2①


 恋愛という意味じゃなく尊敬という意味で、「憧れの人」っていうのは誰にだっていると思う。



 それは、芸能人然り、兄弟姉妹然り、漫画や小説の主人公然りと人それぞれで、期間に違いはあったりするかもしれない。



 それでも誰にだって「憧れの人」はいると思う。



 妬みや嫉みなんて邪心は一切なく、ただ真っ直ぐに憧れる人。



 こんな風になりたいと憧れを抱く相手。



 く言う俺にも「憧れの人」がいる。



 その日、その「憧れの人」からスマホにメッセージが届いたのは、セフレの中のひとりとの情事が終わって程無くしてから。



【飯、食いに行こう】



 そのメッセージを見た途端、真っ裸でまどろんでた女のベッドから飛び起きて、急いで服を着た事は言うまでもなく。



「帰る! またな!」


 浴室でシャワーを浴びてる女にそう声を掛けると、玄関先に置いてた愛車のバイクのメットを手に取って、女の家を飛び出した。



 寺田てらだ たまき



 それが俺の「憧れの人」の名前。



 普段は「環兄ちゃん」って呼んでるけど、本当の兄貴じゃない。



 近所に住んでる兄ちゃんだけど、幼馴染って言えるほど年が近い訳でも、遊んでもらった事がある訳でもない。



 ただガキの頃から憧れてる。



 もう十五年くらい憧れてる。



 環兄ちゃんはとにかく格好良い。



 もちろん顔って意味もだけど、それ以外も格好良い。



 やる事成す事格好良い。



 見てるだけで小便チビるくらい格好良い。



 だから女にモテまくる。



 しかもメチャクチャ喧嘩が強くて、全盛期にはいくつかの伝説を作り上げた。



 その伝説は今も尚、そこら中で語り継がれてる。



 そんな環兄ちゃんの、多分俺は一番のお気に入り。



 環兄ちゃんの周りにいる人間の中で、家族を除いて俺が一番付き合いが長い。



 だから色々信用されてる。



 少なくとも俺はそう思ってる。



 こうして飯に誘われる事が、まずお気に入りの証拠だと思う。



 環兄ちゃんは日々忙しい。



 その中で俺との時間を作ってくれるって事は、つまりお気に入りだから――という以外にない。



 環兄ちゃんからの久しぶりの誘いのメッセージに【行く!】と返信してから、メーターを振りきる勢いで家に帰った。



 家の駐車場にバイクを停めて、すぐに環兄ちゃんの家に向かった。



 同じような形の一軒家が並ぶ住宅街。



 そこにある俺の家から走って一分の距離に環兄ちゃんの家がある。



 環兄ちゃんの家まであと十秒ってところで玄関ドアが開いて、スーツ姿の環兄ちゃんが出てきたのが見えた。



「環兄ちゃん!」


 叫びながら駆け寄る俺に目を向けた環兄ちゃんは、「しょうがねえな」って表情を顔に浮かべ、



「さっきのバイクの音、やっぱり或斗あるとだったか」


 表情と同じような声を出して笑う。



 久しぶりに会った環兄ちゃんは、相変わらず小便チビるほど格好良かった。



「いい音してんだろ? この間、マフラー変えたんだよ」


「まあ確かにいい音だけど、近所迷惑だな」


 口許の笑みを継続したままそう言った環兄ちゃんは、「酒飲むから歩きで行くぞ」と言って早速歩き始める。



 この場合、行く店は駅前にある「居酒屋まるはち」に決まってる。



 どうしてなのかは知らないけど、徒歩圏内で環兄ちゃんが行くのはこの店しかない。



 俺が物心ついた時からある「居酒屋まるはち」は、何もかもが古びてる。



 店の外の看板さえ古びてて、「居酒屋まるはち」の「はち」の字が消えかかってる。



 店内は更に古びてて、何もかも年季が入りまくりで、椅子なんて座るとギーギー音がする。



 店の親爺も古びてる。



 ひとりで店を切り盛りしてる親爺は、俺が初めて店に行った時から然程さほど変わってない。



 つまりは最初からずっと古びてる。



 推定年齢八十歳。



 そんな「居酒屋まるはち」の六人掛けのテーブル席に座った環兄ちゃんは、ビールとツマミを適当に頼んで煙草に火を点けた。



 そして吸い込んだ煙草の煙を吐き出すのと同時に、



「お前、もうハタチだよな?」


 唐突にそんな事を聞いてきた。



「まだハタチじゃねえよ。十九」


「でも今年ハタチだろ?」


「あー、うん。誕生日でハタチ。何? ハタチの祝いに何かくれんの?」


「まあ、それはお前の返事による」


「返事って何の?」


「まだフラフラしてるんだよな?」


「フラフラって?」


「仕事しないで遊んでんだろって事。それとも仕事見つけたか?」


「見つけたも何も探してねえし」


 そう答えたタイミングで推定八十歳の親爺が生ビールの入ったジョッキをふたつ持ってきた。



 ついでに頼んでたツマミの枝豆と冷や奴も持ってきて、何やらテーブルの前でモタモタしてた。



 その間に環兄ちゃんは吸ってた煙草を灰皿に押し当てて消して、二本目の煙草に火を点けた。



 そうして親爺がテーブルから離れるのと同時に、



「或斗、仕事する気ないか?」


 煙草の煙を吐き出しながら、また唐突にそんな事を聞いてきた。



「仕事?」


「ああ。仕事」


「仕事って何の?」


「何って聞かれると難しいんだよな……」


「は? 何それ? 変な仕事?」


「変じゃない。お前、俺がしてる仕事知ってるか?」


「金持ちの屋敷で働いてるってのは知ってる」


「まあ、そうだ」


「それが何?」


「その仕事をしないか?」


「は?」


「お前を俺が今してる仕事の後釜にしたいと思ってる」


「え? 環兄ちゃん、仕事辞めんの?」


「今の仕事はな」


「転職って事?」


「簡単に言えばそうだな。でももうちょっと複雑だ」


「複雑って?」


 問い掛けに、環兄ちゃんは「うん」と曖昧な返事をしてビールをひと口飲んだ。



 釣られて俺がビールを飲むと、環兄ちゃんはそれを待って、



「俺が今働いてるのは、成宮なりみやって家だ」


 小さい子供にするような、ゆっくりとした口調で説明し始めた。



「聞いた事ないか? 成宮金属とか、成宮不動産とか、成宮重工とか。結構手広くやってるからお前でも聞いた事はあると思うぞ。テレビでCMもいくつか流れてる」


「成宮重工って聞いた事あるかも。環兄ちゃん、その『成宮』の家で働いてんの?」


「そうだ。今はその『成宮』の屋敷で働いてる。で、今度はその『成宮』の会社で働く事になった」


「何それ。出世ってやつ?」


「まあ、そうだろうな。本社勤務だし、会社じゃそこそこの地位を与えてくれるらしいし、どっかの金持ちの令嬢と結婚させてもくれるらしい」


「は!? 結婚!?」


「結婚っていうか見合いだな。いい相手を紹介するって感じだ。それにそれはまだ先の話だ。三年くらいしてからだな。無理矢理って訳じゃない。他に好きな女がいるならその話はなかった事になる。でもまあ好きな女もいないし、俺としては見合いの話を受けてもいいかなと思ってる」


「え!? 冗談!? 冗談言ってんのか!?」


「マジだ」


「はあ!?」


「恩恵だ、恩恵」


「おんけい!?」


「これまでの頑張りに対する恩恵だ」


「頑張りって何だよ!?」


「何って仕事に決まってるだろ。俺が成宮の屋敷で働き始めたのは、今の或斗と同じ十九の時だ。それから八年間、ずっと働いてきたろ。仕事ばっかしてる八年間だった。その頑張りに対しての恩恵が、本社勤めと見合い話だ。俺ももう二十七だからな。将来の事考える年だ」


「そ、そりゃその言い分は分かるけど――」


 だからって見合い話は飛躍しすぎじゃねぇの!?――と、続けたかった言葉は、推定八十歳の親爺が揚げ物を持ってきた事で遮られた。



 盆に揚げ物をいくつか載せてやって来た親爺は、それをモタモタとテーブルの上に並べ始める。



 その親爺の手許を見てる俺は自分でも分かるくらい憤然としていた。



 環兄ちゃんが仕事を始めたのは十九歳の時。



 それまで遊び呆けてた環兄ちゃんが突然仕事を始めた時はメチャクチャ驚いた。



 しかも噂じゃとんでもない金持ちの屋敷で働いてるって言うんだから、一体何がどうなってそうなったのか分からなかった。



 それに関して直接本人に聞いた事がある。



 どうしてそんな所で働く事になったのか。



 環兄ちゃんの答えは物凄く曖昧だった。



「たまたまだ」


 確かそんな事を言った気がする。



 もしかしたら「偶然だ」だったかもしれないけど、どっちにしても曖昧な答えという事には変わりない。



 当然そんな答えで納得出来る訳がなかった。



 つーか、「たまたま」だろうと「偶然」だろうと、それまで悪の権化みたいな事ばっかしてた環兄ちゃんが、金持ちの屋敷で働けるなんてまず有り得ないと思ってた。



 仕事をした事よりもそっちの方が信じられなかった。



 なのにちゃんと答えてくれない事に腹が立った。



 まあ、簡単に言えば拗ねたって事なんだけど。



 当時は俺もガキだったし。



 だから環兄ちゃんに仕事について二度と聞かなかった。



 意固地になって絶対に聞かなかった。



 周りの噂にも耳を塞いだ。



 相当意固地になってた。



 その所為で、環兄ちゃんがどんな仕事をしてるのかは知らない。



 金持ちの屋敷で働いてるって事しか知らない。



 今の今までその金持ちが「成宮」って名前だって事も知らなかった。



 それくらい意固地になってる俺の気持ちを知ってか知らずか、働き始めた環兄ちゃんは忙しくなった。



 朝も早くから仕事に出掛けるし、帰ってくるのも遅い。



 どんな仕事をしてるのか知らないけど、一日十二時間以上働いてるのは確実で、その所為で近所でばったり会うって事が殆どなくなった。



 それがまた腹立たしかった。

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