#17−②「好きって言われたら、それで好きになるものなの?」

***


毎週のように続いていた週末のデートは、今週末は誘いがない。


避けていれば当然だろう。

残念に思っている自分に当惑する。


幸か不幸か、今日は朝から絢斗には会っていない。

クレームもあったらしいから、忙しいのだろう。


ため息が漏れる。



会食を終えて、しておきたいことがあり、会社に戻ってきたら、まだ明かりがついていて驚いた。


部屋へと入れば、絢斗の姿があった。

数多くいる同僚の中で、絢斗が、しかも1人で残業しているなんて、こんなことがあるだろうか。


ドキドキしながら、自席へと向かう。


まどかが入ってきたことは気づいたはずなのに、絢斗はまどかに目線を送ることもしなかった。


自席にバッグを置き、パソコンを立ち上げる。

その間も絢斗が気になり、チラチラと目線をやる。


絢斗のことは無視し続けることもできた。

しかし、2人きりだというのに、挨拶も何もないのは、居心地が悪い。


「――まだ帰れないの?」


つい自分から話しかけてしまった。


普段なら席に少し距離があるので、会話は成り立たないが、今は2人以外に誰もおらず、静寂に包まれており、声がよく通った。


「……そうだねぇ」


やはり絢斗はまどかの存在に気づいていたようで、声をかけたからといって驚かなかった。


「……クレーム、あったんでしょ。大変だったらしいね」


「聞いたんだ」


絢斗は一度も目を合わせずにパソコンのキーボードを叩いている。


「俺、何もしてないのに、理不尽だよな。まぁ、見かけだけで判断されるから、もっと気を配るべきだったとは、反省してるんだけどね」


絢斗はこの容姿で得をしていることも多いだろうが、その分損もしているに違いない。


絢斗を知るまどかからしたら、誘惑する営業などしていないと言い切れる。くだらないクレームだ。


「うちの商品、卸してる会社なの?」


「全然。今回、契約になりそうだったけど、そういうクレームが入ったから、やっぱりなしになった」


「そっか……」


それならよかった、とはならないが、取引先ではないことに、ホッとする。

契約がなくなったという損害は出ていないからだ。


「……落ち込んでる?」


「落ち込まないよ。昔もあったし」


「でも、いつもと違う。他に何かあったの?」


憂いを帯びた表情の絢斗がフッと笑った。


「俺、今どんなふうに見えてんのかな。そんなに違う?」


「うん……」


どう考えてもおかしい。


まどかが積極的に話しかけて、絢斗が適当に返事をするだけなんて、あり得ない。


絢斗の様子だけでなく、まどか自身もおかしい。

こんなに絢斗のことを気にする必要などないのに。



絢斗は立ち上がり、コピー機へと向かう。

その背中を目は追いかける。


「……あたしには甘えられないの? 本音、言ってくれない?」


「そうだねぇ」


絢斗はコピー機の前で止まり、資料を確認している後ろ姿が見える。


「かわいそうな人……」


「……じゃあ、まどかが慰めてくれる?」


思わずぽつりと呟いた声は、絢斗の耳にも届いたらしい。

返ってきた言葉は、何とかまどかに聞こえるくらいの、か細い声だった。


膨れ上がる気持ちは、今まで絢斗に抱いたことのないものだった。

考えるよりも先に、絢斗に向かって歩き出していて、 何も言わず、絢斗を後ろから抱き締めていた。


自分とは違う厚い体に、大きな背中は、ちゃんと男を感じる。

その一方で、この腕の中にいる男を守ってあげなければと思う。母性というのは、こういう感情なのかもしれない。


「少しは甘えてくれていいのに……」


抱き締めているはずなのに、まどかが背中に顔を埋めて、慰められているようだった。



「……前に、顔が好きだったら嬉しいって言ったけど違うかも」


「え?」


「顔は変わっていく。俺だって、今ほどイケメンじゃなくなるかもしれない。そしたら、内面も好きになってもらわないといけないよね」


まどかが認めたのは顔のよさだけだった。

その顔が変わるほど年齢を重ねたときのことを話しているのか。

まるでずっと付き合い続けるような言い方に、どくんと胸が高鳴る。


絢斗はコピー機の自動原稿送り装置に資料を置いたまま、くるりと振り向いた。


「せっかく付き合うなら、顔だけじゃなくてちゃんと俺を好きになってもらいたいんだよね。だから、そろそろ物理的に攻めるべきかなって思ってる」


絢斗の指がまどかの頬の輪郭をなぞる。


扇情的な眼差しに、今までの攻めは物理的ではなかったのかという疑問が砕け散った。


手を繋いだり、同じベッドで寝たりはしたものの、絢斗が男女の関係を匂わすような行動まではしてこなかった。

しかし、今はそれを強く感じる。


絢斗はまどかの額にキスを落とす。

チュッと軽やかな音がして、それがまた恥じらいを誘った。


社内に誰もいないが、普段仕事をする場所でする行為ではなくて、落ち着かない。


まどかが拒否しないのをいいことに、絢斗はまぶたや鼻の頭、頬へ、順番に唇を寄せる。

耳朶や顎にも触れ、唇の端ギリギリを攻めるだけで、肝心の唇には触れない。


――もどかしい。唇に触れてほしい。

自分がこんなに破廉恥だとは思わなかった。


まぶたをギュッと閉じていたから、絢斗に至近距離で見つめられていることに気づくのが遅れた。


「そそるね。いつもキーキーいってるのに、そんな顔もできんじゃん」


赤い舌がぺろりと唇を舐め上げる。


見てはいけないものを見たようで、頬がカッと熱くなる。


「あたしに……欲情できるの……?」


素朴な疑問を口にしたら、絢斗は唖然としてまどかを見返してきた。


「……自分を何だと思ってんの? 当たり前のこと、訊かないでよ」


絢斗の親指がまどかの唇に触れる。


リップグロスも取れており、かさついていないか気になる。

どうしようもないので、絢斗を見つめるしかできない。


まどかの唇に向けられていた絢斗の視線が、不意に上がって、目が合った。


「まどかもそういう目で俺を見てよ。付き合ってるんだから」


まどかは息を呑んだ。


そういう目で見てしまいそうになる自分は、すでにいる。

それを認めたくはないし、絢斗に知られたくもない。


絢斗が自分に欲情していると分かって振り返れば、2日連続同じベッドで寝たときの絢斗の心理が気になってくる。


心臓がバクバクして、息が苦しい。


見慣れた会社の光景が、日が暮れているのも相まって、全く違うものに見えてくる。


「俺だけだからね? お願いだから、俺以外の男に、簡単に流されないで」


絢斗は切羽詰まった声で懇願してきた。


気づいたら、絢斗が心の中を侵食している。

自分の思いも蓄積して、取り除いてなかったことにするには難しいところまでやって来ている。


ソファーに押し倒されて、身動きが取れなかったときの感じと似ていた。

あれは、初めて絢斗が男だと身にしみて感じたときだった。

今はあのときよりも逃げることができる状況のはずなのに、どうしてか体が動く気がしなかった。



欲情できるなら、まどかと付き合うメリットがある。

絢斗がまどかを好きだというのはあり得ない。


そうであれば、やはり他に好きな人がいて、まどかはその代わりであると考えるのが、妥当に思えた。


「……好きな人いるんじゃないの? あたしにばっかり、構ってていいの?」


「えっ、俺が?」


「うん」


絢斗はひどく驚いた顔をする。

切なげな表情はあっという間に消えていった。


「俺、他に好きな人がいるなんて言った?」


「好きな人に好きになってもらえないんじゃなかった?」


「なるほど。それで好きな人がいると思ったわけね……」


絢斗は何となく納得がいったようである。

しかし、それ以上、まどかに説明する気はないようだった。


「もう疲れたし、帰ろうかな」


絢斗はまどかの頭をぽんぽんと撫でてから、振り向いて資料の束を手に取り、自席へと向かう。


「一緒に帰る?」


「……そうね。心配だから一緒に帰る」


「それはこっちのセリフだよ。酔ってるでしょ?」


「酔ってないよ。1杯しか飲んでないから」


答えながら、お酒くさかったかもしれないと、息の匂いが気になってくる。


まどかは平静を装いながら自席に戻り、開いたパソコンを急いで操作し、やりたかったことを最低限済ませ、絢斗の様子を窺う。


「もう帰れる?」


絢斗と目が合ってどきりとする。


「うん」と答えたら、絢斗は立ち上がる。


まどかも同じように立ち上がり、一緒に会社を後にした。


好きとも言われていないのに、唇が何度も触れるのを受け入れた。自分の気持ちが不透明で、ただ流されている。


いや、わざと曖昧にして、自分を守っているのだ。

本気になって、辛い思いをするのは自分だから。


「まどかってしっかりしてるのに、ちょっと抜けてるよね。チョロいっていうかさ」


いつもの軽薄さを取り戻した絢斗は、落ち込んだ素振りが見られない。


「……落ち込んでるフリしたの?」


「うーん……。っていうより、慰めてくれたから、元気になっただけ」


唸って考え込んだかと思えば、満面の笑みをまどかに見せてきた。


――何という歯の浮くような言葉だろう。


絢斗らしくもあって、ホッとする反面、まどかが受け止めていい言葉とも思えなくて、絢斗から目を逸らした。


「……別に大したことしてないよ」


「そう?」


暗闇の中、まどかは絢斗の手が触れないように意識しながら、絢斗と並んで歩いて帰った。

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