第2章  疑惑(フォーカス・オブ・サスピション)

「――万象は一者の観照によって一者に由って起こり来たれるのであるから、万象は一つのものから適応によって生じたのである―― (トート・ヘルメス) 」

                           


        Act.1


 

 ――さあ、坊やたち、目覚めなさい――


 最初の目覚めは、その果実を食べたからではなかったろうか。


 それまでの「彼ら」には、自我というものがなかった。そこはただ、真っ暗でじめじめとしていて、澱んだ空気と腐敗臭、そして光のない世界。

 そこから生まれた「彼ら」は、ただ生存本能の赴くままに飢餓感を満たそうとして、滋養を欲し、あたりに蠢くものを次々と屠っては、自身の臓腑の中へと嚙み砕いて送り込んだ。その中には、同じ群れから孵化した仲間の死骸すらあった。

 もともと「彼ら」に仲間意識などない。

 ただ、蠢いて、食って、増える。蠢いて、食って、増える。蠢いて、食って、増える……。それだけの存在に過ぎなかった。

 回りの食い物が無くなれば、また死骸を食って、そうして強い個体が生き残り、更に蠢いて、食って、増える。蠢いて、食って、増える。生き永らえる。


 そうして、彼らにその段階が訪れた時、祝福があったのだ。


 ――いとしい坊やたち。これは私からの贈り物――


 バビロンは天空の彼方から、憎悪と欲望の滋養に満ちたワインを傾ける。

 彼女の手にした冒涜のクリスタルの縁から、腐肉を発酵させたかの様な美酒がぽとりと零れると、それは薄汚れたアスファルトの上で、どす黒い「林檎」の姿へと変わり、そのまま都会の裏通りの下水溝の中へと転がり落ちて、奈落の闇へと流れ込む。


 大淫婦の唇が、声のない言葉で、このような語句を口ずさむ。


 ――産めよ、増えよ、地に満ちよ。

 あらゆる地の獣、あらゆる空の鳥、あらゆる地を這うもの、あらゆる海の魚はあなたがたを恐れ、おののき、あなたがたの手に委ねられる。命のある動き回るものはすべて、あなたがたの食物となる――


 彼女の言葉に呼応して、奈落の底から、原初の歓声が響き渡る。


「Cogito, ergo sum(我思う、故に我あり)」


 バビロンが笑う。

 それまで、「彼ら」は地上が怖かった。

 原初の恐怖が伴い、それを本能的に忌避して来た。だからこそ、これまでを生き延びて来れた。何故ならば、地上にはそれがいる。ただ、蠢いて、食って、増えるだけの「彼ら」では、太刀打ちできない世界コロニーがあるからだ。

 だが、「彼ら」はバビロンより祝福としてそれを得た。


 贈り物の名前は、Forbidden fruit(禁断の果実)。

 かつて楽園という場所で人類の始祖であるイヴが、蛇に唆されて食したもの。

 「彼ら」はそれが、自分たちに与えられた「聖餅」である事に気が付いたのである。


 ――息子マイサンよ、今宵はあなたの兄弟ブラザーらの誕生を、祝福してあげてね――

 

 バビロンが笑う

 都会の地の底に横たわる深淵の彼方で、軍団レギオンを封じた扉の開く音がした。



 東京・渋谷区宇多川町。

 午後4時37分。

 誘導灯を構えた警備員が佇む、工事中と描かれた虎模様の衝立の向こうで、ヘルメットを被った数人の作業員が困惑の表情を浮かべている。

「……橋詰さん、ナベさんと内山が、まだ戻って来ないんですが……」

「作業撤収は4時半までにって伝えてあったよな」

「はい、そうなんすけど……」

 橋詰と呼ばれた現場監督は、チッと舌打ちをしながら、蓋の開かれた、目の前のマンホールを忌々しげに見つめている。

「内山がどん臭せえのはわかってたけど、ナベさんも何やってんだよ。庄司、お前ちょっと付いて来い」

「ええー、俺、今日これから用事あるんすけど」

「うるせえなあ。文句があるならこいつらに言えよ。ホラ、迎えに行くぞ」

 露骨な表情を刻む若い作業員を叱咤しなから、橋詰はマンホール側壁に設けられた梯子を下りて、暗い地下暗渠の底へと降り立った。

 ヘルメットに取り付けられているランプをONにする。

 橋詰は都下水道局の下請け建築会社の社員で、この日は宇多川町にある渋谷川の暗渠の保守点検作業に訪れていた。ところが終了時間になっても2人の作業員が戻って来ないのである。今年の夏に中途採用をした内山という社員の仕事の覚えが悪いので、ベテランの渡辺という社員と組ませて、じっくり業務のイロハを教えてくれと頼んだのがまずかったのかも知れない。

(ナベちゃんもアレだよな。そこまで親身になんなくても、給料分働いてりゃいいんだよ……)

 泥と黴の匂いの入り混じった暗渠へと繋がる作業坑に降り立つ。

「んだもう……、勘弁して欲しいっすよねぇ」

 右手に作業用の配管が走る坑道の背後から、内山の愚痴が聞こえて来る。しばらくすると、眼前の空間に拡がりが生じ、2人は渋谷川の暗渠へと辿り着いた。

「おーい、いつまでグズグスしてんだよ!今日はもう終いだ!続きは明日にしようぜ!」

 両手をメガホン代わりに声を張り上げるが、ヘッドランプの光輪に照らされた坑道の中からは何の返答もない。チッと舌打ちをして橋詰は暗渠へと降り立った。グチャ、と長靴を通して汚泥の感触が足裏に伝わる。内山が彼の後に続いた。

「何ですかねぇ、あいつバカだから、勘違いして奥行っちゃったんじゃ?」

「ナベさん付いてて、そりゃねえとは思うんだけどな」

 2人の作業員は、天井から水滴のしたたる暗渠の中を、奥へと進み始める。

「事故が起きる場所じゃないと思うんだが」

 もしそうだとすりゃ、労災手続きが面倒だなと橋詰が思ったその刹那。

「あれ……!」

 内山の指差したそこには、奇妙なものが蟠っていた。

 どす黒い汚泥の上に捨て置かれたそれは、何と例えればよいシロモノなのだろうか。 端的に述べてしまえば「人肉と擦り切れた作業着と砕けたヘルメットでこしらえたつくね」とでも形容するべきなのだろうか。

「おぇっ」

 内山が思わず後ろを向いて、胃の中のものを吐き出した。

 それを合図に。

 呪われた暗渠の中に、奇妙な音が谺し始めたのだ。


 きゅー、きゅー、

 きゅー、きゅー、きゅー、きゅー、

 きゅー、きゅー、きゅー


 背後の水面から、ばしゃん、と水音が響く。捕食者マン・イータたちの晩餐が始まった。



「……で、これがその戦利品って事?」

 Goとロゴの打たれたポリ袋を取り上げながらベッドの上に腰掛けた美悠は、バイト先から仕入れたからあげパック特大をむしゃむしゃと頬張りながら、目の前の陽太に向かってそう言った。

「すごいじゃんヨータ!いいバイト見つけて偉いぞ、褒めて遣わす!」

 かくいう陽太の方と言えば、ガラステーブルの上に置かれた車のリモコンスイッチと、よく判らない雰囲気のプリペイドカード、そして現金が包まれているらしい封筒を見据えながら、どうにもしょぼくれた顔色である。

「なに冴えない顔してんの?」

 ぴょこんとベッドから飛び降りた美悠は陽太の傍らに座ると、両の眼を大きく開いて微笑み掛けた。

「細かい事どーでもいいじゃん。その社長さん車に乗っけて、浅草から赤羽まで往復しただけでポーンとキャッシュで20万円?それわたしのひと月分の給料より多いー、すっげー羨ましい。わたしがヨータんとこの事務所で働きたい!」

「お前免許ないじゃん」

 はあ、と大きな溜息を付きながら、陽太はペットボトルのコーラをひと口啜った。

(あれ、一体何だったんだよ?)


 3日前の晩、アルバイト面接に訪れた浅草地下街、そのまた地下にあるオフィス。その事務所の社長室に詰めていた羯磨と呼ばれる青年の命じるままに、社用車らしいベントレーを走らせて、北区のA水門に向かったのは確かだ。

 そこの河川敷では、確かに映画の撮影らしき、大掛かりなエキストラ達が集められていたのも間違いない。

 だが、そこからが微妙におかしい。派手なアクションシーンが始まるかと思っていたら、警官隊のエキストラが見守る中、羯磨だけが真っ暗な河川敷へと向かって行って、特殊効果のが一発鳴ったと思ったら、突然川面が光って水柱が上がり、その中に悶える「ドラゴン」の姿が垣間見えたのである。

 それから五分もしないうちに、羯磨は戻って来た。そして刑事役やスワットの扮装をしたらと軽く二言三言。

 すると見事な手際と連携で、撮影隊とエキストラ達は車両に乗り込み撤収してしまい、刑事役のもパトカー風ので引き上げてしまった。

 呆気に取られてその様子を眺めていると、後部ドアを開いて羯磨が乗車して来たのである。

「浅草に戻る」

 そう告げたきり、謎のオフィスの社長は座席に凭れ込むように深く座ると、目を閉じてしまった。どうやら眠ってしまったらしい。

(何これ、一体どうなってるの?)

 詳しい事情が聞きたくとも、寝てしまった雇い主を起こして事情を聞くのも憚られる。陽太は黙ってベントレーを走らせ、寝静まった夜の雷門前まで車を走らせた。

 人気の失せた路上では、あの金髪の秘書、ケイト・アンダーソンが2人の帰りを待ち受けていた。夜中だというのに、まだ彼女はサングラスを外していない。

「お疲れ様でした」

 後部座席の扉を開くと、羯磨は静かに目を開いて車を降りる。その足元が心持ちふらついているのを陽太は見逃さなかった。

「お気持ちは察しますが、ここ数日を浴び過ぎです。もうお休みになられて下さい」

 ケイトに支えられてベントレーから離れる時、羯磨は運転席の陽太を振り返り

「隅野くんだったか。今日は済まなかった」と、ひと言声を掛けた。

 それは、少しアクセントのおかしな、人工音声のような声であったが、不思議と彼の胸を騒がせたのである。

「隅野くん、今日はお疲れ様。初日からとんだ事になっちゃったけど、気を悪くしないてね。今日のボーナスはすこし乗せてあるから。業務内容はまた後から説明時間を設けるから。これ本日分。あと、車の方なんだけど、今日はあなたの住まいの近くのコインパーキングにでも入れて置いて。また改めて連絡入れるから」

 それと、と、秘書役の金髪美人は付け加えた。

「……今晩見たものを他人に話すのは原則禁止。お給料にはその分も含まれているという事を承知しておいてね。まあ固く止める気もないんだけど、へんにクビ突っ込んだり嗅ぎ回ろうとしたら即解雇ね。それに喋ったところで、誰も信用しないと思うから……」


 そんな流れで現在に至ってしまったという感じである。

 あの晩のA水門の出来事は一体何だったのか。

 いま冴えた頭で考えれば、映画の撮影にしてはおかしなところが多すぎる。ではあそこで実際に事件があったのかというと、ネットやテレビのニュースを調べても、何も取り上げられていない。僅かにSNSで「水門近くにパトカー何台もいる。何かあったみたいけど……」と誰かが投稿していたに過ぎない。まるで夢を見ているかのようだが、目の前には、当日の賃金として受け取った現金の封筒と、ベントレーのリモコンキー。別れ際に秘書のケイトが告げたセリフも妙に引っ掛かる。全てがモヤモヤしたままなので取り合えず浅草まで向かってはみたが、地下道入口で気後れをしてしまい、そのまま新仲見世のGoで買い物をして帰ってきたところを美悠に見つかったという次第となる。


「そんなに深く考える事ないんじゃないの?世の中そんなじゃ渡っていけないよ」

 袋から出したパーカーやキュロットを広げて、美悠が屈託なく笑う。

「いやだって変だろ。おかし過ぎるよ。車の運転した先に警官隊みたいのがいたり、川から龍みたいのが上がったり、それでいてニュースにもなってないとか、大金握らせて来るとか」

「だからハリウッドの秘密プロジェクトなんじゃないの?その川から出て来た龍も、水柱をスクリーンにした立体投影のSFXとかかもよ?」

 聞く耳持ちませんとばかりに、美悠は着ていたトレーナーを脱ぎ捨てて戦利品の試着を開始する。

「じゃーん、似合ってる?」

「そういやお前、髪型ポニーテールから変えたよな。どういう風の吹き回し?」

「えー、単なる気分転換なんだけど、変かな?」

「いや、前髪のくるくるカール、その服と合ってるよ」

 心ここにあらずという感じで陽太が返答すると、美悠はベッドから降りて、目じりの垂れた愛らしい顔を近づけて来た。

「ホラ、美悠ちゃんが喜んでるぞ、元気出せ」

「牙みたいの見えたんだよなあ。あの社長……」

「え、何の話?」

「あん時は映画の扮装かと思ったんだけど、今考えるとやっぱり変だよ。受付の婆さんも、あの金髪ねえちゃんも地下なのにサングラス掛けてるし、社長と来たら更に変で、電気ない真っ暗な部屋にいるし、夜にならないと出て来ないとかさあ」

 さしもの美悠も眉を顰めて陽太の顔を見据えた。

「え、どういう事?詳しく聞かせてくれる?」


 浅草地下街。午後1時36分。

 薄暗く雑多なイメージの地下道の一角にある易占所。

 テーブルを挟んで2人の人物が向かい合っている。

 八卦盤上に、ころりと投げられた賽の目を見て、サングラスの老婆が呟く。

「ありゃまあ、こら大変だ。羯磨さんも暫く忙しそうだね」

 対面に腰掛けて盤を眺めていた金髪サングラスの女性が頷く。

「やはり?所詮はというのが癪だけど」

「ようは、バイ菌が増えているちゅう事さね。環境の変化というヤツよ」

 サングラスの老婆はひひひと笑って、

「この街はある意味『実験室のシャーレ』よ。シャーレの中におとなしい微生物が何種類か共存していたとする。そこにちょこっとだけ、食欲の旺盛なヤツが発生したらどうなるかという事じゃ。昔はまあ食われ放題じゃったんだろうが、そのうち弱い方の連中も、試行錯誤の末に防衛手段を持つようになった。いつから人間の身体の中には『白血球』というヤツがおる様になったんじゃろうなあ」

「そうやって、江戸幕府は300年続いた……」

「まあそんでも、もっとでかい方のシャーレの方に変化が出ちまえば、やはりそれすら呑まれるもんだね。外からの意志が干渉して、結局この国は」

が舵取りを始めて、二回の大戦に巻き込まれた、でしょ?そういった意味で、今の政治家はまったくわかってないと『あの人』も言ってた」

「カネやコネで何とかなる問題ではないんじゃけどな、この街の事は。まあヒトの営みちゅうのは昔からそういうもんで。それは儂らの範疇から外れるからの」

 老婆はひひひと笑った。

「ヒトの身体は宇宙というじゃろ、大天使アークエンジェル?そこに外からバイ菌が入って来たとして、身体を護る『白血球』が、その役目の事をいちいち考えておるかの?」

「いちいち納得いくのも癪に障るわ」

「まあ、あんたらも大変な『街』に来ちまったって事よ。おや、出掛けるのか?」

 席を立ったケイトに向かって淑華が声を掛ける。

「人食いのバカ女のせいであの人が無理をしすぎなの。責任を感じてると思う。今回もお願い出来る?

「おやまあ、『縁』と『力』とは難儀なもんじゃのう。そいでもまだわしゃ気楽でいいわ。流石にあと5年もすれば、みんなほん投げてポックリ逝けそうだからの。ああ、行くならをして来な。あので、あんたにも受難の相出とるから」

「あら、ひょっとしてわたし、また『殺される』の?あれ、あんまり気分よくないんだけど」

 ケイトが皮肉な笑みを唇に浮かべる。

「やって来るのはあたしの『厄』だよ。旦那の治療の『対価』として取り替えといた。結構しんどいぞ、おそらく紫幇シーパン絡みだ」

 ヒュウ、とケイトは口笛を吹いた。

「わかりました。おいくらでもどうぞ」

 そう言い放つと、ケイトはサイドボートを開き、そこに収まっていた数丁の拳銃から、より一層大型のものを取り上げてスライドを引き、第一弾を薬室に装填する。

 ベレッタM93R・マシンピストル。

 イタリア・ベレッタ社が、凶悪化・重武装化するテロリストや誘拐犯に対抗するため、拳銃サイズでありながら高い制圧力を兼ね備えた銃が必要となり、そうした背景から、この93Rが開発された。米軍にM9として正式採用されたベレッタ 92自動拳銃をベースとしてロングバレル化・ロングマガジン化され、セミオート(単射)・3点バースト(3点射)が切り替え可能なモデルとなっている。フォールディングストックを装着する事で短機関銃の代用として使用する事も可能である。

 使用弾薬は9x19mmパラベラム、標準マガジンの装弾数は20発。彼女はマガジンを外して腰のポーチに収めると、初弾だけを装填した物騒なシロモノを左脇のホルスターへ、無造作に放り込む。

「何だね?拡張弾ホローポイント徹甲弾アーマピシアングの混合装填か。あああ、こりゃまたおっそろしい。相手をする連中も大儀だわな」

「私は『あの人』みたいに、バビロンとは契約してませんから」

「まあ、また職質されんよう気をつけてな。悪党は幾らぶち殺しても自分らの『カルマ』だが、他人を巻き込めば、そっちをしょい込んで苦しむぞ」

「了解しました」


 宇多川町の路上。

 「点検工事中」の衝立とパイロンが並べられたマンホールを囲んで、3台のパトカーが停車している。

「新見です。また『例の案件』です。作業員4名が暗渠内で行方不明。うち一人はで発見されました。先の現場から1キロ移動してますね。はい、はい、はい。あの食人鬼グールとは別の様子です。手口が全然違いますから。はい、はい、はい。上野の博物館の件に関してはケイトさんにデーター送っときましたんで。はい、しかし、一体どうなってるんです。最近、この手の事案の件数が増え過ぎじゃないですか……?はあ、はあ、え……?時流?世界情勢?どういう意味ですか?はあ、宜しくお願いします……」

 スマホをオフにした新見は、遠くに見える渋谷スクランブルスクエアの偉容を見据えながら、吐き出すように呟いた。

「まったく、世の中どうなっちまってるんだ……」






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