#35−①「記念日でもないのにごめん」
金曜日、まどかは定時に仕事を終え、自宅に帰っていた。
食事を摂る前に、お風呂に入って、気分をリセットした頃、絢斗から連絡が来ていることに気づいた。
“今から家行ってていい?”
絢斗は飲み会の予定があった。どうやら、案外早く終わったようだ。
“いいよ”と簡潔に返事を打ち、送信すると、キッチンへ向かい、食事の準備を始めた。
野菜炒めを冷蔵庫に残った食材で作り、残っていた缶詰を1つ開けた。ホタテをバターソースで炒めた缶詰で、開けた瞬間にバターの香りが鼻腔をくすぐって、電子レンジで温めれば、その香りはより一層濃くなり、食欲をそそる。
それらを食べ終えた頃に、絢斗はやって来た。
「食べてるところだった?」
「ううん。食べ終えたところ」
まどかはキッチンへとお皿を下げる。
「シュークリーム、買ってきた」
「え、本当? 食べる!」
絢斗がソファーへ向かうのを見て、ハッとする。
「あ、色々置いててごめん」
テーブルの上には結婚情報誌の山がある。ウエディングドレスや和装の花嫁が表紙の雑誌が、文字通り何冊も積み重なっているのだ。
結婚情報誌は、結婚式場紹介がメインなものもあれば、ドレスやメイクがメインのものもある。見るまでは、知らなかったことだ。
「大丈夫」
絢斗はソファーに座り、袋からシュークリームを取り出した。コンビニで2つ買ってきたようだ。
絢斗は目の前に積み上がった結婚情報誌が気にならないのか、絢斗は何も言わない。
あくまで仕事の勉強用に購入したものである。絢斗もそれを分かっていて、わざわざ触れないとも思える。
しかし、やはり結婚の話題を避けているように思えるのだ。
正直、避けていてもいい。
ただ、結婚のプレッシャーをかけていると思われるのは心外だった。そのつもりは全くないのだ。
まどかは電気ケトルに水を入れ、お湯を沸かす。
その間に、2つのカップにインスタントコーヒーを入れて待つ。
絢斗は、“結婚が誰でもいいわけないじゃん。結婚に憧れはあるし”と、言っていた。
しかし、結婚に憧れが今もあるのか、まどかが相手に適していると思っているかは分からない。
コーヒーを入れて、まどかもソファーに座り、シュークリームを頬張った。
甘くて冷たいシュークリームと苦くて温かいコーヒーのマリアージュは、定番で間違いなくおいしかった。
話しているうちに、当然のように絢斗が泊まる流れになった。
絢斗がシャワーを浴びている間、まどかは結婚情報誌の1冊を手に取り、ソファーに座ってパラパラと見始めた。
急に、背後に気配を感じて、勢いよく振り向く。
ソファーの後ろに絢斗が立っていた。
「集中してたね?」
「ごめん。全然気づかなくて」
ソファーの前へと回ってきた絢斗の髪はすっかり乾いている。どれだけ時間が経ったか分かる。
絢斗が隣に座り、体が揺れる。
雑誌を閉じようとしたら、絢斗は「見てていいよ」と言った。
どういう顔をして見ていていいか分からないし、絢斗が隣にいて、仕事に集中するのももったいない。
絢斗の顔を見て、どういう気持ちなのかを窺おうとしたが、全く読めない。
読むのは諦めて、閉じかけた雑誌を開き直す。
「仕事で見てたら、色々気になるもんだね。結婚するとなると、することがたくさんあるし、知らないことも多いんだなって、見てると勉強になるよ」
反応がないのだから、プレッシャーがかかっていると思うのが筋だろう。
何がプレッシャーをかけたくない、だ。
それなのに、こんな機会でもないと言えないと、頭の隅にちらついて、言葉を紡ぐのを止められなかった。
「結婚式はお金かかるって書いてあるけど、実際どうなんだろうって思ったら、やっぱり身近な人に訊くのが早いかなって思うけど、いくら同期とは言え、親しい仲にも礼儀ありでしょ? さすがにお金のことは訊けないよね」
心臓がバクバクと早く拍動するから、自然と早口になる。
「準備も何ヶ月も前からして、大変そう。お金もかかるし、時間もかかるし、それでもやりたいって思うんだろうね」
「そうだろうね」
絢斗がやっと相槌を打った。
「ウエディングドレスも、絶対に着たいとは思ったことなかったけど、着てみたいなって思い始めてきた。種類もたくさんあって、綺麗に見えるようにこだわりがたくさんあるんだよね」
「……ふーん」
本当に興味がないのか、相槌の声は小さかった。
「あたし、いずれは結婚したいと思ってたけど、ずっと漠然としてた。でも、こうやって、情報に触れると自然に考えるようになるね」
絢斗は困っているのだろうか。
言いあぐねているのか、反応がない。
雑誌を閉じて、テーブルに置き、絢斗の顔を見たら、視線が合わなかった。
「絢斗」
「……え?」
名前を呼んだら、絢斗はひどく驚いた顔で、まどかを見返してきた。
「あたしたち、結婚しない?」
絢斗は、ただでさえ大きく見開いた目を、さらに大きく見開いた。
それから、視線を彷徨わせて、まどかの方を見なくなった。
こんなにうろたえてる絢斗を初めて見たかもしれない。
嬉しくて、笑みを湛えながら、まじまじと見てしまう。
歩の言う通りだった。
変に画策するより、自然が一番だった。
「あたしに気を遣ってくれなくていいの。本音が訊きたい。あたしと結婚する気、ある?」
絢斗はまどかを一瞥して、組んだ手を膝の上に置いた。落ち着こうとしているのかもしれない。
沈黙がじれったく、絢斗の一挙手一投足を見逃さないように、じっと見つめる。
「……前に、結婚するならどんな人が訊いたとき、何て答えたか覚えてる?」
絢斗は自分の手を見下ろしながら訊ねた。
その指は不規則に動いている。
「……え?」
「“チャラついてないで、寡黙で、落ち着いてる人がいい”って言ってたじゃん。結婚はそういうもんだって」
「……よく覚えてるね」
一言一句同じかどうかは、もはやよく覚えていないが、多分そうなのだろう。まどかは苦笑いする。
「……俺でいいの?」
「気にしてたの?」
まどかは、ぽかんとしてしまう。
一言一句覚えていて、そっくりそのまま言えるくらい、気にしていたのか。
てっきりわざとだと分かっていると思っていた。
わざとだと分かっていたら、これほどまでに気にするとは思えない。
「当てつけだとは思ってたけど、完全に嘘だとは思わなかったから」
まどかの顔を一瞥した絢斗は、まどかの戸惑いに気づいたのか、絢斗はそう言った。
また、自信がなさそうな絢斗になっている。
こういう顔を見せられると、まどかは庇護欲を掻き立てられる。
「会社勤めで経済力もあるし、営業職の世渡り上手で、一般的には十分じゃない」
絢斗の顔がまどかを向いた。
美人は3日で飽きるというが、いつまでも飽きることがない。
「子どもも可愛い顔で生まれるだろうし。……まぁ、あたしの遺伝子もあるから何とも言えないけど」
「いや、可愛い顔だよ」
不意に絢斗の目に真っ直ぐに見つめられて、動揺する。
「……そう?」
照れてしまい、目を逸らした。
「訊きたいの、結婚のことだけじゃなかった。子ども、ほしい?」
ちらりと窺うように目線を戻せば、絢斗は真っ直ぐにまどかを見つめ続けていた。
「そうだね。まどかと結婚して、まどかとの子どもがほしいよ」
自信を取り戻した顔はためらいがなく、見ていて清々しかった。
色んな表情を、一番近くで見ていたい。
――やっぱりあたしは絢斗と結婚したい。
「記念日でもないのにごめん」
「そんなこと関係ないよ。でも、何で今?」
「本当に、仕事で結婚の記事をたくさん見てたら、純粋に結婚したくなったの。笑いながら言ってたら説得力ないかもしれないけど」
まどかはそう言いながらも、まだ笑っていた。
「言いたいと思ったときに言ったら駄目だった?」
絢斗は首を大きく横に振った。
それから、まどかの膝の上の手に、絢斗の手を重ねた。
「駄目じゃない。まどかも同じ気持ちだって分かって嬉しい」
「あたしもホッとした。後先考えず、言っちゃったから」
まどかはとびっきりの笑顔で返す。
「ありがとう」
お礼の言葉とともに、絢斗の腕が伸びてきて、まどかは勢いよくその胸に飛び込んだ。
「俺たち、結婚しよう」
「うん」
ぬくもりが温かくて、いつまで経っても離れられそうになかった。
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