◆6◆触れ合う度に
手が触れただけなのに、どうしてこんなにも胸が締め付けられるように苦しいのだろう。
気づいたら、成海の触れた手を指でなぞっている。
手の感触と“千晴”と呼ぶ声が忘れられなかった。
このままでは、思い出してしまう。
あの頃の成海への熱量を。
給食を食べ終えた後の休憩時間、仕事があるからと、高塚先生はそそくさと保健室へと戻った。
その後、高塚先生に用事があり、保健室を訪ねる。
ノックしたが反応はなく、出掛けているようだった。
また時間を空けて訪ねようと、踵を返そうとしたとき、ふと人の気配を感じて、玄関の方を向く。
ゆっくりと歩いてくるのは、確かに先生の出で立ちなのだが、オーラが違う。がさつではなく、上品さを感じる歩き方だった。
「……何でここに……?」
驚きからしばらく立ち尽くしていたが、途中でハッとする。こんなところを見られたら騒ぎになると。
「千晴に会いにきた」
私の目の前で立ち止まると、そう言ってのけた。
「校舎の中まで来るなんて……」
不審者と間違えられるよ、なんて言おうとして、こんな有名人が間違えられるはずがないと言葉を呑み込んだ。
生徒の話し声がして、慌てて保健室の扉を開き、成海の手を引き、成海の体を保健室へと押し込んだ。自分の体も滑り込ませ、後ろ手で扉を閉めた。
保健室に鍵がかかっていなくてよかった。反面、つまり、高塚先生はすぐに戻ってくるということでもある。
部屋の奥へと進み、扉の近くから離れる。
成海は何も言わず、私についてきて、足を止めて振り向けば、成海は真正面に立っていた。
「仕事中でしょ?」
「今休憩中だから」
「それはそうだろうけど……」
今回のドラマはどうやら先生役らしい。
保健室にいる成海は、何だかドラマのセットにいるように見える。
「会ってどうするの?」
「もっと話したい。こないだは邪魔が入ったから」
成海の言う“邪魔”とは、計良さんのことだろう。
あのときは、手を握られてどうしたらいいのか分からないで困惑していたタイミングで、車の点検を終えた計良さんが車に乗り込んできた。
計良さんは、何も異常がなかったと報告してくれ、私の家の近くの大通りまで送ってくれた。
「別の機会に外で会ってくれるなら、今日は帰るけど、どうする?」
外で会えるはずがない。
成海と会っているのが周りに知られたらどうするのだ。
そもそも計良さんはマネージャーとして止めるだろう。会うなんて非現実的だ。
「ね、聞いてる?」
成海は屈んで私と目線を合わせてくる。
こないだは座っていたからあまり実感がわかなかったが、やはり背は知っている頃より伸びている。
「いつ会うか悩んでくれてる?」
大きくなったけれど、上目使いで聞いてくるのは変わらない。むしろ、経験を積んで、上手になっているのかもしれない。
成海は高校生の頃も甘え上手で、年上の店長や先輩に可愛がられていた。
だから、みんなから“なるくん”と呼ばれて、私もつられてそう呼んでいた。
今では、“くん”が付いていないことが多いが、そのあだ名も全国区になった。
ジリジリと成海の顔が近づいてきて、さすがに耐えられなくて顔を背けようとしたとき、保健室の扉が開けられた。
そこに現れたのは、目を大きく見開いた高塚先生だった。
「すみません、お邪魔してます。少しだけ待ってもらってもいいですか?」
「……あっ、はい」
高塚先生は髪を耳にかける仕草をする。
後ろに一つにまとめていて、かける髪などないのに、である。動揺が見てとれた。
「――もちろん秘密で」
成海は唇に人差し指を当てて付け加えた。
高塚先生は全力で深い頷きを数度繰り返した後、私に一瞬視線を向けてから、扉を閉めた。
「ちょっと! 高塚先生だったからいいものを……」
他の人だったら何と言い訳すればよかったのだ。
いや、高塚先生にも何て言おう。
……頭が痛くなってきた。
「仕事もあるし、職員室に戻るから。バレないように、早く現場に戻ってね」
成海に背を向け、扉に手をかける。
「まだ何も答えてもらってない」
成海の声がすぐ後ろから聞こえたと思うと、扉に伸ばした手に、上から成海の手が重なる。
ぎゅっと包むように掴まれ、振り向けるほどの距離が、成海との間にないことに気づく。
成海は反対の手で、器用に鍵をかけ、いつの間にか、成海によって後ろから抱き締められているかたちになった。
高校生のときは、こんなに大きな体ではなかった。
10代特有の細さはなく、厚みのある胸板に、包まれるような安心感を覚えて、焦ってしまう。
そして、香水かは分からないが、上品な香りが鼻腔をくすぐる。
必死に体を預けまいと踏ん張れば踏ん張るほど、くらくらするような気がした。
「また話したいだけなんだ。ほとんど話せないままで終わりたくなかった」
耳元に吐息がかかるほどの近さで、囁くように言われたら、誰でもドキドキするに違いない。不可抗力だ。
「……今まで連絡してこなかったのに、会った途端に、今さらそんなこと言われても、信じられない」
触れていたのは片方の手だけだったのに、自然にもう片方も掴まれていた。
「会った瞬間、運命だと思ったんだ。あのときみたいに、後悔したくなかった」
もし、今、成海を受け入れてしまえば、後悔するかもしれない。でも、受け入れなくても、後悔するかもしれない。
私には正解が分からなかった。
だって、成海を前にして、正常な判断ができるはずがなかった。 成海が触れる度に、理性を壊してしまうから――。
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