第31話

 あれは何? さくらんぼ? 

 散歩の途中で見つけた、鈴なりの赤い実の正体を訊ねると、浅葱さんは「ナツグミっすよ」と答えてくれた。「いただきます」と木に断ってから一粒取って、私にくれる。

「ちょっと酸っぱいけど、うまいっす」

 私の掌にちょんと乗せられた、赤い実。

 え。今ここで食べるの?

 村の飼い犬、オジイちゃんを見ると、地面に落ちてるグミの実の匂いをふんふん嗅ぎはしたけれど、すぐに興味をなくしたようにプイとそっぽを向いてしまった。その後は、茂みから飛び出してきた狐とじゃれ合いはじめる。

 オジイちゃんはここら辺の山一帯を自由に走り回ってるから、村で飼われてる猟犬とよりも、野生動物とのほうが親しいんだって。浅葱さんはそう教えてくれた。

 エキノコックスを拾ったらダメだから、オジイちゃんを触った後は手洗いを念入りに、とも言われたけど。もう何日も一緒に散歩してるのに今更ね、と思ったわ。

 それよりも私は、掌に置かれたグミの実の処遇に困っていた。サクランボに間違えておいてなんだけれど、なんだか悪魔の実みたいに見えてきちゃって……。

 浅葱さんをちらりと見ると、彼はグミの実を三ついっぺんに口に放り込んでいた。ああそうなんだやっぱり食べられるのね、って納得したわ。

 浅葱さんに倣って、私もぱくりと食べた。噛んだ途端、強烈な酸味が口いっぱいに広がって、悶絶しちゃったけれど。

「すっぱ!」

 しかもうっかり種まで飲み込んじゃって、咳きこんだの。そしたら浅葱さんは笑って

「普段から甘いの食い過ぎなんすよ」

 と言ったわ。

 嫌味かしら? って一瞬ムッとしたけれど、お菓子作りは不本意だと分かっていたから、私は「ごめんなさい」と謝った。

 浅葱さんは、時間がある時は私の散歩に付き合ってくれる。オジイちゃんは、私が大屋敷から出るとどこからともなく現れて、毎回私の傍を歩いてくれる。すれ違う村の人達は、私と目が合うたびに体の具合を訊ねてくれる。

 本当に、人情に溢れた素敵な場所だといつも思うの。日を追うごとに、ここと、ここにいる人達を好きになる。

 だから私は浅葱さんが、愁一郎君とグミのジャムを作る予定を明日の土曜日にしているけれど一緒にやってみるか、と誘ってくれた時も、喜んで頷いた。

 ただのお客さんじゃなくて、なんだかここの一員になれた気がしたの。裏切るような事をしておきながらそんな風に思うなんて調子いいわよね、って自分が嫌にもなったけど。



 動きやすいようにパンツスタイルで来て下さい、って言われたけれど、私はガウチョパンツしか持ってきていなかった。それを言うと、浅葱さんがジャージを貸してくれた。ウエストをめいっぱい絞らなきゃならなかったし、裾を何重にも折ったけど、履けないことはなかった。

 約束の時間は午後二時。ウエストの紐を締め直しつつ正面玄関に行くと、浅葱さんはもう、脚立を担いでオジイちゃんと待っていた。  

「ゆっくりでいいっすよ」

 早足になった私に、浅葱さんが言う。

 笑顔ではないけれど、声色は優しい。彼はいつもそう。

 私は、浅葱さんからゆっくり歩くよう言われてはじめて、左足の怪我をすっかり忘れていたことに気付いた。

 本当に驚いているの。もう何年も倦怠感に悩んでいたのに、一日一日、体が軽くなっていくのが実感できるから。食べる量が増えたのに、体重は減っているし。真利亜さんの施術が終わってからも、体調の変化が止まらない。

 継重さんは毎日診察に来てくれて、順調だ、って言ってくれる。ここをさよならする日も、近いのかもしれない。

 さよならすれば、部長のスパイをしなくて済むのよね。だから私は、一日でも早くここを出て行かなくちゃ。

 ……だけど私、本当にそれでいいのかしら?

 悶々としたものを胸に抱えながら、私は浅葱さんやオジイちゃんと連れ立って、山際の道にあるグミの木へと向かう。

 浅葱さんはどちらかといえば無口。それに私もあまりお喋りな方じゃないから、二人で歩けば自然と無言になってしまう。

 今、和気あいあい会話ができていたら、少しは気が紛れるのかもしれない。でも、一時的に胸のもやもやを晴らした所で、何も解決はしない。やっぱり私が私自身にけじめをつけなきゃ。

 そんな事を考えながら歩いていると、賑やかな声が聞こえてきた。半袖パーカーとジーンズ姿で脚立を担いでいる高校生くらいの男の子と、Tシャツとジャージ姿で大きなザルを抱えた女の子が、グミの木の下で喋っている。一人は愁一郎君だと分ったけど、女の子は初めて見る顔だった。

「施術後は眠いよぉ。ホントにあたしも手伝わなきゃ駄目ー?」

「作りたてのグミジャムパンが食べられるよ」

「力いっぱい頑張ります!」

 賑やかなのは、愁一郎君より女の子の方みたい。あの子も『ましき』なのかしら?

 こんにちは、と挨拶すると、振り返った愁一郎君の顔がなんだか緊張しているみたいに見えた。すぐに笑顔になって、女の子と一緒に挨拶を返してくれたけど。

 グミの木の下には、昨日よりも沢山の実が落ちている。

 浅葱さんと愁一郎君が、横並びになってグミの木に手を合わせ、「いただきます」と声を揃えた。これは、ここの人達の習慣みたい。

 私と女の子は、黙って二人を見守る。

 浅葱さんと愁一郎君が合掌を解いたので、私は、真っ赤な実を踏まないよう気をつけながら木の下へ移動した。

 浅葱さんが大きなザルを私にわたしてきた。女の子が持っていたものだ。どうやら、二つ重なっていたみたい。いざ両手で持ってみると、その大きさに驚いた。まるで炊き出し用のお鍋を抱えている感じ。

「じゃ、俺と愁一郎で実を採って落とすんで、二人はザルでキャッチして下さい」

「まさか、これいっぱいに入れるの?」

「そうすよ。皆に配るし、一年分一気に作りますから」

 足痛かったら無理せず言って下さい。

 浅葱さんはそう言うと、脚立の一番上まで登って、枝から実を千切り始めた。三つ四つ、プチプチと千切っては、私のザルめがけてグミの実を投げ入れてゆく。

 隣を見ると、愁一郎君と女の子が、やいやい言い合いながら私達と同じようにグミの実を収穫していた。

「ちょっと名取。落とさないでよ勿体ないだろ」

「ならちゃんと狙って落としてよ! ノーコンだなぁ!」

「うっせえなあ」という浅葱さんの呟きが、グミの実と一緒に落ちて来た。どちらも受け止めると、思わず口に笑みがこぼれる。

 オジイちゃんはあぜ道に寝転がって、大きな欠伸をしている。

 むっとした濃い山の香りと蝉の声が、私の全身を満たしていく。

 何気なしに手の甲で額をこすったら、汗ばんでいた。

 私、ちゃんと汗かいてる。

 一週間前までは、夏の日差しの下でも寒く感じていたのに。今は、木陰が心地いい。

 ああ、これが夏なんだなあ。

 私はしみじみと感じ入って、目を細めた。

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