悠々閑適《ゆうゆうかんてき》

 紫苑が橡の家に着く頃には夜の闇が空を完全に覆っていた。出発が夕方だったこともあるが、ぱたりと風が止んでしまったため、どこにいるのか分からなくなったからだ。月読命も、なぜか気配を読めなかった。

「橡。おい、橡。」

月読命が肩をゆするが、橡は空を見つめたままで気づく気配はない。紫苑は息を呑んで橡を激しく揺さぶった。

「橡、橡!」

しかししばらくしても気づかないので、紫苑はため息をついてスゥッと大きく息を吸った。

「橡、起きろー!」

紫苑の声が山にこだまする。同時に、橡ははっと我に帰って紫苑に気づき、その体にすがりついた。

「紫苑さん…どうしましょう、私…私…月読命に、大変なことしてしまいました…」

紫苑が息を呑み、月読命がどういうことか聞こうとした時、橡は気を失ってしまった。

「おい、橡!」

紫苑が再び激しく揺らそうとするが、月読命がそれをとめた。月読命は心配しつつも険しい顔をしている。

「待て。すでに気絶している。しかし、時期を待てと言ったのに、なぜ今日…」

紫苑も厳しい顔をして、橡を見た。眉をぎゅっと寄せ、険しい顔をしている。その顔は青白く、僅かに痩せたようだ。

「橡、痩せたな。それだけ迷ってたんだろうが…」

月読命は何も言わない。沈黙が訪れた。冷たい風が吹き抜け、近くの森の木々がザワザワと不気味になった。

 「あれ…ここは…?」

橡は体を起こして辺りを見回した。いつもとは違い、ふかふかの布団の上で寝ていた。

「どこでしょう…?」

橡はとりあえず部屋の外へ出るために立ち上がった。直後、紫苑が部屋に入ってくる。

「お、起きたのか。よかった…」

ほっとしたように紫苑は頬を緩ませた。そして橡を布団の上に座らせる。

「待ってろよ、今飯持ってくるから。」

橡がここがどこなのか聞く暇もなく、紫苑はご飯を取りに行ってしまった。

(聞きそびれてしまいました…しかし、起きたのか、よかった、と言うのはどういうことなのでしょう?どうして私が寝ている時に紫苑さんがいるのでしょう?)

疑問は増えていくばかりだが、聞こうにも部屋に誰もいないので聞けず、橡は悶々としていた。

「あらぁ、起きたの?しーくんも言ってくれればよかったのに。」

突如女性が部屋に入ってきたので、橡は驚いて布団を握りしめた。橡は山の奥にいたので、女性に会ったことがなかった。そのため、特に大人の女性は未知の生物のようなものだった。さらに、三人の子供がわらわらと入ってくる。

「あの…?」

橡が戸惑って声をかけると、女性はにっこりと微笑んで早足で橡に近寄った。橡は驚いて一瞬息を詰める。

「初めまして、あなたが橡ちゃんよね!私は胡桃よ!紫苑からあなたのことはいつも聞いてるのよぉ〜!紫苑が言うよりも可愛いわねぇ〜!」

「あたし、すみれ!おにいちゃんがつれてきたつるばみって、あなただよね!可愛い!」

「俺は葵。紫苑が言ってたよりも美人だな。あいつ、俺らには口下手なんだぜ?お前には…」

「あたしは向日葵、六人兄弟の長女よ。紫苑は私の兄で、四人兄弟の長男。で、これが次男三女組。葵の下に…」

「これっていうな!」

「これっていわなくてもいいじゃん!っていうか、いっしょにしないでよ!」

「別にどうでもいいでしょう、そのくらい。なんとなくよなんとなく。うるさいのは二人とも同じでしょ。っていうか、私の言葉遮らないでよ。ごめんなさい、騒がしくて。さっきの続きを言うね。葵の下に次女の桜、その下に三男の松夏がいるの。」

「はいはい、静かにしていなさい、三人とも。確かに橡は美人で紫苑は口下手だけど、今病人の前で言うことじゃないでしょう?」

話している人の目を見ようとしても視線を固定させてくれない怒涛の会話に、橡はさらに戸惑って首を傾げた。褒めまくるのは、紫苑の家系だろうか。胡桃が注意しても構わず三人が話し続けている間に、紫苑が入ってきた。

「葵、菫、向日葵!ちょっと、何やってるんだよ!橡が困ってるじゃん!」

紫苑の声にほっとして橡が顔を向けると、小さな鍋にお粥を持ってきていた。橡はお粥も食べたことがないので、首を傾げる。

「すみません、それは…?」

紫苑はにかっと笑い、橡の頭を撫でた。胡桃も微笑んでそれを見ている。菫と葵が割って入った。

「おかゆ!」

「お粥!おいしいんだぜ!」

「こら、毎回毎回だぜ、てつけないの。言葉遣いが悪いよ。」

「うっせー!姉ちゃんだってなんか変な言葉遣いしてるじゃん!」

「これはいいの!静かにしていなさい。」

「…ごめん、うるさくって。これはお粥って言うんだ。うぅんと、そうだな。なんて言えばいいんだろう…」

胡桃は、三人の騒ぎに苦笑しつつ首を傾げる紫苑の頭を撫でた。困っている紫苑にあらあら、と呟いて、説明をし始めた。

「そうねぇ。お米とかを水で柔らかくなるまで煮込んだもの、かしらねぇ。まぁともかく、病気で弱った人が食べるのよ!」

どうやら彼女もわかっていないらしく、説明はかなり適当だ。適当ではあるのだが、概要だけならわかる。

「なるほど…?」

橡も頷きつつ首を傾げる。紫苑も首を傾げたままなので、首を傾げたまま二人は考え込む形になった。そばではいまだに葵と向日葵が騒いでいる。

「何をやっているんだ、何を。」

急に男の声が聞こえて、橡はばっと振り返った。そこには見知らぬ男がいた。橡の顔がサッと青ざめる。

「急に声かけんな、父さん。橡が怯えるだろうが。」

紫苑の不機嫌そうな声に、橡は思わずほっとした。信頼している人の家族というのは、それだけでも信頼できるものなのだ。

(紫苑さんの関係者なら、信頼できます。)

申し訳なさも含めた視線を紫苑の父に向けると、彼は眉を顰めて橡を見ていた。橡の肩が僅かにぴくりと震える。橡は震えを押し隠して、紫苑の父ならば失礼にならないように、と名乗った。

「私は橡と申します。気を失っていた数日の間、お世話になりました。挨拶が遅れて申し訳ありません。」

紫苑の父はうむ、と頷いた。その後ふいっと顔を背け、ふんっと鼻を鳴らしてぼそりと呟いた。

「紫苑の父、逸紀だ。起きたなら言え、紫苑。それと、お前らは少し静かにしていなさい。体に障るだろう。」

紫苑は逸紀を少し睨んでから僅かに顔を背け、ため息をついた。

「なんで俺が言わなきゃなんねえんだよ。そもそも起きたの今だかんな?それぐらい分かれよ、鈍いなぁ。」

紫苑と逸紀の間に小さな火花が飛び散っている。橡が唖然としているのを傍目に、胡桃がはいはい、と宥めた。

「もう、橡ちゃんの前で喧嘩しないの。それと、二人とも口悪いっていつも言ってるじゃない!そんなんだから葵が真似するのよ!」

「俺は父さんのまねしてるわけじゃないし!母さんはいつも一言多い!」

「いい加減にしないと、三人とも晩御飯抜きにするわよ。」

三人とも、ご飯を作る胡桃の権力には勝てなかったのか、睨み合うのをやめてふんっと顔を背けた。それに苦笑しつつ、胡桃は橡に向き直る。

「ごめんねぇ、橡ちゃん。この二人、似たもの同士だからなのか仲が悪いのよ〜。ほんと、困ったものよねぇ〜。」

橡は思わず口を緩めた。曖昧に、ふるりと首を振る。しばらくしてふと考えた。

(普通の家庭というのは、このようなものなのでしょうか…不思議と、懐かしいような感じです。)

橡がまだ経験したことのない普通の家庭を何度も思い浮かべたからなのか、なぜか懐かしく思ってしまった。

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