エピローグ1
――一ヶ月後
雨が降りしきる歓楽街に、雨具を持たない千鳥足の男が便所を求めてさまよっていた。
「くそ、こんなに降るなんて聞いてねぇぞ」
そう吐き捨てる男の息には、十分すぎるアルコールが含まれていた。男は路地裏に入ると、スラックスのチャックを下ろした。
「ふゥー。ほれ、ほれ」
やせ細る野ねずみに小便をかけながら男は排泄の快楽に震えていた。
それを見ていた黒い雨がっぱを着ていた男女が男に声をかけた。
「
「なんだァ?」
男は酔いに操られるように壁にもたれながら言った。男性器は露出したままだ。
「賀茂という苗字に覚えがあるな」
雨がっぱの男の言葉に、滋岳の表情は凍り付いた。
「し、知らねぇよ」
「知ってるだろ。さんざんソイツで楽しんだだろ」
雨がっぱの男は男性器をみながら言った。
「未成年淫行でブチ込まれるか、ここで吐くかだ。選べ」
「あ、あれはしかたなかったんだ。頼まれてやったことで、お、俺は悪くねぇ」
「淫行は認めるんだな」
「あ、ああ。そうだよ。悪かった。これ、これでいいか」
滋岳は雨がっぱの男の背後ばかりをちらちらと見た。逃げる算段をしているのだろう。
「じゃっ!」
男は算段がついたのか、突然駆けだした。
「……」
しかし雨がっぱの男に襟首をつかまれて、逆に路地裏の奥に投げ込まれた。
「ってえな!あんな小娘のことなんてどうでもいいだろうがよ!」
路地裏の壁に叩きつけられた滋岳は、痛みに激怒した。
「だいたいあいつだって乗り気だったんだ。途中からは勝手に俺の部屋に入ってきて腰を振る始末さ」
滋岳は嘲りながら一息に言った。
「大原さん、もういいよ。やっちゃって」
雨がっぱの女が、大原と呼ばれた雨がっぱの男に黒いキャンパス地の筒を手渡した。
「……おおはら」
滋岳はその名前に聞き覚えがあった。それをどこで聞いたか、早急に思い出さなければならないような焦燥感に駆られた。その間に、大原は刀を抜いて刃を露出させた。
「お、お前……もしかして、弓削をやったて――」
大原はなんのためらいもなく、怯える滋岳の首をはねた。
雨がっぱの女――マコが手早く滋岳の首を首桶に入れて立ち上がった。二人は雨にまぎれてその場を後にした。
――数日後 京都 賀茂家屋敷
「賀茂空江に用がある」
首桶を包みに下げて、大原は門前に出てきた使いの人間に言った。
「本日は近しい家同士の数少ない会合の日でして……」
ああ、知ってる。そう言って大原は使いの人間を横に押して無理やり敷地に押し入った。
門から五分もある長い道を歩いて屋敷に入ると、時代劇のセットのようなつくりに大原は辟易した。それは、未だにこんな古めかしい生活をしていることへの呆れと、その古めかしい生活に身をうずめている人間達をこれから相手にしなければならないことへの嫌気からだった。
虫の羽音のようにかすかに聞こえてくる声を頼りに、大原は会合の広間へとたどり着いた。両開きのふすまを勢いよく開けると、その光景に呆れてものも言えなかった。
部屋は向こう何十畳かわからないほど長く広い間だった。まるで参道の正中をさけるがごとく、中央をだだっ広く開け、壁沿いに狭苦しく人が並んで座っていた。
「なんだね、君は」
壁沿いの一人が声をあげた。
「あんたらに用はない。そこの賀茂空江に用がある」
大原の見据える先、広間の一番奥――その正中に目当ての人間が座っていた。
「こちらは、今代のご当主であるぞ!」
一人がそう言うと、まわりの人間も色めきだって、いっせいに声をあげた。大原は広間の中央まで進んで、首桶を置いた。
「これは滋岳明人の首だ。お前たちも、こうなりたくなければ黙って部屋を出ろ」
その言葉に、一同は青ざめて狼狽えた。
「その桶に本当に滋岳の首が納められているならば、その責任、お前の命で支払うことになるぞ」
賀茂空江は立ち上がりながら言った。大原はその言葉に、刀を抜くことで答えた。
「ひ、ひぃぃぃ――!」
それを見て誰かが悲鳴をあげると、それに続いてみな慌てふためいて濁流のように広間を飛び出していった。広間に残ったのは大原と空江の二人だけだった。屋敷から人の気配が消えるのを確認すると、二人は目を合わせて口の端で笑った。
「本当に斬る気ではなかったか、大原」
「まさか。アンタこそやる気だったんじゃないのか」
大原はそう言って、首桶を空江に手渡した。
「問題ないな」
「ああ。姉を苦しめた男に間違いない。よくやってくれた」
大原はその言葉を聞いて、その場にあぐらをかいた。
「空江、アンタはどこまでこの事件を見抜いていた」
空江と大原の関係は弓削を倒した数日後の電話から始まった。山本と共に弓削の自宅を調べると、京都支部の資金が大量に的場に流れていることが発覚した。京都支部は昔からの習わしで、賀茂家が世襲制で支部長を務めていたが、不死研究の資金のため――賀茂星江、空江の父親を殺害し、星江の後見人を滋岳明人、空江の後見人を自身が勤め、滋岳を利用して星江を陥れることで自身が支部長になった――という事が、弓削の日記から浮かび上がった。滋岳の捜索をする中で、大原に一本の電話が入った。それは、滋岳の最近の動向を伝える空江からの電話だった。
「……」
大原の問いに、空江は無言だった。
「最初から、星江を助けるために動いてたんじゃないのか」
最近になって山本から告げられたことだが、星江のもたされていた『万時の砂時計』は現存、稼働する唯一の代物らしい。そんなものを家中で虐げられていた賀茂に託す人間は一人しかいないだろう。
「山本に電話をしたのもアンタだろう」
弓削の動向を噂程度にみていた山本を調査に乗り出させた電話があった。いつか高速を走る車内で聞かされたその電話の主は空江ではないかと大原は考えていた。
「当時、弓削が的場と巫礼に関係があるとわかっている、もしくはそう感づける人間はそう多くはいないはずだ。弓削に近しい人間、もしくは京都につくられた
的場や巫礼が
「すると弓削に近しい人間に絞られる」
大原は空江を見かえした。
「近しい人間なら他にもいるかもしれんぞ」
「そうだな」
大原は懐から封筒を取り出し、その中身を抜いて空江に渡した。
「人事異動の承認証――駒井が弓削を通さずに秘密裏にアンタに送ったものだ」
「勝手に送られただけかもしれんぞ」
「署名にはアンタの名前だけが書かれてる。駒井がアンタと直接やりとりしているのが何よりの証拠だが、本来なら支部長である弓削の署名が必要なはずだ」
そうだな。空江は頷いた。
「弓削がこの件に感知していたかはわからないが、アンタは恐らく報告していないし、そもそもする気がなかった。気づかれる前にお家の権力で迅速に秘密裏に異動させたんじゃないのか」
しばらく考えるそぶりがあったあと、
「その通りだ。そもそも、異動の件は私から頼み込んだことだ」
と打ち明けた。
「しかし、そこまで調べてなにになるわけでもあるまい。何が目的だ」
大原は胸中を明かした。
「別に交渉しようってんじゃない。だが、これから世話になる上司に、力量を見誤られても癪だと思ってな」
なんだと。空江は眉をしかめて自身の耳を疑った。
「どういうことだ」
「山梨支部から京都支部に転属する。その了承をもらいたい」
突然の申し出に、空江は思案した。
「何が目的だ。姉の事だけではないのだろう」
「ああ。弓削正義の娘――そいつの後見人を任せてもらいたい」
重ねての申し出に空江は頭を痛めた。
「よりによってその事か……」
家中でももっともホットな話題なんだぞ、空江はこめかみを押さえながらそう言った。
「弓削を討った俺が面倒をみると言えば文句は言えないだろう」
どうせ文句を言うのはさっき逃げ出した連中だろ、と大原は付け足して訊いた。
「あれでも各家をまとめる長たちなんだ。多めに見てやってくれ」
しかし――、そう言って空江は考えた。
「流石に無条件でそれを呑むわけにはいかん。一応面目というモノもある」
「聞こう」
まるでこちらが頼み込んでいるようだな。空江は恐れ入ったと言わんばかりにため息をついた。気を取り直すと、
「中国地方に葦原村という小さな集落がある。そこの監視を頼めるなら、弓削の娘の件はなんとかしよう」
と言った。
「そこに何がある」
大原は空江に問うた。
「なければそれで構わん。要は危険か否か、証明が必要なのだ」
「人か、物か」
大原はその集落に神霊者、あるいは神代の何かがあるのだろうかと考えた。
「……恐らくは
空江は言い淀んで口を閉ざした。
「いいだろう。その条件、呑もう」
そう言って大原は立ち上がって、もう一つ封筒を取り出した。
「署名を頼む」
ん、と答えて空江は大原の人事異動の書類にサインをした。
「数日中にお前の自宅に新しい住処の書類を送る」
「住み込みか?」
「ああ、何もないところになるからな。家くらいは用意してやる」
大原はそれを聞いて、詳しく問わなかったことを後悔した。
「それではよろしくな。
その言葉に、大原は驚きを隠せなかった。
「驚く事でもないだろう。
山本から手ほどきを受けておけよ、そう空江は付け足した。
「それじゃ」
大原は空江に背を向けて広間を出ようとした。
「まて」
大原は背を向けたまま足を止めた。広間からは、敷地内の日本庭園がよくみえた。
「姉は、どうしている」
戸惑うような気配をはらんだ声だった。
「俺とマコの家を行ったり来たりしながら、高校受験の準備を進めてる」
言ったはずだ、そう言って空江の接ぐ言葉をさえぎると、
「高校卒業まで星江をここに戻すつもりはない。その後は、あいつの考え次第だ」
と大原はきっぱりと言いつけた。別に姉妹の仲を引き裂こうというのではない。むしろその逆で、唯一の肉親である二人を引き合わせたい気持ちは大原にもあった。一度そのことについて星江に提案したことがあったが、彼女は幼いころからの性的虐待のトラウマから未だ回復できていなかった。
「そうだったな……」
「ああ」
振り向かずとも、空江の表情が手に取るようにわかった。
「姉の事をよろしく頼む」
「……ああ」
そう言って煙草を一本抜き取ってくわえると、大原は屋敷を後にした――
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