第6話
「悠真様こそ、私に要求してください」
でも、そんな日、絶対に訪れさせない。
私は、政略結婚という関係を守り続けてみせる。
「結葵、ありがとう」
「え?」
自分は
いつもの私に戻れるように、いつもの私でいられるように、彼に気を遣わせてばかりいる。
「私は悠真様から、お礼を言われるようなことはしていないと思うのですが……」
彼は女性をとても気を遣うことができる大人だからこそ、自分は子どもっぽく見られてしまうかもしれない。
自分には経験がないから仕方がないという言い訳はしたくなくて、子どもっぽい自分を補うだけの経験を積んでいきたい。
「そういうところだよ」
「何が……」
髪を整えてくれていた彼の手が、私の頭を優しく撫でる。
「言っておくが、子ども扱いしているわけじゃないからな」
「……すみません」
「どうして謝るんだ」
返す言葉が迷走し始めた私を見かねて、彼は柔らかく微笑んでくれた。
「悠真様の行為に、意味が見い出せないので……」
「ああ、悪い」
私が戸惑いを露わにすればするほど、彼は優しい手つきで私に触れてくる。
「肩の力の抜き方を覚えろ、という意味だ」
「……それは」
「政略結婚という言葉に囚われすぎて、結葵が結葵でなくなってしまったら意味がないだろ」
恋の始め方も分からなければ、恋の仕方も分からない。
「心配しなくても、金は惜しみなく出す」
そんな私を咎めることなく、彼は私に力の抜き方を教えてくれる。
「失敗のひとつやふたつ、経験してみればいい」
ああ、やっぱり私たちの関係は政略結婚らしくないと思ってしまう。
「早く……大人になりたいと思うのですが」
私の声は、小さい。
弱々しいとも言えるけど、決して弱いありたいわけじゃない。
自分ならではの真の強さというものを持ちたいと思っていて、彼のように常に強くあるために努めていきたい。
「まあ、年を重ねることで、世界は大きく変わるって思うこともあるな」
「はい……。おっしゃる通りです」
大人に、なる。
大人になるということは、いろんなものが変わってしまうということ。
もちろん変わらないものだって存在するだろうけど、手放さなければいけないもの。離れなければいけないもの。別れなければいけない人。自分が想像している以上のものが変わっていく。それが、大人になるということだと思っている。
「大人になりたいって気持ち……怖くはないか?」
「怖いもの知らず……なのかもしれません。早く大人になるために、悠真様に追いつくために、がむしゃらでありたいです」
語り口調は落ち着いたものでも、彼は彼なりに多くの経験を積みながら生きてきたのだと察することができる。
「もっと、悠真様に頼りにされたいです」
「そのままでいいと言ってるだろ」
眉間に皺を寄せてしまう彼だけれど、その皺に私を気遣う気持ちが多く込められていることを知った心は喜びの感情を育んでしまう。
「……努力だけはさせてください」
頑固と言われるかもしれない。
可愛げがないと思われているかもしれない。
でも、私は彼の気持ちに応えるために、自分の心を彼へと曝け出す。
「大人になりすぎても、駄目なこともあるぞ」
「……その言葉の意味、理解できるようになりたいです」
「少しずつ、な」
悠真様は満面の笑みとは言えなくとも、うっすら微笑んで平気なフリをしてくる。
その笑顔の裏に隠されているものに触れるには、私も私で覚悟をしなければいけない。
人の内に踏み込むことって、そう容易いことではないから。
「少しずつで何も問題はないんだが……」
「なんでもおっしゃってください。やってみないと何ができて、何ができないかもわかっていないもので」
彼の振る舞いや、彼の持つ強さは、自分には真似できないと思う。
いつ何時も、自分は落ち込んだりしないということを周囲に伝えてくる悠真様。
何が彼を動かしているのかは分からないけれど、彼の、その前向きさに助けてもらっている人は必ずいる。彼の努力に救われている人は絶対にいると、確信めいたものが脳裏を過った。
「駄目になったときは、助けてくれるか?」
悠真様とも、いつまで一緒に時を過ごせるか分からない。
「私の心は、いつだって悠真様のお傍におります」
いつ別れてしまっても可笑しくない関係ではあるからこそ、私は迷うことなく彼に応えたい。
「悠真様こそ、命令してくださってもいいんですよ」
「ははっ、そうだったな」
自分でも使う言葉ではあるけど、優しさの定義とはなんなのかと思うことがある。
誰かに尋ねれば、それ相応の答えをくれるとは思う。
でも、私たちが生きていく上で使う優しいという言葉は、自分の言葉で語りつくせないほど奥が深い。
「庭でも、散歩するか」
悠真様が、紫純琥珀蝶と呼ばれる存在と会話のできる私を受け入れてくれる。
それをありがたいことと捉えるべきなのかもしれないけれど、彼には人としての未来を歩んでほしいとも思ってしまう。
「……はい」
悠真様にとって相応しい未来は、なんなのか。
判断を下すことができない私は彼の優しさに甘えて、いつまでも彼との関係を続けようとしてしまうのかもしれない。
「雨だな」
「雨、ですね」
朝の空は、絵画に描かれた世界のように澄み渡っていたはず。
私が支度に戸惑っていたことが理由で、突如として灰色の雲が空を覆い尽くしてしまった。空から降り注ぐのは太陽の温もりではなく、冷たい雨粒へと表情を変えた。
「今は、
「山茶花が咲いているのですか」
屋敷の窓辺に佇んでいると、窓硝子にきらきらと輝く自分の表情が映った。
自分の気分だけが高揚したことに気づいて、私は上がった自分の口角を両手で隠した。
「あ……花はどれも美しいですが、山茶花は特に好きな花で……」
青空が広がっていたときの記憶が薄れるくらいの雨が降り注ぎ、残念ながら庭先に出るという夢は叶いそうにもない。
「昔、山茶花が咲き誇る庭園を訪れたことがあって、そのときに一目惚れ……」
自分の口数が増えたことに、自分で驚いたわけではない。
山茶花が咲き誇る庭園の所在地すら分からず、誰と庭園を訪れたのかを思い出すことができずに戸惑った。
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