#19「馬鹿じゃないの!」

意識が薄っすらと浮上してくる。

すでに空は白み始めており、薄明るかった。


まどかが起きたのは、絢斗の家だった。

昨夜は遅くまで飲んでいたので、当たり前のように泊まってしまったのだ。


「荷物になるし、置いていったら?」


来る度にそう提案されて、毎週、絢斗の家にまどかの物は増えていった。手ぶらで泊まりに来たとしても、困らないほどに。


始めはただの添い寝だった。

それが、手を繋がれて、このままステップアップすると思ったら、昨夜は手も繋がれなかった。


物足りないような、寂しいような――。

まどかは布団の中で拳を握る。


横を向けば、目を閉じて眠る絢斗はあどけない顔をしていた。



“そろそろ物理的に攻めるべきかなって思ってる”


そう言ったのは絢斗なのに、全く攻めてこないではないか。


まるで迫ってほしいようなことを思って、頭を抱えたくなる。



目を天井に向けて小さくため息を吐いて、再び絢斗に目を向ける。


「――そういう目で見てくれてる?」


「……っ!?」


急に絢斗の目が見開かれて心臓が止まるかと思った。


「おっ、脅かさないでよ……」


胸に手を当て、深呼吸して、心を落ち着かせる。


しかし、どれだけ経っても落ち着かせることは難しそうである。

同じベッドの上で絢斗と向き合っている限りは、むしろ、鼓動は早まるばかりだ。


顔を背けようとしたら、絢斗の指がまどかの顎に触れて、それを許してくれなかった。


「8秒だっけ?」


「……何が?」


「見つめたら好きになる時間」


絢斗の目から逃れることができない。


吐息混じりの声が色っぽくて、くらくらする。

絢斗の指が触れている顎が熱かった。


「あー、でもあれは男の話か」


絢斗は身をよじり、上を向きながら、悪戯っ子のように軽い調子で言った。


顎に触れていた指は、するりと頬の輪郭を撫でて、耳へと滑り、耳たぶへと留まる。親指と人差し指で挟んでやわやわと触れるから、くすぐったい。


「……それ、やめて」


抵抗しようとして、弱々しい声しか出なかった。

それでも、絢斗はすんなりと手を離した。


それが物足りなく思ってしまっている自分がいる。

自分は欲求不満なのだろうか。



「今日は何する?」


「……今日はもう帰る」


絢斗の返事を聞かず、ベッドから降りて洗面所に向かう。


顔を洗って日焼け止めだけサッと塗る。

それから荷物をまとめて、慌ただしく帰ったのだった。




帰宅した後、絢斗から電話があった。

渋々電話を取れば、『忘れ物してるよ』と言われた。


「……明日会社まで持ってきてよ」


『いいの? 泊まったってバレるかもよ?』


同僚の見える場所で渡されれば、勘繰られるのは確かだろう。

絢斗がどこまで配慮してくれるかが分からない。


「……取りにいく」


『分かった。じゃあ、また明日』


電話を切って、ハッとする。

何を忘れたのか、ちゃんと訊くべきだった。

ドキドキして、早く電話を切りたくて、肝心なことが訊けていなかった。


まどかは、自分の不甲斐なさに、大きなため息を吐いた。


***


「――忘れ物ってこれ?」


「うん」


まどかの問いに、絢斗はあっさりと答えた。



絢斗は仕事で直帰をしており、まどかは1人で絢斗の自宅へと訪ねていた。

そこで、昨日忘れて帰ったものを差し出されて、唖然とした。


絢斗の手の上に載っていたのは、まどかの使っているヘアクリップだった。

いくつかあるうちの1つだったので、すっかり頭から抜けていた。


「……別に置いててくれていいのに」


そう言いながらも、そのヘアクリップを受け取る。


「いいんだ?」


絢斗はわざとらしく驚いた顔をした。


「まぁ、付き合ってるもんね」


また来ることを自分から認めたようだと気づいて、まどかは口を結んだ。


これを会社で同僚が見えるところで渡されていたら、困っただろう。

どういう関係なのか疑われても、あらぬ誤解だと一刀両断できずに、どう弁明すべきか分からなかったに違いない。

取りにきて正解だったと思うことにしよう。



ふと香水が目に入る。

胸元辺りまでの高さの本棚の上だ。

泊まったときにはなかったような気がする。


「――つけていいよ」


絢斗はまどかが香水ボトルを見つめていることに気づいたようだ。

本棚の前へと向い、ボトルを手に取って、まどかの前へとやって来る。


「この匂いをかいだら、俺のこと、思い出すでしょ?」


キャップを取ったと思うと、手を取られ、手首にシュッと吹きかけられた。


――絢斗の匂いだ。


ただ、少し違うようにも思える。

いつもかいでいるのはミドルノートの香りだからだろうか。


「いい香り……」


男性にしては珍しい、ジャスミンの甘い香りが鼻腔をくすぐる。


匂いは記憶に密接している。

会社ですれ違うとき、ふんわりと香るから、スーツ姿の絢斗の顔が頭に浮かぶ。


「まどかも好きならよかった」


香水の香りの話のはずなのに、どきりとしてしまった。


絢斗は、まどかのそんな気も知らず、キッチンへと向かう。


「まだ何も食べてない?」


「うん」


「食べてく?」


「え……」


「まどかの胃袋を掴もうかなって思って」


にっこりと満面の笑みを浮かべて言うから、不意打ちをくらった。


絢斗は様々な方向からまどかを攻め入ってくる。

気づいたら侵入を許していて、そのときには太刀打ちできなくなっている。


「悪いよ。これ取りに来ただけだから帰る」


「そう? もうパスタ2人前茹でちゃったなぁ……」


絢斗の視線の先には、ざるに上げられた山盛りのパスタだった。どうやら氷水につけているようで、今晩のメニューは冷製パスタらしかった。


「今からソース作るの?」


絢斗はにやりと口の端を上げた。


「もう作ってあるよ」


そう言って冷蔵庫から取り出したのはボールで、中身を傾けて見せられた。


「後は和えるだけ」


そう言われたら、食べて帰った方がいい気がしてくる。


何よりおいしそうだった。

胃袋を掴もうとしているだけあって、気合が感じられた。


「……じゃあ、お言葉に甘えて、食べる」


まどかがボソボソと言うと、絢斗は嬉しそうに笑った。


「座って待ってて」


「何か手伝うよ」


「だったら……」


絢斗は隙のない男だ。

まどかのことをよく理解し、行動を先回りしている。

上手く丸め込まれているとも思うが、自ら飛び込んでいる節があるのも自覚がある。


慣れた手つきでお皿に盛られる様子を隣で見つめる。

普段から料理をする人の手つきだ。

軽薄な調子やデリカシーのなさが相殺されるくらいには、他が完璧である。


テーブルに並んだ、えびとトマトとアボカドの載った冷製パスタは、鮮やかで食欲をそそった。


「いただきます」


絢斗に促され、先に口に運ぶ。

レモンのさわやかな香りがふわりと香る。


「……おいしい」


「よかった」


絢斗は安堵の表情を浮かべ、自分も食べ始める。


トマトは湯むきされており、アボカドは綺麗なさいの目切りである。

自分のためにかけた手間が見えて、感動する。


ぺろりと平らげたら、絢斗は「チョコプリンもあるよ」と言う。


至れり尽くせりの状況に唖然としているうちに、絢斗はチョコプリンとスプーンを持ってくる。


「……あたし、物で釣られてる?」


「じゃあ、これもいらない?」


「いる」


「即答じゃん。まどかはチョコ好きだもんねぇ」


絢斗には好みもバレバレである。

きまり悪く思いながらも、チョコプリンを受け取った。


スプーンを入れると、思ったより固めで、口に入れたら、まるで生チョコを食べているようだった。


「おいしい……」


口の中から消えたら、すぐにスプーンを運ぶ。止まらなかった。


「物で釣ってるわけじゃないからね。ただ、まどかの喜ぶ顔が見たいだけ」


絢斗はその言葉通り、自分は食べずにまどかを見ていた。それに気づいたのは、チョコプリンを全て食べ終えた後だった。


「……もらってばっかだね」


今日だけでも、食事を振る舞ってもらい、デザートまで準備してもらった。

前にも、ワッフルを買ってくれていたこともあった。


こんなに色々としてくれるのに、まどかは何もできていない。罪悪感が募ってくる。


「前も言ったけど、こうやっているだけで嬉しいから、気にしなくていいよ」


絢斗は、まどかから空になったプリンの容器とスプーンを取り上げて、キッチンのシンクへと持っていく。


「ただ、そんなに気になるなら、今度はまどかが料理作って、食べさせてよ」


「え?」


「まどかの手料理、食べたいな」


「まぁ……いいけど……」


絢斗は嬉しそうに笑って、「約束だからね」と念押しした。



まどかは戻ってくる絢斗を目で追う。

絢斗はソファーを背もたれにしてラグに座るまどかの隣に腰を下ろした。


「最近、よく見てるねぇ」


横顔がこちらを向いて、目がばっちりと合った。


「何か分かった?」


絢斗は囁くように訊いてくる。


まどかは何も答えず、絢斗を見つめ返す。


何も反応がないことで、困惑したのかもしれない。

絢斗は伏し目になって、まどかから目を逸らした。


初めてかもしれない。

目を逸らすときは、照れたまどかからというのがお決まりだったのに、絢斗が目を逸らすなんて。


目線が上がって、再び目が合ったとき、ひどく緊張した。


「――キス、してみる? 俺が何考えてるか、少しは分かるかもよ?」


言葉は軽い調子のはずなのに、真面目な顔とトーンに戸惑う。


「ちゃんとそういう目で見てもらうには、やっぱりそういうのが効果てきめんかと思ったけど」


「……ばっ、馬鹿じゃないの!」


さすがに絢斗に見つめられるのに耐えられず、まどかは顔を背けた。


「言葉の割には意外と満更でもなさそうな顔してるけど?」


一瞬、唇が触れたらと想像しかけて、言い返すタイミングが遅れたのは事実だ。


絢斗は何とかしてまどかの顔を覗き込もうとしてくる。


唇を見たらまた想像してしまう。

キスをしたら、絢斗の考えよりも自分の気持ちがはっきりしそうで、少し怖い。


「まどかは避けたりくっついたり、忙しいねぇ」


「……くっついてはない」


「そう?」


平然として見える絢斗を一瞥して、まどかは膝を抱えて、膝の頭に顔を埋めた。

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