5②
「は――早くって何が」
「さんぽ」
言うだけ言って女はすぐに向き直り、庭の奥へとスタスタと歩いていく。
今日一日で何度呆気に取られるんだろうと思いながらもまた呆気に取られてた俺に、「散歩に行くからついて来るようにと言ってらっしゃいます」と家庭教師が説明した。
そんな事は説明されるまでもなく分かってる。
よく分からないのは、このタイミングで何で散歩なんだって事。
あの女はどこまでも、空気が読めてないっつーか、流れを掴めてないっつーか、果てしなくフリーダム。
バカばかりの中で育つとあんな風になるのかと半分呆れながら立ち上がった。
このままここにいたって意味はないし、あの女に言ってやりたい事もある。
それに何より明日からの事もあるから行くしかない。
障子が開くまで待ってなきゃいけないところを怒鳴り込んで行ったんだから「犬の仕事」ってのをする事はない。
それはしっかり分かってるけど、あの女にちゃんと言葉にしてもらわなきゃならない。
あとからゴチャゴチャ言われないようにはっきりと断ってもらって、明日からはまた自由気ままに生活する。
元の生活が戻ってくるとなると少しムカつきが治まった。
今夜はセフレの誰かと過ごそうかとか、環兄ちゃんに「仕事はダメだった」と連絡して飯でも連れてってもらおうかとか、考えるとちょっとだけ楽しくなってきた。
廊下に出て、下駄を履き、庭に出る。
目を向けると女は既に結構遠くまで行っていたから、少し早足で追い掛けた。
手入れの行き届いた広い庭を、小屋がある方に向かう。
そうして周りに目を向けてみて、謎がひとつ解明出来た。
俺が廊下で待ってた十日間、ただの一度もあの障子は開かなかった。
女が便所に行く事も、誰かが飯を持って行く事もなかった。
どうやらそれは「別の入り口」から全て行われてたらしい。
あの障子の前を通る廊下は、俺が待ってた場所から十数メートル伸びた先で右に曲がってる。
待ってた場所からは死角になって何があるのか分からなかったけど、こうして庭に出てみるとしっかり見える。
右に曲がった廊下はまだまだ伸びてる。
その廊下に面した場所に障子がある。
位置から考えてその障子は、あの女が出てきた襖の向こうの部屋に繋がってる。
つまり襖の向こうの部屋から直接廊下に出られるようになってる。
そっちの障子から出入りしてたらしい。
俺に見つからないようにしてたらしい。
謎がひとつ解明出来ても、屋敷の奴ら全員がグルになって俺を謀ってたって事に変わりはない。
どこまでもムカつく連中だ。
「おい」
手を伸ばせば捕まえられる距離まで来て女の背中に声を掛けた。
女はそれを完全に無視して歩き続ける。
家屋はなくただ広いだけの庭が広がる。
池まであるから驚いた。
近付いて見てみるまでもなく、池には鯉がいるんだろう。
「おい、呼んでんのに無視すんな!」
いい加減にしろと言わんばかりの声を出して、後ろから女の肩を掴んだ。
それで女はようやく足を止めて俺に振り返った。
当然、憤然とした表情で。
思いっきり俺を睨み付けて。
「あたしは『おい』って名前じゃない」
ここに来て初めて「まとも」な事を言う。
いや。初めて「まとも」な会話をしたと言うべきかもしれない。
――ただ。
「なるほどな。『おい』って名前じゃねえから無視してたってのか。ルカだろ、ルカ。お前の名前はルカだろ。んでもそんな事はどうでもいいんだよ。俺にとってはお前の名前がルカでもオカメでも何でもいいんだよ。俺が言いてえのは――って、おい! 話聞けや!」
会話はあっという間に終わった。
やっと文句を言える状況になったと思ったのに、ルカはまるで聞こえないかのように数歩進んで足許に落ちてる枝を拾った。
これはもうバカにしてるとかって次元を遥かに超えてるような気がする。
未だかつてこんな扱いされた事もねえし、こんな屈辱味わった事もねえ。
それが初めての事で余りにも信じられない事だったから、呆然としてたらルカが拾った枝を投げた。
細い木の枝だったから、そう遠くには飛んで行かなかった。
本人は結構遠くに飛ばそうとしたらしく思いっきり振り被ってたけど、すぐ手前にポトンと落ちた。
そんな残念な結果を気にしない様子で振り返ったルカは、期待に満ちた目で俺を見てくる。
思わず半眼になってしまった。
何を期待してるのか分かりたくないのに分かってしまったから半眼になってしまった。
どうしてこうも、分かりたくないこいつの気持ちを理解してしまうんだろう。
今ルカが、「枝を拾ってくる俺」を期待してると、どうして分かってしまうんだろう。
分からなきゃ何て事ないのに、分かってしまっただけに脱力感に襲われた。
こんな事は初めてだけど、人間ってのは怒りの極限を超えると脱力するらしい。
怒鳴ってやろうとか殴ってやりたいとかって気持ちは消え失せて、もう何でもいいからとにかく帰りたいと思った。
この屋敷にいたらバカになる。
バカばかりと接してたらこっちもバカになってしまう。
バカには構わないで遠ざかるのが一番いい。
心底そう思ってる間、ルカは俺と投げた枝を交互に見てた。
ちょっとソワソワした感じで見てるから脱力感が増した。
何もしないで放っておいたらルカはいよいよ自分が投げた枝の方に歩いていって、もう一度それを拾うと一旦俺に見せた。
そしてまた思い切り振り被って枝を投げる。
当然、近くにポトンと落ちる。
何としてでも俺に枝を拾わせたいらしい。
ルカはまた期待に満ちた目を向けてくる。
余裕で無視だった。
突っ立ったまま指先のひとつも動かさないでおいてやった。
バカの相手は出来ねえと態度で思いっきり示してやった。
なのにルカは懲りずにまた投げた枝に近付き、拾って投げた。
「拾わねえよ……」
俺が脱力感のみに彩られた声を出したのは、ルカが四度目の「枝拾い」をした時。
途端にルカは眉を
「野良犬はダメだな」
またしても野良犬呼ばわりしやがった。
でももうどうでもよかった。
頼むから早く帰らせてくれと切に願ってた。
帰らせてくれるなら何呼ばわりされてもいいとさえ思った。
そんな俺の気持ちを察したかのように、ルカが来た道を戻り始めた。
ようやくこのバカな時間から解放されると思うとホッとした。
ルカの部屋が見えてきた時には、俺の気持ちは既にバイクに跨ってた。
未だ廊下にいる温厚そうな男の表情がはっきりと見えるくらいの距離まで行った時には、俺の気持ちは家路に着いてた。
――のに。
「瑠花様、如何なさいますか?」
「うん。この野良犬でいい」
廊下の前まで至った時、温厚そうな男の問いにルカがそう答えた事によって、物凄い吸引力で現状に引き戻された。
この野良犬でいい。
その言葉が一体何を示してるのかは聞くまでもなく分かった。
いやもう本当に分かりたくねえんだけど。
「お、おい、ちょっと待――」
「では、そのように旦那様にお伝え致します」
わざとか!?って思うタイミングでそう言葉を発し、俺の慌てた言葉を遮った温厚そうな男は、見てるこっちが呆れるくらい
俺はその背中を愕然とした気持ちで見送ってて、ハッと我に返って目を向けた時には、ルカはもう草履を脱いで廊下に上がってた。
開け放たれたままだった障子に向かったルカは、部屋に入る直前に足を止めた。
そうしてゆっくりと、未だ庭に突っ立ったままの俺に振り返る。
直後にルカは、多分間の抜けた表情をしているであろう俺に向かって、
「早く来い、ハチ公」
そう
第一話 完
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