第3話(2)

 一条が美嶋のことを知ったのは人生初の教師として始業式に参加した日――私立栄理都高校の新任教師となった日から数日後のことだ。

 美嶋は一条が副担任として配属された一年生クラスの生徒の一人だった。

 当時の美嶋は登校して荷物を机に置くとすぐに姿を消し、放課後になると人知れず教室に戻って来て、そのまま誰とも会話をすることなく下校するという行動を繰り返しており、一条は自身が受け持つクラスの生徒でありながら未だ姿を目にしたことさえなかった。


「ああ、美嶋さんね。あの子は気にしなくていいわ。いないものとして扱ってちょうだい」


 栄理都高校の職員室。

 一条の受け持つクラスの担任である先輩教師が自家製弁当を口にしながら、あたかも冗談話をするかのような口調で一条に説明した。


「美嶋さんをいないものとして……?どうしてですか?」

「もう勉強をする気がないからよ」


 先輩教師は口元に手を当てて、一条に耳を近づけるよう促す。

 一条は彼女の促すとおりにし、話の続きに耳を傾けた。


「あの子の両親ってすごいエリートなの。美嶋病院って知ってるでしょう。あの大病院の。あの子の父親はそこの院長よ。母親も弁護だって」

「すごいですね。ということは、美嶋さんはお嬢様ということですか?」

「そうそう。自宅もタワマンの最上階だそうよ。でも、そんな裕福な暮らしをしてる分、両親からの期待はすごかったみたいなんだけど……あの子ったら、不運なことにね……」


 先輩教師はもったいぶるように話を引き延ばし、手元の弁当のおかずを口に頬張り始める。


「そんなところでもったいぶらないで、教えてくださいよ」

「ごめんごめん。話を戻すけど、実は美嶋さんって双子だったのよ。あの子は姉らしいわ。それでね、あの子は勉強の才能をぜーんぶ持ってかれちゃったのよ、妹さんに」


 そう言うと、先輩教師はハッと思い出したかのように声を上げると、机の引き出しから数枚のプリントを取り出す。

 くしゃくしゃにされた跡が残る定期テストの解答用紙だ。

 解答欄はほぼすべて埋まっているがその九割に不正解を意味するチェックがつけられており、結果大半のテストが赤点ギリギリか赤単未満の点数だった。

 それらの解答用紙の名前の記入欄には美嶋優と書かれていた。


「これはあの子が入学してすぐの中間テストの解答用紙」

「え?どういうことですか?中間テストなんてまだやっていないはずですが……」

「言い忘れていたけど、あの子は二回留年しているのよ。これは二年前――あの子が入学した年に行った中間テストのものよ」

 「美嶋さんって、二回も留年してるんですか!?」


 一条の声が職員室中に響き渡り、二人はその場にいた生徒や教師たちから注目を浴びてしまう。


「ちょっと、声大きすぎ!」

「ごめんなさい……」


 一条は注目する教師たちに深々と頭を下げる。

 その後、美嶋のものだという解答用紙に視線を向けた。


 「酷い点数でしょう。もともと勉強ができる子じゃなかったらしいんだけど、本当に勉強をする才能がなかったのね。このテストがきっかけであの子は両親に完全に愛想尽かされちゃって、最後には授業すら出なくなった。学校もあの子のケアをしようとしたけど無理だったわ」


 そう語ると、先輩教師はまるで冗談を言う時のように笑い混じりにこう続けた。


 「そういうわけだから、あの子のことは気にしなくていいわ。もういないようなものだから」

「……は、はあ」


 一条は作り笑いを浮かべて話を合わせた。

 しかし、その作り笑いは酷く不細工だった。

 

(……もう勉強する気がない?なら、どうして毎日学校に来るのよ?)


 *


「美嶋、お前の荷物を持ってきたぞ」


 保健室。

 美嶋は保健室に備え付けられた長椅子の上で体操座りをして、身体を縮こまらせていた。


「……」


 美嶋は目筋を刃物のようにさせながら、こよりと鹿路の方に視線を送る。

 こよりは美嶋の刃物のような視線に肩をビクリと跳び上がらせた。


「あれ?先生は?」

「……さっきどこかに行った」

「ああ、オッケイ。荷物はここに置いておくぞ」


 鹿路は長机に持ってきた荷物を置く。

 ちょうどその時、次の授業の予鈴が鳴り始めた。


「あ、やっべえ。悪いけど、アタシ次も授業なんだ。また学校来た時に今日のこと話そうな。気をつけて帰れよ!あと、一。授業遅れるなよ!」


 そう言って、鹿路は慌てた様子で保健室から飛び出していった。

 保健室にはこよりと美嶋だけが残され、部屋はしんと静まり返る。

 空気が張り詰めているかのようなビリッとした空気が、気まずさをより引き立たせていた。


「……何か用?」


 美嶋の声は氷のように冷たく、鉛のように重い。


「用という程ではないのだけど。ただ、美嶋さんのことが心配だったから」

「……心配?」


 美嶋の目付きをさらに鋭くして、こよりを睨みつける。


「心配なんてして、これっぽっちもしてないだろう?心の中では、僕のこと笑ってるんだろう?」

「そんなことないわ!私はあなたのことが本当に心配で――」

「嘘だ!そんな言葉、信じるもんか!お前もあいつらも、パパもママも、みんな僕のことを馬鹿にするんだ!」


 美嶋は嗚咽を混じらせながら、保健室に響くほどの大声で叫んだ。

 その瞬間、こよりの身体の奥底で電撃が走った。

 自分が何者なのかということ忘れてしまう程の魂を揺さぶる強い衝撃と衝動だった。


「違うわ!」


 気が付けばこよりは叫んでいた。


「私はあなたを馬鹿になんて絶対にしない!私は知ってるわ。あなたがどれだけ両親から失望されても勉強だけ――自分を認めてもらう最後の方法だけは手放さず一人で戦っていたこと。私がいなくなってからも、一人で勉強に向き合って頑張り続けてたこと……」

「え?ええ……?」


 こよりは歪んだ視界の中で一歩一歩前へと進み、美嶋の身体を優しく抱きしめる。

 制服に隠れてしまっている彼女の身体は見た目以上に痩せ細っていた。


「優。私はどんな時も優の味方よ。世界中の人たちが優の敵になっても私だけは何があっても……ずっと優の味方よ……」


 美嶋は目を丸くしながら、その場で固まっている。

 こよりの言葉が理解できず、震えた唇で何度も「え?ええ?」と呟く。

 

「先生……?」


 美嶋の喉の奥から絞り出されたのは、聞き取るのもやっとなくらいにか細い声だった。


「これは、違――」


 こよりはハッと我に返り、慌てて美嶋から素早く離れる。

 しかし、慌て過ぎた。


「あっ!?」


 長椅子から立ち上がろうとした瞬間、足がもつれ、身体がぐわんと揺れる。

 バランスを崩したこよりの身体はそのまま重力に引っ張られて、床へと引き寄せられていく。


「危ない!」


 一瞬遅れて、美嶋が身体を前に乗り出した。

 次の瞬間、反射的に「ぶつかる」と判断したこよりは目を閉じてしまっていた。

 ドスンという衝撃が身体に走った。


(あれ、痛くない……)


 転倒の衝撃は、こよりが思っているものよりもはるかに軽いものだった。

 こよりは頭に疑問符を浮かべながら、恐る恐る目蓋を持ち上げる。


「――っ!?」


 目を開けてすぐに飛び込んできたのは至近距離まで近づいた美嶋の顔だった。

 こよりが転倒する直前、美嶋がこよりを庇ったのだ。

 その結果、こよりはまるで美嶋に押し倒されたかのような状態になっていた。


「大丈夫?怪我はしてない?」

「……は、はい」


 二人はそう短くやり取りをすると、その場で固まってしまう。

 お互いの呼吸が感じられるほどの距離で、羞恥と高揚の入り混じった感情に身体を蝕まれながら、二人は相手の瞳を覗き込んでいる。

 ドッ、ドッ、ドッ……という力強い鼓動がこよりの身体の内側で反響していた。


「……」


 沈黙の中で見つめ合い、数秒。

 美嶋の顔がまるで吸い寄せられるようにゆっくりとこよりの顔に近付いてくる。

 美嶋が浮かべる表情は恋する乙女のそれだった。

 まるで刃のような鋭利な棘を持つ蔓の隙間からチラリと姿を見せる一輪のバラのような純粋さと蠱惑的な色香あやうさが混じり合う。


「美嶋さん、待っ――」


 刹那、こよりの口を美嶋の口が塞ぐ。

 想い人の唇を溶かすように、貪るように。

 静まり返った保健室に湿った音を響かせて、何度も唇を押付ける。


 こよりは必死に抵抗したつもりだった。

 しかし、こよりよりも頭一つ分ほど背丈の高い美嶋の力は予想以上に強かった。

 身体はキスの快楽で次第に力を失い、最後には抵抗しようとする意識さえ消えてしまった。


「……」


 美嶋がそっと唇を離すと、混ざり合った二人の唾液がお互いを引き留めるかのように唇の間で糸を引く。


「美嶋さん、どうして……?」

「分かんない。僕だって分かんないよ」


 美嶋の瞳は小刻みに揺れ動いている。

 しかし、彼女の視線はいまだこよりの瞳から逸らせずにいる。


「お前が先生にすごく似てるから……お前は先生じゃないのに……お前を見てると先生が生き返ったみたいで……」


 抱いてしまった感情に対する困惑と想い人への裏切りに対する自責の念が美嶋の顔をクシャクシャにする。

 こよりは頭の回らないぼーっとした状態で、美嶋の苦悩する様を眺めていた。


(……もし、もしの話よ)


 真っ白キャンパスのような頭の中に真っ黒い文字が浮かび上がる。


(今ここで自分の正体を明かせば、また前のような関係に戻れるのでは?優と同じ高校生の今の私なら、誰に邪魔されることなく優の隣に居続けることができるのでは?)


 胸の内側でこよりの口角がつり上がっていく。


「美嶋さん……」


 こよりは今にも泣き出してしまいそうな美嶋の頬にそっと手を添える。


「ごめんなさい。私がその先生という人に似ていても、その人の代わりを私がすることはできないわ」

「そんなことくらい分かってるよ」

「美嶋さんは私のことが好きなの?」

「……好きって気持ちは多分あると思う。でも、それは先生に似てるからでお前のことが好きかは分かんない」

「じゃあ、私とどうなりたい?」

「……分かんない。でも、恋人にはなりたくない。だって、僕には先生がいるから」

「分かったわ」


 こよりは一呼吸置きながら、心の中で自分の頬をパチンと叩く。


「なら、そういう関係になりましょう」

「え……?」


 美嶋は思いもよらぬこよりからの提案に美嶋は目を丸くする。

 すると、こよりはニコリと不敵な笑みを浮かべてみせた。

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