竜虎相搏《りゅうこそうはく》
日が傾き始めた頃、橡は紫苑の家の庭で空に浮かび始めた、禍々しさを増した光を放つ満月を眺めていた。しばらくして隣に降り立った気配に気づいて視線を下ろす。
「今日、ですか?」
橡の声に頷いたのは、月読命だ。それを確認して、橡は目を細めて再び月を見上げた。
「紫苑さんたちに迷惑をかけるわけには…」
橡は驚いて振り返った。少し怒ったような顔をした紫苑が、いつの間にか横に立っていた。気配に敏感な橡が気づかなかったということは、月読命が神気で気配を隠していたのだろう。
「こう思ってたんだろ?」
橡は思わず俯いた。図星を突かれたからだ。彼に迷惑をかけるのはいけないと、自分でやらなければならないと、思っていた。紫苑は何も言わない橡に痺れを切らしたのか、ぐっと眉を寄せると手を振り上げて、橡の頬を叩いた。橡が顔をあげるのと同時に、怒鳴る。
「余計なお世話なんだよ!誰が迷惑かけるなって言った!お前一人で抱え込んでんじゃねえ!なんのために俺が月の君にお前の隣にいたいって頼んだと思ってんだ!お前が無理しねぇようにだ!」
橡の瞳がわかりやすく揺れた。しかし自分の感情の揺れに気づかなかったかのように、無表情で紫苑を見た。
「これは義務ではないのですから、やらなくても良いと思…」
「義務だから、何かをやるんじゃねえよ!やりたいからやってんだ!お前の隣にいたいからやってんだよ!自分が大切に思われてないって、自分だけでやろうって、思ってんじゃねえよ!俺にも背負わせろ!その目を見てるだけで俺も辛えんだよ!分かったか!」
紫苑は橡の言葉を遮って怒鳴りつけた。彼女の悲しい言葉に、耐えきれなかったのだ。橡は唖然として紫苑を見ていた。今まで何度も怒鳴られてきたが、雅客のそれとは種類が違う怒りをぶつけられて戸惑ってしまった。瞳に透明な雫が溜まり始める。
「私が、大切に思われてるって、思っても、いいんですか?」
橡のおずおずとした問いに紫苑は頷いた。橡はさらに問いを重ねる。
「私だけでやらなくても、いいんですか?」
紫苑は頷いて橡の頭を撫でた。ポロリと何かがこぼれ落ちたのを、紫苑は見ぬふりをした。
「あぁ。全部自分で抱え込まなくてもいいんだ。俺らに頼れよ。俺も、武術は齧ってんだ。ちょっとくらい役には立てる。」
紫苑の優しい声に、橡はとんっとその胸に頭を預けた。ポロポロと雫がこぼれ落ちるのを知らぬふりをし、紫苑は橡を抱きしめた。
(ありがとうございます、紫苑さん。覚悟ができました。ごめんなさい…)
橡は作っていた札を懐に入れて、袖を絞った狩衣姿で山に入った。紫苑もその後ろで、少し特殊な刀をはいている。雅客は橡たちがいなくなった後、なぜかこの山に戻ってきていたらしい。まだまだ遠いが、橡はその瞳でしかとその姿を捉えた。
「見えました。雅客…!」
雅客は、山の頂上で橡たちを睨んでいた。今は妖魔の姿だ。橡たちも当然のごとく睨み返す。一瞬でその場の空気が張り詰めた。
「お前が雅客か…」
紫苑は思わずうめいた。以前も威圧感はあったが、今はそれが膨れ上がり、手足を動かすのもやっとだ。
「来たか。何度きてもお前は俺に負ける。わかっているだろう、瑠璃。言っただろう、瑠璃と名乗れと。誰かに襲われたらどうするつもりなんだ。守るのは俺しかいないだろう。そこの人間には、お前は守れまいに。」
呆れたというように、雅客はため息をついて肩をすくめてみせた。橡は無言で唇を噛み、拳を握りしめた。
「橡、落ち着け。動揺したらあいつの思う壺だろ?」
橡ははっとして頷き、呼吸を整えた。妖気が漂っているということは、その方面に明るくない紫苑にでもわかった。それ程までに、その場の空気は澱んでいる。
「私は、橡です。瑠璃ではありません。雅客、私はお前を討ちます。今日、この場で!」
雅客の上がっていた口角が下がり、空気がピリピリとし始めた。紫苑は深呼吸をして刀を構えた。雅客が口を笑みの形に歪ませた。
「なるほど、刀…か。どうせ私には役に立たないのになぜ連れてきた、瑠璃。腑抜けたか。」
橡の目がスッと細まった。その中の光が鋭く光り始める。雅客も再び笑みを消す。
「彼は私の支えとなった。さらに、月読命からもお墨付きの実力を持つ者だ。お前に貶されるいわれはない。雅客、今すぐ私を通して送り届けている妖気を消せ。」
「断る。なぜそんなことをしなければならない。」
即答に、橡の表情が消えた。懐から札を取り出し、すっと構える。橡の周辺の空気が、鋭敏なものに変わった。
「ならば、もう話すことはない。」
(雅客を倒せば、送り届けられる妖気は消える!)
橡の足が力強く、地を蹴った。
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