35 『雷神』宅
シュコオオオオ、と何かが噴射されるような音が耳障りで、タケルは目を覚ました。
だが、目が開かない。生温かい湿気を多量に含む空気が重苦しくて、地の底へ沈んでいく不思議な感覚に
最近はあまり見なくなっていた小学校の頃の夢を見てしまい、身体はぐったりと疲れ切っている。きっとそのせいだろう。頭も重く、さっきまで何をしていたんだっけと考えたいのに、ちっとも正常に働いてくれない。
あの夢を見た後は、大抵記憶が混同した。過去から目を背けるなと深層心理が言っているのか、それともただ恐怖の記憶としてフラッシュバックしているのか。
過去から自分を切り離すことはできず、救い出された後になっても、こうやって時折自分の愚かさをまざまざと見せつけられる。きつかった。
誰か、いる。
気付いた途端、タケルは急激に覚醒していった。瞼を薄ら開けると、どうやら自分は布団の上に寝かされているらしいと分かる。胸元に目線を落とすと、革のボンテージ服が見えた。
思い出す。そうか、ヒバリの格好のまま気を失ったのだと。美少女なせいで誰かに変なことをされてないかとついヒヤリとしたが、考えてみなくとも自分は男だ。やたらと身体が重いが、これは別に何かをされたせいではないと願いたかった。
ギシ、と背後の床が音を立てる。横向きで背中を向けている体勢で、得体の知れないものが近付いてくる恐怖に、背中がぞくぞくした。
ゆっくりと手の指を動かす。緩慢な動きではあったが、ちゃんと動く。毛布の下でグーバーしていると、段々と怠さが消えていくのが分かった。
こうしてはいられない。思い切って反対側を向こうとした、その時。タケルの視界が翳った。
「身体……大丈夫?」
タケルを真上から見下ろしているのは、先程ヤクザのビルから出てきた男――『雷神』だった。
「……お前っ!」
タケルは一気に身体を起こす。途端酷い目眩に襲われ、思わず肘を突いてしまった。タケルの横に膝を突いた『雷神』が、タケルの背中を支える。
「ああ、無理しないで」
「あ……?」
こいつはなにを気安くヒバリの身体に触ってやがるんだ。
タケルは思い切り『雷神』を睨みつけた。自分の身体ではあるが、ヒバリはヒバリだ。美少女ヒバリは、容易く触れていい存在ではない。
「触るなっ!」
タケルは肘で雷神の手を振り払うと、急ぎ『雷神』から距離を置き、構えを取った。喧嘩なんてろくにしたこともないが、ヴィラン連合本部でさわりだけは教えてもらっている。『雷神』相手に何とかなるとも思えなかったが、闘志は見せておくに限る。
すると、雷神の視線がタケルの下半身に注がれていることに気付いた。頬を桃色に染め、何か言いたそうにもごもごしている。気味が悪い。
「……何だよ!」
「あ、あの、網タイツ破いちゃったみたいだね。その、ごめん」
「網タイツう?」
タケルが足許に視線を落とすと、確かに黒の網タイツが豪快に破れている。溶けたのか、ただ切れたような感じの破れ方ではない。破けた間から、メンズエステで磨きに磨かれたすべすべのスラッとした白い肌が覗いていた。勿論ムダ毛なんて生えてはいない、綺麗な足だ。
再度『雷神』を見る。顔が赤い。成程、とタケルは理解した。ヒバリの美しい足に、『雷神』は釘付けになっているのだ。男だとも知らずに。
気色悪さに、ゾワ、と全身に鳥肌が立った。
「……見るなよ」
「あ、ごめん」
思ったよりも素直に謝られ、タケルの調子が狂う。『雷神』は傲慢で我儘で、父を振り回し疲労困憊にさせ、父の葬儀にも顔を見せなかった恩知らずの薄情者だ。そんな奴が謝るなど、おかしい。
だが、とタケルは考える。しつこいようだが、ヒバリは覆面をしていても美少女だ。つまり、『雷神』には下心があるのではないか。優しいフリをし、美少女ヒバリを懐柔し、あわよくばなどと考えているのでは。
再びゾッとした。だが、向こうがこちらに興味を示しているなら、これはチャンスかもしれない。ヒバリとして好意を見せたら、この男の本性も探りやすいのでは。そこまで考え、すぐに諦めた。
――無理だ。虫唾が走る。
いくら復讐の為とはいえ、美人局のようなことはできない。それにそんなことをしたら、協力すると約束してくれた日村と原田に申し開きができない。
そうとなれば、真っ向から対峙する他はなかった。警戒しつつ、自分がいる場所を確認する。二十畳はあるだろうか。今タケルが乗っているシンプルなパイプベッドは、ダブルなのか、タケルの家の物より大分幅広い。
タケルの背後には、大きな窓ガラスあるか、壁一面にモスグリーンのカーテンがぶら下がっている。部屋の端には背の低い棚が並び、その上に何台もの加湿器が白い煙を噴き出していた。これのせいで、空気が重く感じたのか。この量は、明らかに異常だ。
部屋の奥には、対面式のキッチンに銀色の大きな冷蔵庫。その奥に廊下があり、風呂とトイレと玄関らしきドアが見える。ひとり暮らし用のワンルーム、かなり広め、というところだろう。
「……ここはどこ」
「俺のうち」
タケルが膝を付けると、ようやく『雷神』の視線がタケルの顔に戻ってきた。そして思ったよりも素直に答える『雷神』に、タケルの調子は更に狂う。
「何で『雷神』のうちに僕が連れて来られなきゃなんないんだよ」
「気絶したのを放っておけないでしょ」
「気絶させたのはお前だろうが!」
カチンときて思わず立ち上がり、『雷神』を上から睨みつけた。『雷神』は膝を付いたまま、柔和に目を緩ませる。
「うん、ごめんね」
タケルの頭が、クラクラした。やばい、こいつは会話にならない。話が噛み合わないにもほどがある。しかも人を気絶させてお持ち帰りしたのに、何故笑うのか。思わずヒヤリとして、すぐさま逃げ出したくなった。
と同時に、腕時計の存在を思い出す。そうだ、タケルが突然消えてしまったので、日村たちは心配している筈だ。時計を人差し指でタップする。黒いままだ。いやおかしい、文字盤がそもそも見えていない。もう一度タップするが、やはり何も反応しない。
『雷神』がぼんやりとタケルを見上げている中、タケルは脇目も振らずに人差し指で叩き続けた。
すると、『雷神』が事もなげに言ったのだ。
「あ、それ壊しちゃったみたい。ボン! て音したから」
「……おい!」
「うん、ごめんね」
へら、と笑う『雷神』に、タケルは言いようのない恐怖を覚えずにはいられなかった。
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