MとK

ほほ しず

第1話 雪の記憶


降り出した雨が、車の窓に引っ掻き傷のような痕を残し始めた。


今日は雨が降る日だったのか


ケイは、高速を走る車の運転席から空を見上げた。折りたたみ傘はいつもバッグに入っている。えむと出かける予定でもない限り、前もって天気を確認したりしない。いつも外に出て初めて、その日の暑さや寒さに気がつく始末だった。

 

今日の雨は激しくなるのかと、改めて外に目をやって、空がそれほど暗くないことにケイは驚いた。空は白飛びした写真のようにべたっと陰影がなく中途半端な明るさで、まるで上映が終わったばかりのスクリーンのようだった。奥行きを感じさせるものといえば、端のほうに浮かんでいる、不機嫌そうな小さな雲だけだ。


そんなことを考えていると、口からふと冷気が入り込んできて、無意識に唇が動いた。夏が始まろうとしている今の季節に感じる冷たさではない。

これは雪の記憶だと、ケイはすぐに気がついた。


あれはえむと旅行に行ったときのことだ。早朝、コテージでまだ眠っているえむをおいて、湖のほとりに残っていた雪の塊を取りに行った。周りは少し明るくなってきていたが空は曇天で、人影もなく残雪までの道はひとりだった。ゆるい上り坂を歩いていると少し息があがり、それまで頬をこすっていた冷たい空気が喉から入ってきて、肺を冷やすのを感じた。


そのときの自分は、えむに雪を持ち帰る高揚感より、どちらかというと沈んだ気分を連れていたのを思い出す。雪をあげようと思ったのだって、前日見つけた雪の輝きが、えむの顔をパッと明るくしてくれるんじゃないかと考えたからだった。

 

結果、起きてきたえむに渡したときには雪はそのきらめきを失っていて、期待したほど彼の頬を照らしはしなかった。建物の軒か雲に遮られて、陽光が雪に届いていなかったのかもしれない。雪はそれ自体では光らないのだ。魔法がとけたように、雪はただの冷たい氷になっていた。

えむは、寒くなかったかとしきりにケイのことを気にしたが、ケイが雪を取りに行ったことについてそれ以上何も聞いてこなかったし、ケイも何も話さなかった。旅行から帰ってきた後も、あの日の朝について語り合ったことはない。

 

どうしようもなくなった時の彼の吐息だって知っているのに、自分達が確かめ合っていないことは、まだたくさんある。昨晩どれだけ彼に触れたとしても、あの朝欲しかったものはまだ手に入らないままだ。彼にあげたかったものではなく、自分が欲しかったなにか。

 

ケイは急に、Uターンしてそのまま家に帰りたくなった。仕事のために出てきているのだから、もちろんそんなことは叶うはずはない。向こうに着いたら電話をしよう。あの朝に比べたら今日という日はずいぶん穏やかで、自分たちの心を大きくざわつかせるものは特にない。焦らなくてもいいのだ。

 

ガタン、と車が揺れた。


高速を降りたせいで高いビルが空を塞いだが、ケイはそのことには気づかず、家に残してきたえむのことだけを考えていた。

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