学校の宿題をしていたんですよ。あれは……中学1年生だったかな? たしか理科の授業で、先生から指定された問題集を家で宿題として解いていたときだったんです。そのときの単元が火山とか、地震とかの箇所で。

 で、ですね。問題の1つで答えが柱状図の問題があったんですよ。柱状図、地層の堆積した理由とか、当時の環境とかが知れる図のことで、当時中学生の僕は、その問題に思い出せず、行き詰まっちゃって。

 う〜んと頭を抱え、悩みに悩んで、そんなときに母――お母さんがホットミルクを持って来てくれて、折角だから答えと教科書を持ってもらって、ヒントとかを教えてもらおうと思ったんですよ。

 頼んだら、「まっかせなさい!」って快く受けてくれて……。

 ――でも、僕、そのあとのお母さんが言うことに笑っちゃって! お母さんなんて言ったと思います?」


「わ、かんないな……あ」


「自信満々な素振りで「地層を調べるのによく見かけるはーー」って読みはじめたんですよ! 信じられます? はしらじょうずって。そんなの大工さんじゃないですか、家の大黒柱を建てるときしか使いませんよ、はしらじょうず!」


 っふふ、と今思い出しても笑ってしまった。その単元のテストで、問題に柱状図が出るたび、僕は笑っちゃう体となってしまった。家に帰ってきて「にくいお母さんでしょう?」とまた笑いあった日のことを思い出す。

 ――その流れで、僕はもう1つ続けた。


「僕がセービングのみんなからたまに抜けてるって言われることがあるのは、お母さんのせいかも知れません。でもいつも元気をもらっていました。

 ――お母さんの話で思い出したんですけど、お父さんはどちらかと言うとお母さんほど天然ではなくて、どちらかと言えばしっかりしているタイプだったんです」


 安藤先生と握っている手に、汗を感じた。僕はそのまま続ける。


「お父さんは――話が合う人でした。

 実は……先生や空ほどじゃないんですけど、僕はギターが出来るんですよ? アコギのコード弾きのみですが。

 そのアコギは僕の父のもので、部屋にあったのを使っていいか聞いたらサラッとくれたんです。……そういえば、大体父親ってギターの1本か2本持っていますよね。なんでなんでしょう?

 まあ、ギターを筆頭に僕は父か受けた恩恵が数多くて。アニメ、ゲーム、ラジオ……好きな芸人さんのコントライブまで一緒に行ったことがあるんです! 2枚だけまさかのチケットが当たって……あのときは、嬉しかったなぁ。

 夜な夜な、少し夜ふかしして2人プレイでボスを倒したこともありました。

 横長の白いリモコンを2人ならんでソファーに座って、あまりにも強いボスにメッチャ苦戦して……。

 最終的な倒し方は、移動ボタンをレバガチャしてパワーを溜めてから球を放つ遠距離攻撃の能力を2人で、ちまちま、ちまちま打ち続けるっていう……んっふふ、あまりにも情けない倒し方ですよね、ホント。

 その方法で勝ったとき、あまりの喜びに、夜中なのに叫んじゃって、起こしちゃったお母さんと妹にこっぴどく叱られ――アレ? ちょっと苦いお話しだったかも?」

 

 記憶を辿るまでもなくスラスラ情景が浮かんでくるそのままを話すが、正座して怒られた思い出も流れてきた。暖かいものに触れていたつもりが、僕にとっては締めが悪いお話だったので、言っている最中に首を傾げる。


「でも、結局僕は何が言いたいかって――


 僕は斜め上を見た。ちゃんと上を向かないと先生と目が会わない。

 先生は僕を見てくれている。下からのアングルで、普段前髪に隠れているもう1つの目もちゃんと合っていた。

 安藤先生が作る表情の眉は、ハの字を向いており、僕の様子に困惑しているようだった。


 それでも僕は、気にせず言った。


「結局、〝過去〟ってツラいんです。

 満たされてた想い出が――もういない。どこに行っても、もういない。

 後悔しか残っていない経験や過去が、誰しもあるじゃないですか?

 1度思いつきで振り返ると……そのたびに近くなる。執着する。

 ……記憶から消えなくなってしまう。


 ――だから、世界は〝過去を振り返らない〟を『強い』だと思っているんです」


 先生は何も言わない。

 そんな先生に、僕は1度顔を逸らし、目を瞑る。

 何もない。聞こえない。真っ暗な視界。

 ――そこには、上辺だけ沢山の物が積まれ、自分本体には何も溜まっていないからな自分がそこには待っていた。


 だから僕は、笑顔を造って、目を開く。

「でも――」


 目をくしゃっと曲げる、、安藤先生へ微笑んでみた。

 笑って喋る自分の声は、自分でも予想外なくらい肩の力が抜けた、柔い声だった。


「人はこんなにも多いんです。数多の考えが蔓延る。

 だから、仕方ないんですよ。意見が割れちゃうのは。

 僕は『強い』って思っている人たちに、納得出来ていないんですから。

 〝過去を振り返らない〟は、それこそ『強さがないことだ』って思ってる人がいても――いいじゃないですか」


 段々と自分で言っていることが、「高校生のくせにー」みたいな感じに思えてきて、んふと鼻で吹き出してしまう。

 1度笑ってしまうと、なんだか面白くなってきた。先生には余計困惑させてしまったかも知れないけど。

 僕は肩が震えるのを何とか抑え、ニヤける顔は抑えれない。

 ふぅ、と一息つくと最後に結局何が言いたかったのかを、先生に言った。



「だって結局――過去には楽しい思い出が沢山なんですもん。

 正解を付ける人はいない。

 振り返ってやって、振り返ってやって! ――仕方なく前を向きましょう」


 どうせ単に世間は僕をズレてるって言うんだ。だったら、いいよ。もう。

 僕は、大好きな人と手を握り、その顔にニッと歯を見せて笑ってみせた。

 

 先生は、表情を変えず僕を見ていた。けど、僕の笑い方がちょっと変だったのか、ふふっと微笑んでくれた。子供っぽいって思われちゃったかな……?

 眼鏡越しの瞳は笑みの形をしている。こちらを向いていた顔の向きを、また身体の前の方に直した。今度は僕が先生の横顔を見つめる。

 視線の先、奈留莉さんや空がいた方だ。

 空が座ってギターを弾いていた位置が、奈留莉さんと入れ替わっている。奈留莉さんは空からギターを試奏してみろと言われたのだろう。足を組み、安藤先生のギターを手にしている。

 奈留莉さんは喉の奥を震わせ、ここにいる僕らにまで通る鼻歌を披露する。今思いついたメロディだろうか。絹のように滑らかなハミングは繊細で、どこか裏に儚さを孕んでいるようで――それなのに、奈留莉さんらしく、暖かく。

 だけど、押さえているコードの指位置が悪いのだろう。『C』だ。きっと薬指が立っておらず、4弦に指の腹が当たってしまっているせいだ。

 だから、柔らかくゆっくり弾いたギターから鳴る音は「パキッパキ」と不器用な音をたてていた。

 また、何やら楽しげにしてるよ。なんて遠くから安藤先生と眺めていた。 

 そんな何でもないときに、手を繋いだ人から声が伝ってきた。


「……小森くんは……強いなあ」

 返答に困った。だけどわずか一瞬だった。

「そんなことないですよ。……先生がいなかったら……――」


 ギターの音色の合間に、挟んだやりとり。

 パキパキ音の技術力だというのに、知ったこっちゃないの精神で次のコードを弾き始める奈留莉さん。斜め上を向いたキメ顔(ちょっと、いやだいぶムカつく)みたいな顔に、周りの空や柚充さんは吹き出してしまっていた。

 あまりにもその様子が滑稽だったので、僕と安藤先生も吹き出してしまう。

 口の前にグーの手を持っていく流れで、すんなりと握った手はほどけた。

 弾き語り(未完成ver.)を一仕事終えたみたいに、満足そうに息を吐いて空にギターをそっと返した奈留莉さんは、僕と安藤先生の視線に気が付き、ぱあっと明るい顔になって手を振った。

「ふったりとも〜何話してたのー? 真面目そうな顔してたから、そうやって笑うタイミングずっと見計らってたよー。どうっ? 今の私、ドーム埋めるくらいの歌唱力を持つミュージシャンのおもかげあったでしょ〜?」

 奈留莉さんはニヤッと笑って胸と頭の後ろに手を置くポーズをしていた。鼻歌時の雰囲気とは一変、胸を張って「奈留莉ちゃんは空気も読めるのデスっ!」と言っている。そんな普段の様子の奈留莉さんに、柚充さんがくすくす笑い、奈留莉さんの頭に手をぽんと置きながらもう一方の手で顎下を指でなぞった。猫あやしているかのような接し方だった。歪んだ幸せそうな笑みが奈留莉さんから溢れている。

「ピャ〜〜〜! 柚充ちゃん色に染まっちゃうぅぅ♡」

「んふふ、よしよし」

 独自の世界に入り浸ってしまった甘いピンクが漂う2人を置いておき、朝陽が話の軸を戻した。

「んで、何の話してたんだよ」

 逸れる軸を、今回は割とすんなり戻してくれたことに関してはセービングの成長だと言える点かもしれないが、如何せん、なんて言えばいいか悩んでしまう。

「えーっ、その」も言えずにあたふたしていると――安藤先生が一歩前に出た。


「いや〜実はこの場所をさ、キミらセービングに使ってもらおうかなってさあ!」


「えっ」

「ホントにっ!? そんな話ししてたの!」

「いやぁ〜そうそう。だよね、サキ?」

「ぉ……ぅんんー。ふあああぁ…………ぅぃ〜」

 安藤先生が尋ねながら目線を送ったサキさんは、薄い睡眠の中で急に自分の名前を呼ばれたから目が冷めたみたいだった。鼻提灯がパチンッと割れて、寝ぼけ眼を何とか開いて返事をする。それだけ言うと、またカクンと電源が切れたみたいに眠りにつき始めた。

「……全然そんな感じには見えないけど」

「あっれれ? そんな流れのはずだったんだけどなァ……」

 安藤先生は声が裏返ってしまう。冷や汗も見えた。

 先生がこのスタジオを使っていいと宣言してから、僕は安藤先生をじっと見ていた。それは素直に喜べない視線で。離れていたところから、セービングの輪に戻って、空や柚充さんに囲まれながら笑っている安藤先生を、ただじっと。

 その捉えている視界のなかに、何やら言いたげな表情をしている奈留莉さんもいた。何かを言いたそうで、言えない。そんな困った様子の。

 五十嵐が言う冗談に笑っていた安藤先生が、まるで会話の流れからそのまま急カーブしたような安藤先生が、僕を見て言った。

 僕だけ、と思いっきや、それは奈留莉さんに向けての言葉――というか、セービングみんなに向けての言葉だった。

「っはは、はは――はあ。うん、分かってるよ、小森くん、奈留莉ちゃん。

〝ボクやサキ、ボクらのバンドの想い出が詰まっている場所だ〟って言いたいんだよね。……知ってるよ、勿論」

 きっと、僕は目の前の奈留莉さんと同じような顔をしていたに違いない。

 不意をつかれ、まるで心の中までお見通しだと言われているかのような……そんな先生にビックリしている顔。

 先生が、僕らを1人1人見ながら続けた。

「優しいね。キミたちは本当に……

 ボクはね、ここが廃れていくのが、さみしい。さみしいし、ツライ。

 だからこそ誰かに使ってほしい。それがキミらだった大歓迎さ  

 セービングにとって、ココを〝居場所〟だって言えるくらいのところに思ってほしいんだ」

「そうそう。どうせ、みんなで合わせ練する場所必要でしょ? ――ここなら自由に音楽を奏でられる」

 いつの間にか起きて、しっかり大人モードなサキさんが安藤先生の横に立った。

 手を広げてみせたサキさんは、室内にあるエアコンやアンプやマイクスタンド、その他備品を一つずつ指してくれる。今も使われているスタジオと、安藤先生たちのバンドがずっと練習をしていただけあって、揃っている物はどれも素晴らしいものばかりだ。

 1つ1つに、当時積み重なった努力の破片が見て取れる。

「中々ないよ、こんなにもいい場所は。アタシのお墨付きだ。自分の楽器があるなら持ち込みすればいいし、それには大人のアタシたちも付き合う」

「そうそう」安藤先生が首を縦に振る。

「音漏れに気にしなくていい部屋だし、トイレも付いてるし、自由に使っていいアンプもある。キミたちセービングなら安藤のお友達料金ででいいし――」

「タダ?」

 奈留莉さんが、低い声で呟くように言った。

 ふと見ると奈留莉さんは眉間に皺を寄せた顔をしている。それに気がついていないサキさんは奈留莉さんの言葉を言葉通りに受け取って、鼻を伸ばしながら喋り続けていた。

「ああそうだよ、タダ。ここまで言っておいて高校生のキミらからお金を掻っ攫う商売の仕方は、残念ながらしてなくてねェ。だからここは自由に――」

 サキさんの話を対してあまり聞いていない2人が視界に入った。柚充さんと奈留莉さんだった。阿吽の呼吸というものなのか、2人は微笑みの混じった目線でお互いを見合い頷くと、柚充さんが口を開いた。

「――嬉しいですが」

「そうだね。ごめんなさい、スタジオは他を探してみます」

「「!?」」

 柚充さんに続き、頭を下げながら奈留莉さんが言った。

 ああ、何となく――いや、言いたいことが分かった気がする。

 予想もしていなかった言葉を受けた大人2人は声も出さず、目を丸くする。話すときの口調や身振り手振りがあわあわしているところから焦りが手に取るように伝わった。

「ええ、ええなんで? え、エアコン点くよ? た、確かにボロっちいところは認めるけど――」

「いえ、外装面で気にしているわけでは……」

「あ、道中の暗い道? あれならボクが今日電球を買ってきて明るくするよ! それに、別にココへ来る道があるって――」

「おう、それは直したほうがいい」

 どうやら五十嵐と空も断りを入れた理由が分かったらしい。

 さらなる改善と改めの良点を述べたが、それでも納得のいっていないセービングを見て、サキさんが心の底から困惑した声色で言った。その言葉に重なるくらい食い気味に朝陽が言った。変わらず、腕を組んでいる。

「だったら何さ――」

気に食わないんだろ」

 朝陽の言葉に、一同が静まり返る。サキさんは声にもならない喉の奥で乾いた声を出した。朝陽の言ったことの意味がわからず、シャットダウンしかけているといった様子にも見えた。

 朝陽の言葉に、奈留莉さんは静かに頷きをして


「『お金を払う』という行為は、音楽や環境に携わってくれた人たちへの、敬意表現なんですよ!」


「……」

 サキさんは固まった。

 奈留莉さんの言葉がきっかけとなったか。柚充さんは胸に手を当てて言う。

「わたしたちは……音楽業界というのは違うかもしれませんが、こうしてお金の管理で吟味するのも、『大人になる』ということにリンクしているんです」

 空は白いキザ歯をチラつかせ、キシシと笑いながら言った。

「他の鈴歌祭に出るバンドはスタジオ代ちゃんと払ってるもんな。こないだ友達が言ってた」

 五十嵐は頭の後ろに手を組み、空の話を続ける。

「それ村中むらなかだろ? んやろぉ、いつもオレを無個性顔ってバカにしてくるんだ! そいつに弱みを握られねぇためにも、オレらだけ金払わねえのはダメだ!」

 なんだか少しだけ五十嵐はズレている気がしなくもないが、そう言った意見もあるのだろう。僕もみんなを真似したみたいに言う。

「こうやってみんなで割り勘して払ったりするのもバンドっぽいよね!」

「っぽい、っぽい!」

「小森にしては前向きな考え方だな」

 朝陽が嫌味な言い方をしてニヤニヤ顔をする。

「えーえー悪かったですぅ〜いつもネガティブ思考でー!」

「っはは、そうだ悪い」

「否定してよ!!」

「小森くぅんはそんなことなぃよぉ。ただちょっと後ろ向きなだけだお〜ぉ」

「き、急に抱きつくのは……//」

「それをネガティブ思考って言うんだがな」

 変にねっとりした口調で僕の腰に腕を回し、背中に頬を付ける奈留莉さんに、僕は成すすべがなくなってしまう。もうお約束だと言っていいほどになってきたかも知れない奈留莉さんの突如スキンシップは、それでも慣れることはなかった。

 ……でも、最近だと――いや恥じらいのほうが断然勝ってるんだけど!

 …………どこか、奈留莉さんが抱きつくのが自分だけだということに気が付き、嬉しくも――。

(いやいやいやいや、そんなことないっっ!!)

 僕らの考え方1つずつ、順番に聞いたサキさんと安藤先生は、提案を断っておきながらいつもみたいにふざけて笑ってるセービングを目にし、心底不思議に思っている表情をしていたが、途端に鼻で笑うような笑い方をサキさんがした。

 サキさんは息を吸うと両手を前に広げて注目をもらう。静かで動きのない人が、こういった以外味のある動きをするとどうして目が釘付けになって黙ってしまうんだろう。

 きっと、柚充さんがヘドバンをしたり、奈留莉さんがピンと姿勢よく椅子に座ってお紅茶を小指立てながら飲んでいても、そうなる。

 サキさんは僕らが全員こちらを見たのを確認すると、自分に確認しているかのような言い方にも取れる話し方で話した。

「オーケーOK。分かったよ、分かった。――じゃあここのスタジオ代は他のお客さんと同じ額を1週間制で払ってもらおう。値段を何も変えず、普段の営業と同じ」

「それならもち――」

「ただし!」

 サキさんは指をパチンと鳴らして奈留莉さんの言葉を遮ると、その後に「がある」と言った。張った声と音の眉に力を入れた目元だったので、どんなことを言うのか生唾を飲んで待っていた。

 だが、サキさんはふと柔らかい表情に変わった。


「条件。それは――使こと。

 イメージは秘密基地? 拠点? お手製のツリーハウス?

 まあ何であれ、みんなで急にボードゲームしたくなったときとか。ナックのテイクアウトをどこで食べようか悩んだときとか。自分の部屋を掃除しにきたマッマから「家でゴロゴロしすぎやない、アンタぁ!」ってキレられたときの逃げ場とかさ。

 勿論、家じゃ何か練習捗んないなぁってときに、1人できても構わない。

 安藤の言葉から借りるけど、居場所だって思えるのは、みんなにとってそうであってほしい」

 

 サキさんは目を閉じた。わずか5秒の間だった。目を閉じた後に言った言葉はこうだった。


「…………ワタシたちにとって、そんな場所だったから」


 目を開けた後の、証明に輝く眼差しは、安藤先生ととてもとても似ていた。

 きっと、想いも似ているものなのだろう。言葉以外に分かる。

 サキさんは、囁きに近い声量を天井に放つと、自分を冷笑するかのように鼻で笑い、僕らを見た。

 それから、今まで1度も見たことがなかったサキさんの笑顔を目にしながら、その言葉にセービング一同「YES」を返した。


「お願いできるかい?」



☐ ■ ☐ ♪ ☐ ■ ☐



「ところでさ、さっき話してたMPCのことなんだけど……」

「あ、そう言えば途中でしたね。MPCって名前しか知らないんですけど、どういったものなんですか?」

 安藤先生は腕組みし、頭の中の知恵を探った。

「そうだねえ、〝MPC〟っていうのは、サンプラー機能を持つ音楽制作機材の総称なんだ。この画像通り、大きなパッドが4✕4の16個もしくはそれ以上付いていて、それぞれのパッドにキックだったりスネアだったりクラップだったり、好きな音を割り当てられるんだよ」

 先生はさっきちらっと見せてもらったスマホ越しの画像を見せてくれる。説明通りのカラフルな正方形のボタンが横長の黒い長方形についており、先生が画面をスクロールすると多種多様な機材が見えた。灰色で大きなモニターが付いているものや、キーボードと一緒になっているものもある。

 どれも、スタイリッシュなボディに色鮮やかなボタン、規則正しく並ぶ無数のボタンとつまみ。同じのようで別物なのだろうか、ギターやキーボードのように楽器名だけじゃ区別しがたいものがあるということか。

 だけど、僕はどれにも目を輝かせて追ってしまう。


 分かりやすく言うとこうだろう――僕はしてしまったんだ。


「楽器としては、サンプリングだったりビート制作だったりでも使えるんだけど、パフォーマンスでも発音できる機材もあって、それならライブでも即興演奏できる。奈留莉ちゃんがメッチャやりたいって言ってた曲にも使われているよね! ほら見て――」

 先生はスマホを操作し、有名動画サイトの1つの動画を開いた。 

 そこでは、おしゃれな洋楽のサンプリング(簡単に言うとすでにある音を〝素材〟として使って、新しい曲に作り変える技法)だろうか。MPCと演奏している人をカメラの真ん中に、背景が一定小節で切り替わり、横にゆっくりと回転している動画だった。

 演奏している人は4✕4のボタンを手の指々を使い、無数の音をパズルのように組み合わせながらビートを刻んでいく。

(ズッ、タッ、スタッタタタツ、トン♬ ズタタタットットトッ――スタッッ♬)

 途中にもたれたり、3連符になったり――その音々は機械的で精密。それなのに流れる音はを感じて、生々しい。線のように見える素早い指先が、黒いゴムのパッドに触れるたび、バラバラな色が淡く光り……人、1人だけだと言うのに辺りの空間に膜を張って魅了させるようだった。

 まるでMPC1つに異なる無数の心音があるみたい――冷たく、鋭く、シャープ。

「カッコいい……」

「ね! 小森くん好きそうだなあ、って思っててさ」

「〝赤い〟外見のやつ、アレ可愛くていいなあ〜」

「なんたって、〝あかい〟だからね」

「?」



 安藤の腕に身を預ける距離感の小森。スマホを2人で覗き込みながら時折顔を見合って笑い合っている。

 その様子を、見守るかの如く、距離をおいた場所から見ていた人たち。

「やっぱあの2人よぉ、似てるよな」

「全くだ。……身長以外」



 他にも動画を漁っていた僕と先生だったが急に手が止まり、何事かと画面から顔を上げてみると、先生は気まずそうに目線を僕から逸らした。

「すーーッ。こ、ここまで言っておいて今思い出したんだけどね……。実はMPCってがかなりかかって――」

 弱々しい声で先生はMPCの購入画面をスマホで開く。

 ¥40,900

 ¥147,200

 ¥379,800

 どれもこれも、横に数が並ぶものばかりだった。僕は、はあと息をつく。

 ……何のことかと思いきや、それで先生はnervousになっていたのか。

「安藤先生」

 僕は、さっき奈留莉さんがしていたキメ顔を頭でイメージしながらそんな顔を真似てみる。声もどこかキリッとさせて――先生の肩に手を置いて言った。

「   お金なら   あります   」

 そうはキメて言ってみたものの、肩を置く先生の身長、それに僕の一般的には低いとされている(僕はそう思っていない!)身長なため、肩に手を置く僕はどうもつま先立ちになってしまう。じゃないと届かない。それなのに顔をキープして先生をじっと見つめるため、この間奈留莉さんに細いと言われた足は、プルプルと震えてバランスを保っていた。



 遠くから眺める面々が増え、五十嵐と朝陽の横に空と奈留莉が並ぶ。

「こっからじゃ何つってるか分かんねぇけど、肩ポン小森、似合わねぇな」

「んんっ、足プルプルしてるのかわいー」



 あまり慣れてないことをしてみたせいか、安藤先生の反応はイマイチだった。眼鏡の奥の目が点になり、静寂の時間が過ぎてゆく。

 歯切れの悪い先生の声が、僕をまともに返した。

「小森くん。高校生でそれは……どうかな?」

「っ! じょ、冗談じゃないですかあ!?」

「あははっ! やっぱりいい反応するなあ小森くんは。奈留莉ちゃんが言うのもあながち間違ってないかも? ボクが言ったのが冗談だよ」

「も、う。焦った……からかわないでくださいっ!」

「えへへ」



 頭数がまた増えて、本人等を除く全員となった。柚充が凛とした背格好で立ち、サキが姿勢悪く首を傾け、隣に位置する。サキの身長は、高身長な空と隣になると高校生と差は感じられなかった。

「なんだか、微笑ましい親子にも見えますね」

「いーや? 年齢差の大きい〝きょうだい〟かもよ?」



 安藤先生が僕の両手をとる。その時点で肩を揺らして笑っていた。

「もっかい出来る?」

「いいですよ、そーれ(プルプル)」

「あっはは! あんまり伸びてない! 顔ヤバいよ小森くん! っあはは!」

「顔ヤバいはシンプルな悪口!!」



 人との縁は何で始まり、何で続き、何で終わるか――終わらないか。

 それを決めるスイッチは、周囲の人・生まれた環境・備わった人柄・生い立ち。

 それぞれ異なり、全く持って同じな人など存在しない。

 ――どう思うか、自由だ。いや、別に思わなくたっていい。 

 よく思うか、悪く思うか、大まかな事で完結せず、1つの文章として綴ってもいい。言った通り、なーんにも思わなくてもいい。

 決めるのは、いつも自分で。疑問を問いかけるのも自分自身しかないのだ。


 ――目の前で無邪気に笑う、2つの縁。

 そう易々と断ち切れそうなものには、誰も見えない親密さだった。

 奈留莉が弧を描くような目の形をして、微笑みながら言う。


「きっと――限られた枠に当てはまらない。不思議で最高な、関係性なんだろうね」

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小森くんとおとおともだち!{プロト} 和楽々 @yo_zora

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