花束だったかもしれない
地下から抜ける階段の先に空が顔を覗かせる。枯葉をとうに落としてしまった木々が、ただぶらぶらと、手持無沙汰な枝を風任せに振るのが目に入った。その背後に広がる目映い青に目を細めながら、私は比較的急な階段をゆっくりと上がってゆく。目の冴えるような冷たい風の吹き抜けるこの季節を、私は嫌いになれない。
雑踏の騒がしさと裏路地の静けさを抜け、騒々しくて暖かい車内でうつらうつらとしているうちにも、電車は私を目指していた駅へと運んでゆく。時折車窓に映る風景は、いつかとはすこしずつ姿形を変えている、気がした。本当に変わっていたかは分からない。記憶とはいつも不確かで、些細なことで変わってしまうものだから、もしかすると何も変わっていないのかも。まあ、私の目にそう映ったのなら、真実はどうだっていい。私のいない間に、景色が私を置いていったということにしておく。
すこしばかり古ぼけたこと以外にはあまり変わらない、よく見慣れた光景のもとで大きな伸びをする。改札の先に構えられたアーケードをくぐる折、肉屋の匂いに負けてコロッケを買ってしまった。百円に満たない幸せを左手に歩くうち、昼間だというのにシャッターを閉め切った店がまた増えているのに気が付く。気が付いたとてどうしようもないのだからそれ以上は何も考えない。何を隠そう、私もこの街をとうに離れた身だ。私のような人がたくさんいればそりゃあ少しずつ錆び付くのは道理なので、物寂しいとは思ってもその感傷に浸れるだけの資格は持ち合わせていない。手が入らなければ鉄は錆びるし、風が吹けば瓦は飛ぶし、道草は今日も風に揺れている。
門をくぐり抜けた先のバス停で、見慣れた青いバスに飛び乗る。先程見た街とは裏腹に、バスの中には最新の電子掲示板が積まれていたりする。それでもアナウンスだったりはそう変わらないから、私はいつもと同じ心地でまた車窓を眺めている。春にはまだ早いこの季節の弱々しい陽の光を受けながらぼんやりとする時間が、私は好きだ。相変わらずよく揺れる車体は土手を越え山に差し掛かり、あれよという間に目的地へと辿り着いた。私は運転手に右手を挙げたりなんかして、軽やかに地上へと着地した。
花が蕾を付けているのを他所目に、私は街を一望できる場所へと歩き続ける。道中、あ、忘れ物をしたな、と思ったが、まあいいか、とも思った。花なんてなくても、彼は足を運んだだけで許してくれるだろう。なんてしている間に、私は周りに比べてすこしばかり質素な墓石の前にたどり着いた。
今日は風が強いので、焼香をあげるのにやや手間取った。ざわつく木々が私を歓迎していない気さえした。既に私はよそものだから良い気はしないよなぁ、とも思う。思うが、悼むぐらいは素直にさせてくれよ、と心の中でぼやいたりもした。
手を合わせたあとふと、隣の墓に添えられた綺麗な花の束に目が行った。野草も生えていなくて、石も綺麗に掃除されていて、その人はきっと今も愛されているんだな、と思う。
「貴方はいいよね」私はそっと呟く。
「貴方には私がいるもの。でも、私にはだーれもいない」
そんなことを言っても仕方がないな、と溜息をついて、私は立ち上がった。言ったって仕方がないけれど、誰もいない今しかこんな話はできない。ひょっとしたら彼が聞いていて、助けてくれるかもしれないし。……おとぎ話は好きじゃないけれど、縋りたい日だってたまにはあるのだ。大人というのは息苦しい。頼れる人やものがなければ、特に。私は素直ではないので、殊更?
バス停で次のバスを待つ間に、隣のベンチに白い蝶が止まった。その姿を眺めていたが、すぐにまだ咲かない桜のほうへと飛んで去っていった。やがて私を迎えに来たバスの車窓の外を眺めながら、次は花束を持ってこようと思った。春にはまだ遠い、ある二月の日のことである。
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