第5話

「悠真様……」

「あ、悪い。痛かったか?」

「想像していたよりも、嬉しいものですね……」

「結葵?」


 彼がくれるお言葉にも、魔法のような力が宿っているのかもしれない。


「悠真様に、名前を呼んでもらえることが……です」


 さっきから、自然に上がっていく口角。

 こんなにも楽しくて、こんなにも幸福を感じられるのは、人生で初めてのことだった。


「ふふっ、ははっ」


 満面の笑みという言葉が、どういう笑みを指すのか分からなかった。

 でも、今日という日に。


(悠真様が見せてくれる、その表情を……)


 私は人生で初めて、満面の笑みという言葉の意味を知ることができたかもしれない。


(とても愛おしく思う)


 彼から伝わってくる優しさと、髪に触れる一生懸命さが、私に極上の幸せを運んできたような気がする。


「よし、完璧だな」


 華族に嫁ぐ人間として育てられていた頃は、見た目を気遣うように言われていた。

 没落寸前の北白川家にお洒落を決め込む余裕などなかったけれど、それ相応に相応しい格好をしなければいけないと思っていた。


「美しすぎて、言葉もでないか?」


 そんな生活は終わりを迎え、髪は伸びていく一方のみすぼらしい生活が始まった。

 一度は華族の婚約者にもなれないほど落ちぶれたはずなのに、こうして私は悠真様の手で美しく着飾ってもらった。


「……調子に乗ってしまいそうになります」

「君は調子に乗るくらいが、ちょうどいいんじゃないか」


 蝶と言葉を交わす私が存在することで、北白川は没落してしまった。

 筒路森に縋ることで、北白川は今も存在を保っている。

 北白川が筒路森にできることは、できる限り優秀な世継ぎを残すこと。ただそれだけ。それなのに、私は彼から過分すぎるほどの優しさを受け取っている。


「……言葉の割に、元気がなさそうに見えるが」

「鏡に映っているのが自分とは思えなくて、喜びで言葉を失っているだけのことです」


 悠真様とは、政略結婚で結ばれた間柄。

 私は、筒路森のために尽くしていかなければいけない。

 そして、その働きに応じて、家族が何不自由なく暮らしていけるだけのお金を北白川家に送らなければいけない。


(私は、幸せになってはいけない)


 自分には幸せを感じる資格はないと言い聞かせていることを悟られてしまったのか、いつの間にか彼に顔を覗かれていた。


「嘘を吐いても、演技をしても、それは結葵の自由だ」


 言葉通りの政略結婚を、成立させることの難しさを感じる。


「だが、体調が悪いときだけは無理をするな」

「悠真様のお気遣いに、心から感謝申し上げます」


 筒路森の当主として、北白川家の人間を気遣っているだけに過ぎない。

 そうは思っていても、こんなにも人を気にかけてくれる言葉をくれる彼は本当に優しい方なのだと思う。


(これが、世間から恐れられている筒路森……)


 きっと、私が知らないところで多くの人たちを気にかけている。

 もちろん敵と呼ぶような方も存在するのだろうけど、その敵すらも一掃するだけの人望を彼はお持ちなのかもしれない。


(噂とは、まったく違う)


 妹が筒路森との婚約を拒んでいたように、世間から見た筒路森の評判は冷酷冷淡。

 直接的な関わりはなかったものの、筒路森冷たさは昔話で語られるほどのもの。

 それを知っているからこそ、過分すぎるほどの優しさを与えてもらえることに戸惑わずにはいられない。


「んー……」

「悠真様?」


 私の態度に息苦しさを覚えるかのように、彼が私を見る目が変わる。


「やはり、堅苦しいな」


 世間から見て婚約者を演じようと心がけてきたけれど、彼は私の態度を遠ざけるような嘆きの声を漏らす。


「あ……申し訳ございませ……」


 もっと自然体で接するべきだったのだと自身を叱咤するには、すべてが遅い。

 彼の機嫌を損ねないように、心からの謝罪を口にしようとしたときのことだった。


「それが結葵の性格というなら、これ以上、俺が何かを言うことはできない」


 本来なら、私たちは出会うことのなかった者同士。

 出会ってしまったことを運命と呼んでしまうのは簡単。


「でもな」


 でも、きっと、私たちが出会えたことは運命だったのではないか。

 そんな風に、自惚れてしまう。


「結葵との間に距離を感じるのは、かなり寂しい」


 悠真様とは、まったくの縁もゆかりもなかったはずの私。

 彼の瞳に映る予定だったのは、妹の美怜。

 それなのに、彼が私のために言葉を送ってくださることが嬉しすぎて涙腺が揺らされる。


「上手く生きる必要はない」


 政略結婚という言葉を辿ると、もっと愛のないところから始まるものだと思っていた。思い込んでいた。

 でも、実際には彼から、こんなにも大切にされているのが伝わってきて怖いくらい幸せで困ってしまう。


「人は上手く生きたいと……願ってしまうものですよ」


 悠真様が与えてくれる優しさから逃げてしまってもいいのに、私は、その優しさを受け取ってしまった。

 それが、私と悠真様との間に引かれた境界線を取り払うきっかけとなってしまった。


「悠真様も、筒路森の当主として立派に生きておられるではないですか」

「……だといいんだがな」


 深い溜め息を漏らして、彼は一瞬だけ目を伏せた。


「悠真様が、ここにいる。それが、立派に当主を務めあげている証明になるのだと思いますよ」


 言葉通りの、政略結婚。

 それで良かった。

 それだけで良かった。

 そんな言葉通りの未来を、私は生きるものだと思ってきた。


「ここにいる、か……」

「はい」


 ただの、普通の、特別な関係なんて何もない政略結婚と関係。

 特別なんていらないから、普通が欲しかった。

 悠真様と、言葉通りの政略結婚という関係を築いていきたかった。

 だけどそれは、私が一方的に抱いていた妄想だったのだと気づかされる。


「俺が当主にならなかったら、結葵とも出会えなかったわけか」

「そうですね」


 紫純琥珀蝶しじゅんこはくちょうで結ばれた、少し奇妙な縁ではある。

 そんなことを思うけれど、紫純琥珀蝶は私と彼を繋ぐ唯一の存在。

 蝶が存在するから、私は彼と話すことができる。

 蝶が存在することで、私と彼は時間を共有することを許される。


(悠真様にとっては重くて辛い、私という名の荷物を背負わせてしまうことにはなるけれど……)


 紫純琥珀蝶が生き続ける限り、私たちの関係は永遠になる。


(蝶を介した繋がりなんて、脆いものでしかないのに)


 悠真様と永遠の関係を望んでいるのかと言われれば、恐らくそんなことは望んでいない。

 それなのに、彼との繋がりを断ちたくないと思ってしまう。

 それは短い時間の中で与えられる彼の優しさが、私の感覚を麻痺させてしまった証なのかもしれない。


「結葵」

「はい」

「傍にいてもらえるか」

「命じられなくとも」


 両想いなんて、おこがましい。

 ううん、おこがましいなんてものじゃない。

 悠真様にとっては、政略結婚という関係ですら迷惑なものかもしれない。

 政略結婚以上の感情を私が抱くなんて、そんな奇跡みたいな日が訪れたら彼はきっと私を拒絶すると思う。

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