第三十六章 図書館での回想は甘やかに
少年の体を揺さぶったカトリーヌは、もう自分ではどうにもできない事態が起きたことを悟った。
(どうしよう……ユージンが死んじゃう……)
そのときほど必死に迷路庭園を駆け抜けたことは、あとにも先にもないだろう。
「おかあさま! おかあさまぁぁぁっ、ユージンを助けて!」
泣き叫ぶカトリーヌにいち早く気づいた使用人が寄ってくる。
「お嬢さま!? ユージン皇子殿下がどうかなさったんですか?」
それからのカトリーヌはほとんどパニックになり、細かい記憶が飛んでいる。
帝国の第三皇子が毒を口にして倒れた。
連れてきた仔犬も死んでしまった。
それは暗殺にも等しい大事件だ。
次に覚えているのは、ベッドの上で苦しそうに横たわるユージンの姿だった。
「そんなつもりじゃなかったの。ただ仔犬の代わりになにか自慢したかっただけで……」
いくつもの毒を少しずつ入れたクッキーは、少量を接種して体を慣らすためのものだ。
それでも、初めて口にしたユージンには十分な毒だったのだろう。額から汗をかき、いつまでも目を覚まさなかった。
意識不明のユージンは、しばらくメディシス公爵家で看病される事態になった。
後からやってきた母親がなにが起きたのかを察して、ユージンに無理やり水を飲ませていたが、それがどれだけ効果があったかはわからない。
この屋敷で一番、薬と毒の知識がある父親も難しい顔をしている。
カトリーヌは自分が大変なことをしてしまったという自責の念で怯えていた。
自分が友だちを殺してしまったのではないか。
ユージンの赤い瞳のが、もう二度と開かないのではないか。
そう考えれば考えるほど怖かった。
「ユージン……目を覚ましてユージン……」
第二皇妃はカトリーヌの母親と口裏を合わせて、遊んでいてユージンが風邪を引いたという理由で、メディシス邸に留まっているということにしたようだ。
公務を行うために屋敷をあとにする彼女は、後ろ髪を引かれるように自分の息子を眺めていた。
そのあたりの大人の事情はあとになってから理解したことで、そのときのカトリーヌにはよくわかっていなかった。
カトリーヌは奇跡を願っていた。
まだ自分の金色の瞳の意味もユージンの赤い瞳の意味も知らないまま、ただ祈りつづけていた。
「ユージンの体のなかの毒……消えて……お願い……」
ぽろぽろと涙を流しながら、眠るユージンの手を握り、ベッドの上に膝をついていたとき、カトリーヌの涙がユージンの頬に落ちた。
ぴくり、とユージンの手が動いて、期待に胸が跳ねたのを覚えている。
「……カトリーヌ?」
かすれて、囁くような声だったものの、名前を呼ばれたことははっきりとわかった。
もう一度しっかりと両手で両手で少年の手を握りしめる。
「そう……カトリーヌだよ、ユージン……気分はどう?」
名前を呼ぶと、長い睫毛が震え、うっすらと赤い瞳が見えた。
「体が重い……」
その言葉にまた自分がしたことへの罪悪感が涌きおこる。
「ごめんね……ごめんねユージン……」
なぜカトリーヌが泣きじゃくっているのか。ずっと意識を失っていたユージンにはわからない。
わずかに起きあがった少年の体をカトリーヌがぎゅっと抱きしめると、その汗ばんだ体は仄かなあたたかさが感じられた。
「泣か……ないで……カトリーヌ……」
いつまでも泣きやまない少女の頬に、ユージンが控えめなキスをする。
聡い彼は、自分の好奇心がどんな結果になったのかを理解していたのかもしれない。
「僕が……考えなしだったんだ……カトリーヌのせいじゃない……」
やさしい言葉にまた涙が溢れてくる。
それでいて、うまく言葉にできないまでも、自分の虚栄心や子どもならではの浅はかさが招いた事故だという自覚はあった。
問題はカトリーヌ自身のことだけではなかった。
第三皇子がメディシス公爵家で具合が悪くなり、しばらく逗留しているという噂が広まるにつれ、実は毒殺されたのではないかというまことしやかな話も聞こえてきたからだ。
なかば真実でもあったその噂を打ち消すために、第二皇妃とカトリーヌの母親は子どもたちを引き離すことにした。
「カトリーヌに悪気がなかったことはわかっているわ。ユージンも軽率だったと言っているし……でも、毒を口にしたのが本当だったと誰かに知られたら子どもたちが傷つくわ。だからこそしばらくふたりの距離を置きましょう」
「そうね。どうせ、皇立幼年学校に行けばまた会うことになるでしょうから」
子どもたちのために事を荒立てたくないという第二皇妃の意向は、メディシス家にとってもありがたかったのだろう。
起きあがれるようになったユージンは馬車に乗り、メディシス家をあとにした。
その日を境に、カトリーヌとの交流は途絶える。
大人にしてみれば、皇立幼年学校に入るまでの数年間はあっというまだが、子どもには長い時間になった。
幼いころのカトリーヌは、恋を恋とも知らないまま、仄かにユージンに好意を抱いていた。
しかし、仔犬を死なせてしまったことやユージンが死ぬかもしれなかったこと――そのどちらも申し訳なさと恐怖と、そして罪悪感が入りまじり、まだ幼い子どもには受け止めきれなかった。
ユージンが目を覚ましてほっとしたのと同時に、カトリーヌのなかでこの事件をなかったことにしたかった。
――だから忘れた。
ユージンと親しかったことも、仔犬が亡くなったこともすべてをなかったことにしてしまった。
そして、前世ではそのままユージンとの距離が埋まることはなかった。
皇太子の婚約者になったあとは皇后教育とアンリを補佐する役目に追われて、昔の記憶を思い出すことはなかった。
一方でユージンは昔のことをずっと覚えていてくれたのだろう。
皇立幼年学校に入学ときの彼にとって、カトリーヌはで久しぶりに会えた幼馴染みで、気軽に話し合える相手のはずだった。
むしろ、カトリーヌの素っ気ない態度に傷ついていただろうに。
(それでも気にかけてくれていたからこそ、公爵家の馬車がないと気づいて声をかけてくれたんだ……)
でも死に戻る前のカトリーヌとは卵の話までは発展しなかった。
(きっとそれは、死んだ仔犬のことをわたしが気にすると思ったのね)
無愛想に見えるユージンが、意外なほど他人の感情の機微に敏感なのをカトリーヌは知っている。
「リヴウェルが思いださせてくれたのね……」
小さなドラゴンは子どもなりにやんちゃで想定外で、それでいてときどき運命の神のように不思議な現象を見せる。
「ぴきゅっ!」
褒めてくれたと思ったのだろう。リヴウェルは自慢げな様子でカトリーヌとユージンの間に飛びこんできた。
カトリーヌがリヴウェルの頭を撫でて、そのカトリーヌの髪をユージンが撫でてくれる。
この瞬間、死に戻った奇跡にカトリーヌは心の底から感謝した。
「そろそろ泣きやんでカトリーヌ……どんな怖い夢を見たかわからないけど、僕が側にいるよ」
ちゅっと目元に口づけを落とされて、間近に迫ったユージンの顔をまじまじと眺めてしまう。
ユージンが死んでしまうかもしれないと脅えた感情がよみがえったばかりのいま、やわらかい唇の感触が甘ったるくもくすぐったい。
(思いだせてよかった……それに)
ユージンがカトリーヌを殺したのではなかったのだから、血塗れのカトリーヌを見たときのユージンは、カトリーヌと同じ気持ちだっただろう。
「図書館で迷ったのか? この図書館は広いから……お茶でも持ってこさせよう。リヴウェル……鈴を鳴らしてきてくれ」
領主である彼は、この図書館のことを熟知しているのだろう。図書館の随所に置かれた鈴をリヴウェルが持って鳴らすと、侍従のノアが慌ててやってきた。
「ユージンさま、なにかご用でしょうか」
「本館のアフタヌーンティーの部屋にお茶を用意してくれ。いまからカトリーヌと向かうから」
「了解いたしました」
悪役令嬢ガールズトーク!二度死に戻った私は誰とダンスを踊るのか 紙屋ねこ(かみやねこ) @kamiyaneko
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