第10話 氷の舞姫との悶着
黒い鎧の剣士は長大とも言える闇色の剣をさらに打ち込んでくる。
並みの剣士であれば二合と持たなかっただろうほどの凄まじさである。
しかし、身を覆うものが何一つ無い素裸ではあるが、赤い髪の美女の剣捌きは全く危なげなかった。
最小限の動きで、相手の、素早く、強力な打ち込みを的確にはじき返しているその姿は、まるで美しい舞を思わせるものがあった。
雷神にして、剣の神たるゾーガの戦闘神官は、その神体とも言える剣を手にした時、絶対不可侵とも言える存在となるのだった。
「雷神の剣の所有者を相手にしても無駄だ。あっちの小娘を狙うんだ」
舌打ちせんばかりにカーラの指示が飛ぶ。
しかし、赤い髪の美女が構成する防御陣は黒い剣士の侵攻を完全に阻んでいた。
一方の金髪の少女は、赤い髪の美女の動きにつれて重々しく揺れる豊かな乳房や形の良い艶やかなお尻を眺めて幸福そうに微笑んでいた。
あまつさえ、ついには座り込んで、下の角度から、妙に熱心に何かを覗きこもうとすらしているのであるから、戦闘中は全方位を知覚する雷戦士にしてみれば、気が散ること夥しいものがあった。
「王子、もう少し後ろに下がって……」
たまらずにシンが叫んだ。
いや、叫ぶところを途中で呑み込んだのではあるが、遅かったようだ。
「王子?」
カーラの描いたような眉がひそめられる。
「金髪……王子? それに、赤い髪で、雷神の剣の所有者……雷戦士? まさか……」
不意に、黒髪の美女は大笑いを始めた。
「はーっはははは、そうかい、そういうことかい。ウルネシアの第一王子と側近の〈紅蓮の雷戦士〉が、呪いをかけられたって聞いていたけど、まさか、こんな所でこんな姿になっているとは、思いもしなかったよ」
さすがに、ククル帝国が密偵として派遣しただけの女であった。
いくつかの断片的な情報を組み合わせて、たちどころに事実を、いや、事実と紙一重の所まで、思考を到達させたのだから。
もっとも、フィールとシンが、ここにこうしている本当の原因までは、さすがに考えも及ばなかったようだが、それはむしろ当然と言えた。
いかにカーラが洞察力に優れていたとしても、〈アクアスの化身〉とも評されたフィールと〈紅蓮の雷戦士〉の勇名を誇るシンが、こともあろうにナギ神殿における巫女の秘儀を覗くための魔法実験に失敗して、女性化してしまった等と言うことは、通常は想像もできないであろう。
とりわけ、そもそもの原因となっているフィールの性格は、幼少の頃から側にいるシンですら理解不能なのである。
「くっ」
正体を見破られたシンとしては、是が非でも、カーラの口を塞がねばならなかった。
何よりも、ゾーガ神殿から雷神の剣を授けられた雷戦士の名誉と誇りは、死守しなければならなかない。
このまま放置しておけば、ナウザー全土に轟かせた勇名が、笑い話になるのは確実である。
「しかし、どういう事情で、そんな姿になったかは知らないが、いい女っぷりじゃないか、雷戦士さん」
笑いの名残でひきつりながら、カーラがからかうように言う。
召喚者が大笑いしている間も、黒い剣士の斬撃は衰える事もなく続いており、女性化した躯に慣れてきたとは言え、男であった頃に比べて、絶対的な瞬発力に劣る状況では、剣の防戦一方で、舌戦を行う余裕も無いシンであった。
そもそも、最小限の動きで黒い剣士の猛攻を受けているのも、体力の大幅な低下を自覚すればこそである。
男であった頃なら、斬撃を撥ね除ける動作と共に、反撃に出ていただろうが、現状では受け流すのが精一杯だ。
既に二〇合以上は打ち合っており、全身に吹き出した汗が斬撃を受ける度に飛び散る。
並の男でもそろそろ疲労で剣が持てなくなる頃であろう。
カーラが召喚した黒い剣士……おそらくは、鎧に妖魔か邪霊が取り憑いた、俗に言う死霊騎士の類であろう存在は、疲れる等というそぶりも無く、強力な斬撃を繰り出してくる。
(このままでは……。こうなったら、やむをえんか……)
シンが密かに心中で呟いた、その時。
「さて、シンの躰は十分に鑑賞したから、今度はカーラさんの方を堪能するかな」
脳天気な口調と鈴を振るような声でフィールが言うのが聞こえた。
「王子?」
「む……」
カーラの美貌に警戒の色が浮かぶ。
さすがに剛胆な〈銀の館の騎士〉も、この神秘的なまでに美しい少女の姿をした相手は、行動の予想がつかないだけに苦手なようだった。
だが、すぐさま。それは不敵な笑みにとって変わった。
「どういうわけか、あたしの素性は御存知だったようだけど、双頭のカーラと言う異名まではお聞きになった事があるかしら」
「ん?」
フィールは小首を傾げた。
「出でよ、鋼の機織り姫」
カーラの呼び声に応え、人間とほぼ同じ大きさの、金属的な光沢の青い蜘蛛が出現した。
いや、蜘蛛にしてはその胴体から伸びる足の数が多すぎるようであったが、ナウザー大陸でこれに一番近い形状のものは蜘蛛としか言いようがなかった。
「ええ!? 一度に二体の魔物を使役できるんだ」
さすがに予想外だったのか、フィールの口から驚愕の声が洩れた。
召喚魔法においては、魔物を召喚する事自体よりも、召喚したモンスターを自分の制御下に置くことが難しいとされている。
複数のモンスターを使役すると言うことは、複数の武器、武術を同時に操るに等しい行為に近い。
剣士には双刀を操る者も居ないではないが、それは専用のやや小ぶりの剣を用いての事であり、例えば、槍と鞭などはそれぞれの武器を同時に振り回す事は可能であろうが、それは単に振り回しているだけであって、各々を巧みに操るわけにはいかない。
ましてや、使役する存在の制御には、相応に集中力が必要な召喚魔法にあって、死霊騎士と大蜘蛛という、系統の全く異なる魔物を同時に使役するとは槍と鞭を同時に操る以上の技量が必要な筈だ。
つまり、双頭のカーラの異名は、これが所以であろう。
さすがにフィールも脳天気な表情を引き締めた。
金属的な蜘蛛は黒い騎士の斬撃に合わせ、その頭上を越えて跳躍した。
雷戦士と言えども、女性化した上に、かなり疲労した状況では、双方を同時に対処する事は不可能である。
雷神の剣と黒い剣が火花を散らすその上を越えて。
蜘蛛のような魔物はフィールに襲いかかった。
「うわっ」
吐き出された粘着質の黒い糸がフィールを縛り上げ、その上から細長い数十もの足が包み込む。
「王子!」
「ここまでだ。剣を捨てな」
赤い髪の美女が絶望の叫びをあげ、そして、黒髪の美女が勝利を確信した声で宣言した。
その、次の瞬間。
黒い糸は、蜘蛛の足や胴体ごとずたずたになり、金髪の少女の均整のとれた白い裸身がむき出しになった。
それは、丁度、現在のフィールが纏おうとする衣服に起こるものと同じ現象だった。
金髪の王子の(歪んだ)視覚的欲望を阻もうとする事は衣服であれ、異界の魔物であれ、不可能と言うことであろう。
恐るべき、と、すら形容できる、女体への欲望であった。
そして、その結果、使役する魔物を致命的なまでに傷つけられた召喚者はやはり同程度のダメージを受けたようだった。
「ぐぅ……」
カーラの美しい顔は、つい先ほどの、一瞬の勝利の余韻など微塵も無く、苦痛をこらえるように歪んでいた。
彼女の支配下にある、黒い剣士の動きが停止する。
その好機を逃す紅の雷戦士ではない。
残る全身の闘気を、手中の剣に注ぐ。
それに反応するかのように刀身に刻まれたゾーガの神呪が発光し、次の瞬間、ゾーガの直刀と呼ばれるそれは、やや青みをおびた光の剣となった。
「聖雷斬!」
剣神ゾーガの戦闘神官が振るう退魔の刃が漆黒の鎧と共に召喚魔法士の使役する死霊を両断した。
「……っあぁ!」
召喚した魔物を双方とも滅ぼされ、二体分のダメージを自身にフィードバックすることとなった黒髪の美女は声にならぬ悲鳴を上げて床に倒れた。
それと同時に。
遠くで何かが壊滅的な打撃を被ったようであったが、無論、死闘を終えたばかりのシンには、その感覚をとらえることはできなかった。
「手強い相手だったな」
結局、自分では何もしなかった、どころか、雷戦士の足を引っ張っていたに等しいフィールが気絶したカーラの躯のあちこちを覗きながら呟く。
「…………」
シンは無言で荒い息をついているだけであった。
精力を使い果たしたということと、厚かましいフィールの言動に何も言う気にもなれないということもあったが、それ以上に気になることがあったからである。
異界の魔物の拘束すら、いとも簡単に破るフィールの女体への執着。
いや、アゾナ神の結界や、そもそも、雷戦士たるシン自身にあるはずの、ゾーガ神の守護すら、これを阻む事はできなかったわけである。
果たして、伝説の神具と言えども、〈賢者の鏡〉が、この次元すら越える歪んだ欲望を打ち破って、女性化してしまった二人を元に戻す事が、果たして可能なのだろうか?
◇
ククルの密偵をそのままにはできず、さし当たり、カーラが気を失っているだけであることを確認すると、身動きができないように縛り上げる事にした。
「しかし、ずいぶんと変わった縛りかたですな」
何故か嬉しそうに、荒縄で黒髪の美女の裸体を念入りに縛り上げているフィールを見ながら、シンは小首をかしげた。
縄が、いくつかの六角形を表す、かなり複雑な縛り方だ。
「亀甲、と言うんだ。極東諸島の風習で、衣服をつけていない女性を捕縛する時の作法らしい」
「……そのぅ、極東にはずいぶん変わった風習があるんですな」
いわゆる簀巻きでは乳房の形に影響するかも知れないな、などと見当外れなことを考え、フィールの博学に今更ながら感心しつつも、何となく納得できないシンだった。
「しかし、その荒縄。どうしてわざわざ荷物に入れておられるのか、わかりませんでしたが、王子におかれては、このアゾナで捕虜を得る事を想定されていたわけですか」
「うん。ぼくが読んだ写本には『亀甲の流儀で女体を縛るは、荒縄で行うが正しき作法なり』とあったからね」
どこかしらかみ合わないような会話を続ける間にも、妙に手際よくフィールは黒髪の美女の裸身に縄をかけてゆく。
荒縄以外にも、フィールが荷袋に入れた品でシンには用途の不明なものがいくつかある。
まず、蝋燭、というのはわから無くもないが、携帯には不向きな太さであり、毒々しく赤いのは不自然に感じられる。
それに、これまでも何回か野営したことがあるが、明かりには焚き火で十分であるし、宿を取る場合はランプが常備してある。
何より、王子の魔法で灯りを点せば、それで済んでいた。
そして、武器にはなりそうもない短い鞭。
これによる打擲をまともに受けるのは全く抵抗を放棄した相手だけだろうし、この素材や形状だと痛いだけで、たいした損傷が与えられるとは思えない。
更に硝子製の太い筒を組み合わせた、シンの見知らぬ器具。
フィールがそれで、瓶の水を吸い上げて、勢い良く放出するのを見せてくれたが、全く使用目的が分からない。
火を消すならば、瓶の水を直接かけた方が早いのではないだろうか。
ともあれ、こうしてその中の一つが役に立っているのだから、他の品も使う時期が来るのだろう。
縛り上げたカーラを2人掛かりでベッドに運び、上からシーツをかけると今後の対応を相談することにした。
「まさか、口封じの為とは言え、命を奪うわけにもなぁ」
「同感です。しかし、いつまでも、ああして置くわけにもいきますまい。明日の朝、彼女が修行場に現れなければ不審に思われます。だしか、彼女は西方舞踏のクラスでは教官の補佐をしている立場だったはず」
「……と、言うことは、彼女は個室だな。ルームメイトがいないわけだから、今夜いっぱいは時間が稼げる訳だ」
「いっそ、神殿の方に密告しますか? 舞姫への修行以外の目的、しかも、アゾナ攻略の尖兵です。楽神アゾナの性格からいっても、処刑はないでしょうし、秘密裏に追放と言うことになると思うのですが」
「こちらの言い分だけで神殿が判断するとは思えないなぁ。たぶん、審問になると思うよ。この場合、僕たちのことも調べられるだろうね」
描いたような美しい眉を寄せて、美しい少女はしなやかな指で形の良い顎をつまんだ。これは、フィールが考え事をするときの癖だ。
「ふむ。先ほども言ったように、カーラがぼくらの正体を訴えたとしても、アゾナ神殿の人々が信じることはあり得ない。だから、この点は心配しなくていい」
その指摘に、シンもうなずいた。
「問題は、だ。アゾナ神殿が確認の為にぼくらとカーラの身元を照会した場合だ」
金髪の少女の美しい顔に、憂いの表情が浮かぶ。
「カーラの方はククルが密偵として派遣する際、偽装工作を行っているだろうから、ナブファの方から確かに踊り子としての経歴が返ってくるだろう。一方、ぼくらは、と言えば……」
「そうした工作を行っている余裕はありませんでしたからなぁ」
偽装した身分にはチラムの出身である旨が記載してある。
このチラムはウルネシアの北方で国境を接する隣国であり、峻厳で過酷な自然と、精強の代名詞ともなっている傭兵集団を擁することで、大陸でも知られた国家である。
シンがナウザー大陸北東部に存在するゾーガ神殿への巡礼で、一時期を滞在した国でもあった為、この身分を選んだ次第だ。
直接にチラムについて尋ねられれば、一通りの事は応えられるが、つまるところはそれだけである。
「ともかく、身元照会をされて不審に思われるのはこちらの方、と、言うことになりますか」
「まあね。だから、アゾナ神殿の干渉は排除したいところなんだが……ククルの企みを警告しないわけにもいかないしなぁ」
「は、もうしわけありません」
主君の気遣いにシンは頭を下げた。
軍神ゾーガは秩序を守るために武力を発動させる神であるとされている。
従って、ゾーガの戦闘神官は秩序を乱す存在を征伐する義務を負っている。
今回の場合、ククルの野望はナウザー大陸の秩序を著しく乱すことになるわけだから、雷戦士たるシンは、この情報を、アゾナ神殿はともかくとして、ゾーガ神殿には報告する義務がある。
国家同士の争いには関与しないのが常だが、創造神ナウザーの神殿を擁する聖ソルタニア皇国に関わる事案ともなれば、少なくとも、報告だけはしなければならない。
むろん、現在の状況で直接に報告するわけにはいかないので、何とか伝令の手段を得なければならないわけだが。
「とは言え、ですな。その、この姿で〈剣の騎士団〉の関係者に会うのは……ちょっと……」
赤い髪の美女の正体を喝破するような逸材は、滅多にいない筈だが、カーラのような存在は何処にいるか予想がつかない。
そもそも、アゾナから出るのは修行を終えるか、一定の年齢に達するか、修行を破棄する宣言をするかに限られる。
むろん、一度外に出れば、アゾナ神自らの告知という奇跡でもなければ、二度と入場することはかなわない。
未だに〈賢者の鏡〉に関する情報を得ていない状況であれば、それは可能な限り避けたい話だ。
「そうすると……一番いいのは、神殿の中で誰かを説得して、その人物からの報告という形式でアゾナ神殿へ伝えて貰って、さらにはアゾナ神殿からゾーガ神殿へ連絡と、こういうことになるな」
これならば、フィール達が表に出ることは無く目的は達せられるだろう。
ただ、問題がひとつあった。
仮にも、教官の補佐を務めるカーラを告発する事になるのである。
説得する対象は、それなりの地位や立場で、フィール達の言うことを信用してくれる人物を選ぶ必要があった。
また、ククルの密偵がカーラ一人とは限らない。
その辺りも考慮する必要があるだろう。
例えば剣舞修行場の教官などが一番望ましいのだが、これは神殿関係者でもある。
つまりは、神殿に直接報告するのと同等であり、対象から外さなければならない。
しかし、フィール達はアゾナに来てまだ日が浅いと言うこともあったが、「食べ物といい男」を主題とする女同士の会話にうまく加わることができず、親しい友人と呼べるような交友関係を持っていなかった。
「いや、この場合、親しい人間でなくてもいいか」
フィール達同様、そうした会話に加わらない女性は皆無ではない。
結果として、それぞれ孤立しているようなところはあるが、神殿からの信用度は、それとは別の話である。
「ユナ殿はいかがでしょう? 北方舞踏修行場の、やはり補佐の方ですが」
「ユナ……?」
フィールはしばらく考え込んで、ぽんと手を打った。
「ああ、右のお尻にほくろがあって、釣り鐘型の乳房の左が右よりも少し大きくて、アンダヘアの色が頭髪よりもやや濃い銀髪の、北方出身の綺麗な人か」
フィールがその驚嘆すべき頭脳に人物を……厳密には女性を、記憶する過程をシンは垣間見たような気がした。
「ふむ、彼女なら、カーラを告発しても、神殿側もそれなりの対応をしてくれるに違いない。問題はどうやって彼女を説得するか、だな」
「口が堅い人物のようですし、この際、正面切って訴えてみてはいかがでしょう」
「口が堅い、と、いうより、ほとんどしゃべらないよなぁ」
ユナの氷のような冷たい美貌と、その
ユナは舞踏クラスで教官の指示に従って模範演技は見せるものの、決して積極的に口を開こうとはしない。
何故か教官もそれを咎めるふうでもないのは、その演技が見惚れるほど完璧だからであろうか。
共同浴場でも食堂でも超然としている感じで非常に取っつきにくい印象がある。
そのせいで、周囲から『氷の舞姫』という渾名をつけられてもいた。
じつは、その辺りは、この二人も似たようなもので、女達のおしゃべりの輪と一線を画している神秘的な美少女と赤い髪の精悍な美女は、各々、『奇跡の天使』、『炎の舞姫』などと密かに呼ばれている事を当人達は知らなかった。
じつの所、アゾナの修行における二人の成績は、未だ日が浅いと言うのにトップクラスなのである。
何しろ、二人とも、たった今見た模範演技を即座に、しかも完璧になぞることができるのだ。
もっとも、シンの方はゾーガの戦闘神官であり、武道の達人は舞踏にも秀でているものであるから、それほど不思議は無い。
剣舞の際に示す躯の切れは教官以上である。
フィールの方はと言えば、変化の魔法の影響もあるだろうが、ウルネシアからアゾナまでの歩行による遙かな旅によって舞踏に必要な体力もかなりついてきているし、そもそも、肌も露わな女体の動きを、一目見れば、忘れる等と言うことは、この金髪の王子にはあり得ない。
それに加えて二人とも完璧なプロポーションをしており、舞踏だけで言えば、現時点で『アゾナの舞姫』として世に送り出しても問題ないのではないか、と神殿側も考えているふしがある。
従って、二人が直接神殿に訴えたとしても、かなり重く扱ってもらえたであろう。
そんな周囲の評価を知らぬ二人は、早速、ユナの宿舎を訪ねる事にした。
念には念を入れて、気を失っている黒髪の美女に薬草から抽出した眠り香をしみこませた布をかがせておく。
この布も、フィールが何故か周到に用意しておいたものであり、赤い髪の美女は、いささか訝しいと思いながらも、一応は感心して見せたのだった。
ユナの宿舎は三区画ほど北東にあった。
途中、警護の見回りをしている
門の警備にも採用されている、完全武装した天界の女戦士を
城塞都市アゾナの唯一の軍事力が、この
アゾナの住人の殆どが素裸の若い女性ではあるが、女同士の諍いということもあり、治安維持の観点からも定期的に巡回している。
しかし、その夜は出回っている
たった三区画を進む間に五回以上も遭遇したのである。
表札を確認し、そっとドアを叩くと、ほとんど間を置かず、氷のような美貌の持ち主がドアを開けた。
まるで、あらかじめ誰かの来訪を待っていたかのようである。
だが、それがフィール達では無いことは、ほんの微かに浮かぶ怪訝そうな表情から察せられた。
「夜分、申し訳ありません。チラムの傭兵シンディーと妹のフィーナです。じつは至急、御相談したいことがありまして」
ユナは少しの時間、何か考えるふうであったが、無言で、二人を宿舎の中へとさし招いた。
ベッドの数を除けば、フィール達とさほど変わらぬ間取りである。
ユナはさっさと一人用の椅子に腰を下ろしたので、フィールはシンと長椅子の方に座らざるをえなかった。
言うまでも無く、金髪の少女は、赤い髪の美女と躯を密接にする位置をとる。
いちいちそれに構っていられず、シンは用件を切り出した。
「じつは、このアゾナに重大な危機が迫っています」
それを聞いた時、ユナの薄い眉が驚いたように微かに動いた。
確かに、見知らぬ人間が夜中に訪ねてきて、いきなりそういう話をすれば驚かない方がおかしいのだが、それにしても、その次にユナの見せた反応は、日頃の彼女のふるまいからすれば、奇妙なほど大げさであると言えた。
「何故、知っている」
ユナが声に出して、そう問うたのである。
(え?)
(こ、『氷の舞姫』が喋った?)
初めて、その涼やかな声を聞いた事にフィール達の方が驚いて、思わず、顔を見合わせてしまった。
そのため、ユナの言った言葉の意味を理解するのにしばらく時間を要した。
「え? えーと? 何ですって?」
「おらも、つい、さっき神殿からの使いで知らされたばっかだっつーに、なぞして、おめぇ達が知っとるんだ?」
「ひ、ひええ」
赤い髪の美女と金髪の美少女は思わずのけ反ってしまった。
(す、すごい北方訛り)
(こ、こ、これが、『氷の舞姫』が日頃口をきかない理由だったのか)
あまりのその落差に二人が吹き出しかけたその瞬間、
「何が可笑しい!」
凄まじい一喝が轟いた。
なんと、日頃無表情な『氷の舞姫』が恐ろしい形相で睨んでいる。
心の底から身の危険を感じた二人は慌てて表情を引き締めた。
先ほどのカーラも迫力があったが、それ以上に恐ろしいものがあった。
「あ、あの、ですね」
「ちょっと、待って下さい」
実戦経験豊富なシンの方が立ち直りは早かった。
「どういうことです。既にアゾナ神殿はククルの侵攻を知っているのですか?」
今度はユナの方が怪訝そうにする番だった。
「はぁ? ククル? 何の話だべ?」
冷たいほどの冴え冴えとした美貌と少し間延びした北方訛りとの落差でペースが狂いがちであるのに加えて、話が妙に噛み合わず、赤い髪の美女は頭を抱えてしまった。
「まず、ユナさんの知ってる話を聞きたいのですが」
ようやく立ち直ったフィールが口を挟む。
「どうやら、アゾナの危機に関して、ぼく……わたしたちが知っていることと、ユナさんが聞いた話は別々の事柄のようですから」
ユナは、一瞬だけ躊躇う様子だったが、直ぐにうなずいた。
「じつは、はぁ、アゾナの結界が、崩壊しかけてるっつー話なんだわ」
「ええっ!」
「アゾナの結界が?」
さすがに度肝を抜かれて、フィールとシンは叫んでしまった。
「そんなに大きな声を出すでねぇ。こりゃあ、神殿関係者以外は教官補佐の人間までの秘密事項っつー事になってるんだから」
「し、しかし、何故……」
「そうか、あれだ」
智神アクアスの化身と謳われたフィールは即座に結論を出したようで、声を潜めてシンに囁いた。
「アゾナの結界の中で、〈銀の館の騎士〉が操る召喚魔法とゾーガの神呪が激突したんだ。結界自体が影響を受けても不思議は無い」
「え? では、我々が原因で……」
囁き返すシンの顔面が蒼白になる。
そこに、再び銀髪の美女の一喝が轟く。
「こそこそしゃべんでねぇ!」
「え、えー……」
狼狽えたシンが言葉を探しあぐねていると、フォールが即座に言い切った。
「たぶん、それがククルの陰謀によるものです」
「ククル? さっきもそっただこと言うとったな。もう少し、詳しく話してけろ」
そこで、弁の立つフィールが事情を説明する事になった。
むろん、シンがゾーガの神呪を発動させたことは巧妙に伏せて、ナブファの踊り子を名乗っていたカーラが、じつはククルの密偵で、しかも〈銀の館の騎士〉と呼ばれる召喚魔法士だった事、先ほど、カーラが先ほど召喚魔法により2体の魔物を召喚した事、アゾナの結界の崩壊は、その召喚魔法が引き金になったのではないかと考えられる事などをかいつまんで説明した。
「ふむ」
銀髪の美女は、氷の彫像のように無表情になって考え込んだ。
ややあって、再び口を開く。
「ふたつ、わがんねぇことがある。カーラがおめさん達を訪ねた理由と、おめさん達が、その召喚魔法で呼び出した魔物をどうやって撃退したかだ。特に〈銀の館の騎士〉が使役する魔物を撃退するなんぞ、ただごとじゃあねぇぞ」
さすがに、アゾナ神殿が教官補佐を任せるだけの女性である。
フィールの話を聞くや、すかざす論理的に曖昧な点を鋭く追求してきた。
だが、フィールも負けてはいない。
「まずククルの密偵たるカーラが今夜我々を訪ねてきた理由ですが、これは、我々が彼女の使役する魔物を撃退した結果から、おわかりいただけるものと思いますが」
つまり、召喚魔法を駆使するカーラにとっての脅威と捉えられたからだ、と言外に匂わす。
思考を誘導する形にはなるが、少なくとも、嘘は言っていない。
ユナは無言でうなずいた。
「次に、我々が彼女の魔物を撃退した方法ですが……」
なんとはなしに、銀髪の美女は身を乗り出したようであった。
「お教えすることはできません」
フィールはきっぱり言った。
ユナの冷たい美貌に険しいものが浮かぶ。
やや薄い美しい唇が、この時はかすかに歪んだ
「理由は二つあります」
「まず、これは我々にとっても切り札なのです。無原則に軽々しく明かせるものではありません」
不承不承という感じではあったが、ユナはうなずいてみせた。
「もうひとつの理由は……たぶん、信じていただけないか、あるいは、正気を疑われると考えるからです。つまり、それほど、普通の方々にとって、常識では考えられない手段と言うことです」
これにも、ユナはうなずいた。
「聞けば、無理もねぇ話だ。わかった。この件については、当分、不問にするだ」
傍らでこのやりとりを聞いていたシンは呆気にとられたが、それを表情に出すのをかろうじて押さえることに成功し、そして、フィールの弁に内心舌を巻いた。
結局、この金髪の少女は、アゾナ神殿の代理とも言うべきユナの詰問を、少なくとも偽りを言うこと無しに、また、何一つ具体的に答える事無しに、逸らしてしまったのである。
「すかす、だな、おめぇ
ユナは更に言葉を続けた。
心の中で密かに安堵の息をついたフィールとシンは内心ぎくりとした。
カーラに目をつけられたのは、あるいは、それが原因かもしれなかった。
他の女性達と親密になっていれば、もっと早くに教えて貰えたかもしれないが……とは言え、具体的にどうすれば良いのかは見当もつかない。
「おらがこう言うのも何だが、せっかく、そんなに綺麗な顔さしてるんだから、嫁さ行くまでにはもう少し女らしいしゃべり方っつーもんを身につけるこったな。まぁ、ここでの修行は舞姫になれんかっても、無駄にゃあなんめぇさ」
とっつきにくい外見とは裏腹に、案外、親切な女性であるようだった。
「は、私が傭兵などという、荒っぽい仕事を生業としているもので、そういう方面には気がまわりませんで」
シンがそう言って恐縮して見せると、銀髪の美女は慌てたような表情になった。
「すまねぇ。こりゃあ、おらが悪かっただ。そんなつもりじゃなかったんだ。許してけろ」
そう言って、深く頭を下げた。
「そうだよなぁ、人にはそれぞれ事情があるっつーもんだに、それを考えもしねぇで、もっともらしい事を言っちまっただ。本当にすまねぇ」
どうも、『氷の舞姫』は、じつはいい人であるらしかった。
「わかった、とりあえず、そのカーラっつー女の扱いと、アゾナ神殿への報告、それと……そうだな、ゾーガ神殿の伝令を手配しないとなぁ。それらは、おらから話しておくだ」
どうやら、フィール達の目的は達成できたようだった。
魔導王子フィールの女体化 丹賀 浪庵 @mihotock
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