ⅩⅨ.理想と現実の狭間①

今夜、めぐみは律騎と陽生と3人で、鍋をする予定だった。場所は調理器具の揃っているめぐみの家でだ。


しかし、陽生が急遽来られないと言う。


変な気を回したのではと一瞬訝しんだが、実家で色々あったかららしかった。

深くは聞かなかったため、心配もあり、また後日詳しく訊こうとは考えている。



陽生が来られないと分かってすぐに、律騎はめぐみの家へとやって来た。


食材を買う必要があり、めぐみと律騎の住むアパート前に集合し、3人で買い出しに行く予定だった。そのため、待ち合わせ時刻直前だったが、めぐみも律騎も自宅にいたのである。


「――俺の家来るか?」


ドアが開くなり、律騎はそう言った。

脈絡がなくて、めぐみはぽかんとする。


「……え?」


口の形を作ってから、遅れて声が発された。


陽生も含めた3人での約束はなくなったのだ。しかも、元々はめぐみの家で集まる予定だった。

それが何故、律騎の家へめぐみが1人で行くことになるのだ。


「鍋のつもりだったろ? 食うものないんじゃね?」


「あぁ……そうだね」


「デリバリーでも頼むか」


だらしなく開いた口はキュッと閉じて、律騎を見返す。


そもそも意味もなく、律騎の家に行ってもいいはずだ。だって、彼女なのだから。


「……うん。そうしよっか」


めぐみが微笑むと、律騎は「そうと決まれば準備な」と言って、めぐみを急かす。


「え、ちょ、ちょっと待って。何か持っていった方がいいものある?」


「デリバリーなら特に必要ないか。スマホくらい? 必要なもの出てきたら、取りに戻れるもんな」


めぐみは部屋へと戻り、とりあえずスマホを掴み、念のため、現金が必要になったときに使えるよう財布もトートバッグに放り込んだ。


一応リップくらいはいるだろうか。

ハンドタオルも入れるか。


一通り必要そうなものを入れた後、部屋を見渡す。


「あ、何かつまめるものとか? あ、暇つぶしできるものもいる?」


独り言をぶつぶつと言いながら、部屋の中を歩くが、全く思いつかない。

律騎の家に行くと最初から決まっていたら、事前に念入りに考えて準備ができたというのに。


「マジでスマホだけでいいからね。食べるものは頼むんだし」


玄関から律騎の声が飛んでくる。


寒いのに、いつまでも外にいさせるわけにはいかない。

めぐみは一応コートを羽織って、置いたバッグを持ち直し、律騎の元へと急いだ。



律騎の後ろについていき、律騎の家の前に着くと、律騎はドアを開けた。鍵を取り出して開けた気配はない。


「鍵開けたままだったの? 不用心だよ」


「上から見てたから大丈夫」


「……いつもしてないよね?」


「ゴミ捨てのときはする」


「近いとは言え、危ないよ」


「そう?」


心配になる無頓着さだ。

頑固だから、どうせ言っても聞かないだろう。


それよりも、めぐみの気持ちはまだ、1人で律騎の家に上がる準備ができていなかった。


めぐみの家に律騎が突然訪ねてくることは最近もあったが、律騎の家に上がるのは久しぶりだ。


自分の家が近くにあるから、わざわざ行くことはないのだ。

陽生も含めて3人でなければ、上がらなくなっていた。



「寒いな。もっと温度上げるか」


部屋の中に入るや否や、律騎はエアコンのリモコンを手に取り、温度調整をする。ピッと電子音が響く。


律騎はマメだ。

彼女となると、連絡もよくあるし、今のように室温を気にして気遣いもしてくれる。


彼女扱いされればされるほど、めぐみは落ち着かなくなった。



律騎に続いて部屋に入ると、キッチンの隅に段ボールが2個ほど置かれていた。


「これ、全部コーラ?」


「さすがに全部じゃねぇな」


「開けてもいい?」


「あぁ」


許可を得たので、並んで置かれていた段ボールを2つを順番に開けたら、1つはコーラばかりで、もう1つはコーラが半分と、レトルトやお菓子が詰められていた。


「ほぼ全部じゃん」


めぐみがそう言えば、律騎はフッと笑った。



「何にする?」


律騎はテーブルの置かれたラグに座り、スマホを見始める。


「鍋食うつもりだったからなぁ」


めぐみはそんな律騎の横に座るのも気が引けて、躊躇していたら、律騎に手を引っ張られ、律騎の横にすとんと腰を下ろした。


「一緒に見ようぜ」


「……うん」


律騎は至って普段と変わらない態度で、めぐみのどきまぎさが際立つような気がして、余計落ち着かない。


同じ画面を見て、何がいいかを考える。

めぐみとしては、自炊できるものはお金をかけるのがもったいない気がしてしまう。


律騎はおそらくめぐみの食べたいものを聞くまで何も言う気はないのだろう。ただ画面をスクロールするだけだった。


「あ、お寿司は? コーラが合わないか」


「いや、コーラは何でも合うから」


「えぇ?」


「寿司にしよう。そうと決まれば、腹減ってきた。何にするかなぁ」


律騎は頼むネタを考え始める。


めぐみはコーラの方が気になってきた。


「コーラ、あんまり飲んだら体に悪いよ。1日に何本も飲んでないよね?」


「飲んでねぇよ。さすがに1日に1本までって決めてる」


「ホントに?」


「ホントホント」


「適当に返事して……」


律騎はねちねちと言われるのは嫌だろうが、律騎のことを思うとつい口を出してしまう。

本当に嫌だったら不服そうな顔をするはずだから、これくらいは大丈夫なのだろう。


今までの距離よりも近くなり、陽生に接する態度と近くなっている気がしている。


――やっかいだ。

今までは嫌われないように上手く接していたのに、努力が無駄になる。

幻滅されてしまうかもしれないと思うと、怖かった。


その反面、彼女らしいことをしなければ、案外平常心でいられると気づいた。

陽生と同じように友達として接すれば、きっと、ずっと傍にいられる。


それに、律騎は言っていた。

“友達みたいな感じっていいな”と。


無理に彼女になろうとすることは、求められていないのかもしれない。


めぐみは友達と彼女の狭間で揺れていた。



「もう外には出ねぇよな?」


デリバリーを頼み終わると、律騎がめぐみに問うた。


「そうだね」


「じゃ、乾杯するか」


悪戯を企む顔は、手招きをし、めぐみを冷蔵庫の前に誘う。

冷蔵庫の扉を開くと、アルコールの缶が並んでいた。


「めぐはどれがいい?」


「えっと……りつはコークハイ?」


めぐみが笑みを隠せずに訊けば、「またコーラかよって思ったろ?」と律騎は言う。


「思うよ」


「どれにする?」


並んでいる缶は、期間限定のものも多い。

めぐみのことを考えて買ってきてくれたと思うと、キュンとする。


「んっとね、レモンサワーがいい」


「おっけー」


めぐみのレモンサワーは、律騎が冷蔵庫から取り出して、めぐみの手の中へとやって来た。

冷たかったので、手のひらの上に置いて、もう片方の手で上から持ち上げるように持った。


戻ったら、先程と同じように隣に座ることになるのだろうか。

それなら、手を引かれるより前に、先に座ってしまおう。


律騎より先にラグへと座ると、律騎は当たり前のように隣に座った。


――間違えた。

律騎が座ってから、引っ張られる前に離れて座るのが正解だった。


隣に律騎の体温を感じながら過ごすのは、彼女と自覚させられて、心臓に悪い。

しかし、目線が合わないのは悪くなかった。視線をどこに向けるべきか悩むよりは、ずっと耐えられる状況だった。



とりあえず乾杯をして、陽生も含めた3人でする予定だったゲーム機を協力してセッティングすることになった。

これなら緊張もしないと、胸を撫で下ろす。


実際、ゲームを始めてしまえば、ゲームの中にのめり込んでいた。

勝敗はほぼ同率の、いい勝負だった。



お腹がすいた頃に、インターホンのチャイムが鳴った。

一時、ゲームを中断し、配達されたお寿司をテーブルに置いて、冷蔵庫から新しいアルコールを持ってきて、再び乾杯した。


「うまっ」


おいしそうにパクパクとお寿司を口に入れていく律騎を眺めながら、おいしいお寿司を食べるなんて、幸せだ。


ある程度食べ進めた頃、律騎は不意に立ち上がり、冷蔵庫の前へと向かう。


「りつ、ペース早くない?」


「今日は飲みたい気分なんだよ。めぐも飲む?」


「私はもういいかな」


律騎の後ろ姿は特に普段と変わらず、酔いは見えない。

めぐみは心配だけで、律騎に声をかけたわけではない。


――せっかく2人なのに。


付き合い始めてから、律騎はキスを迫ることはしなかった。

安心すると、ぐいぐいいかないタイプなのだろうか。


しかし、冷静でいられないので、迫られなくていいと思う。

飲みながら、気楽に話すのも居心地がよく、これでもいいかと思わなくもなかった。

相反する感情が葛藤を生んでいる。



律騎はめぐみの許可を取り、ゲームのスタート画面から、地上波のテレビ番組に変えた。


めぐみはちびちびと飲んでいたが、律騎が普通にテレビを観ていて、色々と考えてしまうくらいなら、帰ってしまおうかと思い始めていた。


「そろそろ帰ろうかな」


ぽつりと呟いた言葉は、律騎の耳にも届いたようで、律騎はめぐみの方へと顔を向けた。

緩慢な動作で、だいぶアルコールが回っていることが分かる。


何も言わずに、律騎はめぐみの目を見据える。


胸が騒いで落ち着かない。

律騎の目がとても寂しそうだったから。


帰ろうと言いつつ、律騎に引き留めてほしいという気持ちが、少しもなかったわけではない。

しかし、そんな顔をさせたかったのでもないし、そもそもそんな顔をするとは想像もつかなかった。


「……俺だけ?」


めぐみは息を呑んだ。


「まだ一緒にいたいって、めぐは思わない?」


律騎のバイト先である居酒屋を陽生と訪ねた帰り、律騎とともに帰宅した。


あのとき、律騎は“まだ一緒にいたいな”と言っていた。

それに、めぐみは何も返さなかった。


今もまた、めぐみは一緒にいたいと言うどころか、帰ろうとしている。

それは、律騎も寂しい顔になるだろう。


「そんなことないよ。でも、りつ、そんなふうに見えなくて……」


“でも”なんて、言うべきではなかった。

律騎の表情がより曇って、後悔した。


「蛙化現象って言うやつじゃねぇの?」


「え、そんなわけないじゃん。急にりつのこと嫌になるわけない」


何年も好きだったのだ。

簡単に覆るほどの柔な気持ちではない。


律騎は酔うと、感情の振り幅が大きくなる。

今は弱気になっているらしい。


「めぐはずっと俺のこと好きだったんだろ? だから俺の理想像みたいなの、あると思うんだよ。それから少しでも崩れたら、嫌いになる。そう思ったら、怖いんだ」


「り、りつが……?」


「俺はめぐのこと、どんどん好きになってるのに、めぐが離れるかもって、そりゃあ思うだろ」


「りつが……?」


「それしか言わねぇな」


口がぽかんと開いたまま、固まってしまう。


律騎が自分に嫌われたら怖いと思っている。

自分のことをどんどん好きになっている。


少し前までは考えられない言葉が、律騎の口からぽんぽんと飛び出して、気持ちがついていかない。



めぐみは膝立ちし、律騎に近づき、おずおずと背中に手を回す。

拒否されなくて、ホッとしながら、回す腕の力を強めた。


「りつのこと、ホントに好きなんだよ」


こうして律騎に触れるのは、初めてだ。

好きと口に出す照れよりも、弱気な律騎を励ましたかった。


「友達として過ごす時間が居心地がよくて、彼女として振る舞い切れないだけなの」


律騎の自宅で律騎と2人きりでいられるなんて、片思いのときから考えれば、夢みたいな時間だ。


律騎のだらりと下りた手が、めぐみの首筋に伸び、指が触れた。

くすぐったくて身をよじり、律騎の顔を少し上から見下ろす。


うなじをなぞる指先と、何よりその細められた目が色気に溢れていて、直視できない。


薄く開いた唇に目がいって、その唇が近づいてきて、唇が触れ合った。



唇が離れると、めぐみは体を離して、律騎の横にすとんと座った。


「……私の好きとりつの好きは違うから、キスしたくないのかと思ってた」


「なわけあるかよ」


「だって、付き合う前はあんなにしようとしてきたのに、付き合った途端、全然そんな素振り見せないじゃん……」


「めぐが言うか?」


「え?」


「めぐは俺と付き合いたいわけじゃなかったろ」


「それはまぁ、考えたことなかったというか、考えないようにしてたというか……。彼女になったら別じゃん。考えるよ」


どんどん頭が重くなり、顔を伏せる。


視界に律騎の手が入ってきたかと思うと、めぐみの手に重なった。 とくんと心臓が跳ねる。


「じゃ、キスしたいんだな?」


はっきりと訊かれると、恥ずかしくて返答に困る。


律騎は黙ってじっとめぐみを見つめている。

ふと律騎がフッと笑い、表情を和らげた。


「前もこんなやり取りしたな」


あのときも、同じように手を重ね合っていたっけ。


律騎への思いをさらけ出すことになったあのときを思い出す。


「酔ってるときにするのはよくなかったな」


キスは怒ってするものじゃないとか、ちゃんと覚えてないのが嫌だとか、あのときにめぐみが言った言葉を、律騎は覚えていたようだ。


「ごめん。これ以上はまた今度だな」


言葉とともに律騎の手はめぐみから離れ、テーブルの上のリモコンへと向かう。


逃がした魚は大きい。

律騎の唇を前にして後悔を噛み締めながら、律騎と2人で居続けるのか。


欲に耐える自信がない。

今でも視線は律騎の唇を追っている。


一度でもキスをしたら、もっともっと欲しくなる。

想像していた通りに、現実はなっていた。


「……今日はちゃんと覚えてるよ」


律騎はテレビからめぐみに視線を移す。


目を見開いた律騎と目が合った。

その瞬間、めぐみは体を乗り出して、律騎の驚きの声を呑み込むように、唇を奪った。

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