第3章 近づく足音
第1話 回る歯車
何か、柔らかいものを枕にしながら寝ている気がする。少し弾力があって、高さもちょうどいい。けれど、頭を包む心地よさとは反対に、首から下は不快だった。服が
「先輩。藍果先輩、起きてください」
たった数時間ぶりのはずなのに、その声がひどく
「ア、アヤちゃん! 大丈夫だった!? 元に戻れたのっ!?」
「いだっ!」
がばっと
「うー……そうやって急にバッと動くところが先輩の悪いところですよ……」
「ご、ごめん、アヤちゃん」
「今のアゴの痛みによると、この世界は現実です」
「そ、そうだね」
「ほら、見てください。いつも通りの手足ですし、蛍光灯も刺さってません。傷も綺麗になくなりました」
そう言って、アヤはシャツの
「ごめんね、アヤちゃん……私たちの問題に巻き込んで。痛い思いも、つらい思いも、たくさんさせちゃった……」
私はアヤの膝から体を起こし、深々と頭を下げた。今回のことは、アヤにはまったく無関係だった。旧五年一組の中で起きた、美命の事件が全ての
落ち込む私とは対照的に、アヤの反応はあっさりしたものだった。
「元に戻れたんですから何でもいいです。説明も弁解も
「え……でも」
「先輩は、私のことだって助けてくれたじゃないですか。それで十分ですよ」
「アヤちゃん……」
「アーヤーちゃぁん……! よかった、よかったよぉ、ほんとにごめんねぇ……っ!」
「うわ、やめてください気持ち悪いです」
「えっ」
「服が。お互いべしょべしょなんですから、くっついたりなんかしたら不快指数が二倍になります」
そう言われて、やっと周りの状況が気になり始めた。ザァザァと岩を打つ水の音。上から下までびしょ濡れの全身。破けてしまったはずの服は元に戻っている。前にも後ろにも太い木がたくさん生えていて、ほとんど手つかずといった様子だった。
「えっと、ここは……」
「
弓丸はびしょ
「私たち、目を覚ました時にはこの水辺に浮かんでいましたの。一気に数十人も通れる鏡なんてなかなかないですから、この水面が出口の代わりになったんだと思いますわ。〈子グモ〉に姿を変えられていた人は全員戻って来られたみたいですわね」
「しか、るばさ……」
「何にせよ、おつかれ様でした、藍果さん」
そう言って、而葉さんは何事もなかったかのようにニッコリと笑ってみせた。見た人を問答無用で引き込んでしまうような甘い笑顔——しかし、あの暗闇で首筋に触れた、柔らかな
「なにか?」
「う、ううん、なんでも……」
今でも、半分くらいは夢を見ていたような気持ちだ。
彼女こそが、すべての
そして、弓丸のことを信じるな、とも。
「あの……他の人たちは?」
気になることはたくさんあるが、一旦はあと回しだ。〈子グモ〉に姿を変えられていた人は全員戻って来た——ということは、戻って来られなかった人たちもいた、ということになる。〈ドクロ蜘蛛〉の
クラスメイトのうち、何人が戻って来られたのだろう。何かヒントになるものがないかと思って周囲を見渡すと、弓丸が「あ」と声を上げた。
「どしたの、ゆみま……」
「おはよぉ藍りぃん。いつまでも起きないから、死んだかと思ってたのにぃ」
人が二人は隠れられるくらいに大きな木の陰から、髪を二つに結んで胸の前に垂らしている女子——
もちろん、その体にもう蜘蛛の脚はない。編み上げリボンがあしらわれたフェミニンなスカートから、白く細い脚が伸びている。
「さっきはごめんね?
杏音は私に向かって両手を合わせ、薄い
「大丈夫。気にしてないよ」
「ほんとぉ? よかったぁ! 私たち、みんなで同じ変な夢を見てたみたいだよねぇ。最初は混乱してたけど、呪いって本当にあったのかも。こわーい」
「呪い?」
「うん。分かるでしょ? 美命の呪い」
杏音を始め、他の元クラスメイトは今回のことを〈美命の呪い〉として処理することにしたらしい。禍者だとか化生のモノだとか、本当の事情を全て説明するのは大変だし、ちゃんと話を信じてくれるかも分からない。下手にこれ以上恐怖心をかき立ててしまうのも考えものだし、とりあえずはそういうことにしておくのがきっと得策だ。それは分かっていたけれど、私にはどうしても聞かなければいけないことがあった。
「あの……何人が帰ってこれたのか、知ってる?」
「知らなーい。あたしが起きた時には、十五人くらいいたけどぉ。でも、
「……そっか。ありがと、教えてくれて」
確かに杏音の言う通りだ。杏音が目を覚ます前に先に帰った人がいたかもしれないし、六年も月日が経っていれば一目で誰と分からない人だっているだろう。その一人一人を全て追うことは、多分不可能に近い。もしかしたら、而葉さんに聞けば分かるのかもしれない。でも……。
「それにしてもさ、みんなつれないよな。せめてレアルが起きるまでは待っててくれたらよかったのに」
「……んっふふー。あのね、みんなレアと顔を合わせたくないって言って帰っちゃったの。昔はあんなにチヤホヤされてたのに、かわいそぉ」
杏音は、グーにした手で口元を隠しながら、稀瑠に向かって虫でも見るような視線を向けた。稀瑠は一瞬驚いたように目を見開き、杏音につかみかかろうとしたが、すんでのところでその手を下ろす。口をつぐんだ稀瑠を楽しそうに見下ろして、杏音は言葉を続けた。
「あっそうだ、みんなからの伝言。今回のことは全部あんたのせいなんだから、もうあたしたちには金輪際関わらないでよね。美命の呪いがうつるからぁ」
「……分かった。全部レアルが悪かったよ。アンたちの好きにすればいい」
稀瑠は、拍子抜けするほどあっさりと杏音の言い分を聞き入れた。自分は悪くない、とあの〈保健室〉で叫んでいた姿からは想像もつかないくらいに素直だった。対照的に、モヤモヤとした
全部あんたのせい。
呪いがうつる。
それは——そういう言い方は。
まるで昔のレアルと同じだ。
「ま、待ってよ杏音。それは違うと」
「藍りぃん。悪いことは言わないから、この機会にあんたもレアとのくされ縁は切りな。それとも、まだレアのパシリとかやるつもりなわけぇ? そういうのはもう卒業した方がいいと思うけどぉ」
「だから、悪いのはレアルだけじゃなくて」
「もしそうしないんなら、あんたとも今後は関わらない。いーい? 忠告はしたよぉ」
杏音はそれ以上会話するつもりはない、といった様子で私たちに背を向け、あっという間に遠ざかってしまった。生ぬるい風が木々の間をすり抜けて、濡れた服をよそよそしく
「なぁ、サガミン。これから先も、さっきみたいにあたしの側で怒ったり、泣いたり、ぶちぶち文句言ったりしてくれるんだよな?」
「えっ、と、うん。できれば普通に過ごしてたいけど……」
正直、今回こうして一緒に過ごしてみるまでは、稀瑠のことは好きではなかった。美命にひどいことをして、みんなに悪いことをさせて、他人の痛みを分かろうともしない、とんでもない人間なんだと思っていた。けれど、稀瑠には彼女自身を守るための強固な
だからそう、つまりは——。
「私は、
「……あっそ。なら、別にあたしはアンたちにハブられたって大丈夫だよ。なぁ、まっつんもそう思うだろ?」
「ノーコメント。という、便利な言葉がこの世の中にはありますわね」
「あのう、話し込んでるところ申し訳ないんですが。早く帰って、このびしょ濡れの服を着替えた方がよくないですか?」
「時間を決めて待ち合わせて、積もる話は甘味処あずさで続ければいいでしょう。結局お金も払えてませんし、どういうことになってるか確かめにいかないと。特に私と而葉さんは、おそらく食い逃げ状態です」
「それは……確かにまずいね」
「私も
木々の間を抜け、滝を回り込んで
「お茶屋さんてあれか?
「そうだよ。もしよかったら稀瑠も……」
そう言いながら稀瑠のことを振り返ってみて、私はピタリと足を止めた。
「どうしたんだ? そんな、キジが米粒を投げつけられたみたいな顔して……」
弓丸の質問にも答えられずに、ただゆっくりと視線の先——あの洞穴を指さす。同じものを見たアヤが、歯切れ悪くつぶやいた。
「……藍果先輩。今度の校内新聞のコラムは、オカルト特集にします?」
〈ヤドリ
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