第35話 静かな灯火

部屋の空気が、穏やかな夜に包まれている。窓の外から涼しい風が入り込み、浩太はテーブルに座りながらゆっくりとお茶を飲んでいた。向かい側には繭が座っていて、今日も楽しそうに話をしている。


「浩太さん、明日もお仕事?ほんと、社会人って大変だね!」と、繭はお茶を飲みながらあっけらかんと言った。その言葉に、浩太は小さく笑みを浮かべる。


「まあ、大変なのが社会人ってもんだ。それに慣れるしかない。」と浩太はぶっきらぼうに答えた。


繭は頬杖をつきながら、「でも浩太さんはちゃんと頑張ってるよね。なんか偉いなぁって思う。」と真剣な顔で言った。その言葉に、浩太は一瞬黙り込んだ。


「…お前に褒められても、ありがたみが薄いな。」と照れくさそうに返したが、その胸の奥では静かな感謝の気持ちが広がっていた。繭の言葉は、ただの女子高生の言葉以上の意味を持っているように感じる。それが、浩太にとってどれほど癒しであるかを、彼は自覚していた。


「えー、薄いなんてひどい!」と繭が頬を膨らませる。その仕草すら浩太には心地よいものだった。彼女の無邪気さは、自分に忘れていた感覚を思い出させてくれるようなものだ。


「悪かったな。」浩太は素直に謝り、カップをテーブルに置いた。「お前がいると、確かに部屋が賑やかになる。静かすぎるのも良くないのかもな。」


その言葉に繭は目を輝かせ、「でしょ!浩太さんも、私がいる方が楽しいでしょ?」と得意げに言う。


浩太はため息をつきながらも、小さく笑って答えた。「…まあ、お前がいないと少し寂しいかもしれないな。」


その言葉に繭は満面の笑みを浮かべた。そして、こうして二人の静かな灯火のような時間が、またひとつ積み重なっていくのだった。


浩太はお茶を飲み終えたカップを静かにテーブルの上に置いた。繭の明るい声が部屋を満たしているが、その音はただ背景に流れる音楽のように心地よく、彼の疲れた心を包み込んでいた。


繭は浩太の前で腕を組み、「ねぇ浩太さん、もっと話してよ。なんか静かすぎる!」と不満げに言った。その無邪気な催促に、浩太は肩をすくめて答える。


「静かな方がいい時もあるだろ。」とぶっきらぼうに返すが、その言葉の裏には照れが混じっているのを感じていた。


「でも、浩太さんが黙ってると、私だけが一方的に喋ってるみたいで恥ずかしいじゃん!」と繭が頬をふくらませて抗議する。その子供っぽい仕草が、浩太の心に微かな微笑みをもたらした。


「わかった。じゃあ、何を話したいんだ?」と浩太は少し投げやりに返したが、その声にはほんのりとした優しさが滲んでいた。


繭は目を輝かせ、「最近ね、ちょっとだけ浩太さんのことをもっと知りたいなって思ってるんだ!」と勢いよく言った。その言葉に浩太は一瞬言葉を失い、目を伏せる。


「俺のことなんて知っても、大したことないだろ。」と、浩太はなんとか冷静を装って答える。


「そんなことないよ!浩太さんの話って意外と面白いし、なんか聞いてると安心するんだよね。」と繭が真剣に返した。その言葉の真っ直ぐさが、浩太の胸に少しずつ染み込んでいく。


繭の言葉や行動には何の裏もなく、ただの純粋さがあふれている。それが浩太にとってどれほど特別なものか、彼は認めざるを得なかった。


「お前、ほんとに不思議な奴だな。」浩太は小さく呟いた。


「え?それって褒めてる?」繭が嬉しそうに問いかける。その反応に、浩太は微笑みを浮かべながら曖昧に答えた。「どうだろうな。」


部屋の中は静かではあるが、その空間には繭の無邪気さと浩太の微かな優しさが漂っていた。その夜のひとときが、二人の関係を少しずつ温めていく瞬間となるのだった。


浩太は椅子に座りながら、じっと繭のことを眺めていた。彼女はテーブルの向かい側で軽いお茶を飲みながらスマホをいじっている。無邪気に笑ったり、声を出して何か呟いたりするその姿が、妙に心に染みていく。


「浩太さん、ぼーっとしてるけどどうしたの?」と繭が顔を上げた。その問いかけに、浩太は少し目を逸らしながら曖昧に答えた。「いや、別に。お前、今日もよく喋るなと思ってただけだ。」


「えへへ、だって静かだと浩太さん退屈しちゃうでしょ?」繭は明るく笑い、カップをくるりと回した。


退屈というより、彼女の声があることで部屋の空気が柔らかくなる。それが自分にとってどれだけ意味のあることなのか、浩太は考えずにはいられなかった。


「お前がいないと、こんなに賑やかな空間にはならないんだろうな。」浩太はふと呟いた。その言葉には、彼が普段口に出さない感情が滲んでいた。


「でしょ?ほら、私がいると浩太さんの日常が楽しくなるの!」と繭は得意げに胸を張った。その無邪気さに、浩太は小さく笑うしかなかった。


彼女の存在は、ただの隣人ではなく、自分の疲れた心を救ってくれる灯火のようだった。何気ない会話や仕草が、暗い日々の中に少しずつ明るさをもたらしてくれる。そのことに浩太はゆっくりと気づき始めていた。


「まあ、お前には感謝してる部分もあるかもしれないな。」浩太はあえて控えめに言った。


「え、何それ?もっとちゃんと言えばいいのに!」繭はニヤリと笑いながら突っ込んだ。その勢いに、浩太は困惑しつつもどこかほっとした感覚を覚えた。


そしてその夜の静かなひとときが、浩太の心に繭の存在をさらに深く刻み込んでいくのだった。

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