天佑神助
紫苑は山に分け入っていた。登り始めてしばらく経つが、1ヶ月前よりもかなり草木が茂っていた。
(1ヶ月でこんなにしげるもんだっけ?)
少なくとも、普通の状態で1ヶ月でしげる量ではなかった。紫苑が頂上に着く頃には、彼の服や髪に大量の葉がついていた。
「やっと来たか。」
座り込もうとしたところに月読命の声が聞こえて、紫苑は再び立ち上がった。
「はい…草木が多くて少し遅れました…1ヶ月でしげる量ではないと思うのですが…どういうことでしょう。」
息は整っているが、それでも疲労感は拭えず、声にも疲れが出ていた。月読命は少し口角を上げた。
「気づいたか。あれは私がいるからだな。いくら抑えようとしても、神気が漏れ出る。おかげで草木がよくに育つのだ。」
紫苑は目を見開いた。理由を教えてもらったから、だけではない。
(その言い方だと、ずっとここにいたことになる。そうじゃなくても、定期的に来たってことか?なんで…)
しばらくの沈黙に紫苑の疑問がわかったのか、月読命は再び口を開いた。
「私は確かにここにずっといた。なぜかはすぐ分かる。」
紫苑は曖昧な表現に首を傾げたが、詮索してはいけないのだ、という雰囲気を感じて押し黙った。
「来い。」
たった一言だけを述べ、月読命は歩き出した。紫苑に合わせて歩いているらしく、紫苑も楽に歩くことができた。
(滝…?どうして滝に行くんだ?さっきの、ずっといる理由か?そういや、橡が倒れた時あいつをつけたのは滝の近くの川だったような…懐かしいな。)
月読命が何も言わないので紫苑も何も言えず、無言で二人は歩き続けた。
二人が滝に着くと、そこにはわずかに透けている球があった。その中には、小さな人影が見えた。
「人が…」
思わず紫苑がつぶやくと、月読命はそうだ、と頷いた。人がいるというのか、と思わず考えてしまう。
「そうだな…人であるが人にあらず、と言ったところだな。あれは、橡の体だ。魂は入っていない。だが、神気を注いで妖の餌食にならないようにした。お前は知らないだろうが、まだあれは力を含んでいる。少なくとも体にはある。それを食べれば、妖の力が増す。」
紫苑は息を呑んだ。そして同時に、力がまだ残っているのならなぜ、と僅かに疑問を覚える。
「力がまだ残っているのなら、橡は命をかけなくてもよかったのではないですか?なぜ橡は、命をかけなければならなかったのですか!」
月読命なら知っているはずだと紫苑は勢い込んで問いかけたが、月読命は答えに詰まった。紫苑は思わず眉を顰める。
「…できるのだが…あれがわざわざ命をかけたのだ。何かあるのだろう。だが、真意がわからん。」
紫苑は愕然とした。命を削らずともできることを、わざわざ命をかけて行ったのだ。
(どうしてそんなことを。俺を頼れと言ったのにも関わらず…本当にどうして…)
月読命は紫苑が黙っているのを見ていたが、しばらくして口を開いた。
「紫苑。その理由を知り、あれを連れ戻してこい。黄泉国から。」
紫苑ははい、と頷きかけて、目を剥いた。数秒はくはくと口を動かして、やっと声になる。
「黄泉国ー⁉︎」
月読命は無言で頷いたが、紫苑の驚きは黄泉国と叫ぶだけでは収まらない。相手が神であることを忘れている。
「黄泉国から連れ戻してくるって何をお考えですか!人間が一度行ったら死ぬと言われている場所ですよ⁉︎なぜ⁉︎」
思わず、心のうちを叫んでしまった。月読命も驚いて一歩下がるが、それでも一応説明だけは、と口を開く。
「あまり人には知られていないが、こんな話があるのを知っているか。昔…そう、君の曽曽祖父もまだ生まれていない頃だろう。
一組の夫婦が幸せに暮らしていた。ある日船に乗っていたら急に天候が崩れ、波に揉まれた。気温も寒くなっていった。
ーあなた…!
妻はあまり体が強くなかった。急な天候の変化に体を崩し、そして体調を悪化させていった。
そして、嵐から抜け出した日。妻はさらに体調を悪化させ、息を引き取った。
ーなんで、お前が…!俺が死ねばよかった!なのになんでお前だけが!俺も連れていってくれればよかったのに!なんで…!
あまりの悲しみに、食事も喉を通らなくなり、生き返らせてくれ、と毎日神社や寺に参拝し続けていたという。そのあまりの悲しみように、とある神がついに折れた。
ーそこまで言うのならば、黄泉国に行って、お前の妻を連れ戻してこい。三途の川までならば送ってやる。
夫は喜び勇んで三途の川に送ってもらい、そして三途の川の番人に会った。
ーなぜ生者がここにいる。戻れ。
その番人は見るも恐ろしい姿だったが、妻を連れ戻すため、と夫は番人に交渉した。
ー私の妻が、そちらにいるんです!神様にここまで送ってもらったんです!せめて、会わせてください!
番人は初めこそ相手にしなかったが、夫の必死さに番人も折れた。
ーお前の妻、か。分かった。連れてくるから待っていろ。
夫は喜んでそこでじっと待っていた。体感時間ではかなり長かった。しばらくして船が川を渡ってくるのを見て、夫は期待の眼差しを向けた。
ーあなた…!なぜここに…お戻りくださいませ!
船を降りた途端に妻は悲嘆の目で夫を見たが、夫はそれを意に介さずに微笑んだ。
ーよかった、会えて…お前を連れ戻しに来たんだ。神様にも許可をいただいている。さぁ、いこう。
妻の手を引いて戻ろうとした時、番人が制止した。
ー待て。ただで帰れるとは思うなよ。これから試練を与える。その試練に打ち勝て。
夫は一も二もなく頷いた。むしろ、喜んで頷いた。
ーはい!妻を連れ帰ることができるのならば、喜んで!
番人はその勢いに少し驚きながらも頷いて、試練の内容を言った。
ー振り返らずに、行け。何があっても。分かったな?
夫はそんな簡単なことなら、と頷いた。そして再び妻の手を引いて歩き出す。異変はすぐに起こった。
ー待って…忘れ物があるわ…
妻の友達の声がした。もう亡くなっている者だ。しかし夫は、無視してスタスタと歩いた。そしてしばらくすると、再び声が聞こえた。
ー待って…その人は、偽物よ…!番人様が、嘘をついたの…今あなたが手を引いているのは、顔も違う人よ…!
夫は、思わず足を止めた。そして繋いだ手を確認する。何年も繋いできた手は、いつもと同じだった。
ー嘘だよな、あれは試練だ。
夫は再び足を動かし始めた。後ろからは、パタパタと小刻みに足を動かす音がする。その音に安心した。
光が見えてきた時、ふと足音が消えた。そして手の中の暖かさも消える。
ーいやぁっ!
叫び声が聞こえて、思わず夫は振り返った。するとそこにいたのは、番人に連れ戻される妻だった。
ー待ってくれ!
ーあなた!
泣きながら連れ戻される妻を追おうとするが、夫は光の方に強引に引っ張られていった。
そして男は、現世に戻ってきた。しかしその瞳は光を映しておらず、ただ虚空を見つめていた。
ーおい。連れ帰らなかったのか。
神が聞いても、男は何も答えなかった。そして、その後は何も喉を通らず、ふらふらと行った海辺で息絶えたという。
紫苑は思わず息を呑み、俯いた。月読命は目を伏せて、何も言わない。
(その神様は、誰だったんだろう…なんか…悲しい…)
月読命は、とん、と背中を叩いた。紫苑はパッと目を上げる。驚いて、思わず一歩下がる。
「悲しまなくてもいい。これは過去の話だ。それよりも、今を見ろ。おそらく、同じ試練を持ちかけてくる。決して振り返らないように。」
紫苑はごくりと唾を飲んで頷いた。その瞳には、確かな決意の光が灯っている。月読命はその光を見て頷いた。
(橡の理不尽な行動の理由を聞きにいく、そして連れ戻してくる。簡単だ。途中で振り向いたらだめなんだよな。よし、理解できてる。)
紫苑は頷いてすっと背筋を伸ばした。一つ、深呼吸をして気持ちを落ち着かせる。
「これを読め。さすれば力を貸す。」
月読命は紫苑に紙を渡した。これは一応儀式なので、口調も普段とは違う。紫苑もそれに気づいて口調を変えた。
「御意…月読命に奏上申し奉る。この身の魂を黄泉国へと導き、理不尽に命を落とした橡の御霊を取り戻す手助けをし給え。」
月読命はそれを聞いて静かに頷いた。厳かな空気が流れる。
「成功できぬやもしれぬ。命を落とすやも知れぬ。それでもいいか。」
その問いかけに、紫苑は頷いた。紙に書いてあることではなく、自分の心に従って。
「はい。」
月読命はその瞳の光を見て、頷いた。月の光が雲の隙間から漏れる。
「その覚悟、しかと受け取った。」
月読命の髪が月光に反射し、荘厳に輝く。視界が銀色に包まれ、紫苑は思わず目を閉じた。
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