ⅩⅩⅣ.潔い決断①

約束通り、めぐみは律騎と一人暮らしのアパートへと帰った。


そのまま、それぞれの部屋へと別れ、寂しい思いをしていたが、片付けが終わった頃に、律騎がめぐみの家を訪ねてきた。


「しばらくあんまり会えないと思うから来た」


家の中に招き入れるのに、数秒躊躇した。


一度招き入れれば、帰すのに苦労すると分かっていた。

律騎が帰ると言い出さない可能性も考えなくはなかったが、一番はめぐみ自信が帰ってほしくなくなるだろう。


招き入れた律騎は何も持っておらず、思わず鍵は閉めたのか、確認してしまった。

ちなみに、鍵はパーカーのポケットに入っていた。


ラグに並んで座ると、律騎は、触りたくなったからとめぐみの髪に触れる。


髪をくるくると指に巻きつけるのを許し、ただただ寄り添っているだけ。


それだけでも、十分だった。

無駄な時間だと思わないから不思議だ。


「さっきまで何してたの?」


優しく低い声が、めぐみの鼓膜を震わせ、ぞくぞくさせる。


「卒論の追い込み」


「まだ終わらなさそ?」


「うん。もうちょっとかかりそう」


卒論が完成するまでは、ゆっくりと時間を取って会うことは難しいだろう。


脳裏をかすめた苦しい気持ちに、胸の奥が優しく締め付けられる。

今はこんなにも幸せに満ちているのに。


めぐみの意識は、すぐに律騎に持っていかれる。

髪にしか触れていないはずなのに、髪にも感覚があるかのように、くすぐったく感じる。


「りつは何してたの?」


「シャワー浴びてからごろごろしてた。それで、めぐのこと考えたら寝られなくなった」


真顔で言うから本気だとは分かるのだが、真っ直ぐに向けられると、照れてしまい、素直に真正面から受け止められない。


だから、目を逸らして、「そっか」と小さく返した。

それだけでも律騎は満足そうに隣で笑った。



それから10分から15分くらい談笑したところで、律騎は不意に立ち上がった。


「よし。そろそろ帰るか」


めぐみは律騎に遅れて立ち上がると、律騎がめぐみを一瞥してため息を吐く。


「そんな顔されると帰れなくなるだろ」


律騎の横顔には、言葉とは裏腹に嬉しさがにじんでいた。


律騎はするりとめぐみの頬を撫で、めぐみに背を向けて歩き出す。

赤く染まった頬に手の甲を当て、少し遅れて律騎の後ろをついていく。


どんな顔をしていたのか、想像がつく。


招き入れるときに考えた通りである。

めぐみの方が律騎から離れがたく思っている。



「――あ、ちょっと待って。忘れてた」


玄関までたどり着いた律騎がふと振り向いた。


首を傾げ、「何か忘れ物?」と部屋の奥へと戻ろうと、踵を返す。


それから間を置かず、2歩足を踏み出したところで、後ろからふわりと抱き締められた。


「わ、忘れ物じゃ、なかったの……?」


耳元で律騎が笑う気配がする。


「めぐのことだよ」


そう言えば、鍵もスマホもパーカーのポケットに入っていたのだった。忘れるようなものは持ち込んでいないはずだ。


律騎はめぐみの項に顔を埋めて、息を吸っている。

くすぐったくて身をよじるが、律騎に拘束されているので、身動きが取れない。

後ろから腰に巻き付いている腕は太く、強かった。


「充電完了」


あっという間に感じて物足りなかった。


顔だけ振り向いて、律騎の顔を見上げれば、片側の口角を上げて、「ホントはまだ足りねぇけど」と言った。


自分だけではなかったという嬉しさと、恥ずかしさが込み上げてきて、赤い顔を隠すように律騎の肩口に額をこつんとぶつけた。


律騎は「おっ」と小さな驚きの声を出して、フッと笑い、めぐみの後頭部に手を添えて、強く抱き締めた。



律騎を見送って独りになり、パソコンに向き合うが、何も手につかない。


今、会えたのは嬉しかったが、会わない方がよかったとも思ってしまう。

息苦しいくらいに心臓が締め付けられる。


触れれば触れるほど、もっと触れたくなる。

体いっぱいに律騎の感触が残っていて、いつまでも消えそうにない。


自分の手で自分をギュッと抱き締めた。



めぐみは、バイトのシフトまでの空き時間ができた陽生と、学食でソフトクリームを買って、テーブルについていた。

陽生はもちろんバニラで、めぐみは期間限定のさくらとバニラのミックスを選んでいた。


「――りつって勤務地はどこになるのかな? 希望とかあるのかな?」


怪訝な顔で見返してくる陽生には見覚えがあった。


「……何で俺に訊く? 本人に直接訊きな」


陽生はふいっと横に視線を逸らして、ぶっきらぼうに言った。


「はる〜! 訊けないからはるに訊いてるの」


「訊こうと思えば訊ける。頑張れ」


何度お願いしても同じような反応しか返ってこなさそうである。

分かっていた上で訊いたのだ。完全なる甘えだ。


「今後の話、全くしてないの?」


「……ほぼ?」


「何で疑問形なの」


今が幸せで、その幸せに浸っていたくて、律騎が話さないことをいいことに、卒業した後の話を遠ざけていた。


「想像がつかないんだよね。考えるのを先送りにしてるって言った方が正しいんだと思う」


「ちゃんと聞いてもいい立場になったんだから、ちゃんと訊きな」


以前は、私が訊くのはどうかと遠慮して、遠回りだが、陽生に訊いて情報を得ていた。

しかし、今は堂々と訊いても、疑問に思われ、理由を問われはしないだろう。


「……うん」


これでは、当初の問題が解決していないことに気づく。


唯衣の言葉から、大学卒業後に律騎との関係が希薄になることを考え始めたことから、全てのことは始まった。


付き合ったら当然のように律騎の傍にいられるけれど、就職して勤務地が異なれば、必然的に遠距離となる。物理的に傍にいることが難しくなる。


律騎と付き合うことになるきっかけの1つは、律騎が自分以外の人と結婚して子どもが生まれたとしたらと考えたことだ。そうなったとしたら、律騎には会えなくなるだろうし、会えたとしても妻子との接し方を考えたらもやもやとしたのだ。


何だかんだ考えて、一番は律騎の苦しむ姿を見たくなくて、直情的に付き合うことに決めたと言っていいかもしれないけれど。


とにかく、律騎の傍にいるために、他の誰かに嫉妬しないために、付き合ったというのに、結局、卒業したら離れてしまうなんて、幸せのピークを感じた今、辛すぎて、考えるのも嫌だった。

もし、将来的にどこでどんなことをしたいのか、聞いてしまったとき、その夢を目指す律騎の背中を、果たして押せるだろうか。傍にいてほしいからと引き留めてしまわないだろうか。


――嫌な彼女にはなりたくない。

わずかな理性が、何とかドロドロとした嫉妬や欲望を抑え込んでいる。



「――めぐの悪い癖だな」


「え?」


「りつのことになると、変なとこ考えすぎる」


むっとした顔をしたのは、言い得ているからだ。

陽生には何もかもお見通しで、それはそれでよくて、変わらない自分に苛立っていた。


「でも、りつのこと考えるってことは、めぐの将来のことも考えるってことだからな。向き合って、ちゃんと考えた方がいい」


卒業後の律騎との付き合い方を考えるには、お互いの進路について話し合うべきだと思い至る。


「もう俺はりつとの話の場なんて、提供しないから」


思い当たる節があり、苦笑したら、陽生はおかしそうにクックッと笑った。



「めぐちゃん、久しぶり〜!」


バイトに行くと、先に来ていた唯衣が駆け寄ってきた。


「お久しぶりです。唯衣さん」


歓喜を全身で表現してくれるから、めぐみも頬が緩む。


「無事、卒論から解放されました」


「お疲れ様」


唯衣と話す時間を作りたくて、早々と準備をした。

バックヤードでひとときの時間を過ごす。


「卒業までもうあと少しね。いつまでバイト入れるの?」


「なるべくギリギリまで働きますよ」


腕まくりをする仕草をして見せれば、唯衣はうふふと笑った。


「めぐちゃんは引っ越しの予定ないんだっけ?」


「はい」


めぐちゃん“は”というのに引っかかる。

その謎は、次の唯衣の言葉で解けた。


「りつくんはここに戻るか分からないから、一旦解約しようかなって言ってて、引っ越すなら準備大変だろうなって思ってたのよ」


そして、心がざわざわとし始めて、落ち着かなくなってきた。


そんな話、めぐみは聞いていなかった。

まさか唯衣から律騎の話を聞くとは思わなかった。



多分、この2週間ほどは、唯衣の方が長い時間律騎と過ごしていた可能生さえある。バイトのシフト時間とは言え、話す時間はたくさんあったはずだ。

無理やり会うのを控えていたのはめぐみ自身で、責めるとしたら自分自身しかいない。


陽生も知っていたのだろうか。

知らないのは自分だけだったとしたら、彼女として惨めすぎないだろうか。


もやもやはどんどん膨らみ、唯衣と視線を合わせて話すのは難しくなっていた。

異変を知られるのを避けるために、テーブルの上に置かれたチラシに視線を落とした。


会わない時間が減ったせいにしたくなって、それだけではないともう1人の自分が反論する。

話そうと思えば話せたことだ。



「――めぐちゃん」


気づけば顔を覗き込まれていて、唯衣に焦点が合ったところで、呼ばれたのだと理解した。


「就職しても顔出してね」


「はい。邪魔になるほど来るかも」


「じゃあ、邪魔って言うまで来てね」


唯衣の無邪気な笑顔が、ますますめぐみの傷をえぐった。

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