◇◇ 村上健司◇◇ First love. Last love.
「……お医者さんにしばらくは安静にしてください、って言われてるじゃない。一緒に寝るだけ、ってできそう?」
「できるわけないだろ!」
何、男の生理を無視したことを抜かしてんだ!
「俺がどんだけ我慢してると思ってんだよー」
一颯の首筋に額を擦り付ける。風呂上がりの清潔な匂いとともに、俺と同じボディソープやシャンプー、さっき俺の髪につけてくれた一颯のヘアクリームの匂いが鼻腔をくすぐる。
戻ってきてくれたんだ、という夢か現実か悩む状況の上、この天国のような香り。これで寸止めなんて、俺史上最大の罰ゲームだよ。
「別にヨガのポーズ的なやつで組み合おうとか思ってないって」
一颯が大げさに噴き出す声が耳に優しい。
「もう! バカじゃないの? 変態っ」
「だってさー」
「でも健司のそういうところも……好きなんだよね」
「はい? バカで変態なところが?」
「違うよ。こんな怪我してるのに明るくておっかしい事ばっかり言ってる前向きなところ。あの頃と変わってない」
一颯は俺の胸に頭を、こつん、ともたせかけてきた。俺を抹殺しにかかってるとしか思えないほど、かわいい。
「一颯……」
自然に手が髪に伸びる。
「じゃあ制限時間五分」
「やだよ、そんな性欲処理みたいなの。ただ……」
「ただ?」
「ちゃんとセックスしないと、一颯が俺の元に戻ってくれた実感がわかない。すごい辛い」
そこで一颯は反転してこっちを向き、そっと俺の首に両腕をまわす。
「それは……わたしもそうかもしれない。幸せすぎて信じられないもん」
自然に頬が綻ぶのがわかる。
「無理はしないよ」
「痛くなったらやめよう」
……それは無理だと思う。
腕の中で俯いている一颯の唇を、すくうようにして奪う。またこういう日を過ごせることを、どこかでまだ夢じゃないかと疑っている。
ベッドの中、薄いシーツに二人で包まれる。俺の下にいるパジャマ姿の一颯に軽いキスをして、そっとその表情を伺う。
オレンジ色のかなり落とした間接照明の中では、一颯の顔色はよくわからないけど、とてつもなくかわいい。愛おしさと切なさに胸が張り裂けそうになる。一度はこの子を永遠に失う覚悟をした事が蘇ってきて、喉元に熱い液体が迫り上がってくる。
一颯が唇を振るわせ、俺から顔をわずかに逸らす。それだけでもう不安になるのだ。またあの日のように、俺は自分の気持ちだけを押し付けてるんじゃないのか。
「一颯……」
横を向く彼女のこめかみに伸ばす自分の指が、見てわかるほど震えていた。好きすぎて、どうしたらいいのかわからない。人並みくらいの人数と真剣に付き合い、人並みくらいの経験はあるはずなのに、湧き出す感情が初めてのものばかりで戸惑いまくっている。
横を向く一颯の瞳に光るものがある。
「なんで泣くの? まだ迷いとか、あるの……?」
あるなら抱かないよ。一颯が嫌なら、もう指一本触れない。
我慢できないと思っていたのに、一番怖いのは一颯に嫌われる事だった。それに比べれば、抱けないくらいぜんぜん何でもない。
「迷いなんてないよ。幸せすぎて信じられないの。好きじゃない女は抱けない、って言われたのに……」
口を開いた事が刺激になって一颯の目頭から一粒、涙が流れた。まさに砲撃だ。
「……ごめんっ。俺、何やってたんだろ。こんなに、どうしようもないほど好きなのに……一颯を傷つけて……」
でも、愛おしくて抱きたくて抱きたくて、気が狂いそうな女にそう告げなくちゃならなかったのも、身体の感覚が麻痺するほど辛かった。
「全部わたしのためを思っての言葉だって今はわかってる。健司と再会してまた好きになってから、辛さと幸福感の振れ幅が大きすぎて自分でついていけてないだけなの。わたしが、健司のこと好きすぎる……」
「何言ってんだよ。それは俺の方だよ」
一颯の両腕が俺の頭を優しく包む。もうこの腕をなくせない。なくしたら俺は壊れるだろう。
でもやっぱり一番大切なのは、俺が壊れない事じゃなくて、一颯の幸せなのだ。
俺も辛さと幸福感の振れ幅が大きくて、感情がついていけていないのは同じだ。
「離れないでよ健司。健司と離れることが一番辛いんだって、わかって……。ちゃんと指切りしたじゃない」
麻酔の抜けきらない手術後に、一颯ともう離れないと指切りをした。ちゃんと覚えている。
「一颯が大事だ。一颯が一番、自分より何より一番大事なんだよ」
一颯は、まだガーゼが留めてある、左鎖骨下の傷に指先だけ触れた。
「それもこうやって、知ることになった。でももう何があっても離れないの。わたしにとっても健司が一番大事なの。でも健司を優先するあまり、わたしが離れていったらどうする? 逆だったら?」
「ありえない。絶対に絶対に嫌だ。無理だ」
そういうことか……。
「でしょ? 健司の負けでしょ?」
「……うん」
「ずっと一緒。約束」
「わかった。約束だ」
優しい両手が俺の頭を包み、髪をやわらかく梳く。
一颯のパジャマのボタンを、両手を使って丁寧に外す。こんな経験は今までに覚えがなくて、厳かな儀式のようにさえ感じる。
衝動に駆られ、激しく抱き合った一度目のセックス。二度目は、二人とも涙に暮れ、互いの気持ちの強さを確かめる、魂の触れ合いのような行為になった。
一颯は……おそらく、感じ始めると、俺を傷つけまいと背中にまわす手を下ろし、その波に耐えるためにシーツを固く握りしめる。俺はその手を再び自分の背中に導く。
「もう、爪は全部、超短く切る」とふくれるから、そんな深爪になりそうなことは禁止だ、とさとした。
一颯になら、俺はいくらでも傷をつけられたい。一颯の快感の波はこの身体で受けたい。知りたい。
最初に抱いた後、背中の引っ掻き傷を意識した時の幸福感が忘れられない。一颯……俺だけの大切な至宝。
終わった後、眠りに落ちた一颯の髪を梳きながら思う。何度も俺の前から消えたり、別れを決断しなくちゃならなくなったりした。小学校の頃、月城、という苗字と、髪がサラサラだったことから勝手なイメージで機嫌をとる時だけに使っていた〝月姫〟という呼び名が怖い。だからもう使わないよ。
月に還られたら困るから。君が近くにいてくれないと、もう俺はきっと人として機能しない。ナツが見つけた恋愛に匹敵する相手が現れたから、その人と結婚するよ。その人と結婚できる奇跡に感謝するよ。
十歳で出会い、十二歳で別れた。その感情に名前があることさえ気づかないほど幼くて、ただ次に会える日を心待ちにするしかなかった。
その十四年後に二十六歳でもう一度、憎み憎まれる相手として皮肉な出会い方をする。それでもお互いの気持ちは、十二歳で別れた時の延長箇所に落ち着いてくれた。
今まで生きてきた道のりは、すべてこの奇跡の再会に収斂していくのだと決まっていたような気がする。
最初に愛した少女と、最後に愛する女性が一颯だったことに、神様、感謝します。
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