第16楽章 楽しくない。

「部活やめたいです」

トロンボーンの安藤あんどう美琴みことは、クラリネットの日下くさか沙月さつきに押し出されるように神楽坂かぐらざかの前に出ると、おずおずとそうげた。二人は同じ中学の吹奏楽部出身のため、仲が良く、違うパート同士だがよく一緒にいるのを見かける。

「そうか、わかった」神楽坂が言って退部届たいぶとどけを渡そうとする。あわてて沙月さつきさえぎった。「ちょっと! 神楽坂先生、少しは引き止めるとかしないの?」

「本人がめたいと言っているのを、僕が止める権利はないでしょう。それとも、止めてほしいの?」

「もう! わざわざ来たのはそのためでしょう? 聞いてよ。美琴みことったら、部活やめたいって言うの」

もうそれはさっき聞いたが、と神楽坂は苦笑する。社交的で友人の多い沙月、もの静かで一人でいることの多い美琴。全く正反対の二人だが、楽器の腕前は二人ともなかなかのもので、次期パートリーダーを任せたいなと神楽坂は思っていた。もちろん、このタイミングでやめてほしいとは思っていない。実際、やめてしまう生徒は相談もなく急にやめていくものだ。

「なんかあった?」

神楽坂の問いに、美琴は言葉を選びながら話し始める。

「最近、部活やってても前みたいに楽しいって感じがなくて。そろそろ受験のことも気になってきたから、もう部活やめてもいいかなって気持ちにもなってきたんです」

「部活引退いんたいしてから勉強頑張ればいいじゃん。吹奏楽の強い大学入って、また一緒にやりたいねって話してたのに」

「勉強はね。それぞれのペースってものがあるから、強制はできないよ。同じことを一度聞いただけでわかる人もいれば、何度か繰り返して覚える人もいる。一つのことでも、表面的に覚えるだけで満足する人もいれば、もっと深く知りたいと思う人もいる。もし勉強に時間を使いたいからという理由だったら、僕は止められないなぁ」

2人が行きたいと言っている大学がどこかは知らないが、二人とも、学校の成績はいい。神楽坂には、勉強よりも楽しくないということが本当の理由のように思えた。

「部活、楽しくない?」

沙月さつきは寂しそうに美琴みことにたずねる。

あこがれてた清流せいりゅうに入って、最初は楽しかったの。けど、時々、なんでこんな苦しい思いして音楽やってるのかなって、思うようになってしまって。それに気づいたら、なんか部活行くのもしんどいというか、足が重くなってしまって」

「安藤さんは、なぜ苦しいって感じるようになったのかな」

「毎日、毎日、同じ練習の繰り返し。うまく吹かなきゃ、足を引っ張らないようにしなきゃって緊張感ばかりで。音程、リズム、音量、コンクールのことばっかりで」

「それは中学の時も同じだったじゃない」

「……」美琴は黙り込んでしまった。

「安藤さんは、音楽が好きか?」

「はい」

「トロンボーンは好きか?」

「はい」

「二人は東中学出身だったね。東中学と言えば、尾山おやま先生だ。尾山先生は音楽を楽しくする天才だからね。毎日同じ曲の練習を繰り返しても、それさえも毎日新鮮に楽しめるような指導をされる先生だよ。僕はね、音楽って人間の感情と共にあると思っている。音楽をやっていて感情が動かなくなってしまったのなら、いったんやめた方がいいのかもしれない」

「先生!」

「けどね、安藤さんにトロンボーンや音楽が好きって気持ちが残っているなら、その気持ちをまず大事にしてほしいな。僕もコンクールのためだけの練習には反対だ。

音程やリズムだけで音楽はできているんじゃない。尾山先生ほどではないけれど、もっと音楽の本質はなにかを考える作り方をしたいと思っているから、もし興味があったらもう少しやってみないか? それでもやっぱりやめたいというなら止めないし、また相談にも乗るよ」

沙月が不安げな顔で美琴の顔色をうかがっていた。


♪今日のワーク――――――――――――――♪

音楽が好き、楽器が好き、そんな気持ちで始めたのに最近楽しんでいないなぁって人はいないかな?なぜ楽しめていないんだろう?

楽器を続ける、音楽を続けるのはやっぱり「好き」だからだと思うんだよね。

自分の好きな気持ちを一番大事にしよう!

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