第3章 近づく足音

第1話 回る歯車

 何か、柔らかいものを枕にしながら寝ている気がする。少し弾力があって、高さもちょうどいい。けれど、頭を包む心地よさとは反対に、首から下は不快だった。服がれて、ぴったり張りついているのが分かる。

 

「先輩。藍果先輩、起きてください」

 

 たった数時間ぶりのはずなのに、その声がひどくなつかしく聞こえた。ゆっくり目を開ければ、私を見下ろしていたアヤとバッチリ目が合う。アヤは、なかなか目を覚まさない私を地面に寝かせ、膝枕までしていてくれたらしい。

 

「ア、アヤちゃん! 大丈夫だった!? 元に戻れたのっ!?」

「いだっ!」

 

 がばっとね起きた拍子ひょうしに私のひたいとアヤのアゴがぶつかった。当たった場所がじんじんと熱を持って痛む。

 

「うー……そうやって急にバッと動くところが先輩の悪いところですよ……」

「ご、ごめん、アヤちゃん」

「今のアゴの痛みによると、この世界は現実です」

「そ、そうだね」

「ほら、見てください。いつも通りの手足ですし、蛍光灯も刺さってません。傷も綺麗になくなりました」


 そう言って、アヤはシャツのすそをちらりとめくった。何の傷もない、つるりとした薄い腹だ。それを見て、私はやっと肩の力を抜くことができた。


「ごめんね、アヤちゃん……私たちの問題に巻き込んで。痛い思いも、つらい思いも、たくさんさせちゃった……」


 私はアヤの膝から体を起こし、深々と頭を下げた。今回のことは、アヤにはまったく無関係だった。旧五年一組の中で起きた、美命の事件が全ての発端ほったんだ。私たちと一緒にいたせいで、大変な目にわせてしまった。

 落ち込む私とは対照的に、アヤの反応はあっさりしたものだった。


「元に戻れたんですから何でもいいです。説明も弁解もりません。どうせややこしい事情があったんでしょう?」

「え……でも」

「先輩は、私のことだって助けてくれたじゃないですか。それで十分ですよ」

「アヤちゃん……」


 淡々たんたんとした様子ながらも、そんなことを言ってくれるアヤに胸がいっぱいになって、私はかわいい後輩にひしと抱きついた。


「アーヤーちゃぁん……! よかった、よかったよぉ、ほんとにごめんねぇ……っ!」

「うわ、やめてください気持ち悪いです」

「えっ」

「服が。お互いべしょべしょなんですから、くっついたりなんかしたら不快指数が二倍になります」


 そう言われて、やっと周りの状況が気になり始めた。ザァザァと岩を打つ水の音。上から下までびしょ濡れの全身。破けてしまったはずの服は元に戻っている。前にも後ろにも太い木がたくさん生えていて、ほとんど手つかずといった様子だった。


「えっと、ここは……」

滝壺たきつぼの水辺だ。そこに小さな看板があるだろう。ねがいやま——ほら、前に〈ヤドリ蔦〉とやり合った洞穴ほらあながある場所だ」


 弓丸はびしょれになった水干のそでを絞りながら、まだ疲れがにじむ声でそう言った。その後ろには、確かに大きな滝壺たきつぼがある。サイズ感は学校のプールの半分くらいだろうか。よく澄んだ水の表面がゆらゆらと波打っていて、薄曇うすぐもりの日の光を鏡のように反射していた。


「私たち、目を覚ました時にはこの水辺に浮かんでいましたの。一気に数十人も通れる鏡なんてなかなかないですから、この水面が出口の代わりになったんだと思いますわ。〈子グモ〉に姿を変えられていた人は全員戻って来られたみたいですわね」

「しか、るばさ……」

「何にせよ、おつかれ様でした、藍果さん」


 そう言って、而葉さんは何事もなかったかのようにニッコリと笑ってみせた。見た人を問答無用で引き込んでしまうような甘い笑顔——しかし、あの暗闇で首筋に触れた、柔らかな薄衣うすぎぬの感触がよみがえる。思い出しただけで、腕にザワっと鳥肌が立った。


「なにか?」

「う、ううん、なんでも……」


 今でも、半分くらいは夢を見ていたような気持ちだ。

 彼女こそが、すべての禍者かじゃべるまがひめだった。〈化生のモノ〉を人間に与え、特別な力を授ける。彼女は、そうすることで不幸せな人間を救ってあげているのだと言っていた。

 そして、弓丸のことを信じるな、とも。


「あの……他の人たちは?」


 気になることはたくさんあるが、一旦はあと回しだ。〈子グモ〉に姿を変えられていた人は全員戻って来た——ということは、戻って来られなかった人たちもいた、ということになる。〈ドクロ蜘蛛〉の禍者かじゃにして美命の母親、桜那さくらな律乃りつの。そして、彼女に喰われてしまった先生たち。それから……。

 

 クラスメイトのうち、何人が戻って来られたのだろう。何かヒントになるものがないかと思って周囲を見渡すと、弓丸が「あ」と声を上げた。


「どしたの、ゆみま……」

「おはよぉ藍りぃん。いつまでも起きないから、死んだかと思ってたのにぃ」

 

 人が二人は隠れられるくらいに大きな木の陰から、髪を二つに結んで胸の前に垂らしている女子——京塚きょうづか杏音あんねが現れた。


 もちろん、その体にもう蜘蛛の脚はない。編み上げリボンがあしらわれたフェミニンなスカートから、白く細い脚が伸びている。

 

「さっきはごめんね? ねらったつもりはなかったし、悪気はなかったんだぁ」


 杏音は私に向かって両手を合わせ、薄いまゆをハの字にしてそう言った。さっき、とは〈階段室〉でのことだろう。別に謝ってほしいと思っていたわけではないのだけれど、杏音のことだ、あまり貸し借りを作りたくなかったのかもしれない。


「大丈夫。気にしてないよ」

「ほんとぉ? よかったぁ! 私たち、みんなで同じ変な夢を見てたみたいだよねぇ。最初は混乱してたけど、呪いって本当にあったのかも。こわーい」

「呪い?」

「うん。分かるでしょ? 美命の呪い」

 

 杏音を始め、他の元クラスメイトは今回のことを〈美命の呪い〉として処理することにしたらしい。禍者だとか化生のモノだとか、本当の事情を全て説明するのは大変だし、ちゃんと話を信じてくれるかも分からない。下手にこれ以上恐怖心をかき立ててしまうのも考えものだし、とりあえずはそういうことにしておくのがきっと得策だ。それは分かっていたけれど、私にはどうしても聞かなければいけないことがあった。


「あの……何人が帰ってこれたのか、知ってる?」

「知らなーい。あたしが起きた時には、十五人くらいいたけどぉ。でも、からみ少なかった人とかは全然分かんなかったよぉ」

「……そっか。ありがと、教えてくれて」


 確かに杏音の言う通りだ。杏音が目を覚ます前に先に帰った人がいたかもしれないし、六年も月日が経っていれば一目で誰と分からない人だっているだろう。その一人一人を全て追うことは、多分不可能に近い。もしかしたら、而葉さんに聞けば分かるのかもしれない。でも……。


「それにしてもさ、みんなつれないよな。せめてレアルが起きるまでは待っててくれたらよかったのに」

「……んっふふー。あのね、みんなレアと顔を合わせたくないって言って帰っちゃったの。昔はあんなにチヤホヤされてたのに、かわいそぉ」


 杏音は、グーにした手で口元を隠しながら、稀瑠に向かって虫でも見るような視線を向けた。稀瑠は一瞬驚いたように目を見開き、杏音につかみかかろうとしたが、すんでのところでその手を下ろす。口をつぐんだ稀瑠を楽しそうに見下ろして、杏音は言葉を続けた。

 

「あっそうだ、みんなからの伝言。今回のことは全部あんたのせいなんだから、もうあたしたちには金輪際関わらないでよね。美命の呪いがうつるからぁ」

「……分かった。全部レアルが悪かったよ。アンたちの好きにすればいい」

 

 稀瑠は、拍子抜けするほどあっさりと杏音の言い分を聞き入れた。自分は悪くない、とあの〈保健室〉で叫んでいた姿からは想像もつかないくらいに素直だった。対照的に、モヤモヤとしたほこりのようなものが私の中で身を寄せあって、少しずつ大きくなっていく。

 

 全部あんたのせい。

 呪いがうつる。

 

 それは——そういう言い方は。

 まるで昔のレアルと同じだ。

 

「ま、待ってよ杏音。それは違うと」

「藍りぃん。悪いことは言わないから、この機会にあんたもレアとのくされ縁は切りな。それとも、まだレアのパシリとかやるつもりなわけぇ? そういうのはもう卒業した方がいいと思うけどぉ」

「だから、悪いのはレアルだけじゃなくて」

「もしそうしないんなら、あんたとも今後は関わらない。いーい? 忠告はしたよぉ」


 杏音はそれ以上会話するつもりはない、といった様子で私たちに背を向け、あっという間に遠ざかってしまった。生ぬるい風が木々の間をすり抜けて、濡れた服をよそよそしくでていく。少しの沈黙の後、稀瑠がためらいがちに口を開いた。


「なぁ、サガミン。これから先も、さっきみたいにあたしの側で怒ったり、泣いたり、ぶちぶち文句言ったりしてくれるんだよな?」

「えっ、と、うん。できれば普通に過ごしてたいけど……」

 

 正直、今回こうして一緒に過ごしてみるまでは、稀瑠のことは好きではなかった。美命にひどいことをして、みんなに悪いことをさせて、他人の痛みを分かろうともしない、とんでもない人間なんだと思っていた。けれど、稀瑠には彼女自身を守るための強固なよろいがあって、その中に弱さを隠したまま、他人とぶつかり続けていたのだと知った。知ってしまったからには、もう前と同じには戻れない。

 だからそう、つまりは——。


「私は、稀瑠れあるの友だちでいたいと思ってるよ」

「……あっそ。なら、別にあたしはアンたちにハブられたって大丈夫だよ。なぁ、まっつんもそう思うだろ?」

「ノーコメント。という、便利な言葉がこの世の中にはありますわね」

「あのう、話し込んでるところ申し訳ないんですが。早く帰って、このびしょ濡れの服を着替えた方がよくないですか?」


 而葉しかるばさんはどちらともつかない返事をして、新しいニックネームごと綺麗さっぱりスルーした。アヤもアヤで、いつもの調子をすでに取り戻している。アヤは美命の件を聞いていないわけだから、そっけないのは当たり前かもしれないが。


「時間を決めて待ち合わせて、積もる話は甘味処あずさで続ければいいでしょう。結局お金も払えてませんし、どういうことになってるか確かめにいかないと。特に私と而葉さんは、おそらく食い逃げ状態です」

「それは……確かにまずいね」

「私も樫野かしのさんの意見に賛成ですわ。あのお茶屋さんを出禁になったら残念ですもの」


 木々の間を抜け、滝を回り込んで洞穴ほらあなの方に出る。ここから先は道が固められているから、実は意外と歩きやすいのだ。今日は雨も降っていないからなおさらだった。

 

「お茶屋さんてあれか? 弥永やながのおばちゃんのところか?」

「そうだよ。もしよかったら稀瑠も……」


 そう言いながら稀瑠のことを振り返ってみて、私はピタリと足を止めた。

 猛烈もうれつな違和感。おかしいのは、稀瑠……の後ろ、その背景だ。


「どうしたんだ? そんな、キジが米粒を投げつけられたみたいな顔して……」

 

 弓丸の質問にも答えられずに、ただゆっくりと視線の先——あの洞穴を指さす。同じものを見たアヤが、歯切れ悪くつぶやいた。


「……藍果先輩。今度の校内新聞のコラムは、オカルト特集にします?」


 がらにもない冗談。その語尾はわずかに震えている。

 〈ヤドリづた〉との戦いで、跡形もなく崩れてしまったはずの洞穴ほらあなが——どういうわけか、寸分すんぶんたがわず元通りになっていた。

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