あじふらい

――すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。

 (ヨハネによる福音書八章 三十四節)


 雷鳴の轟く中、ひたすら駆ける。背後から男の怒号が雷に負けじと響き渡る。パンプスが脱げ、暴風雨が置き去りにした木の枝が足に刺さる。そのまま転倒し、あとは乱暴な手が届くのを怯え待つのみとなった。


 同棲する前は、暴力も暴言もない誠実な男であった。少し笑いは少なかったが、彼の真面目すぎる性格ゆえだと思っていた。

 同じ屋根の下に暮らすようになり、男は豹変した。私の帰りが遅れる度に、強い言葉でなじり問い詰める。暴言だけでなく暴力を振るわれるようになっても、お互いがいないと両名とも生きていけないと思っていが、母親の形見のアクセサリーをお前には似合わないからの一言で処分され、私の中で何かが切れた。

 激情に任せ反論し、別れを切り出して、今殺されかけている。


 何度も男の靴が脇腹や背中にめり込み、激しく咳き込む。男の手が私の髪の毛を鷲掴みにし、反対の手に握られた鈍い光が私の髪を切り裂く。切り離されたそれが暴風雨に舞い、空になった手がまた私を捕らえようとしたその時、風が運んだ何かが男の肩に激突し、男がうめき声を上げた。

 男の手から離れた包丁がアスファルトの上を滑る。それは先程とはうってかわって、ギラギラギラギラと輝きながら私を誘惑しているように見えた。

 もう痛みも感じなかった。必死でその光に這いより立ち上がる。

 暴力で従えられた、男の生活のための奴隷より、自ら選んだ罪に生きる方が遥かにましだ。私は必死になって得物を掴み、男を見据える。髪が顔中に張り付き、涙と汗と雨が混じった液体が首筋を伝う。


 自らの声とは思えない獣のような絶叫が響き、両手を振りかぶるが、目的は果たせなかった。いつの間にか現れた赤色灯が雨を彩り、硬い何かに打たれる慣れた痛みと共に、包丁は再びアスファルトに落ち、黒色のブーツに蹴飛ばされ何処かへ消えていった。

「あともう少しだったのに!」

 羽交い締めに拘束されながら叫び、我に返る。男に目をやれば、三人がかりでアスファルトに組み伏せられ、なおも抵抗を続けていた。

 あともう少しで、私はあの男以上の罪人になるところだったのだ。そう気付いてしまえば、強張った体は力を失い、立つことも困難になる。拘束していたつもりが私の体重を支える羽目になった警察官に向かって震える声で告げる。


「私も、あの男も、全てを……全て……正しく罰していただけますか」




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あじふらい @ajifu-katsuotataki

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