掌中之珠《しょうちゅうのたま》
目を開けると、目の前には月読命の顔があった。紫苑は驚いて思わず叫ぶ。
「わあぁ!」
月読命は口の端をわずかに上げた。それも一瞬のことで、すぐに真面目な顔に戻る。
「戻ってきたな。思い出したか?」
なんのことか言われなくても、紫苑にはすぐにわかった。当然、紫黄のことだ。
「なんで俺は忘れてたんですか?」
月読命は頷いてさらりと紫苑の頭を撫でた。その瞳に映っているのは、おそらく紫苑ではない、と紫苑は直感的に感じた。
「あれが術をかけたんだ。だから今は紫苑の両親も橡のことを覚えていないだろう。今は私が解いた。お前が生き返らせろ、あの馬鹿を。」
紫苑は再び驚いて月読命を見た。神なのに、と。
「どうして俺なんですか?月読命ならできないのですか?」
月読命は少し俯き、ため息をついた。月が翳り、部屋の中がわずかに暗くなる。
「私は雅客によって穢されてきた。橡がその穢れを清め払ってくれたが、今はまだ力が全て戻ったというわけではない。今は生き返らせることはできない。だから紫苑に頼む。」
紫苑は息を呑んだ。だけど、と口の中でつぶやいて、それから言い直す。
「ですが、俺はそんな力を持っていません。」
月読命は微笑んで月を見上げた。儚げなその横顔に、紫苑は思わず呟いた。
「似てる…?」
月読命はその呟きを聞いて頷いた。月光と同じ色の長い髪がさらりと揺れる。
「よく気づいたな。あれは先祖代々私を祀る巫女だ。私に似てくるのも無理はない。ちなみに、私を祀る巫女が寿命を終えると神になる、ということもあるな。力のあるものだけだが。それがあれの容姿を私に似せたのだろう。」
紫苑の驚きの声が、夜の闇に響き渡った。その声に驚いた鳥がバサバサと飛び立った。
(しっかしなぁ。次の満月の日までに覚悟を決めておけって言われても…なんで覚悟を決めるんだ?)
紫苑はため息をついた。月読命は、次の満月までに覚悟を決めておけ、とだけ言って消えてしまったのだ。なんの知識もない紫苑になぜ覚悟を決めなければならないのかわかるはずもない。
「苑…紫…?紫苑!さっさと食事の準備しなさい!働かざる者食うべからず、ていうでしょ。」
胡桃の声に、紫苑はびくりと反応した。いつの間にか胡桃がそばに寄ってきていた。紫苑は慌てて振り向いた。
「わ、母さん!急に大きな声出さないでよ。びっくりするじゃん。」
紫苑は小さくため息をついた。胡桃は額に手を当てて紫苑よりも大きなため息をついた。紫苑はその様子に首を傾げる。胡桃が額の手をおろした時、紫苑は自分の失態に気づいた。
「急に大きな声出さないで?私はさっきからずっと、紫苑に言ってたのに。気づかなかったのは、紫苑よ。十分も前から何回も繰り返し繰り返し同じこと言ってたのに、気づかなかったの?何を考えていたのよ?」
紫苑は顔をあさっての方向に向けようとした。しかし、胡桃は回り込んでじっと紫苑の目を見つめる。紫苑は何度か繰り返し、胡桃の瞳に負けてあきらめた。
「あー…ごめんなさい。次から気をつけます…」
胡桃はにこりと笑って頷いた。まあぎりぎり合格、という声が聞こえてきたような気がして、紫苑は首をすくめた。
月が後少しで満ちるという日、紫苑は庭の椅子に腰掛けていた。月が見事に見える雲一つない夜で、街灯がなくとも道の細部まで見える。
「最近月ばっかり見てるわね、紫苑は。どうしたの、憂鬱そうに。最近紫苑は本当におかしいわよ。」
胡桃が椅子の後ろ側にいるのはわかっていたが、紫苑は振り向かずに曖昧に頷いた。ふぅっとため息をついて、胡桃は回って椅子に座った。
「何か考えてるんでしょ?」
紫苑はびくりと体を揺らした。まさか胡桃に言われるとは思っていなかったのだ。胡桃はいつもは何か勘付いていても何も言わない。
「うふふ。別に言わなくてもいいのよ。でも、一人で全部抱え込まなくてもいいのよ。ちょっとは私たちに頼りなさい。私は紫苑ほど武術はできないけど、ちょっとくらい役には立てるわよ。」
紫苑は息を呑んだ。紫苑が橡に言ったことと同じことを、胡桃も今言ったのだ。
(俺は、一人で抱え込んでいたのか?…他の人に、心配かけてたのか?)
紫苑の瞳に涙が溜まり始めた。胡桃は何も言わずに微笑み、紫苑の体を抱き寄せ、背中をトン、トン、と優しく叩き始めた。紫苑の嗚咽が聞こえ始め、胡桃は苦笑して歌い始めた。
「ねんねんころりよ、おころりよ。坊やは良い子だ、ねんねしな。」
寝かしつける時に胡桃が昔から歌っていた子守唄が紫苑の耳に優しく響く。紫苑はいつの間にか寝てしまっていた。
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