◇◇月城一颯◇◇ 覚醒
ただ意に添えなくて、心の底から良かったと思っている。助かった。わたしは犯罪行為に手を染めずに済んだのだ。
「月城、これ何?」
ベッドの上に放り出された青い書籍調のノートを見て村上健司が問う。
「たぶん、日記帳」
「やっぱそうか。普通のノートじゃないもんな。本みたい。それを読めば当時のこと、一気に思い出すかもな。つけててよかったな」
「うん。これ、一番下にあってちょっと見えただけなのに、すごく……なんていうか、惹きつけられたの」
「思い入れが強かったんだろ」
外がかすかに白み始めているようだった。村上くんはコンビニおにぎりのラップをバリバリ剥がして、のりを巻こうと奮闘している。手が埃だらけなのに、あのままじゃおにぎりについてしまう。順序立ててやれば簡単なのに、そこはガン無視だ。
「もう……何やってんのよ。わたしがやるよ。この不器用!」
わたしは村上健司の手からおにぎりを取り上げた。
「おっとー! 月城こそ何やってんだよ」
わたしが手を離したから落としたらしいパンを、村上くんは外袋ごと見事にキャッチしている。
わたしが村上くんのおにぎりを奪おうと身を乗り出し、村上健司がわたしのパンをキャッチしようと前傾姿勢になっていた。その体勢のまま、お互いの顔を見たから、ごく至近距離で目が合ってしまう。
「うおっ!」
村上くんは声をあげて後ろに飛びすさるように移動し、その結果、ベッドから落ちた。バリバリ仕事をこなすいつもの副社長とのギャップがおかしくて、わたしは声を漏らして笑った。
「何やってるのよ、もう」
「月城……。よかった。そうやって笑えて」
のそりと床から立ち上がった村上くんの表情には、わたしを心底心配している色が、はっきりと浮かんでいる。
両親を亡くしてから、誰かにこういう顔をされたことがあっただろうか。血の繋がる叔父さんでさえ、こんな顔を見せてはくれなかった。
今まで無自覚だったけれど、相当に緊張のしずめだったらしいわたしは、体から急激に無駄な力が抜けていくのがわかる。リラックスしていく。
「うー、やってらんない。やってらんないってばもう!」
わたしはワンカップの蓋を開け、一気に飲み干した。小さいパンをひとつ食べただけの胃の
「おいー。なんて飲み方するんだよ」
「わたし結構強いもーん! 村上くんはわたしの記憶が小学生で止まってるんだよ。もう二十六だよ?」
わたしは二本目のワンカップに手を伸ばし、蓋を開けた。
「えっ……。まじか。やめろって。ほとんどモノ食ってないんだぞ。それは防寒用――」
「だからやってらんないんだってばー」
「……まあ、それはそうだよな」
やってらんない、と悲嘆の言葉を口にするたび、村上くんがわかりやすく同情する。わたしの言動への注意が急激に弱くなる。それがたまらなく面白かった。
でも、正当な仕事とその後の不当な闇業務で二十時間くらいは働きっぱなし、そのうえ空きっ腹に日本酒のワンカップを二杯も飲んだわたしは、急激に意識が薄らいでいくのを感じた。
「月城!」
今までめちゃくちゃに気を張っていた事を今さら理解する。気が抜けた。気を抜いても大丈夫だと、脳がOKサインを出しているように感じる。
「まじかよ。こんなところで寝るなってー。Gが出ても知らねえぞ」
「……それは村上くんが……どうにかして」
意識がフェードアウトしていくのがわかる。
初恋だった。幼さゆえにそれが恋だと気づかずに卒業を迎えてしまった。あとから思えばわたしは単純にできているのかもしれない。
「○○―! いい加減にしてよ! いつまでたってもおわんないじゃな……げ?」
掃除の時間に先生がいなくなると、率先して箒をバットがわりに雑巾をボールがわりに、野球を始める。その男子の打った球、もとい雑巾が放物線を描いてわたしの頭にひらりとかぶさる。
「臭いっ!」
「けっ。鈍いやつめ」
「○○―っ! もおおおおお! 怒ったぁー」
わたしはその男子を追いかけ、男子は逃げる。脚が速くとてもわたしが追いつけるような相手じゃなかったけれど、転んだり、どこかを打ちつけたふりをすれば、簡単に騙されて戻ってきた。
だからわたしはいつも転んだ。いつも「痛いっ!」とその男子に向かって大声でアピールした。心配そうな目でこっちを見て、口を半開きにするその表情に、胸がいいしれない疼き方をする。
初めて感じる不可解な現象に戸惑いながらも、楽しい。幸せ。
彼の周りにはいつも男女が群れ、つねに笑いの輪の中にいる。喧嘩友達でありながら、実はわたしには彼がすさまじく格好良く見えていて、時には眩しくて正視できないほどだった。
小学六年にしては体が大きく、男子なんだなーと、何かの拍子に感じる時は胸の高鳴りが止まらない。
わたしの自惚れかもしれないけれど、その男子はよくわたしをからかい、かまう。そして、言い合いになり、最後には二人で大笑いするのが小学校生活の日常だ。
彼のいる教室には光りが満ち、この時間が永遠に続くものだと、どこかで信じていた。
彼がわたしたちの学区の中学に行かないだろうことは、同じクラスになった五年生の時にわかっていたにも関わらず……。
中学受験をするらしい。それならわたしも受験をしようか、同じ学校に行きたいと願ったこともあったけど、それは無理なのだと知ってしまった。
彼の志望校は、大学の附属で男子校だった。大学受験をしないで好きなことに熱中するために、そこの中学を目指すのだと何かの時に本人から聞いた。
彼はやると決めたら絶対に成し遂げるだろう。
仕方ないことだよね、そういうこともあるよね。
月日は止まってくれない。どんなに願っても。
でも卒業前に、何かしたい。何か……。焦る気持ちは空回りするばかりだった。
そして……。
「じゃあな、月城」
数人の男子に囲まれ、ブレザーの胸に造花の赤い花をつけた彼は、校門の前で卒業証書を掲げてわたしに笑いかけた。
わたしはひきつった笑顔を返すのが精一杯だったかもしれない。
もう一緒に笑い合えない。話すことも姿を見ることもできない。
中学の制服が体に馴染む頃になっても、夜、ベッドの中で涙が伝うことに心底困惑する。
バスケ部のレギュラー発表で名前が呼ばれた夜も、期末考査の上位者で名前が張り出されたその夜も、関係ないことで寂しさの涙が流れる。
何これ、わたし、どうなってるの?
もう一度会いたい……。もう一度、あの頃と同じような日々を……。
そのためにはどうしたらいいのだろう。
今頃思う……。あの子ほど、好きになれる男の子に出会える気がしない。
でも……もう会うこともないんだ。
「あいつが敵だよ。お前のパパとママを殺したのはあいつだ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます