舞台裏
◆◆
高校の学校説明会。
はじまる前にトイレを済ませ、ハンカチで手を拭きながら出ようとしたとき、突然ドアが内側に開いた。うつむいていたせいでかわす余裕はなく、ゴンっと鈍い音が響く。
「ごめん。大丈夫?」
頭を押さえてもだえていると謝られた。一体誰だよ。痛みでしかめた顔を上げる。
栗色のふわふわの髪。雪のように白い肌。長いまつげに縁どられた二重の大きな目に見つめられ、心臓が高鳴った。
外は真夏日でも、自分には春が訪れた。
その子が学ランを着て、自分がいる場所が男子トイレだと気付くまでの5秒で春は過ぎ去った。いや、名前を知ったのは入学してからだけど、ハルがトイレに入ってきた。
○
野球の強豪校に入学して半年、初めての文化祭が近づいていた。
「白雪姫お疲れ」
労うとハルはこくりとうなずいた。
着替えたハルが現れた途端、黄色い悲鳴とカメラのシャッター音がしばらく止まなかった。うちのクラスの女子は全体的に大人しいと思っていたけれど、推しの前ではそうじゃなかった。
(まあその気持ちもわからないでもない)
まぎれもなく白雪姫だった。男だとわかっていてもときめいた男ども。2度目の俺含む。
演技もはじめから緊張と照れで棒読みな俺らと違って自然だったし、役が決まったときのうなだれようからは想像できない。『マコと約束したから』と台本を受け取り、まじめに取り組んでいる様子はまさに忠犬。種類はチワワ。
ハルの幼なじみの嶋は同じ学級委員で、俺が劇の練習で手伝えない分ひとりでがんばってくれている。
ハルたちと同じクラスになって、一目惚れから失恋までの5秒間の話を打ち明けたときも、『今までも女子と間違えられて告白されたことあるから』と嶋は笑ってくれた。本当に性格が良くて、強い光が近くにいるせいで見過ごされがちだけど顔もかわいいと思う。
本番を目前にして、今日は衣装を着て体育館でリハーサルした。俺はもう制服に着替えたけれど、ハルはまだドレスを着たまま。着せてくれた衣装係に頼まれて、被服室で仕上げに取りかかっている他の衣装係にお披露目するためだ。
衣装や小道具を入れた箱をひと箱ずつ抱えて体育館と校舎をつなぐ渡り廊下を歩いている途中、ハルの足が止まった。視線を追うと校舎の間の渡り廊下で和樹と嶋が話していた。
「嶋と和樹いい雰囲気じゃん。あ、和樹って小学校からのツレで、めちゃくちゃいいやつでさ。和樹も嶋のこと性格良いし、結構かわいいって気になってるっぽかった」
「あれが沢田和樹君?」
「知ってた? 嶋から話聞いた?」
「プリントで名前見た」
「プリントって――」
続く言葉は隣を見て途切れる。ハルが無表情でふたりを見つめていた。
「マコ驚かせてくる。それもおれひとりで持ってくから乗せて」
「まあまあ重くないか? 俺も行くけど……」
「これも使うから」
小動物みたいだとかわいがられる普段とかけ離れていた様子に戸惑っていると、ウィッグまであつらえたように似合う肩までの長さの黒髪を揺らして、白雪姫は微笑んだ。
「マコが損するほどお人好しなのも、『結構』じゃなくて『すごく』かわいいってことも、おれ以外気づかなくていい」
ハルと和樹がダンボールを抱えて校舎へ入り、嶋がひとり残された。
俺も一旦教室に戻ろうと階段を上りかけたものの、嶋の様子が気になって渡り廊下に戻る。その背中から放たれる孤独感とハルを野放しにした罪悪感に胸が苦しくなって声をかけた。
「嶋」
「あ、私のこと探してたんだっけ」
何のことかわからずにいると嶋も不思議そうな顔をする。
「ハルからそう聞いたんだけど」
「は!? あ、えっと、そう! 道具係順調?」
「最後の背景も完成した。ペンキ乾かしてる」
嶋と和樹を離すために俺をだしにしたらしい。アドリブにしては自然な話題を出せたとはいえ、俺を巻き込まないでほしい。
「リハーサルどうだった? さっきハルに会って、白雪姫そのままだった」
「小人がせりふぬけたぐらい。監督からOKもらった」
「よかった。明日うまくいくといいな」
本心からだとわかる気遣いに罪悪感が膨れあがる。耐えきれなくて両手を合わせて謝っていた。
「リードつけられなくてごめん!」
「リード?」
「チワワなんかじゃなった。狼だった……」
男は狼なのだ。自分の性別を棚に上げて嶋の身を案じる。そう遠くない未来、ぱくりと食べられてしまうんじゃないか。
嶋とハルの間で何か起こったときは嶋の味方になろう。心の中でそう強く誓った。
毒林檎のレシピ 森野苳 @f_morino
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